「くしゅん」
小犬のようなくしゃみだった。
くしゃみの主はシンジ。駅からマンションまでの帰り道である。
「どーしたのよ、まさかこの気候だってのに風邪じゃないでしょうね」
2,3歩前を歩いていたアスカが振り返った。
制服のスカートがフワッと揺れる。
「うーん、エントリープラグの調子が悪かったのか、LCLの温度が途中からちょっと低かったんだ。
それで身体が冷えちゃったみたいで」
シンジが鼻をグズッとさせた。
心持ち、目がうるんでいるようだ。
「LCL冷めってわけ?バッカじゃないの。それならそうとリツコに報告して、調整してもらえばよかったじゃない」
「ちょっと冷たかっただけだから・・・それに実験を中断させたらみんなに悪いし」
「悪いし、じゃないわよ」
アスカの口調が荒くなる。
「そうやって良い子ぶってあんたは満足でしょうけど、なにかあったらそれこそみんなが迷惑するのよ。
グズはグズなりに戦力なんだから。ちったあ自覚しなさいよね」
それだけ一気にまくしたて、シンジをにらみつける。
シンジはそれに応えるように弱々しく笑った。
「ごめんね。でも大丈夫だよ、一晩寝れば元気になるから」
「あったりまえよ。どーでもいいけど、わたしに移さないでよね」
フンッと一言いって、アスカはとっとと歩き出した。
背中しか見えないシンジにはわからなかったが、アスカはちょっぴり心配そうな顔つきである。
シンジはアスカの後を追った。
「大丈夫だからね、アスカ・・・くしゅん」
しかし、大丈夫ではなかった。
「あーこりゃ熱いわね。完璧に風邪引きよ、ほら」
ミサトが体温計を見せた。
デジタルが38近くを示している。
「学校と訓練は休んで良いから、今日はゆっくり寝てなさい」
「ごめんなさい、ミサトさん。学校は休みますけど、訓練には行きますから」
熱のせいで顔を真っ赤にしたシンジが言った。
「まだそんなことを言ってんの。しょうもないことを気にしてないで寝てりゃいいのよ」
入り口からアスカが顔だけ覗かせた。
「だいたい、そんなんだから風邪なんて引いたのよわかってんの?」
「まあまあアスカ。シンちゃんのことが心配なのはわかるけど、そうポンポン言わないの」
「だれもそんなバカのことなんか心配してないわよ!!」
そう言いながらも、アスカは顔を引っ込めようとしない。
チラチラとシンジの様子をうかがっている。
ミサトはシンジの掛け布団をそっと掛け直した。
「もし本格的に具合が悪くなってしまった時に使徒がきたりしたら、それこそ大変だわ。
だから、ゆっくり寝て早く直すの。いい、これは指揮官としての命令よ」
ミサトは軽くウインクをした。
「そういえば、リツコが作ったカゼグスリがあるけど飲む?リツコは風邪なんかイチコロって言ってたけど」
「やっ、止めときます」
ミサトの言葉に、シンジは首を激しく左右に振った。
「そーね、シンちゃんまでイチコロになっても困るし。じゃ、ゆっくり寝てるのよ。
なにかあったら、すぐに本部まで電話してね」
コドレスホンを枕元に置くと、病床のシンジを残してアスカとミサトは家を後にした。
「まったく、どーしてあいつはあーなのかしら」
「他人の顔色ばっかうかがって、そのくせニブスケでさぁ」
「結局まわりのことなんか本気で気にしちゃいないんだわ」
「ちょっと体調が悪いぐらい根性でなんとなしなさいってのに」
「そもそも、ああも青っちろいから風邪を引いたりするのよ」
「少しは加持さんの逞しさを見習えばいいんだわ」
「ちょっと、聞いてるのバカシンジ!」
アスカはいつもの様に振り返った。
たまたま後ろにいた一匹のぶち模様の野良犬が、首をかしげて『なに?』と見上げた。
『なんかくれるの?』とちょこんとお座りをする。
向かい合ったぶち犬とアスカ。
その間を、ヒューと白い風が吹きぬけていった。
「あー、オホン」
照れ隠しにかアスカは咳払いをする。
「なんてゆーか・・・調子がでないわね・・・。あんたはどう思う?」
アスカの問いかけに、ぶち犬はパタパタと尻尾を振った。
それをどう解釈したのか、アスカはうんうんとうなずいた。
「そーね、この天才アスカ様が学校を一日ぐらいさぼったってどうってことないわよね。
シンジのことだから一人じゃ寂しいでしょうし、面倒だけどこのわたしが看病してあげるようじゃない」
よーしとアスカはグルグルと腕を回した。
『なんだ、なにもくれないのか』
期待が外れたぶち犬は、トコトコと立ち去った。
ただ、犬なりに思うところもあった。
『本当に寂しいのは、いったい誰なのかワン』
いや、本当にそんなことを思ったのか?と聞かれると、困るのだが。
ひとり布団の中で、シンジはうつらうつらとしていた。
汗は一通りかき終わり、多少落ち着いたようである。
『頭痛と気持ち悪いのは治まってきたな。ゆっくりとしてれば、案外早くよくなるかも』
熱でボーッとした頭で、そんなことを考えた。
知らず知らずのうちに、また眠りに落ちていたシンジの鼻に、どこからかいい香りが届いた。
『うーん・・・お腹空いたなぁ』
グーッとお腹が鳴った。
「どうやら食欲は出てきたみたいね。人間、ご飯が食べられるようになれば大丈夫よ」
トレイを持ったアスカが部屋に入ってきた。
その上の食器からは、暖かそうな湯気が立ち上っている。
「あれっ?・・・アスカぁ帰ってたの。もうそんな時間か」
シンジが寝ぼけ眼をこすった。
「バッカねぇ、まだ昼の11時よ。なーんかめんどくさくてさ、帰ってきちゃった。
退屈だからおかゆを作ってあげたんだけど、どーしてもっていうなら食べさせてあげなくもないわよ」
そんな強気なことを言いながら、アスカは枕元に座り込んだ。
卵をつかったおかゆに、小さな皿に盛られたサラダ、程よくあったまったミルク。
サラダにかけてあるドレッシングは酢とサラダ油から作ったお手製だ。
退屈しのぎに作ったようには見えない。
「ありがとうアスカ。すっごくうれしいよ」
体を起こしたシンジが、アスカに向かってニコリと微笑んだ。
髪に寝癖がつき少しやつれた冴えない顔つきだったが、アスカはその笑顔が気に入った。
シンジが時々やる他人をうかがうような笑みではなく、とても自然な明るい笑みだったからだ。
もっとも、そんなことはおくびにも出さずに
「そうよ、感謝しなさいよ。このわたしの手料理が食べられるんだから」
なぜか、ちょっと怒った声で言う。
「どうなのよ具合は?少しは熱が下がったの?」
「うーん、まだあるみたいだけど」
どれどれとアスカはシンジの額に手を当てた。
「よくわかんないわね」
手をどけると、かわりに自分の額をくっつけた。
「あわわわわ」
「まだまだ熱いわね。それに脈も速いみたい」
今朝よりシンジの具合は良くなっているようだが、熱はまだ下がっていないようだ。
もっとも、脈が速いのはアスカのせいなのだが。
「さ、あーんして」
スプーンによそったおかゆを、アスカはフーっと吹いた。
「えっ、ええっ」
目を白黒させるシンジに、アスカはもう一度言った。
「なにやってんのよ、食べたくないの?ぼさっとしてないで、さっさと口を開けなさいよ」
「うっ、うん・・・」
アスカの剣幕に、シンジは思わず口をあーんと開けた。
その口元に、アスカがスプーンを運ぶ。
パクリ
最初の一口がシンジの口に収まった。
アスカはその様子をじっと見つめている。
「どう?熱くない」
「うん、大丈夫・・・ねぇアスカ・・・」
何か言いたげなシンジに、アスカはギクッとした。
『う・・・塩と砂糖は間違えなかったはずだし、卵もパックの日付はおとといだったし、お米はちゃんとといだし、
そもそも、さんざん味見したから”それほど”変な味じゃないはずよ・・・多分・・・』
アスカは、料理の手順をもう一度頭の中で確認した。
後片付け以外は、ちゃんとできている。その後片付けも、シンジの具合がよくなったらやってもらうのだから、特に問題はない。
「とってもおいしいよ」
シンジは一言そう言った。
ふっとアスカの緊張が解けた。
「そりゃそうよ、このあたしが作ったんだから。さ、もっと食べなさいよ」
「うん、ありがと」
「はい、あーん」
「あーん」
パクリ
風邪を引いてよかったかな、とチラッと思うシンジだった。
「・・・まったく」
ミサトはやれやれとばかりにつぶやいた。
警備部からアスカが学校に行かずに家に引き返したとの報告を受けシンジの部屋をモニターしたところ、
ちょうどお食事のシーンが映し出されたというわけだ。
「アスカったら、わたしに連絡もせずに学校を休んだりして、困ったもんね」
そう言いながらも、ミサトの眼は優しい。
「あら、覗き?一人身の女は寂しいわね」
作業中のディスプレイから眼を離さずにリツコが言った。
さらっと言った分、余計と嫌みに聞こえる。
「うっさいわね、様子を確認してるだけよ。だいたい、あの子達の部屋に隠しカメラを取り付けさせたのはあんたじゃない」
「パイロットの生活状態をチェックするためで、プライバシーを侵害するためじゃないわ」
リツコは肩をすくめた。
「わかってるわよ、そんなこと」
ミサトはモニターを切った。ついでに監視カメラのリモート電源もオフにする。
覗き見の趣味は、ミサトにはなかった。
「あの二人は仲がいいんだか悪いんだか、よくわからないわね」
「そうね。あなたと加持君と同じね」
そう言うと、リツコはコーヒーをおいしそうに飲んだ。
ミサトの反論は右から左へと通り抜けて行った。
まともにとりあって、コーヒーの味が落ちてはもったいない。
「こちらからも電源操作が出来るようにもしておくべきだったな」
砂の嵐が映し出されているモニターを眺めながら、ぼそりと冬月が言った。
「ああ・・・」
ゲンドウは無表情にうなずいた。
「やっっぱり若い者はいいわな。心が洗われるようだ。しかしなんだな、いつも思うんだがシンジ君がおまえの息子とは信じられんな」
冬月はゲンドウを振り返った。
ゲンドウのサングラスが、キラッと反射した。
「それは違うな、冬月先生。わたしも風邪で寝込んだときは、ユイみずからおかゆを食べさせてもらったものだ。
それどころか時には口移しでも。ふふふふふ」
ゲンドウは不敵に笑った。
冬月はぐっとこぶしを握り締めた。
『うっ、うらやましい・・・』
その後ろ姿は、ちょっぴり寂しげだったという。
アスカが食器を片づけて戻ってみると、シンジは再び眠りについていた。
寝息は穏やかで、このまま快方に向かいそうである。
「なんだ、寝ちゃったのシンジ」
シンジのほほをプニプニとつついてみる。
「むにゃむにゃ、もう食べられないよぉ」
「お前はうっかり八兵衛かっ」
シンジの間抜けな寝言に突っ込みつつも、アスカは優しく微笑んでいた。
『他人のためになにかするのも悪くないわね。たとえこんなバカのためでもね』
自分のために必死でがんばってきたアスカにとって、今日の自分の行動は意外ですらあった。
しかし、人のために何かをするのは確かにいい感じだった。
”こんなバカ”のためだからなのかも知れない。
プニプニプニプニ
面白がって、さらにシンジを突っつく。
「うーん、アスカ大好きだよぉ・・・」
「えっ?!」
アスカが硬直した。
ボッと顔が燃え上がるように赤くなった。
「大好きだよぉ・・・アスカの作ったおかゆ・・・」
シンジはゴロリと寝返りをうった。
「このバカッ!!びっくりさせるんじゃないわよ」
布団ごとひっくり返したくなる衝動を、どうにか抑えた。
握り締めた布団のすそをゆっくりと放す。
「ほんと、びっくりさせるんじゃないわよ、このバカ・・・」
フワァァア
あくびがもれた。
「気持ちよさそうに寝てるのよ見たら、こっちまで眠くなってきちゃったじゃない・・・」
アスカはなぜかキョロキョロとあたりを見回した。
もちろん誰の姿もない。
この家の中にいるのは、アスカたち二人をペンペンだけである。
よしっ、とアスカは布団に潜り込んだ。
シンジと向かい合うような格好になる。
パジャマ越しにシンジの体温が伝わってくる。
『あったかいというより、ちょっと熱いくらいね。でも、この熱さは嫌いじゃないわ』
アスカはシンジの唇にそっと自分の唇を寄せた。
二人の唇は、ほんの一瞬だけ触れ合った。
しばらく後、アスカはいつの間にか眠りに落ちていた。
「はっくしょーん!!」
マンション中にくしゃみが響き渡った。
「大丈夫?アスカ」
心配そうにシンジが尋ねた。
「大丈夫じゃないわよっ!!」
はっ、はっ、はっくっしょーん!!
ううっ
すっかり熱が出たアスカが、気力を振り絞って怒鳴った。
「どーして、あんただけ元気になってるのよ」
「他人に移すと風邪は治るっていうわよねぇ」
二人を眺めながら、ミサトはにやにやしていた。
「移るようなことをしたのかしらねぇ」
「してないわよっ!!」
アスカはわめいた。
顔が赤いのは、もちろん熱のせいなのだろう。
「ごめんよアスカ。ぼくに付き添ってくれたばかりに」
シンジはアスカの額に手を当てた。
「うん、熱があるよ。ゆっくり休んでたほうがいい、今日はぼくが看病するから」
シンジの言葉に、アスカは心の中で喜んだ。
「そうね、どうしてもそうしたいって言うならいいわよ」
うん、とシンジはうなずいた。
「あら、シンちゃんは学校に行ってきなさいよ。今日は仕事が夕方からだから、それまで面倒見とくわ。
アスカ、お昼はなにが食べたいの?」
ビクッとアスカの体が震えた。
どうやら風邪のせいではない寒気がしたようである。
「たっ、食べたくない。食欲がないのよ」
「だめよぉ無理してでも食べとかないと元気にならないわよ。よーし、腕によりをかけておいしいものをつくってあげるわよん」
ミサトが悪魔の笑みを浮かべた。
「そっ、そんなぁぁぁぁ」
力尽きたのか、アスカはばったりと倒れた。
その頭を、シンジがせめてもの慰めにと、よしよしと撫でた。
「風邪なんか大っ嫌いよぉぉぉ〜」
はっくしょーん!!
昼食後に悪化したアスカの病状は、シンジの献身的な看護にも関わらず、回復に二日を要したということである。