「ちょっと、しっかりしなさいよ。生きてんの?勝手に死んだら承知しないわよ」
胸元をつかまれ激しく揺さぶられながら、シンジは目を白黒とさせた。
アスカを落ち着かせるように、彼女の肩に手をかける。
「死なない死なない、大丈夫だってば。ただ転んだだけだし」
「えっ、あっ…ああそうよね。何よ!いつまでも大げさにひっくり返ってるんじゃないわよ」
アスカが突き放すように手を離したものだから、シンジは床に後頭部を落としてゴンッとぶつけるはめになった。
――くっ、くくくく…
声を立てずに耐えるシンジであった。
音流布は今日も日本晴れである。
第拾七話
”姫さま ご乱心”
「さあ、とっとと試合に戻るのよ。まったく情けないわね、このままじゃリングアウト負けよ」
「剣術の試合にそんなのないよ」
ブツブツ言いながら、シンジはゆっくりと立ち上がった。
しかし、中腰になったところで顔をしかめると、再び床に崩れ落ちた。
「たたっっ!痛いっ…」
見ると、左足首が赤く腫れていた。
シンジの額にじわりと脂汗がにじむ。それでも、アスカに心配をかけまいと、無理に微笑んだ。
「転び方がまずかったね。ちょっとひねっちゃったみたいだ。こんなとこなら受身の練習もしとくんだった」
「そうね、明日から特訓に組み込んどくわ」
シンジの手から刀を取ると、アスカはすっくと立ち上がった。
「ちょっと待っててね。すぐに戻るから」
えっ?とシンジがためらっている間に、アスカは試合場に向かっていた。
口をキッと横一文字に結び、一見冷静に見えた。しかし、その眼は静かに燃えていた。
シンジからはアスカの背中しか見えなかったが、もしその眼を見ていれば、ちょっと刺激しただけで爆発しそうな怒りで満ち溢れていることが分かったはずだ。
ドンドンと足音をたて、そしてケンスケの前に立った。
「ちょっと、あんた脇役のくせに調子に乗ってんじゃないの?」
アスカは、感情を押し殺した低い声で言った。
空気が、張り詰めていた。
「おやおや、あれは試合中の不幸な事故で、僕に責任はないよ。
それに刀なんか持っちゃって、逆恨みから敵討ちでもしようってのかな」
ケンスケは、口元に皮肉っぽい歪んだ笑みを浮かべていた。いつのまにか、すっかり悪役色に染まっている。
「結局、強い者が勝つのさ。勝ったのは僕で、シンジじゃない。ただ、それだけのことだよ」
「ガタガタ言ってんじゃないわよ!!」
張り詰めきった空気が、ゆらりと揺らいだ。
いきなり、アスカが討ってかかった。
――ふっ、無駄なことを
ケンスケはわずか半歩ばかり右へと身体を動かした。
最小限の動きだがそれで充分だった。
ケンスケは自分の力の高まりを感じていた。
突破点というものがある。
修行を積んでいく上である日その点を超える。その途端、一気に次の段階へと至るのだ。
今日、自分がその突破点を突き抜けたことを、ケンスケは自覚していた。
いかにアスカが怒り心頭に発して迫力があろうとも、素人が太刀打ちできるものではないのだ。
すでに、ケンスケはこの学校の中で敵無しの境地に達していた。
バシッッッ!!!
無敵のケンスケは、思いっきり頭を叩かれていた。
頭頂より2寸ほど下、位置的には髪の生え際の辺りに革刀が命中している。
えっ? ? ? ?
一瞬あっけにとられたケンスケ。
「シンジのバカになんてことすんのよぉぉ!」
刀を振り上げ、アスカが声の限りに叫んだ。
「うわっ、ちょっと待った」
もちろん、アスカが待つはずもなかった。
バシバシバシバシバシバシバシ!
バシバシバシバシバシバシバシ!
バシバシバシバシバシバシバシ!
バシバシバシバシバシバシバシ!
バシバシバシバシバシバシバシ!
バシバシバシバシバシバシバシッ!
ひとしきり景気のよい乾いた音が響き渡り、ついに武道場の隅にケンスケは追い詰められていた。
討ち込み練習用の巻きワラよりも多く叩きのめされ、ケンスケはヨタヨタと倒れこむように壁に寄りかかった。
先ほどまでの勝利の喜びは、とうに冷め切っていた。それどころか、今では屈辱に身を震わせている。
いや、震わせている原因は屈辱だけではなかった。
完璧に避けたはずなのに、そのたびにしっかりと討たれてしまう。まるで理解できなかった。
シンジを相手に苦戦している時ですら感じなかったもの、それは恐れだった。
「何でこうなるんだ、俺は最強なんだぞ」
ケンスケ自身は叫んだつもりだったのだが、それは呟きにしかならなかった。
「知らないわよそんなこと、あんたが弱いだけでしょ。それより、とっとと降参してシンジにあやまんなさい。
いくらわたしでも、無抵抗の者を叩きのめすのは趣味じゃないわ」
あれだけどつき回したあとだというのに、アスカはわずかばかり呼吸が荒くなっているだけだった。
だいぶ治まってはきたが、まだ眼の奥では炎がチラチラと燃えていた。
「ううううっ・・・」
刀を握り締めようとしたが力が入らなかった。すでに身体は自分の負けを認めていた。
そして、振り絞るだけの気力は残っていなかった。
「すまん、俺が悪かった」
ケンスケは力なくそう言った。
奇跡的にまだ顔にぶら下がっていた眼鏡の奥で、キラリと何かが光った。
「反省したってわけね。これに懲りたら今度からはおとなしく・・・えっ?」
がっくりと肩を落としたケンスケの懐から、なにやら一本の巻物が転がり落ちた。
先ほど、シンジとの闘いの時に使った謎の巻物だった。
そのままスルスルッっとほどけて中身が、アスカの目にとまった。
ピシッっと凍りついたようにアスカの動きが止まった。
アスカの水着姿だった。水練の授業の時に着ている紺色のやつではなくて、鮮やかな橙色だった。
違うのは色だけではなく、布の量も半分以下だった。砂浜に寝そべったその姿は、とても魅力的であった。
しかし、アスカはそんな水着を着た覚えはなかった。
さらに、片目を魅惑的につぶり、挑発するようなポーズをとった覚えもなかった。
そして、こんな絵のモデルになった覚えもなかった。
この絵を描いた者は、なるほど確かに素晴らしい才能の持ち主だろう。だが、アスカにはそんなことはどうでもよかった。
「な・ん・な・の・よ、これは」
ブチブチッと何かが切れる音がした。アスカの堪忍袋の緒が切れる音だった。
それが、ケンスケには自分の命綱が切れる音に聞こえた。
「絵っ、絵だよこれは。うん、ただの絵だから、惣流が気にすることなんて全然ないってわけだ」
ケンスケは必死に後ずさりしようとするが、背後の壁が邪魔をした。
もしも壁がなければ、10里は後ずさっていただろう。
「言いたいことはそれだけ?」
妙に物静かな口調でアスカは言うと刀を構えた。
完全に目がすわっていた。
「なっ、何だよ、無抵抗の者を叩きのめすのは趣味じゃないんだろうっ」
ケンスケは泣きそうな声で最後の悪あがきをした。
「ああ、あれね」
アスカは、冷徹に言った。
「あれは嘘」
「あーあ、あれを見つかっちゃたんだ」
シンジがあっちゃーっと顔をしかめた。
「なんや、そのあれっちゅうのは」
「ん・・・ケンスケの秘密兵器かな?」
「秘密兵器って、あの巻物のこと?いったい何が書いてあるのよ?」
手当てをしていたヒカリの問いかけに、シンジは口ごもった。
その様子を見て、トウジは大よそを察した。ニブイ彼にしては珍しいが、自分たちの商売道具だからだろう。
「まっ、まあイインチョが気にすることやないで」
わざとらしく話をそらし、シンジの耳元に顔を寄せた。
「なっ、もしかして、あれか?」
「そう、あれ。ケンスケのやつ、いきなり足元に放り投げてくるから、アスカを踏んじゃいけないと思って、転んじゃったんだよね。
それにしても、今までのケンスケが描いた絵の中でも一番・・・・・・」
「なに、赤くなっとるんや。だいたい、絵やったら踏んでもかまへんやないか。ほんま、尻に引かれとるのう」
トウジが、シンジの頭を軽く小突いた。
「トウジ、ちょっと頼みがあるんだけど」
「ん、なんや?」
シンジは、用具室を指差した。
「あそこの戸板を外してきてくれないかな」
「戸板か、まあそれぐらいええけどな」
シンジの頼みにトウジは首をひねった。
――戸板なんかいったいどうするんや?
それから3分後、ケンスケは用具室の戸板に横たえられていた。
「なるほど、こう使うんか」
トウジがしみじみと言った。
「しっかし、見るも無残やな」
ケンスケはボロ雑巾と化していた。
暴れ馬と出くわした後に、大名行列が5組ほど上を通り過ぎ、その挙句に赤穂浪士の47人様ご一行に踏みつけられたようだった。
「相田君のこと頼んだわよ」
「任せときなさい、ちゃんと死因はつきとめるから」
不安げなミサトに、リツコは冷静に答えた。
優秀な医師ならではの落ち着き振りだった。
「死んでないちゅーの」
ケンスケが残った力を振りしぼって突っ込んだ。
「それを決めるのは医者であるわたしよ。あなたじゃないわ」
「おれは本人だってばぁ」
ケンスケを乗せた戸板は、ドップラー効果の効いたその言葉を残したまま運び出されて行った。
行き先は保健室ではなく、音流布藩診療所。検死の設備も整っているリツコの本拠地である。
そこでそれから何が起こったのか?
数日後、どうにか生きて帰ってきたケンスケであったが、そのことについては何も語ることはなかったという。
そんな騒ぎの中、試合場の真ん中に2本の旗を持った一人の男が立ち尽くしていた。
あまりの出来事の連続に、すっかり自分の役割を忘れていた審判である。
ようやく我に返った彼は、右手の旗を高々とあげた。
「優勝は・・・優勝は・・・えーと、君の名前は?ふむふむ・・・惣流アスカと。
優勝は惣流アスカ」
審判の宣言に、会場はどっと沸きかえった。
こうして、波瀾に満ちた剣術大会は、思いもよらぬ形で幕を閉じたのであった。
つづく