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洋画 ワ行 アーカイブ

2004年04月13日

『ワイルド・シングス』 裏の裏は表っ!

『ワイルド・シングス』(1998) 監督:ジョン・マクノートン 主演:マット・ディロン、ケヴィン・ベーコン

 あらすじなどを読んだ時にはまるで興味がわかなかったのだが、監督がジョン・マクノートンだというので観ることにした。マクノートンが1986年に監督した『ヘンリー』は実在した殺人鬼を題材に、殺人鬼側にも被害者側にも感情移入することなくただひたすらに恐ろしいぐらい淡々と描いた佳作だった。その後まるで名前を聞かないので消えてしまったのかと思ったが元気にしてた様である。
 サスペンスミステリーなので詳しいストーリーにはふれないが、教師に乱暴されたと訴え出た女生徒とその教師、捜査に当たった刑事などが、もうこれでもかこれでもかとどんでん返しに次ぐどんでん返しを繰り広げる映画だ。もう感心するやら呆れるやら。
 どんでん返しの多い映画というと『名探偵登場』(1976)辺りが頭に浮かぶが、シリアスな作品としては『ワイルド・シングス』が一番かもしれない。
 テーマは「目標!ギネスブックどんでん返し映画部門掲載」なのだろうか。

2004年06月12日

『鷲は舞いおりた』

『鷲は舞いおりた』(1977) THE EAGLE HAS LANDED
監督:ジョン・スタージェス 出演:マイケル・ケイン/ドナルド・サザーランド/ロバート・デュヴァル

原作はジャック・ヒギンズによる冒険小説の大傑作。監督は『大脱走』のジョン・スタージェス。主演はマイケル・ケイン。他にはドナルド・サザーランド、ロバート・デュバルなど。そして音楽はラロ・シフリン。
錚々たる面々である。
これまでに観ておいて当然な感じの作品なのだが、どういうわけか観ていなかった。
観て納得。凡庸な作品だった。
かなり分厚い原作を2時間ちょっとにまとめたのだから無理もなかろうというところだが、ストーリーの粗筋を追っているだけで、一番肝心なキャラクター達の良さ、特に主人公シュタイナーのかっこよさが出ていないのだ。ストーリーも大切だけど、やはりキャラクターの良さが一番大事なのかなと思った次第。
ちなみに、現在出版されている『鷲は舞い降りた(完全版)』と映画とでは、オチがまったく正反対である。
話としては原作の方が絶対いいのである。小説初回版('75)→映画('76)→小説完全版('82)の順なので、最初は原作も映画と同じ終わり方だったのだろうか?
そのうち、古本屋で初回版を見つけたら確かめてみたいものである。

ちなみに粗筋はドイツ軍人として、そして男としての誇りを持ったシュタイナー中佐とその部下が、休暇中でイギリス東海岸にいるチャーチル首相を誘拐するべく送り込まれるといったもので、冒険小説を語る上で避けては通れぬ作品です。

『わんわん物語』

『わんわん物語』(1955) 監督:ハミルトン・ラスケ/クライド・ジェロニミ/ウィル・ジャクソン 製作:ウォルト・ディズニー/アードマン・ペナー

ディズニーか。ディズニーと言うのは、それだけですでに一つのジャンルなのかも知れない。
「わんわん物語」はディズニーがまだディズニーであった頃の作品であって、独特の暖かさを持っている。同じディズニープロの作品でも、ウォルト・ディズニー死後の作品は明かにそれ以前の作品とは色を異にしている。
時代の流れといったものもあるだろうが、そこにはやはりウォルト・ディズニーの思想のようなものが感じられる。思想と言っても、小難しい理屈じゃなくて、一言で言えば優しさだが、ただの優しさとは違うのである。軟弱や逃げの裏返しの優しさではなくて、どっしりと腰を据えて全てを受け止める、受け止めようとする優しさなのである。それは同時に強さでもあるのだ。
やはりディズニーは避けては通れない。ルーカスだって、スピルバーグだって、ハワードだって(いや、ホークスじゃなくてロン・ハワードだけどね)、アメリカの中堅の映画人は、なんらかの形でみんなディズニーの影響を受けているのである。
特にスピルバーグの傾倒ぶりは有名である。「未知との遭遇」のラストで流れる曲は、やはり「星に願いを」でなければならなかったのだ。スピルバーグだけではない。ディズニーを観ているとき、全ての人は幸せである。暖かい気持ちになれるのである。
閑話休題。さて「わんわん物語」であるがこれは要するに、ブラブラと気ままに生きているチンピラが、家出してきた上流階級のお嬢様と出会って、すったもんだの挙げ句そのお嬢さんと結婚して家庭を持ち落ち着くことになると言った内容である。男はちゃんと家庭を持たなければならない、とまあアメリカがまだ家庭に夢を持てた頃の話だ。3組のうちの1組は離婚するといった現代のアメリカではとてもそんなことは言ってられないだろう。
もっとも日本でも家庭の虚構化や崩壊は進んでいるというが。
まったく、家庭ってなんだっけ。そういった物を否定して喜んでる奴も多いしなあ。でも、ディズニー遠くなりにけりでは、あまりに悲しすぎる。

この作品では動物が主人公であるが、その擬人化が、例えば「トムとジェリー」などとは多少違っていて、人間がでているシーンと犬だけのシーンでは犬の描写に工夫があるのである。
人間が出ている時は、その世界の人間としての存在はあくまでも人間であり(ややこしい文だ)、犬だけになったときには、その世界の中心が犬になるのである。つまり描き方としては人間になるわけだ。つまり、視点の移動があるわけで、そこが「トムとジェリー」と違うわけだ。その移動が非常にうまくて違和感を感じさせない。スムーズに流れるように移るのだ。
後、当然カメラ位置も変わるわけであって、これらによって犬と人間の両方がうまく描かれている。登場する人間がただのオマケで終わっていないのだ。
2つの世界をうまくまとめあげている所はなかなかうまい。さすがだ。
落ち着いた色調の絵も心を落ち着けてくれる。かなりの部分が計算され尽くして創られているのである。

2004年07月30日

『私の愛したゴースト』 黒人の心臓が白人に

『私の愛したゴースト』(1990) HEART CONDITION 1991/2/25鑑賞

監督:ジェームズ・D・パリオット 製作:スティーヴ・ティッシュ 製作総指揮:ロバート・シェイ 脚本:ジェームズ・D・パリオット 撮影:アーサー・アルバート 音楽:パトリック・レオナルド
出演:ボブ・ホスキンス/デンゼル・ワシントン/クロエ・ウェッブ/レイ・ベイカー/ロジャー・E・モーズリー

心臓発作で倒れた刑事に急死した弁護士の心臓が移植される。一命を取り留めた刑事だが、心臓の持ち主である弁護士の幽霊に取り憑かれることとなった。弁護士は自分を殺したのは麻薬・売春組織であり、恋人だった娼婦を守って欲しいと訴える。自分以外には見えない幽霊に悩まされながらも刑事は捜査に取りかかる。といったコメディホラー刑事映画。

主人公の刑事はボブ・ホプキンス。弁護士はデンゼル・ワシントン。チビ・ハゲな白人であるボブ・ホプキンスとスマートでハンサムな黒人のデンゼル・ワシントンという対比の強い組み合わせが面白い。
ただ、幽霊という設定が上手く活かされているとはいえず、たんにバディ(相棒)ムービーの亜種に止まっているのは残念。
幽霊には恋人がいて自分を殺した悪人が彼女も狙っている点、幽霊が取り憑いた相手とは人種や年齢などで大きなギャップがある点など、『ゴースト ニューヨークの幻』(1990)のパクリかと思えるような相似点があるが、両作とも同じ1990年製作なので脚本段階で盗み見たのでなければ単なる偶然だろう。
逆を言えば、同じような作品である分だけ『ゴースト ニューヨークの幻』と比較され不利になっているように思う。

2005年06月25日

『ワイルドキャッツ』 やっぱゴールディ・ホーンでしょ

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『ワイルドキャッツ』(1985) WILDCATS 105分 アメリカ 1986/04頃鑑賞

監督:マイケル・リッチー 製作:アンシア・シルバート 脚本:エズラ・サックス 撮影:ドナルド・E・ソーリン 音楽:ホーク・ウォリンスキー、ジェームズ・ニュートン・ハワード
出演:ゴールディ・ホーン、スウージー・カーツ、ロビン・ライヴリー、ジェームズ・キーチ、M・エメット・ウォルシュ、ウディ・ハレルソン、ウェズリー・スナイプス

 アメフトが大好きでアメフト部の監督になりたくてしょうがない高校の体育教師が、荒れ放題の三流学校に転勤になってしまう。そこのダメアメフト部の監督になった主人公は、まるでやる気のない選手たちに真剣に立ち向かいついには本気にさせてチームを選手に導いていくという、どうにもありがちな物語。
 ただ普通とちょっと違うのは、体育教師が男性ではなく割と美人な女性教師だったということ。主人公を演ずるのはコメディエンヌとして有名なゴールディ・ホーン。この作品の時点ですでに40歳ぐらいなのだが、鼻っ柱が強くてどうにも可愛らしい。
 彼女の父親が熱心なアメリカン・フットボールファンで、子供の頃からその影響を受けて女だてらにアメフトの監督を目指したという設定。オープニングクレジットで子供時代からの8ミリで撮影されたホームムービーが映し出され、誕生日のプレゼントとしてアメフトのヘルメットをもらって喜ぶ様子などが登場させることでその設定を説明するセンスの良さ。「フ・フ・フ・フットボール」というイマイチやる気のない主題歌?も良い。
 嫌味な他校の男性監督や、離婚した元夫とその新しい妻などに毅然と立ち向かう。大切な娘たちを深く愛し、だらけた上に頭も悪そうな選手から一目置かせるためにマラソン勝負を挑んで見事勝利する。少しずつまとまってきたアメフト部(チーム名:ワイルド・キャッツ)は試合にも勝てるようになっていき、ついには優勝の可能性も出てくるのだが・・・

 ありがちなストーリーでそれ自体ははっきりいって凡作である。監督が『がんばれ!ベアーズ』(1976)などのマイケル・リッチーというのもほんとそのまんま。それを、まあまあ楽しめる娯楽作に変えてしまったのはひとえにゴールディ・ホーンの魅力だろう。彼女ほど女性からも男性からもウケの良い女優も珍しいのではないだろうか。基本的にはコメディエンヌだが『幸せの向う側』(1991)などシリアスな作品もこなす。ちょっと意外だがアカデミー助演女優賞も受賞している。

 アメフト部の部員の中で特にタチの悪い二人組がウディ・ハレルソンとウェズリー・スナイプスである。この二人は後に『ハード・プレイ』(1992)や『マネー・トレイン』(1995)でも白人・黒人コンビとして登場するが、この頃からの仲だったのか。

2005年10月15日

『ワイルドバンチ』 オレだってたまには泣く、その27

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『ワイルドバンチ』 (1969) 137分(オリジナル版)・146分(ディレクターズカット版) アメリカ

監督:サム・ペキンパー 製作:フィル・フェルドマン 原作:ウォロン・グリーン、ロイ・N・シックナー 脚本:サム・ペキンパー、ウォロン・グリーン 撮影:ルシアン・バラード 音楽:ソニー・バーク
出演:ウィリアム・ホールデン、アーネスト・ボーグナイン、ロバート・ライアン、ウォーレン・オーツ、ベン・ジョンソン

 時は1913年。20世紀になってすでに10年以上が過ぎ、アメリカが前近代から近代に移っていった、そんな時代の変わり目の物語だ。
 『明日に向って撃て!』の主人公ブッチ・キャシディとサンダンス・キッドが率いていた無法者の集団が「ワイルドバンチ」である。またの名を「壁の穴強盗団」といい、スパゲティが美味しいことでも有名だ。いや、それは「壁の穴」か。
 「壁の穴強盗団」とはワイオミング州にあるHoll in the Wallと呼ばれる岩の渓谷を根城としていたから付いた名だそうだ。スパゲティ屋の「壁の穴」はウィリアム・シェークスピアの『真夏の夜の夢』に登場する言葉から取ったそうなので両者には関係がない。最初に店名を聞いたときには明太子スパゲティを食っていると突然店内で銃撃戦でも始まるのかと期待したのだが、そういうハプニングないしアトラクションはないとのこと。残念である。

 ラストの銃撃戦の派手さは有名だが、この作品で最高のシーンはその直前にある。
 ワイルドバンチの残党であるパイク(ウィリアム・ホールデン)たちはアメリカ国内で銀行強盗を行い、賞金稼ぎなどに追われてメキシコまで流れ着く。メキシコでは『戦うパンチョビラ』(1968)のパンチョ・ビラなど革命軍が政府軍と戦っている。思想などに興味のないパイクたちは米軍から武器を奪いそれを政府軍、といっても実体は将軍の私立軍隊のようだがそちらに売り渡す。だが仲間の一人であるメキシコ人のエンジェルが、16箱あった武器のうち1箱をこっそり革命軍に渡していたのがばれエンジェルは将軍らに捕らえられリンチにあう。
 パイクたちは将軍からもらった金を持ってそのまま立ち去ることもできた。しかし、女郎屋でパイクはウォーレン・オーツらに言う。
「Let's go.」
 それに対してウォーレン・オーツの返答もたった一言。
「Why not.」
 女郎屋を出た三人。女に興味がないのか外で待っていたアーネスト・ボーグナインがすべて承知とばかりにニカッと笑う。四人は無言のまま馬から拳銃やショットガンなどの武器を取り出し、横一列になって将軍のところに向かって歩き出す。

 これは「命を捨ててでも仲間を救いに行った」という悪い意味での男の美学的なシーンではない。そんな神風特攻隊のような理由ではなく、ただやらなければならないことをやりに行っただけでのことだ。
 そもそも、パイクたちは自分たちの死期が近いことを悟っていた。将軍たちに殺されるからではなく、いわば生き方の末期ガン状態に陥っていたのだ。病気の末期ガンを患った『生きる』の志村喬は自分が存在した証として公園を作った。パイクたちはどうせ死ぬのならば仲間は見捨てないという、無法者なりの筋を通すことを選んだのだろう。

 西部劇に分類されていることがあるこの作品だが、断じて西部劇ではない。それはコルトオートマチック拳銃やブローニング機関銃が登場するからではなく舞台が近代であるからだ。
 西部劇の時代は同時に無法者の時代でもあった。駅馬車襲撃や銀行強盗をして金を奪い、その金で酒を飲んだり女を買い、保安官や賞金稼ぎに撃ち殺されたり捕らえられて縛り首になったりする。そんな牧歌的な(どこが牧歌的って気はするが)前近代の自由さが近代という新しい社会では許されず、パイクたちはアメリカから逃げ出した。だが、逃げ出した先のメキシコでも革命という近代の波が吹き荒れていた。新しい時代に合わせて生き方を変えるか、それとも無法者のままでいるか。だが無法者を選んだ場合には未来はなく、もはや死ぬ運命だったのだ。
 登場人物のほとんどが死んでしまった後で、ちゃっかり生き残った老人が「これまでの様にはいかないがな」と無法者から犯罪者へと生き方を変えることで近代に適応する。これを狡いと見る向きもあるかもしれないが、滅びの美学だなんだと言っても死んでしまっては意味がない。生き方を変えられるならば変えた方が賢くはある。映画のドラマ作りとしては前者の方が盛り上がるのだろうが。

 ちなみにワーナーから発売されているDVDは両面一層。映画の途中でA面からB面へとひっくり返さねばならない「お前はレーザーディスクかっ!」的仕様になっている。手間は大したことじゃないが、映画がそこで中断されるのはかなりイヤな感じだ。値段が変わったりキャンペーンなどで型番は何度か変わっているが同一マスターのままらしくおそらく現行のも両面一層だろう。片面二層で出してくれ。次世代メディアの登場も近いので今さらDVDに変更はないだろうがなぁ。

2005年10月19日

『わが谷は緑なりき』 オレだってたまには泣く、その31

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『わが谷は緑なりき』 (1941) HOW GREEN WAS MY VALLEY 118分 アメリカ

監督:ジョン・フォード 製作:ダリル・F・ザナック 原作:リチャード・リュウエリン 脚本:フィリップ・ダン 撮影:アーサー・C・ミラー 作曲:アルフレッド・ニューマン
出演:ウォルター・ピジョン、モーリン・オハラ、ドナルド・クリスプ、ロディ・マクドウォール、バリー・フィッツジェラルド、サラ・オールグッド、ジョン・ローダー、アンナ・リー、メエ・マーシュ、アン・E・トッド

・・・「私の名はジョン・フォード。西部劇を作っている」

 ここで利用しているblogシステム「Movable Type 3.2」がRelease-2になったのでさっそくアップグレード作業を行った。まずは既存データのバックアップから始めるのが基本。メニューからデータを書き出したらテキストデータだけで3.4MBほどがあった。うむむ、フロッピーディスクには入らない。まぁ、もう何年もFDなんて使ってないが。
 なんだかんだで1047エントリ。一行40文字表示にしたら65000行ほどあった。エントリごとの間に空白行や日付、タイトルなどで25行があるから、単純計算で65000-25×1027=39325行。一行40文字だから1,573,000文字。400字詰め原稿用紙で3932枚。なかなかな分量だ。

 だが、これと同じだけの分量を使っても『わが谷は緑なりき』の魅力を伝えることはできない。オレに文章力がないせいもあるが、そもそも映画を言葉で表現しきることは本当に可能なのだろうか?
 って、こんなことを言っているとリュミエール派みたいだが、オレはジョン・フォードの名は知っていても大学にはいるまではその名に大した意味は持っていなかった。
 そんなオレや同期たちに、シネマ研究会のU谷先輩は学習会と称して視聴覚室に新入部員を連れ込んではあれこれと古い映画を観せた。
 出席したオレたちの目の前に数週に一度のペースでプロジェクターで映し出されたのは
ニコラス・レイの『夜の人々』(1949)、アルフレッド・ヒッチコックの『見知らぬ乗客』(1951)、サミュエル・フラーの『最前線物語』(1980)、ロバート・アルドリッチの『特攻大作戦』(1967)、ラオール・ウォルシュの『ハイ・シェラ』(1941)、ジャン=リュック・ゴダールの『カルメンという名の女』(1983)、ハワード・ホークスの『赤ちゃん教育』(1938)、そしてジョン・フォードの『ドノヴァン珊瑚礁』などという今にして思えば錚々たる顔ぶれ。
 当時は「なんでこんな古い映画を観されられなきゃいかんのだ」と思っていたが、3回目辺りから楽しくなっていって、そして、二年生になる頃には、古い映画も洋画も邦画も関係なく、興味を持ったら即観に行く映画野郎にバージョンアップしていた。

 オレたちが入学してすぐにU谷先輩が撮った映画では、河原に座り込んだ主人公の横に謎の男O原氏が現れ「情報度が、情報度が」と繰り替え言う。最初は「ジョン・フォードが、ジョン・フォードが」だと言っているのに気付かなかった。映画について偉そうにあれこれ語ってはいるが、U谷先輩の学習会がなかったら「古い映画にも面白いのがあるんだ」「映画もちゃんと系統立てて数を観なきゃ駄目だな」ということに気付かないままだったろう。
 
 学生時代にジョン・フォード作品もいくつか観たが、当時まだレンタルビデオが本格的に普及しだしたとはいえ、現在と比べてタイトル数は圧倒的に少なかった。これがまだ東京の学生だったらまだ残っていたはずの名画座で出会うこともあったかもしれないが、名古屋では事実上名画座は壊滅状態。
『わが谷は緑なりき』を観たいな~、観たいな~と熱望すること数年、就職で上京した東京の名画座で『わが谷は緑なりき』と『静かなる男』の二本立てで上映されているのを見つけてマッハ3.17で駆けつけた。ジョン・フォードのアイルランド作品特集といった企画なのだろう。
『静かなる男』はすでにビデオで観ていたが、スクリーンで観るとさらに面白かった。
 そして『わが谷は緑なりき』は美しいアイルランドの風景の中(もっとも第二次世界大戦中のためロケではなくカリフォルニアに大セットを作って多くのシーンはそこで撮影されたそうだ)、ウェールズの貧しい大家族を主人公に、炭坑での仕事や労働争議、少年の成長などが描かれる。少年役を演じたロディ・マクドウォールは後に『フライトナイト』(1985~1988)シリーズで元B級恐怖映画のスターで現在は恐怖映画番組のホストを務める老人を演じていた。オレが観た順番が『フライトナイト』→『わが谷は緑なりき』だったので、えっあの爺さんはこんな可愛らしい少年だったのか、と驚いてしまった。
 結局、就職で東京に2年間いた間に映画館で500本以上の作品を観ているんだよな。ああっ観たかったあの映画がなんてことはなしにやっていると週末どころか仕事をとっとと片付けて映画館に通っていたら、そりゃ人生も間違うわ。

 オレが学生時代にあれほど切望した『わが谷は緑なりき』。こいつを学生時代に観ておくことが出来なかったのは今だに残念だと思っている。
 その映画が今ではなんとDVDとして発売されていて気楽に買うことが出来るではないか。
 売値は税込みで2,079円。映画館に映画を観に行った時よりもほんのちょっと高いが、映画館だとジュースが「なめとんのかぁ」と割高だったりするのでその分を差し引くと同じぐらいだろう。
 オレがあれだけ観たくて「ぴあ」などを毎回隅々まで目を通してタイトルが載っていないか探した『わが谷は緑なりき』がたったの2,079円。
 DVDは光学メディアだから丁寧に扱えば1万回ぐらいは観られるだろう。そうすると1回につき0.2円。くわっ、安すぎ。チロルチョコの欠片しか買えないぞ、そんな金額。
 もしかすると10万回ぐらい大丈夫かもしれない。すると0.02円。もうデフレっすよデフレ。まぁ、メディアはもってもプレイヤーを何台か買い換えることになりそうだが。

 とにかく『わが谷は緑なりき』は観とけ。依頼ではなく命令。
 高校時代や大学に入ったばかりの頃はこんなことは思わなかった。「観たい作品を観ればいいじゃん」
 うん、そうだ。オレもそう思う。それでもやっぱり、これは観ておくべきだというのはあるのだ。そういうのを経験することでより映画の階段を上がれるのかもしれない。

「西部劇の神様、ジョン・フォード」と呼ばれることがあるが、それは厳密ではない。
 ジョン・フォードは「西部劇の神様」ではなく「映画の神様」だ。神様の作品をまったく観ていないのはやはり寂しい。

 なんだかんだで『わが谷は緑なりき』の内容にはほとんど触れないまま終了。逃げたんじゃない、敵うはずもない相手からの戦略的撤退だ。

2005年12月13日

『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ/天地大乱』 黄飛鴻(ウォン・フェイフォン)、必殺の無影脚!

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『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ/天地大乱』 (1992) 黄飛鴻之二:男兒當自強 108分 香港 1993/09/18鑑賞
監督:ツイ・ハーク 製作:ツイ・ハーク 製作総指揮:レイモンド・チョウ 脚本:ツイ・ハーク、チャン・タン、チャン・ティンスン 撮影:アーサー・ウォン 音楽:リチャード・ユエン、ジョニー・ニョー
出演:リー・リンチェイ(ジェット・リー)、ロザマンド・クワン、ション・シンシン、マク・シウチン、ジャン・ティエリン、ドニー・イェン

-オレはいつでも燃えている その33-
 一作目の『天地黎明』をすっ飛ばして、二作目の『天地大乱』がいきなりの劇場公開。
 香港では記録的大ヒットとなり、ジェット・リーの人気を再燃させた『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ』だが、日本では結局劇場公開されたのは『天地大乱』だけで、あとはビデオスルーとなってしまった。香港映画人気が落ちてきた時期でもあるし、時代劇でクンフー物というのが逆に客足を遠ざけたのか、公開してわりとすぐ観に行ったのだが観客数は少なかった。劇場興行としては失敗したのだろう。非常にもったいないと思うのだが、オレとしてはシリーズ最高傑作の『天地大乱』をスクリーンで観られただけで良しとしよう。確か日比谷の映画館で観た記憶がある。休憩時間には昔ながらの緞帳が下りてくる劇場で、その緞帳の左右には『週刊少年ジャンプ』と『週刊プレイボーイ』の広告が刺繍されていた。人間、時として妙なことが印象となって残っているものだ。

 リー・リンチェイが演ずる黄飛鴻(ウォン・フェイフォン)は清代末期に実在した武術家にして漢方医である。『酔拳』『酔拳2』でジャッキー・チェンが演じていたのも同じ黄飛鴻だ。『酔拳』では正義感こそ強いが基本的にドラ息子だったが、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ』シリーズではガチガチの堅物とかなりかけ離れた描写となっている。実際の黄飛鴻はどんな人物だったのだろうか。とりあえず工業用アルコールを飲んで暴れ回ったり、ビュンビュンと空を飛んではいないはず。そうそう、ユン・ピョウ、サモ・ハン・キンポー主演の『上海エクスプレス』(1986)には幼少期の黄飛鴻役が列車の乗客としてちらっと出ている。
 香港映画黎明期にすでに黄飛鴻を主人公とした映画が作られており、人気シリーズとして100本以上の作品が作られたそうだ。史実などリアリティは重視されない娯楽時代劇だったようで、弱きを助けて悪をくじく古典的英雄像になっていたという。水戸黄門や遠山の金さんのように、実在の人物がモデルだが大幅に誇張されていたのだろう。
 清代末期を舞台に欧米列強が中国進出(侵略?)を狙っている中、中国人として民族の誇りを持って戦う黄飛鴻の物語が1990年代になって再び映画化されたのは、単に懐古趣味だけではなく1997年の香港の中国返還が間近になっていた世情もあるはずだ。銃などの近代兵器にクンフーが勝てるのかというシチュエーションに象徴されるように、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ』の大きなテーマは中国文化と西洋文化との出会いとそこで生じる軋みだ。叔母にして恋人のイー(ロザマンド・クワン)が欧米で学問を修得し、洋服を普段着として流ちょうな英語も話す。西洋文明を身につけた彼女と、中国文化を大切にする黄飛鴻とのやり取りが面白い。
 『天地大乱』の前半では西洋の医師たちを前に黄飛鴻が鍼麻酔を披露するシーンがある。そこで英語への通訳を買って出るのがかの有名な孫文だ。日本人には聞き慣れなくても、香港・中国では著名な歴史上の人物が登場するのも『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ』シリーズの特色である。それにしても長いタイトルだな。今後は『ワンス(略)』とすることとする。ってゆーかさっさとそうしとけよ。

 一作目をすっ飛ばしていきなり二作目、しかも香港人にはお馴染みな歴史的背景は省略されているため、「えっ?何が?何で?」と最初は戸惑った。そもそも「黄飛鴻って誰?」なんだが、ややこしいことは抜きにしてツイ・ハークの力押しな演出と切れ味鋭く派手なアクションだけで充分楽しめる。
 白蓮教という邪教集団が存在し、そこの教祖と黄飛鴻が戦うのだが、ここでのワイヤーアクションのすごいことすごいこと。いくつかの机を積み上げ、それ足場にするがこれがもう無茶。人間が自在に宙を飛びながら戦っている。そりゃワイヤーが見えるのは確かだが、そんなのこのアクションを前にしてはどうでもいいだろ。アクションのカット割りとしては繋がっていない部分もあるが、この勢いの前にはどうでもいいだろ。文章で説明しきれるものではないので、未観の人はぜひとも観ることをお勧めする。ワイヤーアクションの究極形がここにある。
 武術指導をしたユエン・ウーピンは、後に『マトリックス』シリーズのアクションも担当している。『マトリックス』でのキアヌ・リーブスとローレンス・フィッシュバーンが乱取りをするシーンなどなるほどユエン・ウーピン色が出ているが、『ワンス(略)』はあれの少なくとも100倍はすごい。キアヌ・リーブスたちは撮影前の数ヶ月に渡って猛特訓をしたそうだが、こちらはリー・リンチェイやドニー・イェンなど長期間修練を積んだ武術俳優が多数出演している。CGなどのビジュアル・エフェクツが進歩してもそう簡単にはその修練の差は埋められない。かといってオレはCGを否定しているわけではない。訓練された肉体とビジュアルエフェクツが組み合わさって、さらにすごいアクション、さらに度肝を抜くスタントが登場することを期待している。

 ただ、リー・リンチェイとドニー・イェンの戦いはもうちょっとカット数を減らして、技の激突をじっくり見せてほしかった。棒術と足技中心なのだが、二人ともピシッと足の伸びたハイキックを高速で繰り出して、香港映画名格闘シーンの一つとなっている。細かいカット割りで迫力はあるが、夢の対決だけにちょっともったいない。
 それにしても、ドニー・イェンにとって最大の不幸は悪人顔に生まれてしまったことだろうな。武術もすごいしアクション監督としても活躍する実力派で、この作品のように悪役だと実にはまるんだが、『ドラゴン危機一発'97』などで善玉を演ずると違和感を感じてしまうのはオレだけか。

 後にレンタルビデオで一作目の『天地黎明』を観たが、大筋に“不平等条約"か関わりさらに中国を憂う思想色が強い。単純に中国=善、欧米=悪といった図式でもない。ちょっと鬱陶しく感じる部分もあるが、香港・中国の人には日本人にとっての幕末物のような魅力があるのだろうか。

2007年05月27日

『我輩はカモである』 独裁者が戦場でドタバタだ

51%2BOG%2B8hBJL._AA240_.jpg『我輩はカモである』(1933) DUCK SOUP 69分 アメリカ

監督:レオ・マッケリー 脚本:バート・カルマー、ハリー・ルビー 撮影:H・シャープ
出演:グルーチョ・マルクス、チコ・マルクス、ハーポ・マルクス、ゼッポ・マルクス、マーガレット・デュモント、ルイス・カルハーン

『我輩はカモである』、通称『我カモ』。原題の『DUCK SOUP』はもちろんカモのスープでスープの中でも上等なスープなんだだそうだ。
 マルクス兄弟の最高傑作と現代では言われているが、当時の観客には受け入れられず、パラマウントを追われる結果となった作品でもある。
 この映画バカ黙示録の2000年02月29日に書いた第一エントリで、この『我輩はカモである』に関係のある文章を書いている。
 映画について直接書くまで7年ちょっとかかったのだ。とっとと書いとけって感じだが。

 作品の在り方については2000年のエントリで書いているので、今回はまた別の側面から。
 これまでは、マルクス兄弟のキャラクターに頼ったギャグが多かったが、今回はそれに加えて映画の視覚的ギャグが比重を増している。
 例えば、何でも出てくるハーポのコートは、『けだもの組合』では、チコに「懐中電灯(フラッシュ)を出せ」と言われて、代わりに「魚(フィッシュ)」が出てきて、チコに怒られていた。
 この作品では、雇い主から「記録(レコード)を出せ」と言われて、音楽のレコードを出すまではこれまでと同じだが、怒った雇い主がそのレコードを奪って放り投げると、ハーポが拳銃を取り出して撃ち、レコードに命中して割れるといった、より発展した映画的なギャグになっている。
 他に、マルクス兄弟作品の中で、オレが一番好きなギャグも登場する。
 フリードニアという国の首相となったグルーチョの公用車は、ハーポの運転するサイドカー。「車を用意しろ」との指示で玄関前に待っていたサイドカーにグルーチョが乗ると、そのサイドカーを残してハーポが運転するバイクだけが走り去る。
 そして、もう一度同じギャグが登場し、三回目には「もうその手は食わんぞ」と、ハーポをサイドカーに座らせグルーチョは自分がバイクにまたがるが、こんどはバイクを残してサイドカーだけが走り去ってしまう。
 繰り返しはギャグの基本だが、それに一捻り加えた上質かつ個人的に大笑いなギャグだ。

 ハーポは初期の作品からゴムまりでならすクラクションを持ち歩いて活用していたが、この作品ではさらにハサミが加わる。これで相手のスーツの背中の布地から引っ張り出したポケット、腰布などなんでもかんでも切ってしまう。アイテム増加でレベルアップと言ったところだろうか。

 大金持ちの未亡人の後押しでフリードニアの首相に任命されたグルーチョは、閣僚たちの意見など無視して暴走し、ついには隣国との戦争に突入してしまう。
 これがファシズムを皮肉った作品だとして、ムッソリーニが激怒し、イタリアでは上映禁止になったそうだ。
 同じ傾向の作品としては、チャールズ・チャップリンの『独裁者』があるが、オレとしては真面目な人間が真面目に作た退屈な『独裁者』よりも、不真面目な連中が真面目に作った、この『我輩はカモである』を断固支持し、そして大笑いする。

 首相秘書役のゼッポは可哀想なぐらい見せ場がなく、この作品を持ってマルクス兄弟を脱退。アイドルグループ風に言えば卒業か。
 もちろん、実の兄弟同士なので、脱退しても兄弟ではあるのだが。

2007年10月03日

『ワイルド・アット・ハート』 黄色いレンガの道

B000R9TM9O.jpg『ワイルド・アット・ハート』(1990) WILD AT HEART 124分 アメリカ

監督:デヴィッド・リンチ 製作:モンティ・モンゴメリー、スティーヴ・ゴリン、シガージョン・サイヴァッツォン 製作総指揮:マイケル・クーン 原作:バリー・ギフォード 脚本:デヴィッド・リンチ 撮影:フレデリック・エルムズ 音楽:アンジェロ・バダラメンティ
出演:ニコラス・ケイジ、ローラ・ダーン、ウィレム・デフォー、イザベラ・ロッセリーニ、ダイアン・ラッド、シェリリン・フェン、シェリル・リー、ハリー・ディーン・スタントン、ジョン・ルーリー

 公開当時は学生だった。当時書いた文章を検索してみると、『ワイルド・アット・ハート』については二行だけ書いていた。

「気違いばかりの騒々しい世界。
あのラストはハッピーエンドではない。リンチは美しい愛なんか全然信じちゃいないんだからねっ!!」
だそうだ。

 こういう猥雑な作品は本来オレの好みではないのだが、好みであるないと面白い面白くないはまた別問題。文句なしに面白い。
 ヘビ革のジャケットを着たニコラス・ケイジが格好良くないのに格好良い。
 ローラ・ダーンの顔は微妙に造形がアンバランスなのにキレイ。
 ウィレム・デフォーが邪悪でアタマボーン!

 主人公二人が夜に遭遇する交通事故のシーンが何故かすごく頭に残っていて、十数年ぶりに観た今回も「これだこれだ、これなんだー。スパイスはコリアンダー」って感じ。
 思いっきりストレートなラブストーリーじゃんか。何言ってんの、20歳頃のオレと思ったが、この『ラブ・ミー・テンダー』で終わるラストではなく、破壊的なラストだったとしても何もおかしくないということが言いたかったのだろう。
 そうだった気がする。忘れたけど。

 『オズの魔法使』(映画版)の知識が前提で作られているが、向こうじゃ幼少時に観ていて当然なのだろう。というわけで、観ておくように。
 日本で『桃太郎』の知識前提の作品を作るような物なんだろう。