『魔女の宅急便』 それは心理描写の一手段

『魔女の宅急便』(1989) 監督・脚本:宮崎駿 原作:角野栄子 音楽:久石譲 声の出演:高山みなみ/佐久間レイ/信沢三恵子/戸田恵子/山口勝平/加藤治子
*1989年公開時に執筆したもの
宮崎駿の作品において、重要なのは空を飛ぶことであった。
「風の谷のナウシカ」においてナウシカは風に乗り、「天空の城ラピュタ」においては飛行石で宙に浮かび、「となりのトトロ」においてのネコバスは風そのものであった。 どの作品も、ここぞという時に空を飛ぶことによって困難を乗り切るのである。
ところが「魔女の宅急便」においては、空を飛ぶことは必ずしも重要ではない。それどころか、主人公の新米魔女キキは空を飛ぶことしかできない(!)半人前なのである。
これまでは、空を飛ぶと言うことが「水戸黄門」の印篭的な力を持っていたのに対して、「魔女の宅急便」ではごく身近な才能の一つに過ぎないのだ。
この作品は魔女の物語と言うより、自分の才能一つを頼りに大都会にでてきて一人暮しをする女の子のお話なのである。キキはきれいな服を着た女の子を思わず振り返ってしまい、フライパンを買っては「物入りねぇ」と呟いてしまう普通の女の子なのだ。
その女の子がスランプにおちいる。
それは絵が描けなくなるなどの事とそれほどかけ離れたことではない。だから彼女の前に若い女性の画家が現れる。彼女はキキの何歩か先の未来の姿であり(絵描きとキキが実は同じ声であることからもそれはわかる)、絵が描けないときには、描いて描いて、それでも駄目なら絵を描くのをやめて散歩でもするとキキに伝えるのだ。 彼女の小さな後輩にたいして。
ここのところがこの映画のクライマックスなのであって、そのあとの飛行船のシーンはキキがスランプを抜けだした事を伝える付け足しである。
だが、この場面になってやっと空を飛ぶことに意味がでてくるのである。
ただなんとなく飛ぶのではなく、力いっぱい、誰かのために飛ぼうとするのである。
空を飛ぶのはホウキの力ではなくて、モップでもよかったのである。
そして彼女は空を飛ぶ。
その時彼女はその町に本当の意味で受け入れられたのである。
キキのそばにはジジという名の黒猫がいつも一緒にいる。
小さな頃に頭の中で架空の友達を空想で作り上げその子と遊んだり困ったことを相談したりの会話をしたことはないだろうか。ジジの正体はそれに似たような物で、幼いキキをサポートする彼女自身の自我の一部を投影させるスクリーンなのである。
だからキキとジジが話しているシーンは、本当に両者の間で言葉が交わされているのではなく、キキが頭の中に作り上げたジジという使い魔の人格に話しかけている、一種の独り言なのだ。キキ以外の人間がジジと話すことはないのは当たり前である。自分一人では不安だから、客観的な意見としてジジの意見を求めるがそれは彼女の心の中で起きている自問自答なのである。
ラスト、空を飛べなくなったスランプを抜け出したとき都会にやってきた幼い魔女は自立した魔女に成長を遂げた。そして、そんな彼女にはもはやもう一つの人格ジジは必要なくなっていた。
だから、ジジは人格サポートの役割を終えた。おそらくは他人から見ればジジの姿はちょっと変わった妙な黒猫のままなのだろう。
それにしても、この作品に出てくる人は皆いい人ばかりだ。
絵描き、オソノさん、老婦人は言うに及ばず、「おい」を三度それぞれ口調を変えて言うだけのパン屋の親父。
無愛想ながら、雨の日にキキの帰りが遅いとあらば、心配して店先をうろうろしている心の優しさ。
しかもキキが帰ってくるのが見えた途端奥に引っ込んでしまうあたり実にいい人である。
いつの間にか宅急便の看板をパンで作っていたりと、パン職人としての腕前もなかなかのものだ。
(しかし、グーチョキ・パン店てのは何なんだ。)
空で出会った占いの魔女も、イヤミな奴であるが、最後に「あなたも頑張ってね。」と言ってくれるいい人なのである。
現実の世の中、本当はこんないい人ばかりではない。
しかしこれはお話なのだ。
一人の女の子のお話なのだ。
(2005/9/18追記:ジジはキキの一人格で、彼女が言えないような皮肉や斜に構えた意見を述べてくれる。少女至上主義の宮崎がキキの純真さを損なわせないために、ひねた部分をジジに持たせたんでしょう。
よその街で1年間を魔法を使って生計を立てるというのは、足に縄をくくりつけて高所から飛び降りるどこかの成人式や、ネイティブアメリカンがナイフだけを持って一人っきりで荒野で数日間を生き延びることで大人として認められるといったような、一種の通過儀礼であることは間違いない。
物語の終盤でキキが空を飛ぶ能力を失ったのは思春期の心の揺れ、そしてジジと会話が出来なくなったのはサポート人格なしの真にキキ自身の力でその通過儀礼を乗り切ることが重要だからです。
それとキキが能力を失うのは初潮を迎えたことに関するメタファーではないかと考えています。)
(2005/9/24追記:ジジとの会話はキキの脳内妄想だと言いたかったわけではなく、キキの心理描写として使われているという意味も含めたかったのですが言葉足らずで申し訳ありません。
登場人物が一人でいるシーンでその人物が何を考えているのか、どう感じているのかという心理を描くという面において映画は不自由さを持っています。小説ならば「○○は××だと思った」と地の文で心理描写ができますが、映画の場合は細かな描写の積み重ねで表現するか、不自然な独り言を言わせるぐらいしか方法がありません。
映像で描写するのが映画本来の姿だとは思いますが、『魔女の宅急便』の場合メインの観客層は子供たちです。そこで宮崎駿は映画を観る力がまだついていない小さな観客たちにも分かりやすい“独り言”をジジとの会話とすることでより洗練された形として表現したのでしょう。)
