『名探偵登場』 その1
復興期の初めに建てられたその雑居ビルは、すでに20年以上が過ぎている。
物資が不足していた頃のものだけに、ところどころ痛みつつもあるが、新しい建物が立ち並ぶこの街において、ある種の風格すら感じさせる。
「ふうっ、今日も暑くなりそうだな」
上着を左手に抱えたシンジは、ネクタイを軽く緩めた。
時刻は午前10時過ぎ。夏の日差しは容赦なく照り付けてくる。
手で日差しを遮りながら、404号室を見上げた。
4の4とはあまり縁起がよくないが、借主はいっさい気にしてはいない。
「あったりまえじゃない、私はアメリカ人なのよ」と彼女は言うのだが、仮に13号室だったとしても、その家賃なら気にしなかったろう。
一部屋だけ窓が開いていたので、すぐに見つかった。照明も付いているようだ。
「よかった、いるんだな」
シンジの表情が柔らかくなった。そして、すぐに不安げになる。
「でもって、まだエアコンは直ってないか…」
その日、彼女はイラついていた。
せっかく捜索依頼を解決したというのに、依頼人が頑として料金を払おうとしなかったからだ。
汗だくになってようやく見つけ出したというのに、まったく頭に来る話だった。
おかげで、8日前には納めておかねばならなかった家賃も、いまだにメドはたっていなかった。
"美人"には弱い大家も、そろそろ嫌味を言い始めている。
昨晩レンタルしたDVDは、つまらないつまらなくない以前の駄作だった。
おまけに、今日も真夏日になるというのに、エアコンの調子は悪いままだった。
暖房機能だけは動作するというのがよけいと頭にきた。
デスクの上に置かれた小ぶりな扇風機が、一生懸命に風を送ってくれるのだが、蒸し暑い空気をかき回すのがやっとで、焼け石に水といったところであった。
これでは、事件解決を依頼する者が訪れたとしても、とても話どころではない。
そして、次の依頼を持ってきてくれるはずの電話は、100年待っても鳴りそうになかった。
「こいつ、故障してるんじゃないの?」
受話器を取って耳に当てる。
ツーッというお馴染みの発信音が鳴っていた。
もちろん電話機は壊れてなどはおらず正常だ。
アスカのとんだ言いがかりである。
ガチャンと乱暴に受話器を置く。これでは、そのうち本当に壊れるかもしれない。
「うっさいわね。大きなお世話よ」
誰に向かってか、一人で反論するアスカである。
「ずいぶんとご機嫌だね。まっ、この暑さじゃしょうがないか」
ドアを開けて、シンジが入ってきた。
一月ほど前に26歳になったシンジは、仕事柄外にいることが多いためすでに日に焼けている。
身長も伸びたくましくなったが、優しげな顔つきはあの頃の面影を残していた。
「うっさいわね、この税金泥棒。今日は非番じゃないはずでしょ。あんまサボっ てると、署に苦情の電話でも入れるわよ」
部屋の主はそっけなく返した。
「冷蔵庫に麦茶があるから、飲みたいなら飲んでもいいわよ。もちろん、わたしにも持ってきてね」
「ありがと。あと、これ差し入れのアイスクリーム」
シンジはコンビニの袋を見せた。先ほど、近くで買ってきたものだ。
来客用の椅子に腰掛けようとしたシンジは、その上の物体に顔色を変えた。
「うわっ、なんだこいつ!?」
一抱えもあるフワフワとした白いかたまりが、転がっていた。
しかも、 そいつはシンジの見てい る前でゆっくりと動き出したのである。
「ああ、ケセランパサランよ」
「・・うそ?」
「嘘。ほんとは家出人よ、それ」
「家出・・・人?」
「正確には、家出猫ね」
アスカは、面白くなさそうに言った。
ゴチャゴチャになった毛糸にも見えたそいつは、よくよく観察すると茶色の目もあれば耳もある。
シンジとチラと目を合わせ、興味なさそうにフワッーっと大きなあくびをした。
あくびに負けず劣らずに図体も大きかった。ゆうに並みの猫の2〜3倍はある。
「確かに猫に見えなくもないね。ふーん、ペットを飼うことにしたんだ」
アスカの趣味は相変わらずいまいち分からないな、と思ったが口には出さないシンジだった。
「どこの誰が好き好んでそんなの飼うのよ。家出猫って言ったでしょ」
「もしかして、このあいだ捜索依頼を受けてたペルシャ猫?」
「そうよ、この暑い中さんざ探し回って、ようやく見つけ出したやつよ」
「じゃあ、依頼は解決だね。良かったじゃないか」
素直にニコニコと笑うシンジだった。
単純ねぇとばかりに、アスカが憮然として頭を振った。
「解決してれば、そいつがここにいるわけないでしょ」
そして、ピシャリと言い放った。
「あんたバカじゃないの」
相変わらずの切れ味の良さだった。
もっとも、
「言われて見れば、そうだけど。でも、なんで?」
と、シンジもいい加減慣れたもので、のほほんとかわす。
「繁華街の路地裏がよっぽど居心地よかったんでしょうね、あれこれ残飯を食べあさったあげく、ご覧の通りにすっかり太っちゃったってわけ。依頼人に引き渡そうとしたら、『こんなのうちのリリィちゃんじゃありません』って帰っちゃっ
たのよ。しかも、見つけてないんだから料金は払えないってのよ。あー、あったまくる。まったく、これのどこが『リリィちゃん』なのよ! 」
――さわらぬ神にたたりなしだな。
シンジは、これ以上この話を続けないことにした。
「そいつは災難だったね。まあ、そんなに暑くなんないで」
今は使われていない事務員用の机から、シンジは椅子だけ持ってきた。
「ほら、溶ける前に食べちゃおう」
アイスのカップを二つ取り出すと、一つをアスカに渡した。
「なによ、食べ物でごまかそうっての。そんなんじゃ家賃は待ってくれないんだから。それになによ、これはアイスクリームじゃなくて、分類上ではアイスミルクっていうのよ。どうせなら、もっと高いの買ってきなさいよね。まったく、ほんとーにあいかわらずケチね。そんなんだから、いつまでたっても女の子にもてないのよ」
ブツブツ言いながらも、アスカはうれしそうだった。
しばしの清涼が部屋に漂った。
「で、どんな事件なの?」
一足先に食べ終えた彼女が、不意に尋ねた。
目つきが鋭くなっていた。狩人のそれだった。
「なんだ、バレてたんだ。まったく敵わないなぁ」
そろそろ話を切り出そうと思っていたシンジは、先手を取られたことに照れ笑いながら、スプーンを持った手で頭を掻いた。
「あったり前よ、この私に隠し事が出きると思ってるの」
アスカは、シンジに指を突き付けた。
「こう見えても、この街じゃ少しは知られた腕利きなんだから」
そして、パチッと左目でウインクをした。
外から入ってきた風が、カーテンを緩やかに揺らした。
窓に張られたカッテイングシートの文字が、影になって床に映し出されていた。
それは『惣流探偵事務所』と読めた。
続く