フーセン、フーセン、真っ赤なフーセン。
息でふくらませたんじゃない本物なんだ。
開店セールでもらった、とっても素敵なゴムフーセン。
青いのや黄色いのもあったけど、ぼくのは真っ赤なんだよ。
女の子色だけど、キレイだからいいよね。
ヒモを握ったぼくのあとを、小犬みたいについてくる。
大切な大切な、ぼくのフーセン。
抱きかかえてから手を放すと、ふわりふわりと浮かび上がる。
不思議だなぁ。どうして空を飛べるんだろう。
羽根もついてないのに。プロペラもないのに。
ぼくも飛べたらいいのになぁ。
真っ赤なフーセンに青い空。
とってもキレイだ。
もっと空とフーセンが一つにならないかな。
手を思いっきり空に伸ばしてみたけど、まだまだ空は遠い。
もっと高く飛んだら、もっともっとキレイだろうな。
ヒモから手を放したら、フーセンは最初はゆっくりと浮かび上がった。
そして、だんだん速く、そして、だんだん高く。
もっと高く、もっともっと高く。
フーセンはどんどん飛んでいった。
遠くて、点にしか見えないや。
青い空に真っ赤なフーセン。
ぼくの大切なフーセン。
もう、手の届かないところに行ってしまったフーセン。
ぼくのものではなくなったフーセン。
手を放したら、フーセンは飛んでってしまうって、わかってたのに。
悲しくて、ぼくは泣き出した。
でも、どういうわけか、フーセンはとってもキレイで、だからよけいに悲しくなった。
「あっ・・・」
時刻は午後五時過ぎ。そろそろ夕方である。
モノレールを待つホームで、なんの気なしに空を見上げたシンジだった。
「なに、シンジ?どーしたのよ」
横にいたアスカが、声をかけた。
二人とも、ネルフ本部に向かうところである。
レイは午前中で早退し、一足先に行っている。
今日も、相変わらずのシンクロテストが待っている。
「風船だ」
「えっ?」
「ほら、風船が飛んでる」
シンジが指差したその先、赤い風船が風にわずかに流されながら飛んでいた。
ビルの谷間をすり抜けるように、高く高く舞い上がっていく。
「ああ、駅前のスーパーがなんかのセールをやってたから、そこで配ってたんじゃないの」
たいして面白くなさそうに、アスカが言った。
『なに大声出してんのよ』といった顔つきである。
「ふーん。ぼくも小さい頃にもらった覚えがあるよ」
「そういえば、せっかくの風船を飛ばしてなくしちゃうボケた子が必ずいたわね。
ねえ、もしかしてシンジもそういう子だったんじゃないの?」
「いや、ぼくはなくしたんじゃなくて・・・・・・いや、なんでもない」
言いかけて口を閉ざしたシンジに、アスカはちょっと興味を引かれた。
「なに?なになにぃ?」
「ううん、たいした事じゃない」
「ちょっとぉ、言いかけたんだから、ちゃんと話しなさいよ。なくしたんじゃなくてどうしたのよ」
「だから、なんでもないってば。別にアスカには関係ないだろ」
「関係ないかどうかは、わたしが決めるわ」
相手が言いたがらないとなると、余計と聞きたくなるが人情だ。
おまけにシンジのことである。アスカは意地でも聞き出す気になっていた。
こうなると、シンジには勝ち目はない。だが、なかなか諦めが悪かった。
「いやだよ、アスカのことだから、きっと笑うしさ」
「笑わないから、安心しなさいよ」
「本当に・・・・?」
「もちろん、バカな話だったら笑うけど」
「・・・・・・やっぱりやめる」
「ふーん、そういう態度を取るわけね」
アスカは、ひょいとシンジの腕をとると、首に手をまわした。
アスカの突然の行動に”えっ”となるシンジだが、次の瞬間叫び声をあげた。
「ぐわわわわぁぁぁぁぁ!」
「さあ、隠し事してないで白状しなさいっ!!」
アスカのコブラツイストが見事に決まっていた。
シンジには、振りほどくことはおろか、声を出すのがやっとのようだ。
「イタタタタッ、痛いよアスカ」
「そりゃ痛いようにやってるんだもの、当然だわ。でも、まだこんなもんじゃないわよ」
「うぎゃぁぁ、力を入れないでよぉ」
「止めて欲しかったら、ちゃっちゃと白状しなさいっ!!」
「わかったわかった、ぼくの負けだよぉ」
半べそになったシンジは、ついにギブアップした。
賢明な選択であろう。
『ほぉ、新手の夫婦マンザイですかな』
『どっちかといえば、どつきマンザイじゃないですかね』
ようやく開放されたシンジは、、耳に入ってくるそんな声に、しびれた手をさすりながら顔を赤めた。
いまさらながら、ホームにいる他の乗客の目が気になる。
「ううっ、恥ずかしいよぉ・・・」
「そりゃそうよ、男があれぐらいでギャーギャー騒いで、情けないったらありゃしない」
「ううっ、どうせぼくは情けないよ・・・しかし、いったいいつ間にあんな技を」
「あら、このぐらいは乙女のたしなみよ。常識だわ」
アスカはエッヘンと胸を張った。
深夜枠のプロレス番組で覚えたことは秘密である。
「どんな乙女なんだか・・・」
「うっさいわねぇ。最初っから素直にしてれば、痛い目にあわずにすんだのよ」
「はいはいはい」
アスカにさんざん密着して、内心ちょっとラッキーと思わなくもないシンジである。
もちろん、そのことは黙っていた。ばれたら、コブラツイストではすまないだろう。
やれやれと思いながら、シンジは記憶をたぐり始めた。
「子供のころの話なんだけどさ・・・」
シンジがゆっくりと語りだした。
「幼稚園の頃だったかな、お店の記念セールか何かで、風船をもらったんだ。
鮮やかな赤い色の風船だった。すっかり気に入ってね、宝物みたいだった。
みんなに見せびらかしたくて、そのまま町に散歩に出たんだ」
「ふーん、幼稚園ねぇ」
真っ赤な風船のヒモをギュッと握り締めた、小さい頃のシンジが思い浮かんだ。
――さぞかし、どんくさい子だったんだろうな。もっとも、今でもどんくさいか。
自分の想像に、アスカはクスッと笑った。
「あーっ、やっぱり笑った。もう話すのやめた」
プイッとシンジがすねた。
「べつにバカにしたんじゃないってば。あんたも小さい頃は、かわいいところもあったんだなって思っただけ。
悪気があったんじゃないの。だから、続きを聞かせなさいよ」
アスカのお願いに、しぶしぶといった様子のシンジである。
「青い空に浮かんだ風船がキレイでね。で、もっと空に近づけたくて、ヒモから手を放したんだ。
そうしたら、風船が飛んで行っちゃった」
「そりゃー、当たり前でしょう。何だってそんなことするのよ」
「さぁ?よくは覚えていないんだ。多分、風船が高く飛ぶのが見たかったんだと思う」
「で、飛んで行くのを見て、どうだったのよ?」
「風船がなくなったのが、悲しくて泣いた」
「そんなことぐらい、手を放す前に考えれば分かるじゃない。あんたって、むかしっからバカだったのね。
あんたみたいのを、『後悔先に立てればこちらが立たず』っていうのよ」
「そりゃ、ぼくだってそれぐらいわかってたよ。でもね、高く上がって小さくなっていく風船は、
一人ぼっちのようで、それでいて自由で、うまく言えないけどとてもキレイだった」
「でも、悲しかったと」
「そう」
ペコリとシンジはうなずいた。
「あーっ、もうわけわかんないわよ」
アスカはすっかり呆れ顔だ。
『まもなく電車が参ります。白線の内側でお待ち下さい』
アナウンスが流れ、モノレールがホームに滑り込んできた。
時間帯のせいか、車内はかなり混雑しているようだ。
乗車口前で待っていた二人は、降りてきた通学・通勤客に押し戻される格好となった。
「ちょっ、ちょっと押さないでったら!!どきなさいよっ」
人込みにもまれて、アスカがわめいた。
一歩下がってやり過ごそうという感覚がないので、すっかり巻き込まれている。
モノレールに乗るどころか、ホームの階段の方に押されつつある。
シンジはとっさにその手をとって、アスカを人込みから引きずり出した。
そして、他の乗客の後を追うようにモノレールに乗り込む。
すぐ後ろで、扉がプシュッと音を立てて閉まる。
「ふうっ、乗り損ねるところだった」
シンジは安堵のため息をついた。
このモノレールを乗り過ごしたら、10〜15分は待たなければならない。そうすれば、おそらく遅刻だろう。
ミサトはともかく、リツコはかなり時間に厳しい。お小言は避けたかった。
「よけいなまねしないでよね。あんたなんかに助けてもらわなくったって、ちゃんと乗れるんだから」
『ありがとう』と言おうとしたアスカの口から出たのは、そんな言葉だった。
シンジは苦笑いを浮かべた。
「はいはい、ぼくが悪かったよ」
「まったくよ。おまけに、どうして日本の電車ってこうも混むのかしら。
時差通勤とかって意識がないのね。ほんっと、信じらんない」
「はいはい、でもそれはぼくが悪いんじゃないよ」
「わかってるわよ、それぐらい。・・・・・・で、いつまで手を握っているつもりなの?」
「あっっ、ごめんよ」
シンジは、まだアスカの手をしっかりと握っていたのである。
それに気づいて、慌てて手を放す。顔が真っ赤だ。
「ごめんよ、うっかりしてて。そんなつもりじゃなかったんだけど・・・」
「そんなつもりって、どんなつもりよ。まあ、この美しいわたしの手を放したくないのは、
わからないでもないけど」
アスカには、まだシンジの手の感触が残っていた。
やはり男の子の手だけあって、自分の手より一回り大きく、心地よく暖かかった。
喜んでいる自分に気づいたが、アスカはそれが意外ではなかった。
――何故なんだろう・・・・・・?
考えるが結論は出ない。
代わりに、アスカはこう言った。
「わたしは手を放してもいなくなったりしないわよ。風船と違ってね」
「うっ、うん・・・」
妙に照れくさくなったシンジは、窓の外に目を向けた。
西の空は、そろそろ夕焼けに赤くなりつつある。
先ほどの風船は、見つからなかった。もう、どこか遠くにいってしまったのだろうか。
しかし、今のシンジには風船のとこより、アスカのことが気にかかった。
――よしっ
思い立ったシンジは、手を伸ばすとアスカの手を握った。
先ほどとは違って、力を入れずに優しく握った。
一瞬驚いた表情をしたアスカだったが、その手を振り払おうとはしなかった。
それどころか、シンジの手をこれまた優しく握りかえす。
ビンタを半ば覚悟していたシンジは、思いがけないアスカにとまどった。
シンジが口を開こうとした瞬間、モノレールがカーブにさしかかった。
軽くよろけたシンジは、アスカに寄り添う格好になった。
お互いに見詰め合う二人。
『いいですなぁ、最近の若いもんにしては初々しくて』
『なに、ここだけの話じゃが、わしだって昔はあれぐらい』
そんな、他の乗客の会話は、まるで耳に入っていないようである。
――人と一緒にいるのは苦手なのに、どうしてアスカとは一緒にいたいと思うんだろう
――どうしてシンジのとこを考えちゃうのよ、こんなバカなやつなのに
結局、駅に着くまでの短い時間を、二人は言葉のないまま過ごした。
手は、しっかりとつないだままだった。
シンジはその時、こんな事を思っていたという。
――ぼくは、本当の宝物を見つけたのかも知れないな――と。
次回予告 「眠れぬ夜のために」
いつもにまして寝苦しい第3新東京市のある夜。
寝付けないアスカは、夜風にあたろうとベランダに出た・・・