『お引越し』(1993) 日本 124分 1993/4/23鑑賞
監督:相米慎二 製作:伊地智啓、安田匡裕 プロデューサー:椋樹弘尚、藤門浩之 原作:ひこ・田中 脚本:奥寺佐渡子、小此木聡 撮影:栗田豊通 美術:下石坂成典 編集:奥原好幸 音楽:三枝成章 照明:黒田紀彦
出演:田畑智子、中井貴一、桜田淳子、須藤真理子、田中太郎、茂山逸平
ここ数日手抜き気味な映画バカ黙示録であるがそれには理由がある。3月9日・10日に引っ越しを控えているのだ。役所関係の手続きをしたり荷物を梱包したり、急に決まったわけではないのでスケジュールを組んで余裕を見てやっているのだが、やはりこれでなかなか忙しい。
これまで8畳間で生活してそこに物がちゃんと収まっていたというのに、ダンボールに梱包すると部屋に収まり切らなくなるのは何故だろう?デジカメで撮ったjpeg画像を一ファイルにまとめようとzipにまとめた時に設定を、圧縮率0ではなく“圧縮する”にすると逆に元のファイルサイズ合計より大きくなってしまうのと同じ理屈か。・・・違うか。
引っ越しというとそのまんま『お引越し』というタイトルの作品がある。1993年の故・相米慎二監督作品だ。
いい人ではあるのだがちょっと心のバランスを欠きつつある母親が桜田淳子で、これまたいい人ではあるのだがそんな妻や一人娘の存在を重荷に感じ“引越し”して家を出ていった責任感の薄い父親が中井喜一。その夫婦の間で何とかよりを戻そうと奮闘する少女レンコが田畑智子。
という粗筋を書くとなにやらコメディっぽいが、もちろん相米のことそういう娯楽映画にはしないわけで、例によってうだうだと自分の世界を展開するのである。
それでも、相米慎二作品としてはストーリーや観客を無視して突っ走ることもなく、比較的脚本を大事にして人の動きや感情のもつれなどを描いている。
しかし、ラスト近くの夏祭りのシーンでレンコが急にお腹を抱えてうずくまってからがいつもの相米になってしまって、わたしの方としてはお腹ではなくただ頭を抱えるだけである。どうやらお腹が痛くなったのは初潮を迎えたらしいからなのだが、そこから映画は唐突に現実を離れてしまいレンコは何故か山や草原をさまよい始める。これはもちろん実際に山で遭難したとかではなく心理描写としての幻想的シーンなのだが、はっきりきっぱり言って冒頭から細かく積み重ねてきた事柄をすべてぶち壊して監督の自己満足に走っているとしか思えない。
湖に腰までつかりながら「おめでとうございます。おめでとうございます」と連呼されちゃった日にはどうしようかと思った。だからお前は何が言いたいんだ、やりたいんだと隣に相米がいたら詰め寄りたいところだ。
もちろん、わたしだってこれらが自分の幼い少女期への決別・別れのシーンだということぐらいは分かる。というかいくらなんでも分かり易すぎ。幻想的なシーンを使うならもうちょっと捻れよというか、結局真っ正面からの演出をせずに逃げたって事だろう。
死者の悪口を言ってはいけないということになっているようだが、わたしは相米慎二は嫌いだ。傑作だと言われている『台風クラブ』も見た時はどうしようかと思ってしまった。つまらんというか底が浅くないか、これはと。
相米慎二はおそらくロリータコンプレックスである。児童買春で逮捕された今関あきよしは少女を神格化するタイプのロリコンだとすれば、相米は少女の欲望など生臭いところに興奮するタイプ。どっちもどっちだ。
相米と言えば長回しで知られている。『お引越し』でも坂を駈け降りていくレンコ(だったかな)をカメラをクレーンで上にグワッっと持ち上げての長回しなどがある。
しかし、この人の長回しは本当にすごいのだろうかと疑問に思っている。長回しというのは一つの技法で、そのシーン、そのカットで長回しを使うことで何を表現するか、何を観客に伝えるかというのが重要だと思うのだが、相米の長回しは自分が長回しが好きだからと長回しのために長回しを使っているようである。技法自体が目的になってしまうのは明らかに間違いだろう。
映画史に残る長回しの一つにオーソン・ウェルズの『黒い罠』(1958)の冒頭のシーンがある。町の中を自由に縦横無尽に駆け回ったカメラが様々な人を写し出し、そして一台の車に近づいていくとそれが突然爆発する。そこから始まっていくサスペンスへの期待を観客に存分に持たせるし、人物紹介や後の伏線も含まれている。もちろん、これに迫るような長回しを撮れといっても無理だろうが、もう少し工夫があっても良かっただろうにと思う。