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4845908190.jpg『孤高の騎士クリント・イーストウッド』2008年6月初版

 オレは在命中の映画監督の中ではクリント・イーストウッドが最高だと思っている。それも頭抜けてダントツのベストだ。
 そのクリント・イーストウッドを相手に数回に分けてロングインタビューが行われ、それをまとめたのがこの『孤高の騎士クリント・イーストウッド』(2500円+税)だ。
 インタビュアーのマイケル・ヘンリー・ウィルソンはフランス人。イーストウッドの映画作家としての資質を初めて見出したのがフランスと日本であることを思い出すと感慨深い物がある。アメリカで監督としてのイーストウッドが評価されるようになったのはかなり後になってからなのだ。
 ただしこのマイケル・ヘンリー・ウィルソンが今一つ良くない。悪いわけでもないんだが。インタビュアー次第によってはアルフレッド・ヒッチコックにヒッチコキアンのフランソア・トリュフォーがロングインタビューした『ヒッチコックの映画術』のような映画史に残る名著かつ必読書になった可能性もあるので、少々残念だ。だが、イーストウッドファン以外にも読む価値は絶対にある。

「成功も失敗も、すべて私ひとりで引き受ける」
 おれが『映画の血』でグダグダと言葉を並べ立てて書いたことをイーストウッドはたったの一言で表現してしまう。自分が撮った映画は自分の作品。制作には多くの人間が関わっているが、出来上がった映画は俺の物だということなのだ。
 オレが初めて「映画って美しいんだ」と感じた『ペイルライダー』については、
「映画会社は、何かというとコンピューターに相談したり、観客動向の調査にあくせくしているが、何の意味もないよ。そういう了見で『ペイルライダー』を撮っていたら、マーケティングという名の儲け主義に引きずられて、ストーリーも味わいもメッセージも犠牲にしてしまっただろう。果たし合いのシーンをもっと派手にして、エキストラを大勢雇って、とかね。必然性もないのにそんなふうにしたら観客だって騙されたと感じるよ」と語る。
 単に派手にして観客受けを狙うのではなく、自分がやりたいことをしっかりとやる。映画作家としての作品を支配する強い意志が感じられる。映画作家の作品としての映画よりも、ハリウッドではマーケティング重視の娯楽作品が多い中、戦うイーストウッドの姿が見える。

?あなたが最もわくわくするプロセスは?脚本ですか?撮影ですか?編集ですか?
「編集だ。編集はいちばん束縛されない段階だ。編集者と一緒にこもってパズルを組みたてるんだからね」
 これは「フィルムを切り刻め」でオレが感じたことと似ているように思う。イーストウッドと自分に共通点があったのかと思うととても嬉しい。

 自分が映画を本気で観始めてすでに20年ちょっと。その結果あれこれと考えていたことと、イーストウッドが語っていることに近い部分を見つけるとオレの送ってきた年月はそれほど間違っていなかったんだなと安堵する。もちろん、異なる部分も多い。まだまだ修行不足なところもあるし、オレはイーストウッドではないということでもある。
 イーストウッドはあまりインタビューを受けない人で、これまでに彼の本心が語られることは少なかった。言葉よりも映画で語る人だったのだろう。そんなイーストウッドの初のインタビュー集が発刊されたことは記念すべきことである。もちろんこれからもイーストウッドは元気に映画を撮り続けると信じているが、78歳という年齢を考えるとそろそろこのような本が作られてしかるべきだ。万が一のことがあってからでは遅い。

『め組の大吾-曽田正人』 1996年2月15日初版発行 小学館 少年サンデーコミックス

?オレはいつでも燃えている その11?
 燃える作品について書き始めて10本。そろそろ空気も乾燥してくる季節だというのに燃えてばかりだと危険だ。そこで火を消すのを仕事とする消防士のマンガで、燃焼の勢い抑えることにした。で、読んだのが『め組の大吾』全20巻。
 結果として余計と燃えた。これが火にニトログリセリンを注ぐってヤツなんだろうか。
 子供の頃に自宅が火事になり、炎の中から消防士に助け出されたことのある朝比奈大吾。彼は高校を卒業すると消防士になり中央消防署めだかヶ浜出張所に配属された。
 そこにいる消防士たちはあまりやる気を感じさせないだらけた連中ばかり。めだかヶ浜出張所は「“め”ったに火事がない、市内一“め”でたい出張所」として通称「め組」と呼ばれていた。しかし、実際は一度火災が発生すれば最高の働きをする火消しのプロたちだった。
 め組の一員となった大吾は災害現場で目覚ましい活躍を繰り広げる。もともとのやる気に加え、ナチュラルボーンで持っている火事に対処する才能、根を上げない根性。そしてなによりもたぐいまれな大バカヤローだったからだ。

 スポ根物の変種ではあるが、その手の話に付き物である「調子に乗りすぎて失敗する」とか「大きな障害にぶつかって悩み挫折する」などが出てこない。オープニングのナレーションではそれを予感させる回もあるが、終わってみると大吾が人並み外れた勘や思い切った決断力で大活躍している。その点についてはドラマとして物足りなさを感じる人もいるかもしれないが、火事を始めとした災害現場での失敗は被害者の死や大怪我になってしまうのであえて避けたのだろう。

 大吾の消防士としての能力が目覚めていくにつれ、発生する災害も大きくなっていく。ビル火災、温泉ホテル火災、ヘリコプター消失などなどで、作者も調子に乗って「次はこんな災害、こんな困難」とエスカレートしていったのだろう。『ドラゴン・ボール』で登場する敵がエピソードが進むごとにインフレ的に強くなっていったのと同じようなもので、作品のスタイルからいうと致し方ないことなのかもしれない。
 それでも勢いで読ませてくれるので、さほどリアリティについて悩むことはない。終盤でのスマトラ島の森林火災に巻き込まれた高校時代の恩師にして大吾が惚れている落合先生を救うために、単身インドネシアに乗り込むのはさすがに無茶だし、後にハイパーレスキュー隊が結成され災害救助のため世界中を飛び回っているというのは、「お前ら国際救助隊ことサンダーバードか」てな感じだが、それぐらいの大風呂敷を広げないと話がまとまらなかったのだろう。

 オレが好きなのは大吾がレスキュー隊試験に挑戦するところ。前夜に山火事のため出動して女の子を抱えて一晩中駆けずり回り、身も心もズタボロになったままで過酷な試験を受ける。だが、すでに限界を迎えていたかに思える大吾の体は、極限状態においてさらに隠れていた力を発揮するのだ。燃えるぞー!

 それにしても、マンガで読んだり映画で観ている分にはいいが、オレにとって消防士というのはなりたくない職業だ。むしろなれないというか、もしも間違って消防士になってしまったら被災者にとって迷惑だろう。
 公務員なのでさほど給料もよくないのに、現場ではまさに命がけ。仕事に関する危険度は警察官や自衛官よりも上だろう。警官が命の危険にさらされる状況ってのは日本の場合少ないだろうし、自衛官の場合はさらに少ないはず。火災の発生数を考えると消防士ってのは過酷な仕事だ。

 これから火を使うことが多くなる季節。火の始末には気をつけよう。とりあえず、オレは火災原因として大きな割合を占めるという寝タバコをやめることにする。・・・って、そもそもタバコ吸わないか。
 じゃあ、台所火災で最も危険と言われる天ぷらをやめる。・・・って、男の一人暮らしで天ぷらなんか調理しないよ。
 類人猿段階まで退化すれば火事の心配はなくなるが、それも不便なので、とりあえず台所と自室にそれぞれ消火器を置いているのでそれで良しとしよう。

『仮面ボクサー-島本和彦』 1989年7月30日初版発行 徳間書店 少年キャプテンコミックススペシャル

?オレはいつでも燃えている その10?
 燃えるマンガ家島本和彦が書いたボクシングマンガ。正確に言うとボクシング界を舞台にした仮面ライダーのパロディ。
 いや、島本和彦は石ノ森章太郎原作で『仮面ライダー』の原形に当たる『スカルマン』をリメイクしていたし、藤岡弘、の大ファンだそうだから、パロディと言うよりはむしろこれはオマージュだろう。主人公の仮面ボクサーが最初に戦う対手が“クモボクサー”というのも島本和彦は分かっている男だ。やっぱ最初の敵がクモってのは基本だよな。

 ボクシング界征服を狙う悪の組織・世界征服ジムが、コミッショナーを洗脳して特殊機能を持つグローブや仮面を認可させ、強烈に強い悪のボクサーたちがリングを荒らし回る。ボクシング界を征服して何の得があるのか意味不明なところがいかにもその手の悪の組織だ。全米空手界を征服しようとした『シンデレラ・ボーイ』の悪党たちと通じる物を感じる。
 死の間際に正気を取り戻したコミッショナーは息子である拳三四郎にヘッドギア型仮面とグローブを託し、ボクシング界に平和を取り戻すように言い残す。そして三四郎は仮面とグローブを装着して正義のボクサー『仮面ボクサー』となって、世界征服ジムが放つカマキリボクサーやブロンドボクサーと死闘を繰り広げるのであった。

 こう書くと熱血ボクシング特撮ヒーロー物っぽい。ところが三四郎は「男!!命がけ!!魂!!血みどろ!!はいあがる!!」といった言葉はポンポン口に出すくせに、自他共に認める根性なしの情けない男。
「この体がにくいッ きたえぬいてやるッ サンドバッグ連打500回だ」と猛特訓を始めるが、次のコマでは「・・・ほら まただ 気がついたら120回でやめてもうカルピスソーダをのんでいる なんなんだおれはっ」といった情けなさ。でもオレも根気のなさには自信があるので三四郎の気持ちは分かる気がする。それに強さと根性なしは両立するのだ。
 そんな具合にギャグマンガとして作品は進行していくが、終盤になって怒濤の燃え上がりを始める。
 世界征服ジムがつくりだした最強の仮面をかぶったゴッドボクサーが出現する。その正体は誰がどう見たって史上最強のヘビー級ボクサー“マーク・パイソン”その人だ。マネージャーや妻にむしり取られずに自分の自由になる金目当てでゴッドボクサーになったとか。誰がどう見てもモデルはマイク・タイソンだよな。
 もちろん根性なしの三四郎は試合を拒むが無理矢理リングに引きずり出されてあっけないまでの完敗に終わる。二度の対戦の後、仮面ボクサーは入院先から逃亡する。そして人々の前から仮面ボクサーは姿を消し、ボクシング界は世界征服ジムに牛耳られてしまった。
 逃亡先の秘湯でのんびりと傷を癒やす三四郎。その前にゴッドボクサーの仮面を開発したエディが現れる。世界征服ジムを裏切ったエディは三四郎と手を組んで戦おうというのだ。
 1年の間、三四郎はトレーニングを続け、エディは仮面に改良を加えた。その改良点とは装着したボクサーの命を1年単位でエネルギーに変え、強烈なパンチを放つことが出来るといったものだった。三四郎の能力からすると30年分の寿命を使えば一発でゴッドボクサーを倒すことが出来る。
 これぞ名付けて『30年パンチ』!!
 悩んだあげくに三四郎は寿命が30年縮まろうともゴッドボクサーを倒す気になったが、好きだった女の子に思いが通じてしまったことから急に命が惜しくなる。そして、ゴッドボクサーとの対戦が始まっても、30年パンチが出せなくてせこく5年パンチや7年パンチを打っていく。もちろんその程度のパンチはゴッドボクサーには通用せず、無駄に寿命が減っていき、ついに残りの寿命が30年になってしまう。30年パンチを打っても死ぬ。打たなくてもゴッドボクサーに殴り殺される。
 そして仮面ボクサーは叫ぶ。

「最初に30年パンチを打っておけばよかった!!」

 ここから腹をくくった仮面ボクサー=拳三四郎の男のドラマが始まる。ページにして10数ページだがメチャメチャ燃える。熱く激しい男の生き様だ。

 島本和彦の作品は、ストーリーがどうとか展開がどうしたを見るのではなく、登場人物の行動や言動を楽しむものだ。
『仮面ボクサー』について、島本和彦はボクシングを分かっていない、知らないのではないかという評価を読んだことがあるが、まったくもって的はずれだろう。例えるなら『少林サッカー』を観たオレの知人だ。サッカーファンであるその人はまず「こんなのサッカーとは認めない」といった。・・・いや、だから、サッカーのリアリティを追求する目的で作られた映画じゃないだろ。サッカーは手段であってそれを描くのが目的じゃない。それに、少林隊がやってるのは“サッカー”じゃなくて“少林サッカー”だし。
 とにかく男気のある人間なら読め(男気ってのは感性みたいな物だから男気を持っている女もいれば、持っていない男もいる)。そして30年パンチに燃えろ!

『星の王子さま』 サン=テグジュペリ 岩波書店

 小説編のために引っ張り出した資料本を本棚に戻している最中に、並んでいる本の中で明らかに浮いている一冊があった。それがこの『星の王子さま』だ。よりによってコリン・ウィルソンと並べとくことはないだろうに。あっ、そういう配置にしたのはオレか。
 別に深い意味があるわけではなく、この本はハードカバーなのでサイズが同じ本同士で揃えただけ。

 2,3年前のことですら大まかにしか憶えていないオレにとって、『星の王子さま』を始めて読んだ小学校3年生かひょっとしたら2年生の時分の出来事など、ティラノサウルスが大地を闊歩していた白亜紀とさして違いがない。
 だが、話の語り手である「ぼく」と「王子さま」の別れが近づいたシーンでその別れを予感して泣いてしまったことはかろうじて憶えている。さすがに今読み返してみても泣けなかったが大昔のオレは泣いた。そんな時代もあったのだ。

 最近では版権が終了したとかで他の出版社から新訳版も出ているがそちらは読んでいない。岩波書店の内藤濯翻訳版では1ページ目からいきなり「ウワバミ」という単語が出てきて、これに「大きなヘビ」とも何とも注釈がないために意味が分からなくて面食らってしまった。「ウワバミ?・・・校舎の中で履くヤツか。それはウワバキだな」と当時思ったのを憶えている。うむむ、基本的にオレってヤツは進歩してないな。
 山猫か何かを飲み込もうとしているウワバミの挿絵があるのだが、ヘビというよりも謎の怪奇生命体にしか見えない。新訳版での表記はどうなっているのだろうか。内藤訳版で満足しているので今さら他の翻訳で読む気はないがそれだけはいずれ確認しておきたい。

 子供の頃、母親が家の一室を利用して家庭文庫を開いていた。近所の子供を対象とした小型の私設図書館だと思ってもらえばさほど間違いはないだろう。
 そのおかげで、小学校に入る前から読む本がまわりに溢れかえっていた。『星の王子さま』もその中の一冊。小学校高学年ぐらいの子供に人気があって、何度もページが開かれたため痛んできたのを図書用テープで補修してあった。
 今手元にあるのは大学時代になんとなく買ったもの。何で買う気になったのは2,3年前のことですら大まかにしか憶えていないオレにとって、もはや思い出そうとしても思い出せやしない。

『ストレンジャーズ』(上下) ディーン・R・クーンツ(現在はディーン・クーンツと改名) 文春文庫

 前回で終了したはずの「オレだってたまには泣く 小説編」だが、スティーヴン・キングの作品を紹介しておいて、ディーン・クーンツを紹介しないのはやはり片手落ち。そこでクーンツ作品の中でも面白く読み応えがあるこの『ストレンジャーズ』を紹介する。
 この『オレだってたまには泣く』シリーズは比喩としての泣けるではなく、実際にオレの瞳から涙がこぼれたということが条件なので、ぐっときはしたものの泣いてはない『ストレンジャーズ』を紹介するのは少々ルールに反するが、番外編とでも考えて欲しい。

 カリフォルニアに住む作家、ボストンの女医、シカゴの神父、そしてニューヨークの現在は盗賊になった元特殊部隊の隊員。彼らはそれぞれ突然の精神的発作で遁走状態になったり、夢遊病で家の中にバリケードを作り立てこもったり、さらには銃で撃たれた警官や先が長くない女の子の病気を不思議な力で治したりしている。
 それぞれまったく違う場所に住み、違う世界を生きる彼らが夢に見るのは「月」だった。
 そして彼らは自らの中にある何者かによって封印された記憶の謎を解くべく、個々独自にだが不思議なほど同時期に行動を開始しある場所へと集まっていく。
 謎を解く鍵はネヴァダ州のごくありふれたモーテル。そこで一体何があったのか?彼らの身に一体何が起こっているというのだろうか?

 序盤から読者をぐいぐいと引き込んでくるクーンツ節が炸裂している。描写される人物が多少薄っぺらに感じるが、これをクーンツの欠点と見るか個性と見るかは人それぞれだろう。
 オレがジーンと来るのはボストンの女医に過去催眠を依頼された81歳の元奇術師で催眠術のパブロ・ジャクソンが、パーティー会場で出会った旧知の元情報活動を行っていた上院議員と話をするシーンだ。上巻の343ページから353ページに当たる。このシーンは異常に思える出来事の裏側になんからの組織がいることを匂わせる最初のシーンでもある。
 上院議員は渋々伝えられる情報を伝えた後、「この件には手を出しちゃいけない。これはきわめて危険なんだ」ときつく忠告をする。
 だがパブロは「八十一歳にもなると、面白いことなんかめったに起こらなくなるんだよ。」と手を引く様子を見せない。
上院議員は「君は考え違いをしている。」と最後の忠告、いや正確には警告をする。
 それに対するパブロの答えはこうだった。「そうかもしれんね。だぶんそうだろう。でもね・・・だったら、なぜ私はこんなに気分がいいんだろう?」

 カッコいいじゃねぇか、ジジイ。このまま催眠治療を続ければどんな危険が襲ってくるか、そしてその危険は女医から手を引くことで解決する。その2つの事項がわかりながらも手を引くことを拒否し、自分の娘のように思えてきた女医を助けるために腹をくくるこのシーンがジーンと来る。もうちょっとで泣きそうなぐらいに感じる。
 その100ページほど後でパブロは・・・

 登場シーンもさほど多くはなく、脇役の一人に過ぎないのだが、パブロ・ピカソから名前をもらったというこの老人がオレにとって一番のひいき登場人物だ。

『トラブル・バスター2 俺とボビー・マギー』 景山民夫 角川文庫

 テレビの構成作家出身で、エッセイでユーモアの中に様々な真っ当ではないこと、不正義、不誠実さについての怒りを書きつづり、それらについての答えを求めたのだろうか、新興宗教の「幸福の科学」に入信してフライデー廃刊運動などにのめり込み、自宅でのボヤで焼死した景山民夫。
 オレ自身は宗教に興味がない、消極的にではなく積極的に興味がないが、景山民夫が答えを求めて宗教に進んだというのはまったく理解できないわけではない。ただ、宗教は生きていく上での指針、ガイドラインにはなるが答えは与えてくれないとは思っている。
 そして、景山民夫がどういう人物であったかとその作品がどうであったかは関係があるとも言えるし無いとも言える。
 傑作冒険小説『虎口からの脱出』やスティーヴン・キングの『シャイニング』を思わせるホラー小説『ボルネオホテル』など、景山民夫は何作もの面白い小説を書き残している。『トラブル・バスター』シリーズもその一つだ。

 主人公の宇賀神邦彦は根っからのテレビ屋だが、制作現場で幾度もトラブルを起こし、今では関東テレビの総務部総務課制作庶務係に籍を置いている。そこでの仕事は関東テレビで発生した様々なもめ事、つまりトラブルを解決すること。すなわち「トラブル・バスター」だ。
 離婚経験があり現在は一人暮らし(同居人として猫がいる)、そして額も徐々に後退しつつある宇賀神がテレビ局や芸能界の裏側で繰り広げる一人称ハードボイルド連作集だ。もはや私立探偵では嘘くさいし、刑事だと物語の制約が多すぎる。景山民夫は自らの古巣であるテレビ業界を舞台にハードボイルドを見事に成立させている。

 主人公以上に傑作なのが宇賀神の上司で制作局長の田所局長だ。「バカヤロー」を連発する口の悪さと服装の趣味の悪さ。だがこの田所が実に良いのだ。田所も根っからのテレビ屋でしゃべり方や外見はともかくまっとうな“男”である。宇賀神と田所のやり取りは過去の様々な作品でお馴染みなウェルメイドさを持っているが読んでいて楽しい。
 第2巻『俺とボビー・マギー』の終盤で、宇賀神の身を守って怪我をした犬ボビー・マギーについての片を付けるため宇賀神はヤクザが運営する芸能プロダクションへと殴り込みをかける。そしてその事件のため、宇賀神はトラブル・バスターの仕事から外されてしまう。新しく配属になった史料編纂室は定年間際の爺さんが3人いるだけの閑職に思われたが、その実体は意外なものだった。
 そして、ラストに田所から電話がかかってくる。例によって「宇賀神か、バカヤロー」で始まる会話の内容は宇賀神を再びトラブル・バスターに戻すというものだった。「聞いてんのか、バカヤロー!」で終わるこの会話、といっても田所が一方的にしゃべっているだけの文庫本で6行ちょっとで泣いた。男だねぇ、田所局長。

 1996年に『さすらいのトラブルバスター』というタイトルで松竹制作の映画にもなっているがこれは基本的な人物設定だけを流用したまったくの別物。コメディ仕立てになっているがこれといって面白くもなく、単なる駄作。
 監督は井筒和幸。テレビで他人の映画にケチをつけてる場合じゃないだろうに。

51yk1tluuqL._AA240_.jpg『ニワトリはいつもハダシ』 火浦功 角川文庫

 主人公のいい加減で無責任で締め切り破りな遅筆SF作家壬生マコト(作者である火浦功自身がモデルと思われる)はついにホテルにカンヅメになって原稿を書いている。いや、正確には書いてはおらず、いかにして部屋の前に貼り付いて見張っている編集者沖田の目を盗んで逃げ出すかに頭を絞っている。すると7階にあるその部屋の窓から、黒ずくめのスーツを着込みリボルバー拳銃のコルト・パイソンを持った殺し屋ハジキのジョーこと木暮譲次が入ってくる。その肩には一羽のニワトリ(名前は知世)が乗っていた。
 そして物語は動きだす。ホテルで殺人事件が起こり、捜査一課の近藤警部(成田三樹夫似)が捜査にあたり、流しの女子大生探偵まで登場してくる。
 謎のメッセージ「金のよーかん 銀の耳」をめぐってハチャメチャギャグ+ハードボイルド+ミステリーが始まったのだ。

 角川書店の『野生時代』に連載された小説を加筆訂正の上でまとめられ、1988年2月25日に発行された文庫本である。連載時はかなりいきあたりばったりで進められたらしい。あとがきによるとラストは唐突に台風が襲ってきてうやむやのうちに終わってしまうのだとか。そちらも読んでみたい気もするが『野生時代』の1987年11月号を手に入れるのは古本屋巡りをしてもかなり難しいだろう。
 文庫版ではちゃんしたと決着がついて終わる。若い二人組の殺し屋が最期を遂げるシーンでぐっときて、ラスト近くのハジキのジョーと近藤警部の会話で泣く。一見なんでもなさそうなちょっとした言葉の交わし合いなのだが、片や殺し屋で片や警官と立っている側は違えども、お互いに認め合った古い馴染みのプロ同士の会話だ。泣けるぞ。
 ハジキのジョーはどう考えても日活映画で宍戸錠が演じた永遠のキャラクター「エースのジョー」がモデルだろう。ビリヤード場がプールバーになり、ブティックのハウスマヌカンが登場する(普通のブティックでも普通のハウスマヌカンでもないが)1987年というバブル全盛の時期をハジキのジョーは昭和30年代を背負ったままそれを貫く。ハードボイルドである。そのハードボイルドを成立させているのが肩に乗せたメンドリの知世だろう。おそらくはオレが『ロジャー・ラビット』についての文章で書いているのと同じ理由だ。

 火浦功は文体というか文章のリズムが性にあってかなり好きな作家なのだが遅筆のためか寡作だ。ハヤカワの『高飛びレイク』シリーズや角川の『ガルディーン』シリーズは永遠に続巻が出ないままなのだろうか?
 文章からはスラスラと書いているといった印象を受けるが、実際は一行一行一文字一文字を絞り出すように苦労して書いているのだろう。簡単そうに見える物ほど実は難しかったりするのだ。オレも難解な文章の方が書くのが楽だなと思うことがある。図書室に収録してあるエヴァンゲリオンの二次小説などを書くときには手元に火浦功の『ファイナル・セーラー・クエスト ひと夏の経験値』が置いてあった。文章につまってキーボードを打つ手が止まると『ひと夏の経験値』を読んでリズムを掴んではまた書き始める。そう考えるとオレは火浦功にお世話になっているのだ。

 ハードボイルドSF短編集『死に急ぐ奴らの街』も泣ける。『ニワトリはいつもハダシ』は絶版で古本屋でしか手に入らないが、『死に急ぐ奴らの街』は徳間デュアル文庫として2001年に復刊されたことがあるのでまだ入手が可能かも知れない。ただ、最初に徳間書店の新書版として発行されたときの表紙はハードボイルドしてて好きなのだが、デュアル文庫の方はアニメ風のイラストになっていてオレとしてはがっかり。本屋で見つけて「これは違うだろ!」と叫びたくなったものだ。でも結局は買ったのだが。

2007/10/21追記
 最近になってソノラマノベルズにて復刊された。なんと、雑誌掲載版と文庫化版の二作が丸々と収録されたいて、気になっていた台風ラストも読むことが出来る。
 元俳優で、今作の編集者だった高柳良一の解説も2007年版となっていて、そこではある驚くべき事実が記されている。まさか、そうだったとは!

『僕に踏まれた町と僕が踏まれた町』 中島らも PHP研究所
(現在入手できるのは集英社から出ている文庫版。リンク先はその文庫本の方である)

 2004年7月26日、泥酔状態で酒場から帰る途中の階段から転げ落ちて頭を打ち、脳挫傷となっていた中島らもが死亡した。
 オレは追悼の意味で本棚に並ぶ中島らもの著作をエッセイ・小説を問わずに片っ端から読んでいき、この『僕に踏まれた町と僕が踏まれた町』でついに泣いてしまった。オレにとって中島らもは大好きな物書きだったのだ。

『僕に踏まれた町と僕が踏まれた町』は中島らも本人の高校時代から始まり大学時代の途中までを描いたエッセイである。少年期の終わりから青年期の始まりまでと言い換えても良いだろう。
 始まってすぐに『O先生のこと』という文章がある。高校で漢文を教えていたO先生はどうやらアル中(アルコール依存症)らしく、いつも熟柿くさいにおいを漂わせている。
 中島らもが「なんとなく好きだった」というこのO先生はその後「ガスのホースを踏んで火が消えたのに気づかず、亡くなられた。水に映った月をとろうとしておぼれた李白の死に、似ていなくもない。」そうだ。
 ここを読んで悲しみと同時に悔しさがこみ上げてきて泣いた。
 おい、中島らも。勝手に死んでんじゃねーよ。まだこれからもっと面白い物を書いてくれるはずだったんじゃないのか。オレに読ませてくれるはずだったんじゃないのか。
 無頼な死に方だ、中島らもらしい最後だといった感想をいくつも目にしたがオレはそんなセンチメンタリズムやロマンなんか感じない。どんな死に方だろうと死とはただ単に死んだだけだ。他人のために命を投げ出した自己犠牲の死も、通り魔に刺された死も、病死も事故死もどれもこれも単に死だ。
 中島らもの死も「李白に似ていなくもない」がそれがどうしたというのだ。

『O先生のこと』は中島らもの死がなければ泣かなかった文章だ。『007/ワールド・イズ・ノット・イナフ』でQ(デスモンド・リュウェリン)が床下に消えていくのを観て泣いてしまうのと一緒でその作品+その人物の死によって泣いているのだ。
 そもそも泣くことは好きではないが、こういう泣くは特に嫌いだ。

『不眠症』(上・下) スティーヴン・キング 文藝春秋

 メイン州の街デリーにまたもや悪魔の手が伸びる。デリーが危機にさらされるのはこれで何度目だろうか?登場するある意味では主役的存在だがあまり住みたくない街だ。
 そのデリーでキング作品でお馴染みの善と悪との戦いが繰り広げられる。『IT』では子供たち(後半では成長した大人として再登場する)が悪と戦ったが、今回の主役は老人たち。不眠症に悩まされる老人たちにデリーを狙う悪の姿が見え始める。普通の人たちはその存在すら気付いていない悪に老人は挑むことになる。

 主人公ラルフは妻の死をきっかけに始まった不眠症に苦しんでいる。その描写がひょっとしたらキング自身も不眠症なのではないかと感じさせるリアリティを持っている。オレ自身も不眠症で医者から睡眠薬を処方してもらっており、作中で描かれている不眠症患者の精神状態や思考に「そうそう、そうなんだよな」とうなずいてしまった。
 ラルフは不眠症という個人的な問題だけではなく、良き隣人であったはずの若い男が自分の妻や幼い娘を虐待する事件に出くわし、そこから次第に悪の存在に近づいていく。

 善と悪との戦いというのは幾度となくキング作品に登場するし、それがキングのテーマだと考える人もいるが、オレはキングは完全なる善(神)も信じていなければ完全なる悪(悪魔)も信じていないんじゃないかと思っている。コンピュータRPGゲームの古典『Wizardry』のプレイヤーキャラは善と悪そして中立という3つの属性のうちどれかに属することになっているが、キングのキャラクターは基本的に中立で、それが時に善に揺れ時に悪に動いているのだろう。完全なる善人がいないのと同じ理由で完全なる悪人もいないのではないだろうか。
 キングの信仰心についての知識はないが、神もいなければ悪魔もいないがそれに近いモノはいるというのが作品から受ける印象だ。
 キングと比較されることの多いディーン・クーンツも善と悪との戦いについて書くことが多い。クーンツは神を信じているしそれと同じ理由で悪魔も信じているのではないかと思う。
 ただ、それぞれまったく逆の印象を受ける時もあるので、まぁオレはそんなふうに考えているといった程度のことだ。

 ラスト近く、「成すべきことを成す」「片を付ける」、そのことが自分の命よりも重要という静かなシーンで泣いた。9月22日に紹介した『俺たちには今日がある』もそうだったが、どうやらオレはそのシチュエーションに弱いらしい。ただそのシチュエーションは「自己犠牲」とは断じて違う。

 上巻の帯には「キング近年の最高傑作、ここに開幕」とあるが、近年の最高傑作はちと言い過ぎだろう。面白いのは確かだが普通のキング作品だ。もちろんキング作品の普通という基準は他の作家の普通より高いところにはあるだろう。
 上巻297ページの「テレビの犯罪特集や、ジャン=クロード・ヴァンダムが主演する映画と同じくらい嘘っぽいものだ」という表現にはその的確さに納得すると共に大笑いしてしまった。これがシュワルツェネッガーやスティーヴン・セガール、あるいはチャック・ノリスだと「嘘っぽい」が薄れてしまう。映画の内容だけではなくヴァンダムのどこか戯画的な部分、それがこの表現にぴったりだ。
 でも、そこがヴァンダムの魅力でもあると付け加えておこう。

 お薦めしたい作品ではあるが、上下2巻のハードカバーでそれぞれ3150円という価格が大きなネックだ。上巻だけ、あるいは下巻だけを買う人はいないだろうから両巻とも買うとなると合計6300円の出費になる。それだけの価値はあるのだが、普通はちょっと迷ってしまうだろう。
 早いところ文庫本でも出して欲しいものだ。全4巻で合計3200円ぐらいにはなってくれるだろう。

『復活の日』 小松左京 ハルキ文庫

 深作欣二監督、草刈正雄主演で1980年に映画化もされた小松左京のディザスターSF小説。
 人類を滅亡の間際まで追い込むのは兵器として開発されたMM-88菌という細菌である。ある事件によって研究所から外部へと漏れてしまったMM-88は風邪やインフルエンザに似た症状を見せた後、短時間で急死する。養鶏場のニワトリが大量に死に、そのため卵の値段が上がったという昨年の鳥インフルエンザ騒動が思い出される描写がある。しかもワクチン開発に卵が欠かせないためMM-88への対応が遅れて手に負えなくなるという怖さ。
 そして人類のほとんどが死に絶え、わずかに残ったのはあまりの寒さのためさすがのMM-88も到達できなかった南極の各国基地にいた1万人ばかりの人々のみ。
 その彼らに人類が残した核兵器がさらなる危機として迫ってくる。このまま人類は自らが犯した過ちによって滅びてしまうのか・・・

 日本を沈めた小松左京が今度は世界人類を滅ぼそうとする。多大な資料を基にして緻密に作り込まれた設定が圧巻だ。
 主人公は昭和基地所属の吉住ら南極に残された人々だが、物語の大半は南極以外で進んでいく。MM-88で死に絶えていく世界についての描写は淡々と出来事が述べられていく静けさで、それが逆にて恐怖を感じさせる。

 物語のラスト近く、仲間に会うために吉住は丸6年をかけてワシントンから南米大陸の南端までたどり着く。中性子爆弾の後遺症で知能の多くを失っていても一種の本能だけに頼って南を目指す。
 ここが泣ける。心理描写などはなくただ気がふれた男が旅する様子が書かれているだけなのだが、だからこそ泣けるのかも知れない。その後に用意されている再会の場面よりもよほど胸を打つ。最初に読んだのが中学生の時でこの時すでに泣いた。今回読み返してみてもやっぱり泣いた。
 小説ではたったの2ページなのに、映画だと「これでもかぁ!」とばかりに延々と続くシーンになっていた。小説と映画では物語を語る文法自体が違うのは確かだし、映画に追加された教会での死者やキリスト像との語らいはそれなりに面白かったが、泣ける2ページを退屈な10分(ぐらいあったような気がするが実際にはもう少し短いかも)にしてしまっている部分だけを見てもやはり映画版『復活の日』は凡作なのだろう。素晴らしい南極ロケで撮ったシーンも「せっかく撮影したフィルムなんだからカットしたら損だ」とばかりに無駄に使われすぎていて冗長だった。あの映画は編集次第でもっと面白くなるだろう。やっぱり映画の肝はは編集だというのがオレの持論。
 映画を観て退屈だと小説の方は読んでいない人がいたら一読をお勧めする。昭和39年(1964年)の作品だが40年前という古さを感じさせない。それどころか細菌兵器がより現実的な危機として存在する現代においてはより衝撃的かもしれない。

『俺たちには今日がある』 トニー・ケンリック 角川文庫

『俺たちには今日がある』という邦題はなにやらアメリカン・ニューシネマっぽくて嫌な感じだが原題は『TWO LUCKY PEOPLE』。『2人の幸運な人』のタイトル前半通り2人の男女が主人公なのだが出会った時点で2人とも不治の病に冒され余命はわずか1ヶ月。はてさてどこが幸運なのか?

『三人のイカれる男』など痛快犯罪ギャグ小説で知られるトニー・ケンリックの作品。中期以降はシリアス路線を書き始めて『上海サプライズ』などを手がけている。タイトルを聞いて思い当たる人もいるかもしれないが、当時結婚していたショーン・ペンとマドンナ主演の『上海サプライズ』(1986)の原作だ。せっかくトニー・ケンリック作品が映画化されたのによりによってあの映画ってのは世の中厳しいな。映画館まで観に行っちゃったよ。
 オレが持っているのは1986年1月30日発行の第3版。初版は1985年2月10日でおそらくすでに絶版。大量に売れたという小説ではないだろうから古書店に出回っている数もそれほど多くはないだろう。
 もしも「読んでみたい」と思ってくれた人がいたとしてもなかなか読む機会がないのが残念。『リリアンと悪党ども』など3冊が1998年に復刊されているが、角川書店には残りのトニー・ケンリック作品の復刊もお願いしたい。それから未訳作品の出版も頼む。

 主人公ハリーはある奇病に罹ってしまった。治療法はなくおよそ1ヶ月後には死ぬと医者の保証付きだ。
 医者は同じ境遇の相手と話せばお互いに少しは楽になるのではないかとグレースという女性を紹介する。そうして出会った2人はふとしたことから関わってしまったギャングのボスを倒すことで自分たちが生きた証を世の中に残すことにする。
 しかし、2人には銃や力があるわけではない。そこである特別な才能を持った人々を集めることにする。その人々とは世界最低の料理人に世界最低の運転手、世界最低の競走馬など世にも最低な面々ばかり。いったい2人が思いついた奇想天外な作戦とはいかに?

 ついにギャングのボスであるジョン・コリノスを追いつめた2人だが、このままコリノスを見逃すか、警察よりも数十秒ばかり早くエレベーターで上がってくるコリノスの手下に殺されるかという選択を迫られる。2人はためらわずに片方を選ぶ。
 そしてシーンは変わり、悲しげな顔の牧師が聖書を読んでいる。
「主はわが羊飼い、わが導き手。主によりてわれ?」
 だがその後ろで流れる曲は物語の冒頭近くでも使われたレゲエミュージック。
「おれは行くんだトリニダッドへ
 死ぬほど欲しい太陽あびに
 ヘイ、ブラウンシュガー、レゲエで踊ろう
 楽しまなけりゃ人生じゃない・・・・・・」

 このラスト1ページが泣ける。
 まさかトニー・ケンリックで泣くことになるとは思ってもみなかったが、今回読み直してみてやっぱり泣いた。
 うん、やっぱり復刊してよ角川書店さん。

『BATTLEフィールド Code.4楽園のあちら側』 『BATTLEフィールド』収録 島本和彦 ビッグコミックス

『BATTLEフィールド』は島本和彦の戦記短編集。第二次大戦のヨーロッパ戦線が舞台で陸軍物がほとんどだ。
 短編が9話収録されていてどれも力作揃い。『Code.2愛しのティディーベア』もぐっとくるが、4話目の『Code.4楽園のあちら側』でオレは泣いた。

 ノルマンディー上陸作戦から1ヶ月後、ドイツ軍の反撃により撤退中の連合軍兵士が主人公。背後には冷酷なレジスタンス狩りで名を馳せた「白い狼」と呼ばれるドイツ軍将校の部隊が迫っている。
 連合軍兵士たちは廃墟と化した街に逃げ込む。人っ子1人いないと思われた街に破壊されないままの公園があり、バラ園で作られた迷路の中央には遊具が置かれた小さな遊園地があった。そして、そこには老人たちだけがいつか帰ってくる家族を待ちながら平和に暮らしていた。
 食事などを振る舞われた連合軍兵士たちは、撤退中にもかかわらず壊れた遊具を修理する。メリーゴーラウンドだけは修理できなかったが、とても喜んだ老人たちは「永遠の友人、偉大なるアメリカ兵万歳!」の立て札を立てる。
 そして再び撤退を始める連合軍兵士は老人たちにも一緒に来るようにすすめる。このまま街にとどまっては、すぐそこに迫っている「白い狼」が攻め入ってきて皆殺しにされるのは間違いない。
 しかし、老人たちは実は子供や孫たちなどの家族はすでに戦争で死んで、生き残っているのは自分たちだけだと告げ、街に残ることになる。
 都合してもらったトラックで街から遠ざかりながら、兵士たちは幻の街『リップ=バン=ウィンクルの村』の伝説を思い出す。

 さらに1ヶ月後、勢いを取り戻した連合軍はドイツ軍を圧倒しながら再び前進を始める。
 白い狼によって徹底的に破壊された街。だが、その白い狼もレジスタンスの仕掛けた爆弾ですでに命を落としている。街へと戻った兵士たちは悲惨な光景を予想しながら遊園地へと向かうが、そこで奇跡を目にする。

「永遠の友人・・・我らのメリーゴーラウンドを修理した・・・・・・偉大・・・なるドイツ人へ・・・か。」

 冷酷にレジスタンスを処刑していった白い狼にも人間の心があった。いや、戦争によって彼は「白い狼」になってしまったので、もしも戦争がなければ1人の人間、一市民として生涯を全うしたことだろう。
 ドイツ軍人だから、あるいは日本軍人だから悪なのではない。戦争が悪なのだ、戦争が人を邪悪にするのだ。などと感じさせる作品だった。
 ただ立ち尽くすだけの主人公たちにオレは涙した。
 島本和彦は男を描かせたら、「漢と書いてオトコと読む」とか「本気と書いてマジと読む」といったオレに言わせればインチキなオトコではなく真の男を書かせたらまさしく一流である。

 今回で「オレだってたまには泣く」コミック編は終了。次回から音楽編に入る。

『かってに改蔵 最終話:ずっと、いっしょだよ。』最終巻第26巻収録 久米田康治 少年サンデーコミックス

 サンデーを立ち読みしていて連載中の『かってに改蔵』を見つけ、毎週水曜日になるとコンビニで立ち読みしていた。そしてしばらくして、『かってに改蔵』目当てで少年サンデーを買うようになり、コミックスも新刊が出る度に買って揃えていった。
 そして作品は問題作とも言われる最終回を迎えた。

「妄想オチかよ」
「精神病院ネタかよ」
 といった具合で、サンデー掲載時の最終回はいかにもだなという感じで特に評価しなかった。
 そして少々日は流れ、最終巻26巻が発売された。さっそく買って帰ったオレは26巻だけではなく、第1巻から順に全26冊を読んでいった。
 そして、最終話『ずっと、いっしょだよ。』で泣いた。

 最終話までに語られてきたこと全てが妄想で、それによって改蔵と羽美は精神の安定を取り戻し社会復帰を遂げた。
 入院中にずっと自分が着たい服のイラストを描き続けていた羽美に、作中ではクラスメイトなどを演じていた看護婦がイラストに似た服を探してきて羽美にプレゼントする。
「今度こそ 本当に着れたね 羽美ちゃん。」
辺りから涙腺が刺激され始める。
部長の「2人に幸あれ」からウルウルし始め、ラストの砂浜を歩く改蔵と羽美。
「この海の向こうには
もっともっと大きな世界が広がっているんだ」
で泣く。

 最終話『ずっと、いっしょだよ。』だけ読んでもオレは泣けない。第1話からの積み重ねがあって始めて最終話で泣けるのだ。そのためには全26冊を読まねばいけないわけだが、これは本来のあり方だろう。どの時点でこの最終回にすると決定したのかはわからないが、ある一点を目指して積み上げていってそのように物語を構築した、絶対そうだとは言い切れないが緻密な計算に基づく『ずっと、いっしょだよ。』なのだ。

 単行本だとその後ろに『大蛇足』というおまけの1話が収録されていて、それが『ずっと、いっしょだよ。』の感動をぶち壊しにしていてそれがうれしい。おそらく、感動したままで終わらせてしまうことが久米田氏にとってこっ恥ずかしくてしょうがなく、照れ隠しの意味もあって書かれたのだろう。

『パタリロ! 第38話 FLY ME TO THE MOON』第10巻収録 魔夜峰央 花とゆめCOMICS

 8月26日のエントリに書いてあるが、中期出張で自宅を離れていたオレはプライベートなネット関係の作業をするためインターネットマンガ喫茶を利用していた。
 そして、ネット以外に何作かコミックを読んで過ごした。数日に分けてパタリロシリーズを一気読みしてしまった。
 そして第10巻収録の第38話『FLY ME TO THE MOON』で泣いた。
 パーティションで囲まれた個人スペースの狭苦しさにはうんざりしていたが、この時ばかりはその壁がありがたかった。ボロボロ涙を流している姿を人前にさらしたくはない。

「また白泉社かよ」
「また花とゆめコミックスかよ」
「しかもパタリロ!かよ」
という声もあるだろう。
 だが、この文章を書くためにサブタイトルや収録巻を調べると、この『FLY ME TO THE MOON』は名作・傑作・感動作として評価が高い。泣いた人も数多いようだ。

 マリネラの少年ロビーは宇宙飛行士になる夢を持ってマリネラの植物園で働いている。
 そんな彼が他の生き物の傷や病気を治す力を持っていることを発見したパタリロは「マリネラでロケットを作ってお前を宇宙飛行士にしてやるから」と言いくるめてその力で不治の病に冒された人などをを治療しては多額の謝礼を得て金儲けをする。
 しかし、ロビーが体調を崩して倒れたため治療作業は中止。だが、治療を待つ長い行列の先頭にいたのがバンコランだった。バンコランの依頼は死にかけている枢機卿を救うこと。この枢機卿は戦いを続ける敵国同士を和平に導き、近いうちに休戦となるはずだった。この人物が亡くなっては再び戦いが始まり多くの人が命を落とすことになる。
 枢機卿のもとへと治療に向かうが、ロビーの力は相手を単に治すのではなくロビー自身の生命力を分け与えているだけだったのが判明する。ロビーの生命力をこれ以上分け与えると彼自身の命が尽きてしまう。

 ここでパタリロはロビーを救いたいという人間としての感情と(もっとも、人間としてのまともな感情がパタリロにあるのかはちょっとばかり疑問だが)、マリネラの国王としてそして一国の元首が世界に対して取るべき責任と、どちらを選ぶかの選択を迫られる。
 自国民にして友人でもあったロビーと、見も知らぬ他国の数多くの人々。
 そしてパタリロは苦渋の、まさしく苦渋の決断を下す。

 最後、パタリロに謝罪か慰めか、あるいはその両方の言葉を伝えようとしたバンコランの手を「さわるな」と拒絶してパタリロは去る。
 そして

「その日パタリロは生まれてはじめて心の底から泣きました」

とナレーションが伝え、パタリロは1人っきりで泣いている。
 王というのは特権階級である。贅沢で優雅な暮らしもできる。そしてその特権を持つ者は重く大きな義務も背負わなければならない。パタリロはその義務を背負うことを選んだ。
 バンコランを拒絶したのはロビーに関する義務と責任は国王であるパタリロ1人で背負わなければならなかったからだ。王とは民の頂点でそして孤独である。臣下や国民の前で王は泣くことを許されない。だからパタリロは1人で泣くのだ。

 でもってオレも涙がダーッ。涙ぐむだけではなく、これでもかってぐらいダーッ。
 クリント・イーストウッドの『スペース・カウボーイ』(2000)で『FLY ME TO THE MOON』が冒頭とラストに2回流れるが、それとほぼ同じ意味で使われているサブタイトル『FLY ME TO THE MOON』にダーッ。

 それにしても、第10巻収録で“初期”の『パタリロ!』ってのもすごい話だ。どれだけ続いてんだよ。21世紀になってもパタリロが続いているとは思わなかったぞ。
 スカイパーフェクTV!のAT-Xでアニメ『パタリロ!』(1982?83)の放映が始まった。スターチャンネルなど映画のチャンネルはいくつか加入しいてたが思わずAT-Xも契約してしまった。
 まぁ月?金の週5話放映で全49話だから受信するにしても3ヶ月ぐらい。放映が終了したら即解約になるだろう。

『オトナになる方法 10巻(最終巻)』 山田南平 花とゆめCOMICS

 2002年の3月から3ヶ月ほど入院していたのだが、その時に病院の図書室でシリーズ第1巻の『130センチのダンディ』を手に取った。
 女子高生の久美子が小学生の真吾を好きになってしまう「おいおい、それは無茶だろう」な設定だが、全15巻と冊数が多めで時間をもてあましているオレはそのまま読み続けた。

 年齢設定はちょっと変わっているが、基本的にはそれなりに普通な恋愛物、青春物だ。それなりに楽しみながら読み進んだ。
 途中で真吾がカート(ゴーカートでやるレース)に手を出したり、パリに旅行に行ったりと「何でだよ」とツッコミながら読む。
 パリの夜道で久美子がハンドバックを引ったくられた時、真吾が犯人を追いかけていって捕まえようとするシーンがあるが、こいつは真似しちゃダメだ。パリは意外と治安が悪い。そんな街の夜道をタクシーも使わずに歩くのが悪い。引ったくられたらあきらめろ。追いかけていってナイフで刺されたり、銃で撃たれたり、足の裏をくすぐられたり、まるで似ていない似顔絵を描かれて「オゥ、とっても似ているデース」と言い張られても知らんぞ。なんてったって相手はパリジャンだから油断はできん。

 まあ全体的には「ふーん少女マンガだなぁ」だったのだが、ラストのオトナになって教師になった久美子と大学生になった真吾のエピソードでぐっときた。これまで登場したキャラクターたちがどうなっていったかというドラマとそしてこれから先の人生まで感じさせる。
そしてラスト4ページでの久美子のモノローグ
「2人ですごした10年間が あっという間にすぎたような とても遠まわりをしたような」
から
「わたしたちは 歩いてゆけるのだと思います」
で泣いた。
1ページを全部使った最後のコマで泣いた。

 この作品に関しては入院していた時に読んだからその時の精神状態もあって泣いたというのもある。
『銀のロマンティック・・・わはは』や『1+1=0』は今読み返しても泣くが、『オトナになる方法』で泣いたのは最初に読んだ1回だけだ。それ以降は読んでもじーんとくるぐらい。でも、オレをじーんと来させる作品ってのも少ない。結局、退院後にコミックスは全巻揃えてしまった。

 こうしてまずは3作品を並べてみると、オレは
「花とゆめ系列」の「後日談」に弱いのではないかという推測ができる。
 少女マンガはほとんど読まないのだが、その数少ない作品が当たりというのは偶然なのか必然なのか。
 山田南平の『紅茶王子』も途中まで読んでみたが、7?8巻目辺りで挫折した。やっぱ丸々っと少女マンガはちときついわ。

『1+1=0 いちたすいちはれい』 桑田乃梨子 花とゆめCOMICS

『おそろしくて言えない』が新刊コミックとして出た頃から桑田乃梨子のファンになって、その後もずっと買い続けている。引っ越しやらで古いコミックスを手放したこともあったが、後に古本や回りをして買いそろえた。オレが全作品(多分)を持っているマンガ家は桑田乃梨子と竹本泉ぐらいだ。

『1+1=0』の主人公である石綿(この所、大きくマイナスイメージな苗字だな)は幽霊などを日常的に見てしまう優れた心霊能力を持っている。しかし、その能力が役に立ったこともなく、平凡に暮らしたい石綿にとってはむしろ邪魔に感じている。
 そこへ転校生として苑田という少年が転校生として現れる。ハッタリ屋だがカリスマ性を持つ苑田は「世界を支配する」という壮大な夢を持っている。世界のトップを占星術師や預言者として影から操るつもりなのだが、肝心の霊能力はまったくもっていない。
 心霊研究会唯一の部員で見た目は心霊少女だがこれまた霊能力の欠片もない少女、御簾津みずほが苑田を心霊研に誘い、石綿は霊能力を持っていることが二人にバレてしまい、そのままうやむやのうちに心霊研入り。
 みずほには姉がいたが事故で死んでしまい今ではみずほの守護霊になっている。その“みずえ”に石綿は惚れてしまう。現世の人間と幽霊との恋愛は成立するのか?
 山での合宿や学園祭での降霊術などの定番?なイベントが続く中、石綿とみずえは愛を深めていく。しかし、みずえの守護霊としての役目が終わり再び生まれ変わる準備のため成仏する日がやってくるのだった・・・

 ちょっと意外なみずえの転生先や、自らの能力はみずえと出会うためにあったのだと気付く石綿(陶酔しきったそのセリフを聞いて「ざー」と呆れかえっている苑田とみずほの二人がまた良い)になかなかジーンときながら物語は終わる。
 ここまでだと「ジーン・・・」だけだったのだが、巻末にあるおまけまんが『12years after』のラスト1ページで泣いた。もうこれでもかってぐらい泣いた。
 物語の終盤、石綿とみずえの別れのシーンを再現させて、でもって泣いている石綿の姿は見せない。上手い。少女マンガだがオレの涙は男泣きだった。
 あくまでもおまけまんがで本編なくしてはなりたたないし、たったの4ページだ。だがこのおまけまんがの存在によって『1+1=0』はオレを泣かせた数少ない作品となり、オレ的傑作としてこれから先もずっと本棚に置かれることとなった。

 もしも『1+1=0』を映画化したら、エンディングクレジット後にこの『12years after』を入れたい。でもって観客は泣く。ただ、エンディングクレジットが始まると帰りやがる客が多いので冒頭に「最後まで座ってろ」とアナウンスしておかなけりゃダメか。

『銀のロマンティック・・・わはは』川原泉 白泉社文庫『甲子園の空に笑え!』収録

 なにかしらの作品で泣くということはほとんどないオレだが、たまには泣くこともある。
 そんな、オレを泣かせた作品をしばらくの間紹介していくことにしよう。
 普段の一人称は私だが、「泣く」関係では日常で使っているオレで通すことにする。

 まず一作品目が白泉社文庫『甲子園の空に笑え!』に収録された川原泉の長編『銀のロマンティック・・・わはは』である。
 お世辞にも上手いとは言えない絵、怒濤のごときセリフや解説の多さ。時に難解で哲学的なシーンとそれに溺れず照れ隠す客観性。川原作品は実に独自独特である。
 始めて『銀のロマンティック・・・わはは』を読んだのはコミックスで出ていた頃、まだ10代の高校生時代のはずだ。さすがに自分で買って読んだのではなく、3歳上の姉が持っていたのを借りて読んだ。
 でもって、泣いた。

 世界的バレエダンサーの娘である由良(聖ミカエル学園の高校生。お嬢様学校として有名だが由良はとてもじゃないがお嬢様的性格ではない)と、怪我でスピードスケート選手として活躍することができなくなった男子大学生の忍がスケート場で偶然に出会う。遊びで3回転ジャンプに挑戦したところ二人ともやすやすと3回転半のトリプルアクセルジャンプを跳ぶ。そしてそれをたまたま居合わせたフィギュアスケートのコーチに見いだされ、二人はフィギュアスケートの世界に入っていくことになる。
 これだけ書くとあまりにも偶然続きでいかにもな少女マンガに思えるが、なにしろ川原泉なので脱力感に満ちあふれていて好みは分かれるだろうがオレとしてはそこが良い。
 フィギュアスケートを始めた二人は日本のトップとなり世界に挑んでいき、そして世界の壁の厚さに圧倒される。技の冴えは申し分ないのだが、フィギュアにおいて重要な表現力に欠けているのだ。
 そして悩んだ二人は決め技として4回転ジャンプ・クワドラプルを習得しようと試み、犬のポチの協力もあってついには成功率50%程度だがクワドラプルができるようになる。しかし、忍がスピードスケート時代に負った怪我が再発し・・・

 終盤、もうこれが最後のペアスケートと知りつつスケートリンクの上に登場する二人。
 これまであった力みも消え、ただ楽しく滑る。ある意味悟りに達した二人はリンクで銀のロマンティックを織る。

アナウンサーと解説の
「それに何よりも表情がいいです。実にいい顔で滑ってます」
「なるほど・・・」
「え・・・も・・・もしかして本当に笑ってません?」
「・・・・・」
からクワドラプルへ、結果は分からないまま後日談になり最後のコマの
「テクニカル・メリット 6.0 6.0 6.0 6.0 ・・・」
「アーティスティック・インプレッション 6.0 6.0 6.0 ・・・」
「?夢見たものは 夢見たものは銀のロマンティック」
「・・・そしてまぶしくて まぶしくて もう何も 見えない・・・・・・」

に至る8ページの間、もう涙がだだ漏れ。
最初に読んだときから、この文章を書くために読み直した今日まで、読む度に毎回泣いている。よほどオレの心の奥にある涙の元栓に触れると見える。

 インターネットマンガ喫茶で『パタリロ』を見つけたわたしは、「うわー懐かしいな」とついつい78巻まで深夜から早朝までの間に一気読みしてしまった。
 しかも『パタリロ西遊記』全8巻と『パタリロ源氏物語』1,2巻、『家政夫パタリロ』の都合89巻一気読み。アホかわたしは。
 まだ『パタリロ』本編の連載が続いているとは知らなかった。連載当初のパタリロは4頭身ぐらいでどうも気味が悪い。だがギャグ自体のレベルはさほど変化しておらず、これを25年以上続けていられるというのはすごい。
 普通は作者が飽きるか編集が打ち切りにするか・・・いやいや、よほど根強いファンと作者のノリと根気と遊び心がなければ続く物じゃない。
 昔一度一般地上波でアニメになったんだな?。主人公はへちゃむくれのつぶれ大福、さらに男性同士の美少年愛があるのによく企画が通った物だ。いまだと地上波は無理だろう。女性同士の美少女愛物ならOKなようだが。
「だーれが殺したクックロビン」のクック・ロビン音頭ってフルバージョンどんな歌詞だったっけ?

 作者の魔夜峰央氏にはペンを握れる内は書き続けて欲しい。
 そういえば、映画はどーしようもないクソ映画だった『Vマドンナ大戦争』のコミカライズは魔夜氏が担当しているんだよな。あれはすさまじい映画だったな?(遠い目)。監督や脚本家が目の前に現れて、手にMac10を持っていたら至近距離からフルオートで全弾乱射してやるのに。

 映画バカ黙示録の更新やサイトの巡回にインターネットマンガ喫茶を利用していることについてはすでに書いた。
 使っているネット喫茶は1時間単位なので、巡回が終わった後はマンガを読んでいる。
 今日読んだのが柴田亜美著の「南国少年パプワくん」だった。お気楽なギャグマンガだろうと気楽に読み出したこの作品で、泣くことになるとはまさか思ってもみなかった。
 かなーり堅めなわたしの涙腺を破壊したのは第6巻50?51ページのパプワとシンタローのやり取り。
「年を取るほど弱くなるなんて、泣きたいことばかりだなんて知らなかった」と叫ぶシンタローに、パプワは答える。

「ぼくはじいちゃんが死んだとき泣けなかった。友達(100年幼虫のままだったセミ)が死んだ時も、恋人が帰った時も泣かなかった」
「だけどシンタローが島を出て行く時、ぼくは泣いていたんだと思う!」
そして力強く一言。

「ぼくは強くなったぞ シンタロー」

 いやーもう、お兄さん涙がダダ漏れですよ。ダダっていうと初代「ウルトラマン」に出てきた変身する横線がトレードマークのあの宇宙人か。それはダダだった、などとしょうもないことをいってごまかしたくなるような涙の滂沱。
 弱くなったから泣くのではなく、人は泣く度にその涙の分だけ強くなる。このシーンがめちゃめちゃ格好いい。
 1995年1月22日初版の作品と10年前の作品なので今更でしょうが、出会ったのが今日なのだからしょうがない。終盤は人間関係がごちゃごちゃで整理しきれずに破綻しかかってるが、「それはそれ、これはこれ」だ。

 それにしても、やはり作り手が泣かせよう泣かせようと考えているのが見え見えな作品は、観たり読んだりしても醒めるだけで涙腺はサハラ砂漠のど真ん中のように乾いたままだが、油断しているところにドンとこられると防御も何もしていない状態の脳みそにクリティカルヒットするねぇ。
 半月ほど前には川原泉の「銀のロマンティック・・・わはは」の文庫本を久しぶりに読んで、ラストの主人公たちが笑い出す辺りから泣いてしまった。「銀のロマンティック・・・わはは」初めて読んだのはもう20年近く前だが、読むたびに泣いている。
 ここ一ヶ月ほどの内に二度も泣いているわけで、最近は涙もろくなったということだろうか。あー、この間桑田乃梨子の「1+1=0」の巻末おまけマンガで泣いたから三度か。年を取ったのか?うむむ。

 4巻が出たきりそのままになっていた古賀亮一のコミック『ゲノム』新刊がようやくと発売になりました。
 タイトルは『新ゲノム』第1巻となっていますが、第1話の一コマ目で「先月号からえらい急展開でステキですね」というセリフがあるので連載が変更になったとかではなく、何かの都合で『新』がついたのでしょう。
 5巻がなかなか出ないので、最終回になってたのかなと思ってました。ほら、連載誌は18歳未満禁止の成年コミック誌ですから、わたしの場合はまだ買っちゃいけないんですよね。まぁ、いつもの嘘ですが。
 内容の方もそのままで、エルエルやパクマンが繰り広げるギャグと昆虫などの生物の知識の両方が楽しめる学習コミックになっています。『えびボクサー』(2002)という映画で巨大なシャコがボクシングで人間と対決していましたが、シャコは本当に前足のパンチが強烈なんですね。勉強になります。

『よみきりもの』第8巻

 初版が05年3月9日だからちょっと新刊と呼ぶには時季外れだが、まあ新刊ってことでいいでしょ。我ながらいい加減だな、おい。
 竹本泉氏はどうやらかなりあきっぽい人らしく、一つ連載を長く続けるのが苦手なようだ。
 主人公の少女が落雷のショックで時空転移体質になってしまい毎回異なる異世界をテンテンとする『さよりなパラレル』(全4巻)や、主人公の少女が様々な衣装を着るとその人物になりきってしまい毎回性格が変わる『しましま曜日』(全2巻)、主人公が3人いて毎回ヘンテコな依頼を受けてはあちこちに単独あるいは複数で出かけていく『てきぱきワーキンラブ』(全6巻)、そしてグラマーな女スパイが宇宙を股にかけて活躍(?)する『トランジスタにヴィーナス』で全7巻。1話毎にかなり変化のある連載でも7巻がこれまでの記録だった。そしてそれをついに破ったのがこの『よみきりもの』だ。
 でもタイトルで読み切りと言い切っているように、毎回主人公も舞台も変わる短編集だから、これを記録更新と言って良いのやらいかんのやら。作者自身も冒頭のカラーおまけマンガで登場人物から「全部よみきりなのにひとつのシリーズだって言い張るのインチキくさくない?」って言わせているし。でもまあいいでしょう、わたしが許す。どこの誰ともわからん男が許したからってどうなるわけでもないですが。
 読み切りなので当然ですが毎回設定は変わります。かなーりヘンテコなのからちょっとヘンテコなのまで。ヘンテコですが呑気な日常生活。読んでハマるとやめられません。
 嫌味のないオーソドックスな絵ですし、のんびりとしたストーリーも魅力です。わたしとしてはお勧め。うじゃ。

『セーラー服をあなたに…』

 竹本泉氏が原画を担当したカードゲームです。その筋では有名な実在する女子高生の制服を揃えたとのことですが、わたしは特に制服に思い入れがあるわけでもなし、これを一緒に遊んでくれそうな知人も・・・心当たりがないわけでもないですがわたし自身がちょっと抵抗あるし。
 竹本氏の描いたイラストカードだと考えれば良いんでしょうが、カードに書かれた絵は目が小さめでどちらかというと竹本色が薄くて心が動かないんですよ。イメージとしてはシリアス系を描いているときの吾妻ひでおっぽい絵です。
 結局、キャビネットの中で眠ってます。ちょっと残念な買い物でした。でも、ファンならば買わねば。

『てけてけマイハート』第4巻

 これまた竹本泉氏の新刊。3巻のラストでいきなり“のぞみ”と“吉田くん”が結婚したので「ああ、打ち切りか何かで最終回なんだろうなぁ。4コマ漫画誌の『まんがライフ』で連載しているのに全然4コマじゃないもんなぁ。それにしても『まんがなんたら』って何誌もあってどの雑誌なのかわからないので単行本待ちなんだが、それも終わりか」と思っていたらまだ連載中ということで続刊が出ました。
 大人ななのに中学生にしか見えないのぞみがついに主婦生活です。でも、竹本氏の絵だとあまり大人も青少年も差がないような・・・お年寄りはさすがに分かりますが。
 結婚したはずなのにほとんど変わりない生活。いいのかなぁ。まぁいいか。
 これという大きな事件もないけどちょっと変わった日常が魅力です。

 竹本泉氏の著作を読み始めたのは、高校時代に友人Hに「なんか面白い本があったら貸して」と頼んだところ『あおいちゃんパニック』全三巻を渡されたのがきっかけ。
 なんで男子高校生が『なかよし』コミックスを読まねばならんのだ。Hは何を考え取るんだとブツブツ言いながら読み始めて、翌日には自分用のを買ってました。あとはコミックスを買って、ゲームを買って、CDも買って。ある意味貢ぎ生活。出会いはどこにあるか分からないということでしょうか。

『さくらの境』
 竹本泉氏の新刊。『トランジスタにヴィーナス』が終了したので、てっきりコミックフラッパーは廃刊になったと思ったらまだあったんだ。でも、書店で見かけたことないよ?。まあ、コミック雑誌のコーナーはほとんど素通りなんだけどさ。
 両親がブラジルに転勤してしまい、翻訳家をやっている叔母の家に居候になるが、こんどはその叔母が「現地に行かないとこれか書けん」とこれまたヨーロッパに。
 大きな家に10匹の猫と暮らすハメになったさくらを一人にしてはおけないと、近所の一子、二子の上桜姉妹が同居することになる。
 さてこれから果たして、どうなることやら・・・っていうとあまりどうにもならない。
女の子三人と猫10匹の日常が良い意味でだらだらと描き語られる。しっかり者な二子の甘えのツボを押してしまったばかりにさくらは二子にベタベタ甘えられることになるが、それで別に禁断の世界に行くわけでもなく、ひたすらのったらのったら。
 読み終わるとのほほんのほほんとしている自分に気付くはずです。

 『タイタニックを引き揚げろ(レイズ・ザ・タイタニック)』の映画化が悲惨な出来だったために、人気はありながらもずっと映像化されないでいたクライブ・カッスラーの『ダーク・ピット』シリーズ。それが25年の月日を経てついに久々の映画化。今回はニジェール川とサハラ砂漠が舞台の『死のサハラを脱出せよ』新潮文庫刊だ。
 ダーク・ピット物は6作ほど読んでいたが、『死のサハラ』はまだだったので映画の前に読んでおこうと購入した。もっとも、映画館まで観に行くかは未定なのだが。
 主人公ダーク・ピットの超人的活躍はいつものこと。地の文でやたらとダーク・ピットを始めとした主人公側の人物を褒め称えるのもいつものこと。クライブ・カッスラーという名の男がピットを助ける役回りとしてちょこっと登場するのもいつものこと。ちなみにクライブ・カッスラーとは作者と同じ名前で、どうやら本人をモデルにしているらしい。毎回役柄が違うので別人物ではあって一種のパラレルワールド的存在。あのなぁオッさんとツッコみたくなるが、まあ自分をおいしい役で作中に登場させてしまうその気持ちは分からなくもない。
 主なる舞台となるアフリカ北西部にあるマリ。このマリという国は政府は軍部によって操られている傀儡政権で、政治も軍も腐敗しきっており、軍を指揮する=国の最高権力者はフランスの大企業に買収されて地球を危機に陥れるような悪事を働いているという、ひたすらに堕落しきった最低な国として描かれている。
 でも、マリって実在の国じゃん・・・。そりゃ確かに色々と問題は抱えているようだが、この小説で書かれているようなある悪事はさすがにやってないだろ。フィクションだからといえばそれまでなんだが、せめて架空の国にするとかできなかったのだろうか。

橋本治という人はいったいどういう人なのだろうか。もしかすると、世界でまではいかないが日本で一番頭のいい人なのかも知れない。で、頭がいいものだから自分が頭がいい人と他人から思われない様にしている。うむむ、ともかく謎な人である。
頭がいいというのは勉強が出来るということを言っているのではない。もちろん東京大学文学部を卒業しているからにはたしかに世間で言うところの“頭のいい人”ではあるのだろうけど、重要なのは知識が豊富な所ではなく物事を理解しそれを人に伝える“頭のいい人”であるところだ。
わたしが初めて読んだ橋本治作品は『ふしぎとぼくらはなにをしたらよいかの殺人事件』である。東大卒の青年が殺人事件の解決を依頼されるというストーリーは推理小説のそれであるのだけれど、殺人が起ころうと死体が登場しようと断じて推理小説ではなく、当時バカ高校生だったわたしは「変な小説だなぁ。この橋本治という人は変な人なんだろうなぁ」と思っていた。その後、講談社文庫で出ていた『桃尻娘』シリーズも読み始めたが、こちらも変な小説だった。
もしそこで読むのを止めていたらわたしにとって橋本治とはそれほど意味を持つ作家ではなかっただろう。
だがわたしは読んでしまったのだ。『’89』を。それは1990年が終わり1991年が始まる頃、ちょうどこの時期のことだった。

当時わたしは高速道路のサービスエリアに設置されている道路情報表示端末のリアルタイムデータ作成をバイトでやっていた。
平日はその会社の社員がやっているのだが、土日祝日は会社が休みなため学生のわたしがバイトで雇われていたのだ。
「○○インターチェンジから○○インターチェンジまで工事のため渋滞」とか「○○付近が雪のため渋滞」などといった情報が1時間毎に道路交通センターからFAXで送られてくるのでそれを元に情報端末で表示される画面を必要な件数だけ製作し、モデムを使ってアップロードするのが仕事の内容だった。だからリアルタイムとは言っても1時間に一度のデータ更新で、さらにそのデータは1時間以上前の物という、考えてみれば役に立つんだか立たないんだかといった物だ。
1990年当時はまだWindowsやMacOSのようなGUIは一般的ではなく、画面製作はDOSで動作するPC-9801シリーズで行っていた。画面作成の仕事は今のパソコンならそれこそ10分もかからずに終わらせられるような内容だが、その道路情報作成用にどこかのソフトウェア会社が作ったソフトの操作性が悪く、さらにマウスもなかった作業環境では毎時10分頃にファックスが届き、そこから作業を開始してどうにか仕上げたデータファイルを締め切りである毎時0分までにアップロードし終わるのがやっとだった。
社員からはまったく白紙の状態から車や工事マークなどの図形を読み出して貼り付け、そこに文字を入力していくという方法で教わり、実際社員の人は平日その様に作業していたようだ。だが、手を抜くことに関しては知恵の回るわたしのこと、「工事中」とか「事故のため」「雪のため」などほとんどの場合同じような画面しか作っていないことに気づくと、それらをテンプレートとして保存しておいて、次からはそれを読み出しちょいちょいと変更して仕上げるようになった。ごくまれに新しい状況も起きるがその都度テンプレートに追加していけばいいだけのこと。作業自体に慣れたとういこともあるのだろうが、1ヶ月もしたら毎時10分頃にFAXが届くと30分頃にはすでにアップロードが完了する様になっていた。朝の9時から夜の7時までの労働時間10時間、これで時給1000円なので1日で10000円。最初は拘束時間が長い上に、4階建てのビルの中でたった一人で仕事をしなければならない孤独さでちょっとつらいものがあったが、結果としてなかなかおいしいバイトになった。
こうして実労働時間が1時間の内20分ほどになると、これはこれで暇である。やることがないので残りの40分は主に読書に使うことにした。月にバイト代が5?8万になるので、バイト代が出るとまず本屋に行き「あれにこれにそれ」と目に付いた本を次々カゴに入れていって1?2万円分ぐらいは買い込んでいた。
その買い込んだ中の一冊が『’89』だ。ようやくと『’89』に話が戻ってきた。
何故『’89』を買ったのか、今となっては憶えていない。白い紙の装丁にイラストなどはなく「’89」「橋本治」などと少量の文字だけが並んでいたので本の見た目で買ったのではないと思う。
1990年末から1991年年始にかけてバイト先の会社は正月休みに入る。だがもちろん道路交通情報は稼働させなければいけないのでだれかが出勤してその仕事をやらなければいけない。そこでわたしにお鉢が回ってきた。
「東森君、12月30日から1月3日までの5日間、バイトに入ってくれないかな。29日と4、5日はわたしがやるからさ」
担当者は電話でこう告げてきた。そのまま「うん」とは返答せず取引に入った。
「うーん、でも僕もですね、正月ぐらいは実家に戻りたいんですよ。ほら下宿してますから」
実家のある愛知県半田市から大学のある名古屋市天白区までは片道1.5?2時間ぐらいの距離なのだが、最初の1年で通学時間や混雑ぶりに根を上げて大学近くのアパートに住んでいたのだ。それを理由にいかにも断りたさそうな口調に変えた。
「じゃあさあ、特別手当を出すから」
「特別手当っていくらですか」
「1万円」
「1日1万円ですか」
「・・・5日で1万円」
「母親が正月ぐらい顔を見せろってうるさいんですよね。ほら古い人ですから」
「うーん・・・ちょっと社長に相談して電話折り返すわ」
何だかんだでその5日間は時給1500円ということで決着が付いた。正月休みだけで75,000円の収入。どうせ実家に帰っても雑煮を食ってゴロゴロしているだけだし、比較的近所なので普通の週末にでも簡単に帰れる。それよりかは金である。
だが、その正月中の仕事は金よりも『’89』との出会いの方がわたしの人生にとって重要だった。バイト時には時間をつぶすために本を持ち込んでいたのはさっき書いた通りだが、12月30日には『’89』(現在入手しやすいのは文庫版の上巻
下巻を持って職場に行った。分厚い本なのですぐに読み終わって時間が余ることがないだろうと言うのが理由だった。
そして読み始め、読み進み、読みふけった。
10時10分にはFAXが着信し始めたが、それを無視してそのまま『’89』を読み続けたいとまで思ったが、かすかに残っていた責任感が仕事に向かわせた。そして速攻で仕上げると再び読み始めた。
分厚いと思っていた本はその日の夕方には読み終わっていた。読みやすい文体で書かれていたというのはあるが、内容はびっしり詰まっている。もともと速読なところにわたしには珍しい集中力が速度アップにつながったのだ。
面白い。ワクワクする。分類としてはコラム・エッセイ・論評になるだろう。手塚治虫や美空ひばりの死は昭和の終わりと関係がある、そして松田優作が死んだことと中森明菜が自殺を図りながら死ななかったことも昭和の終わりと結びつく。昭和とか日本について、大人であるオジサンやオバサン、そして若者、男の子、女の子についても語られる。そしてそれら筆の進むまま無軌道に進んでいるに見えたこれらの文章が、ラストで実はとある一人の少年から届いた手紙への返答であったことが分かってくる辺りはもうエキサイティングである。
読み終えた後は、なんかこう頭がよくなって世の中の仕組みや人の考え方が分かるようになった感じがして、まるで自分が変わったように思えたものである。

もちろん、人間は一冊の本ぐらいで変わったりはしない。とりあえず、わたしはしないと思っている。
一本の映画や、ある人との出会いでも人生が変わったなんてことは実際にはない。微妙に進路がずれて、10年や20年経ってみたらそのずれが開いていったために立っている場所が変わっているというのはあるが、これは結局その本、その映画によって変わったのではなく、自分が考え行動した結果にすぎない。
だから、『’89』はその後数ヶ月の間で何回か読み返し『おもひでぽろぽろ』(1991)について公開当時に書いた文章には明らかに『’89』からの影響が読んで取れるが、それぐらいのことだった。それぐらいだからいいのだ。もしも本当に「読むことで人の人生を変えてしまうような本」というのがあるとしたら、そんなうっとおしそうな物は絶対に読む気にならない。

一度その人の本が気に入ると、興味の続いている間はどんどん買ってどんどん読む癖があり、橋本治の本もどんどん読むようになった。『デビッド100コラム』『ロバート・本』は大爆笑したが、テレビシリーズ『ナポレオン・ソロ』で主人公二人を演じたデビッド・マッカラムとロバート・ヴォーンにひっかけたこのタイトルを今では、いやわたしが読んだ1990年代前半でどれだけの人に分かるダジャレだというのだろうか。ロバート・ヴォーンは有名な俳優だが(もちろん知っているよな!)デビッド・マッカラムは映画だと『大脱走』(1963)ぐらいしか思いつかない。ちなみデビッド・マッカラムはジル・アイアランドと結婚しており、ジル・アイアランドがその『大脱走』の撮影に付き添った際に共演者であるチャールズ・ブロンソンと出会い、いわば寝取られてしまった形で離婚になった。それでも二人のことを悪く言わなかったそうだからなかなかナイスガイだ。1960年代に『ナポレオン・ソロ』が放映されていた時には美青年ということで日本でも女性から大人気だったそうだ。
1990年代前半に熱中し『窯変 源氏物語』シリーズなども読んだ物だが、1990年代半ばには読まなくなってしまった。

そして約10年が過ぎた。最近、また橋本治の著作を読むようになった。雑誌『広告批評』に連載されていた文章をまとめた『ああでもなく こうでもなく』シリーズだ。赤・青・黄となにやら交通信号のような装丁だ。10年という歳月は作者にも読者であるわたしに変化をもたらしていたり、あるいは変わってなかったりだ。
まだ一冊目を読み始めたところで、この年末年始に読む予定である。

少年マガジンで連載されている『魁!!クロマティ高校』の最新第11巻。
マガジンは時折立ち読みする程度だがこの作品の単行本だけは買っている。『課長バカ一代』もそうだが野中英次の作品は面白い。だが噂に聞く実写映画化は本気なのだろうか。メカ沢はロボコン式に着ぐるみでなんとかなっても(CGを使える程予算がなさそうだ)ゴリラはどうするのだ。こっちも着ぐるみか?すごく痛いシーンになりそうだ。

それはそれとして、今回収録作品の中には“前田が小説を書いたところそれがクロマティ高校内で人気になり、ついには映画化される”というエピソードがある。(第232?234話)
ところがその映画には前田の小説にはなかった“ゆで玉子を40コ一気食いする”というシーンが追加されていた。
例によってクロマティ高校の連中が無意味に雁首を揃えて

「ゆで玉子を食う映画ってどんな映画なんだ?」

「ゆで玉子の映画ってどんな映画かすっげえ気になるよな?」

いい加減なモヒカン頭の林田に至っては

「ああ・・・オレもかなりの映画通だがゆで玉子40個10分以内にたいらげる映画なんて観たコトないぜ」

と発現する。林田が映画通だとは知らなかった。
しかし実は存在する。何がって?大量のゆで玉子をたいらげる映画がだ。それもコメディじゃなくてアカデミー賞のいくつかの部門にノミネートされたシリアス作品で、しかも玉子を食うのはあの二枚目で演技派なポール・ニューマンときてる。
『暴力脱獄』(1967)はタイトルの示す通り刑務所を舞台にそこからの脱獄を描いた作品で、その中盤頃にそのシーンはある。なにかの拍子にポール・ニューマンが「オレは玉子を50個食える」と言い張り、面白がった囚人たちはポール・ニューマンが1時間でゆで玉子を50個食べられるかという賭けを行う。
山盛りになったゆで玉子を食べ始めるポール・ニューマン。ゆで玉子を黙々と食べ続けるポール・ニューマン。ついには自分で飲み込めなくなったポール・ニューマンの口にこれでもかと次々に玉子を押し込むジョージ・ケネディ。そして緊張して見守る囚人たち。これがアクション映画風のカットバックで描かれる。間抜けだがカッコイイ!
玉子の平均的な重さが1個80gというから、約4kgを食ったことになる。うーむ、4kgとは確かに多いがテレビの大食い番組に出てくる出場者ならペロリと食ってしまう気もする。
ちなみに、この賭けに勝つためなら親友に無理矢理玉子を押し込む演技でジョージ・ケネディはアカデミー助演男優賞を受賞。「そのシーンかよ!」というツッコミが入りそうだが、自分のためなら親友も犠牲にするのはラストの二人の関係につながる前振りなのだ。(ホントかよ)

ともあれ「ゆで玉子を10分間で40個食べる」ではないものの「ゆで玉子を1時間で50個食べる」という映画ならあったりするので世の中は油断がならない。

星新一のショートショート『きまぐれロボット』が全10話で短編アニメになり、yahoo!JAPANで無料配信されるそうだ。
思えば中学一年生の時、学級文庫にあった『ようこそ地球さん』を放課時間に何の気はなしに手にとって読み始めたらこれがもう止まらない。授業が始まったが文庫本を教科書に挟んでそのまま読み続け、先生にばれて頭を平手で一発パコーンと叩かれた。
後になって「いや平手ではなく拳骨だった」とか「一発ではなく何発もだった」とか先生が泣きながら記者会見を開いたりするわけだが、こんな時事ネタは2週間もすれば寂れてしまうのだろう。
だから基本的に時事ネタは扱わないのだが、それはそれとして、今でもそうだが「本は図書館で借りるよりも買って手元に置いて読む」主義だったので中学生の乏しいお小遣いはどんどん星新一の本に変わっていった。電車で名古屋まで出かけて古本屋巡りをして何冊も買い込んだ。新刊との差額を考えると安くはない名鉄の電車賃を出しても十分元が取れたのだ。特に、星新一の本は比較的古本として出回る率が高いようで、めぼしい本は揃えることができた。
新潮文庫の例の黄緑色の背表紙がずらりと並び、それに講談社文庫の黄色い背表紙が混ざっていたりした。中学時代に星新一の著作と出会わなければその後の読書量はもっと少ない人生になっていたことだろう。感謝である。

『きまぐれロボット』はおそらく読んでいると思うのだが、「ロボット研究者の「博士」と「助手」を中心におこるさまざまな出来事を描いた作品」という説明を読んでもさっぱり思い出せない。星新一にしては珍しい連作のようだ。発行が角川書店というのも星新一としては珍しい。

わたしは1992?1994年にかけて東京都品川区の大崎に住んでいた。その四畳半風呂なしトイレ共同のアパートから歩いて10分ほどのところに日本一長い商店街“戸越銀座”がある、星新一氏はその近くに住居を構えていたそうだ。星氏が父・星一から受け継ぎ倒産処理を行った星製薬の跡地は現在TOC(東京卸売りセンター)となってこれまた徒歩10分ほどの距離だし、星製薬の社内教育部が原点の星薬科大学は戸越銀座の近く。星氏とは縁の深い土地なのであろう。
休みの日などには戸越銀座へと買い物に出かけていたので、ひょっとしたら一度ぐらい氏とすれ違っていたのかも知れない。あの白髪の紳士がそうだったのかも、などと思うとなにやら感慨深い。

アニメでは博士役をお笑い芸人コンビ・インパルスの板倉俊之と、助手をグラビアアイドルのMEGUMIがそれぞれ担当するそうである。
うーむ、誰?MEGUMIという名はまだ聞いた記憶があるが、インパルスって何?何っていやお笑いコンビなんだろうが知らん。有名なのか?ほんと、芸能界にはうとい。まぁ、それでなにが困るわけでもないし別にいいのだが。

古本屋でスティーヴン・キングの『トム・ゴードンに恋した少女』を買ってきて読んでいたらページの間からしおりが落ちた。拾ってみるとなにやら文字が書いてある。
“謹呈 訳者”
うむむ、この本は訳者の池田真紀子氏が誰かに贈った物だったのか。
古本と言っても状態は良くせいぜい帯にちょっと切れ目が入っているぐらい。新刊書店に並んでいたっておかしくない美本だ。2002年8月の初版で、そんなに多くの人の手を経てきたとも思えず、ひょっとすると前の持ち主が池田氏と関わりのある人だったのかもしれない。せっかくもらったんだから売るなよ。

『トム・ゴードンに恋した少女』は一般的には長編だが、キング作品としてはむしろ中編にあたるだろう。比較的肩の力を抜いて書かれた印象だ。9歳の少女が自然公園の遊歩道で家族とはぐれてしまい荒野でのサバイバルが描かれる。雨やスズメバチ、空腹などが少女に襲いかかるが、その中に“邪悪な存在”が入っているのが例によってキングである。

今更ながら、『ゲノム 1?4巻』を読む。作者は『ニニンがシノブ伝』の古賀亮一だ。
エロエロなロボット“パクマン”がエロかったり強引だったりあるいはその両方な発言をし、純真なエルフ娘の“エルエル”が主にその被害に遭う。しかしエルエルは強度の天然ボケなキャラクターなのでその被害にあまり気づいていない。
面白い。面白いがしかし『ニニンがシノブ伝』そのままだ。
もっとも、連載開始は『ゲノム』が1997年1月号で、『ニニンがシノブ伝』が2000年8月号からだから、むしろ『ニニンがシノブ伝』が『ゲノム』に似ているってのが正解だろう。

なんでも成年コミック誌連載だそうだが、エロ度はパクマンの発言を除けば別に高くはない。色々な昆虫をテーマに話が進んでいき、虫の生態に関する知識が登場するので、子供が学習マンガとして読んでもいいぐらいだ。18歳以下お断りのマークは付いていないので、10歳の子が読んでも特に問題はない。ただ、その知識にはかなりウソが混ざっており、むしろウソに真実がビールのアルコール度数程度の割合で混ざっているというのが問題か。

一応、ツッコミ役としてメガネをかけた女性所長がいるが、話数が進むごとに登場シーンが減っていく。例えるならば『すすめ!!パイレーツ』のジェロニモ的キャラクターといったところか。所長を描いても作者としてはあまり面白くなかったのだろうか。
その点を考慮して楓は高校生になったのかも知れない。

『亡国のイージス』上下巻 福井晴敏 講談社文庫

『平成ガメラシリーズ』などで特撮を担当した樋口真嗣が初監督を勤める『ローレライ』
原作があるというのでとりあえず読んでおこうかと思ったが、ハードカバーしか出ておらず上下巻合計で3780円と高い。まだ読んだことのない作家にはちょっと出せないなと、とりあえず文庫になっている『亡国のイージス』上下巻を購入。こちらも合計1760円なんで少々迷い、『川の深さは』(680円)にしようかとも思ったが、日本冒険小説協会大賞作とのことなので『亡国のイージス』にした。
家に帰るとさっそく読み始めた。最初の一ページ目でなにやら違和感を感じた。何故だが読みにくさを感じる。座り心地の悪さを感じながら、ようやくと序章・第一章である221ページをとりあえず読み終えた。

・・・この本って、つまらないんじゃないだろうか?

暗い過去を背負わせれば人物描写に厚みが出ると単純に勘違いしているようだし、単語だけを書き並べて画が浮かんでこない情景描写、そして堅苦しくしただけで実はジュニア小説とさほど変わらない文体。
単に好みではないだけかもしれないが、全体から鈍重さを強く感じさせ、読んでいてとにかく気が重い。
セリフに魅力が無い上に個性もないので、誰がしゃべっているのか分かりにくい。別に“個性”といっても語尾に「にょ」とか「だっちゃ」を付けてキャラを立たせろってわけじゃなく、その人物だったらどうしゃべるかってだけのことなんだが、頻繁に回想シーンを入れて登場人物の過去を語るよりもむしろ重要だと思うのだが。

著者曰く「ハリウッドのアクション映画に憧れ、その醍醐味を表現する手段として小説を選んだ」というが、この粘着・偏執さのどこにハリウッドのエンターテインメントを感じ取れというのだろうか。
スマートさに欠ける点、出来事先行で人物描写に魅力が欠けおろそかな点など、あえて例えるならトム・クランシー風ではあるが、そういえばトム・クランシーは嫌いな作家であった。

理科大好きだったわたしは、当然のように『Newton』を0号から定期購読していた。
確か取っておいたはずだと物置の本棚を調べてみたら19号の一冊だけ残っていた。どうやら残りは数年前の引っ越しの時に捨ててしまったようだ。仮に残っていたとしても読み直すかは分からないが、ちょっともったいない。
全ページフルカラーで写真を多用し、文章の分かりやすさに重点を置いていたのだろう、各分野の専門家に執筆を依頼しながらも中学生のわたしでも楽しみながら読むことが出来た。思えば、学研の『○年の科学』から『Newton』へと読み継いだはずだ。
バイオテクノロジー、コンピューターの発達、1981年のスペースシャトル初打ち上げ、1980年代は宇宙からDNAまでと科学の時代だった。その一つの象徴が『Newton』だったように思う。

その『Newton』の第0号からの編集長竹内均氏が4月20日に亡くなられた。
原作・映画ともに科学理論で協力した『日本沈没』(1973)に特別出演した時の“竹内教授役”の誠実そうな姿が今でも目に浮かぶ。映画やテレビへの露出は他の学者からの批判要因だったが、人々への科学についてのアピールの意味が大きかったのだろう。
日本の科学啓蒙において大いなる貢献を果たされた氏の冥福をお祈りする。

『ケロロ軍曹第1巻』 吉崎観音 角川書店

 なんだかんだでアニメは全然見なくなっているのだが、久々にチェックしたい作品が始まった。丁寧な線の可愛らしい絵にマニアックなネタを絡めつつ繰り広げられる地球制服をたくらむ宇宙人との日常生活。そう、『ケロロ軍曹』である。
 先日発売された第8巻の帯で今日からのアニメ化を知ったので、下手をすれば危うく見逃してしまうところだった。書店で手に取ったのがおとといの4月1日だったので、「えっ?エイプリル・フール?」と思わず周りを見渡してしまった。すると、書棚の陰から『どっきりカメラ』と書かれたプラカードを持った野呂圭介が現れて目の前を通り過ぎていった。ま、それはウソだがアニメ化は本当だった。テレビを付けて待っていたら(考えてみたらビデオ・DVD以外の映像が映し出されるのも久しぶりだ)ちゃんと放送が始まった。
 今日のエピソードではケロロが日向家に現れ個室を手に入れるまでが語られた。うーむ、そうか、原作だとこの頃の夏美はルーズソックスだったのだが、アニメでは普通の白いソックスになっているのだな。そうだよな、ルーズソックスなんて最近はあんまり見かけないもんな。個人的にあれは好きじゃなかったんで良い傾向である。靴下は見えるがパンツは見えないのがやっぱテレビ東京か。
 ガンプラを始めとした様々なアイテムをどうするのかちょっと不安だったがちゃんと画面に登場していた。ガンプラを作らない軍曹なんて軍曹じゃないものな。iMacもちゃんと新型になって登場。アップルマークじゃなくて星印になっていたが。その他にも「姉ちゃんがドロドロに。まるでニンゲンモドキかボアジュースに」と手塚・石ノ森両巨頭捧げられたかのようなセリフは出てくるし。ゴックリ、ゴックリコンとボアジュース?♪ってか。
 絵はちょっとクセがあって吉崎氏の原作にはあまり似ていない。軍曹はほぼ同じだが(どう描いたって似るって気もするが)冬樹はなんか違ってて、夏美はぱっと見別人。ママにいたっては「誰?」
 気になったのは壁紙がペリペリとめくれていってその下のケロロが冬樹と夏美に発見されるシーン。無駄に秒数とカット数が多くてリズムが悪い。いわゆるファーストコンタクトのシーンなので「これでもか?」と見せたいのは分かるが、それをあえてトンチキに描いていたところが魅力だったと思うのだが。
 とにかく展開が早いが、ケロロ小隊の面子が揃わないと作品本来のおもしろさが出てこないので、せめてギロロ伍長が登場するぐらいまではある程度飛ばしていってもかまわないだろう。多分、全26話ぐらいなのだろうし。

『タランと黒い魔法の釜』プリデイン物語2 ロイド・アリグザンダー 評論社

 1964年から1969年にかけて全5巻で出版さえた『プリデイン物語』シリーズの2作目である。
 少年?青年タランを主人公にしたケルト神話に着想を得た物語で、しゃべる豚や死者を甦らせる魔法の釜などが登場する冒険ファンタジーだ。同じくケルト神話をモチーフにした『指輪物語』にやはり雰囲気が似たところがあるが、こちらの方がずっと文章も平易で読みやすい。対象年齢は小学校高学年からだろうか。
 この作品はディズニーによって1985年に『コルドロン』(原題The Black Cauldron)というタイトルでアニメ映画化されている。コルドロンは“釜”の意味なんでそのまんま“黒い釜”。当時、劇場で予告は観たのだが本編は観ずじまい。続編が映画化されなかったということはあまりヒットしなかったのではないだろうか。最近DVD化されたらしいのでレンタルで見かけるなど機会があったら観てみたい。

『影との戦い』ゲド戦記I アーシュラ・K・ル=グウィン 岩波書店

 アースーシーという世界を舞台に魔法使いゲドを主人公としたシリーズで1968?1972年に『影との戦い』『こわれた腕環』『さいはての島へ』の三部作として発表された。真の名前や太古の言葉など、魔法において“言霊”的な要素が強い。観念的・哲学的な側面があり、対象年齢はちょい高めか。

 1990年に18年ぶりの新作『帰還 ゲド戦記最後の書』が発表された。『さいはての島へ』のラストでその後のゲドの所在が伝説的に語られていたのにある意味台無しである。出来はイマイチ。
 さらに、昨年2003年には『アースシーの風 ゲド戦記V』が登場。4作目で『最後の書』と言っていたのはウソだったのだろうか?あまり面白いという評判も聞かないのでこいつはまだ読んでいない。個人的には『ゲド戦記』は最初の3作で完結しているのだ。
 だがまだ安心は出来なかった。この5月には『ゲド戦記外伝』が出版になるそうだ。いったいいつになったら『ゲド戦記』は終わるのだろうか。こうなったら10巻、いや100巻を目標に作者のグウィンには死の床まで書き続けて欲しいものだ。
 そういえば、ずいぶん前に映画化の話をちらっと耳にしたがそれっきりになっている。

 ちなみに『ガメラ2?レギオン襲来?』で主人公穂波碧(水野美紀)がウイスキーの小ボトルを隠していたのは本棚の『ゲド戦記』の後ろであった。

『指輪物語 旅の仲間上』 J・R・R・トールキン 評論社

 映画『ロード・オブ・ザ・リング』三部作も大ヒット!アカデミー賞も受賞。で、その原作『指輪物語』 こいつは1972年2月10日発行の初版本である。
 現在書店で入手できるのは翻訳に手を加えられ装幀なども変わった新版だが、こいつは翻訳・挿絵など当時のままの正真正銘の初版本だ。
 写真は紙ケースでその中に小豆色の布張りの書籍が入っている。別に貴重品扱いしてきたわけではないのでケースは多少傷んでいるが本の方は割といい状態で折り目などもない。もちろん、これ一冊ではなく『王の帰還 下』までちゃんと初版で6冊揃っている。
 うーむ、『指輪』マニアの人に高く売れないだろうか?今が売り時でこれから値が下がっていく一方って気もする。ま、子供の頃からの想い出の本なんで売る気はないが。っていうか、わたしのじゃなくて母親の本だし。

『さいごの戦い』ナルニア国ものがたり7 C・S・ルイス 岩波書店

 小学校の低学年の頃、父親の背広が掛けてある衣装だんすに入り込むと、扉を閉めて真っ暗な中で「自分は今不思議な世界にいるんだぞ」と空想遊びをしていたことがある。下手をすると“危ない子”って感じだが、もちろん元ネタは『ナルニア国ものがたり』シリーズ。空想の中で一角獣やフォーンたちと遊んだり冒険を繰り広げたりしていた。
 ライトノベルズには現実世界の人間がファンタジー世界に飛ばされるという設定の作品がよくあるが、その元祖と言うべき作品で、4人の兄弟が田舎の古屋に置かれていた古い衣装だんすを通じて不思議の国『ナルニア国』を訪れ冒険を繰り広げる。
 原作は『ライオンと魔女』?『さいごの戦い』の全7巻で基本的に一巻完結。子供たちは大人になるとナルニア国に行けなくなり、次の世代の子供たちへと主人公が代替わりする。どうも最初からシリーズにすることは考えていなかったのだろうか第6作目の『魔術師のおい』が時代的には一番最初のことだったりする。
 翻訳は『指輪物語』の瀬田貞二氏。1960年代後半の出版なので多少古さは感じられるが、対象年齢は小学生3?4年なので『指輪物語』と比べるとはるかに読みやすい。わたしが読んだのは小学1、2年だったと思う。
 シリーズ後半になると説教臭さが強くなってストーリー自体も重くなり個人的にはイマイチな感もあるが、ファンタジーの基本としておさえておくべき作品だろう。

 で、ファンタジーなら今!ってなわけで『ナルニア国ものがたり』も映画化が決定した。
 てがけるのはディズニーで、まずは2作目の『ライオンと魔女』から。ニコール・キッドマンが白い魔女役だとも聞く。監督は『シュレック1、2』のアンドリュー・アダムソンで実写作品は多分始めてだが、『シュレック』を観た限りではけっこういけるんじゃないだろうか。

 もし今あの衣装だんすに入ったら底抜けるんだろうな?。

『黄金の羅針盤』ライラの冒険シリーズI フィリップ・プルマン 新潮社

 『神秘の短剣』『琥珀の望遠鏡』と続く、ライラの冒険シリーズ3部作の記念すべき1作目。
 人それぞれに動物の形をした精霊=ダイモンがいる世界。主人公の少女ライラはそのダイモンと子供を引き離しそこからエネルギーを得るという企みに巻き込まれ、その中で鎧を着たクマや魔女、気球乗りなどと出会います。1作目だけを見ると、ま割と良くできたファンタジーかなと。
 『神秘の短剣』ではいきなりわたしたちの住むこの世界が舞台になります。パラレルワールドの境目切り開くことが出来る神秘の短剣を手に入れたウィルは別の世界を訪れます。そこは、"スペクター"と呼ばれる亡霊により大人はやられてしまっています。これまた別の世界からやってきたライラと出会ったウィルは共に大いなる謎に挑むのだが・・・だんだんと単なるお子様向けファンタジーではなくなっていきます。
 『琥珀の望遠鏡』数々の苦難を経てついに互いが互いををなくてはならないものとなったライラとウィル。しかし異なる世界に生まれ育った二人は・・・もうただつらく悲しい、でも強い。

 ファンタジー流行の昨今ですが、『ハリー・ポッター』などよりはずっと奥深く、アイディアも富んでいておもしろい作品です。
 映画化の動きもあり、監督はジョン・クリーズがやるだのリドリー・スコットになるだのという噂もあります。とりあえず期待。

動物のお医者さん 第5巻 佐々木倫子 白泉社文庫

 3月に入ってもう10日になろうというのに寒い。暖かくなれば鳥インフルエンザ騒動も少しは収まるかと思うのだが。
 というわけで文庫版「動物のお医者さん」第5巻に収録されている第65話だ。この作品にはサブタイトルがないので65話だけではなんのとこやらだと思うが、要は主人公西根公輝(ハムテル)宅最強の生物ニワトリのヒヨちゃんがインフルエンザにかかるという話だ。

 元気がないヒヨちゃんを診た漆原教授は、「インフルエンザかもしらんし伝染性気管支炎か咽頭気管炎ということも考えられる」といい加減にも思える診断を下す。結局は「栄養剤を打っとけ」としか指示しない。抗生物質をやったら食えなくなるし(ヒヨちゃんはペットなんで食わないんだが。どちらかというとハムテルたちがヒヨちゃんに食われそう)そもそもインフルエンザだったら抗生物質は効き目がないのだ。
 ハナミズの検査で一週間後にインフルエンザであることが判明したヒヨちゃんだが、その頃にはとっくに完治して暴れ回っているのだった。さすが最強のヒヨちゃんだけのことはある。めでたしめでたし。

 これが最近の話だったらヒヨちゃんは処分されてそれっきりである。うーぶるぶる。とてもじゃないがドクトル・コメディにはならない。
 インフルエンザにかかったら、栄養をとって暖かくして回復するのを待つしかないってことなんだが、ペットで数羽飼っているだけならともかく、畜産業で何万羽とかいる場合は感染が出た鶏舎のニワトリは全て処分というか皆殺しにするしか手だてはないのだろう。「かわいそう」とかいう中途半端な情で生かしておいて感染がさらに広がりウイルスが人に感染するタイプに変異したらそれこそハザードだ。
 それでもやっぱ「かわいそう」&「もったいない」だけどね。

 政治家は「鶏インフルエンザは人に感染しないので大丈夫です」とか言ってるが相変わらず重みを持たない言葉だ。
 O-157のときのカイワレダイコンやBSEのときに牛肉を食べて安全をアピールしてたよな。今回も処分されて埋められようとしているニワトリの中から一羽取り出して、小泉首相と亀井農水大臣の二人で丸焼きにして食べればいいのに。
 まっ、前例と同じくほとんど意味のない行為になるんでしょうが。

『よみきりもの』第6巻 竹本泉 エンターブレイン

 例によって“ちょっと変わった人”や“かなり変わった人”による微妙に奇妙なお話を集めた短編集の新刊。
 『ふやけるお年頃』の主人公浜美絵は並はずれたお風呂好き。もちろん竹本泉氏のことであるから、当然のごとく入浴シーンがあるわけだ。もっとも、これっぱかしもいやらしくなくて、せいぜい健康的なお色気(古いたとえだな)ぐらい。
 で、58ページの1コマ目では美絵が風呂につかりながら本を読んでいる。そのとき、途中までたたんだ風呂のフタを机代わりにし、その上にタオルが一枚置いてある。そうそう、そうなんだよ。それが本来の入浴中の読書の姿なんだよ。もちろん、わたしも風呂で本を読む時はそうしている。

 風呂で読書しているというのはマンガなどで時々出てくるが、風呂のフタは完全に除けちゃってる場合が多い。おそらく、その方が画になるからなんだろうが、実際にやると腕が疲れるし、うっかりすると本を湯につけてしまうので具合が悪い。高河ゆんなんか文庫本を片手にシャワーを浴びているシーンを描いていたものな。もう、本ビショビショ。後で乾かしてもブワッとふくれてしまって読みにくくなる。1ページごとに吸い取り紙を挟んで水を吸い取らせると良いとはいうが、面倒だよなぁそれ。
 やはり、風呂のフタを机代わりにするというのが正しい入浴中の読書スタイルだろう。おそらく、竹本泉氏も風呂で本を読む人ではないかと推測する。
 美絵が読んでいた本のタイトルは竹本文字(*)なので読み取れないが、サイズからして文庫本だろう。
 個人的には、風呂で読む本は短編集をお薦めする。星新一のショートショートなんかどうだろうか。逆にディーン・クーンツなんかを持って入ると、この章が終わるまで、あと1ページだけ、とか言っているうちに一晩風呂で過ごすことになりかねない。ま、その場合良い出汁もついでに取れているかもしれないが。

(*)竹本文字:竹本作品に頻出する独自の文字で、背景の看板や登場人物たちの持っている小物に書かれている場合が多い。意味のない単なる模様だと思われるが、ひょっとすると独自の言語体系に基づいているなんてことはないな、うん。思いっきり崩した字の場合もあるなど多様な側面がある。研究者による解読が待たれるところだ。

 津山三十人殺し 筑波昭 新潮OH!文庫

 このところ『八つ墓村』や『龍臥亭事件』を読んでいたのも、本屋で手に取ったこの一冊がきっかけ。
 昭和13年の岡山県の山村で22歳の若者都井睦雄が一夜に行った大量殺人。その被害者たるやなんと30人!後に人はこの事件のことを『津山事件』と呼ぶようになった・・・
 映画『八つ墓村』(1977・1996)である程度は知っていたが、この『津山三十人殺し』は小説ではなくドキュメンタリー。関係者のほとんどが睦雄の手にかかって死んでおり、犯人の睦雄自身も犯行後猟銃で胸を撃ち抜いて自殺しているので、インタビューのたぐいはほとんどない。そりゃそうだ、恐山のイタコを連れてくるってわけにもいかないだろうし。
 かわりに、当時の新聞、警察・検察・裁判所関係の文書、医者、学校に残っていた記録などなどの膨大な記録から事件を浮き彫りにしている。
 単純に殺人事件だけを扱っているのではなく、本の半分以上をついやして、生まれた時から22歳で自害するまでの睦雄の生涯を一種伝記に仕立てている。そのことによって、睦雄がどのような環境で育ったか、回りからどのような扱いを受けてきたかがわかる。もちろん、それは資料をもとに推測したものにすぎないのだけど。

 「十で神童、二十歳で只の人」的な若者が、戸数二十三という山間僻地の田舎村で生まれ育った。自分自身についての幻想や村人との関係で心のきしみを大きくし、夜這いの風習の残る中で裏の人間関係にも縛られた。肥大した自我と現実との差に苦しみ、全てが筒抜けの村の中では居場所が無くなっていくのにほかに逃げ出す先もない。悩みを打ち明け分かってくれる相手もいない。グツグツと睦雄の内圧はギリギリまで高まっていく。
 そしてついにある日「俺を馬鹿にした奴は皆殺しだぁぁ!」
 9連発に改造したブローニング12番口径猟銃、日本刀一振り、短刀で武装した。そして睦雄が電線を切ったため暗闇になった村の中でも明かりに困らぬようハチマキで頭の左右に懐中電灯をくくりつけた。遠目ではまるで鬼のような姿で飛び出し、次から次へと民家に押し入っては殺戮を繰り広げたのだ。
 ある老人を「お前はおれの悪口を言わなかったからな」と殺さぬでおいたりと、睦雄の殺しは決して無差別殺人ではなかったようだ。自分を馬鹿にしたり悪口を言った相手だけを血の餌食にしていったのだ。ただ、狭い村だけにほぼ皆殺し状態になってしまった。睦雄の精神状態を考えると、別段普通にしていたのに勘違いさえ殺された人もいたことだろう。
 メインの凶器はブローニングの12番。12番という以上1/12ポンドの鉛球を撃つ散弾銃だと思うのだが、どうもそのところどの作品でもはっきり書かれていない。12番で撃つスラッグショット(一発弾)あるがそんなんで撃たれた日にゃ・・・。
 もしも散弾銃だとしたら『龍臥亭事件』でキーワードになっているダムダム弾はありえないことになる。ダムダム弾は弾頭の鉛を露出させて削ったり切れ目を入れたものだからね。ま、あの小説はどーでもいいようなんでどーでもいいんですが。
 映画『八つ墓村』や山岸涼子の『負の暗示』だと使ってるのは普通のライフルタイプの猟銃のようです。連発式の散弾銃というとポンプアクション式がまず頭に浮かぶんですがどう見てもそれではない。謎です。12番のショットガンといえば、『ターミネーター』でシュワルツェネッガーがぶっ放してたスパスと同じ口径。銃身はライフルよりずいぶんと太いんですけどね。

 ま、個人的感想としては、「田舎はイヤ」

龍臥亭事件(上下) 島田荘司 光文社文庫

17日の『八つ墓村』と同じく、昭和13年に実際におきた『津山三十人殺し』をモチーフにした推理小説である。

この島田荘司氏でわたしが読んでいる作品は、巻末の著作目録を見るに『漱石と倫敦ミイラ殺人事件』(1984)だけのようだ。なにぶん高校生だった発行当時に読んだきりなのであまり覚えていないのだが、夏目漱石がロンドンでミイラに関わる殺人事件に巻き込まれるという話だった気がする。(そのまんまの感想だな)

その他には御手洗潔という名探偵を登場させたシリーズ物で有名とのこと。『龍臥亭事件』にはその御手洗は登場せず、そのワトソン役であった(らしい)推理作家石岡を語り手に物語は進む。

横浜は馬車道に住む石岡のもとにある日若い女性が突然に訪れる。ま、人気作家の所に読者が突然押しかけてくるというのは実際によくあるのかもしれない。

その女性は自分が悪い霊に取り付かれていると話し始める。ま、突然人のところに押しかけてくるような困った人だから、自称“霊感”タイプの場合もたまにはあるのかもしれない。

霊を祓うために岡山まで行かなければならないと女性は主張し、知り合いでもなければ岡山に詳しいわけでもない石岡に同行して欲しいと頼み込み、石岡はそれを承諾する。ま、女性の頼みを断るようでは男じゃないと思う江戸っ子もひょっとしたらいるかもしれない。

・・・いや、いないだろ。

わたしが住んでいるのは愛知県だから石岡の住む横浜よりかはずいぶん岡山に近い。単純に距離にして半分ぐらい。それでも京都、大阪を通り過ぎて中国地方まではかなりの道のりだ。ちょいと横町のコンビニに弁当を買いに行くのにつきあうのとはわけが違う。だというのに石岡は、知人の紹介でどうしても断れなかったとか、小説家としての好奇心からネタになるのではと思ったとか、そんな理由は一切ないまま見ず知らずの女性と一路岡山へ赴く。主人公の行動原理が理解できない。冒頭の段階でもはやわたしはこの小説について行くので精一杯。いや、完全に置いていかれている。
いや、これは島田氏の小説がどうこうではなく、わたしと推理小説の相性なのだろう。
中高生の頃は翻訳物中心だったが割と推理小説好きで、早川文庫のアガサ・クリスティの赤い背表紙が本棚にずらっと並んでいたりした。だが、だんだんと推理小説に疑問を覚えるようになる。これは以前にも書いたかもしれないが、「なぜわざわざ苦労して密室にしなきゃいけないんだ。その知恵と労力で事故に見せかけた方がずっといいだろうに。それと探偵または刑事も密室のトリックやらアリバイやらに首をひねっている暇があったら動機を調べろよ動機を。たぶんその方が早いぞ」といったようなことだ。推理小説であるからには“謎”がなければ“謎解き”がなければ、というのが好きではないのだ。

『龍臥亭事件』はそういった意味で実に推理小説であって、犯人がその手段をとる理由は推理小説の謎を成立させるためとしか思えない。なおかつそのトリックはわたしにはどう考えても

失敗する

犯人・トリックをばらすのはタブーだろうからやらない。
だから、「 」内をマウスで範囲選択はしないように。
・・・・・・反転するなってば。あーもう知らんよ。文句言わないでよ。鏡で光を反射させてるんじゃないんだから、跳弾でミリ単位精度の射撃が出来るわきゃないだろ。お前はロボコップか。それに、ダムダム弾ってのは標的に当たることで大幅に変形するので余計と跳弾の方向は狂うし、そこでエネルギーが消費されるんで威力はがっくり落ちるんで二重に無理。それと、謎解きのトリック明かしで石岡が平気で猟銃を射つなんてのはあるわけがない。刑事もふむふむなんて納得してないで止めれよ

途中で、事件のバックボーンとして昭和13年に舞台となった地で起きた三十人殺しについて延々と書かれるが、それが平成7年が舞台の本筋にちゃんと結びついているかというと、かなり首をひねらずにはいられない。正直、ほとんど関係なく別物。推理小説の原稿の間に『津山三十人殺し』のノンフィクションが挟まっていた、といった感じである。
だったらノンフィクションの部分だけ読んだ方が良いというのが個人的感想だ。

 なにも風邪でダウンしている時に読まなくてもいいじゃないかとも思うが。

『八つ墓村』 横溝正史 角川文庫

 推理小説の名探偵は、殺されるべき人間が一通り殺され終わって事件もほぼ終わりになってからようやく真犯人を見つけだす連中である。正直、あまり役に立っているとは思えない。金田一耕助なんてのはその代表格で、ようやく真犯人を推理するが(もっとも、その頃には生き残っている人間はかなり減っているので当てずっぽうでも結構当たるんじゃないかって気がする)たいていの場合犯人に自害されてしまう。探偵駆け出しの頃だけならまだしも、何度も同じ失敗を繰り返す。ちったぁ学習しろ。

 八つ墓村では時折主人公である青年の前に現れ、なにやら意味ありげなことを言っては去っていくのだが、その助言(?)はまるっきり役に立たない。
 何しに出てきたんじゃお前は。
 主人公は幾度も恐怖を味わったり命の危険にさらされ、そしてついに事件は解決する。その解決に金田一はほとんど役にたっていない。
 だから、何しに出てきたんじゃお前は。
 「名探偵、皆を集めてさてといい」という言葉があるが、この小説にもラストに金田一による謎解きがある。
 金田一いわく、
 「ところで、それでいて私は最初から、犯人を知っていたのですよ」
 知ってたんなら早い内になんとかしろ。被害者、ほぼ殺され損。しかも、金田一に反省の色なし。
 やっぱ、何しに出てきたんじゃお前は。

 やはり、名探偵は金大事包助か早乙女ボンド之介に限る。

 古本屋でいしかわじゅんの『だってサルなんだもん』1?7巻(4巻欠け)を入手。
 1990年10月から始まった連載だけあって、最初の頃はまだWindows(しかも3.1)ですら名前も出てこず、ひたすらDOSの世界である。
 コマンドプロンプトの状態でCOPYを入力やらバッチファイルの書き換えやら、あーあったなーの世界である。ほんの10年ちょっと前の話なのだが、隔月の感がある。

 ちなみに1巻の解説は高千穂遙が書いている。
「いしかわさんは未だにバッチフィルが書けない」とか
「いしかわさんは未だにドライバーやTRSをUMBにあげられない」とか
「いしかわさんは未だにEMSを使うことが出来ない」とか
「いしかわさんは未だにハードディスクのパーティションを自在に切ることが出来ない」
 とか、いしかわじゅんが出来ないとこが散々列挙されている。
 =「わたしには出来るんだもんね」ということなのである。

 しかし、上記項目の今や出来なくたってな?んも困らないことばかりである。
 唯一HDDのパーティションは切れた方がいいが、これもOS標準のユーティリティでちょちょいのちょいだ。
 高千穂氏が技術を苦労して身につけたとこを考えると、わたしは涙を禁じ得ない。
 っていうか、Windows3.1は登場したもののあまり使い勝手がいいものではなく、結局Windows95が登場するまでわたしたちはパソコンを使うというただそれだけのことであれやこれやと今となっては無用になってしまった知識を駆使して戦っていたのだ。Windows95登場以降もなんだかいってそれなりにあれやこれやと戦い続けるわたしたちである。

 とはいえ未だに「パソコンって難しいから」という人がいる。君らぁDOSでパソコン使ってみろぉ!テープでBASICのロードからやってみろ(MZ?80K)。
 まったく苦労せずにパソコンを使いこなせるようになろうってのが甘い。昔の苦労(昔ったってせいぜい10年前だ)と比べれば今の苦労なんてちゃんちゃら楽だぞ、まったくっ!

  桑田乃梨子の『だめっこどうぶつ1』を入手。
 白泉社から新刊でないなぁと思っていたら、竹書房のまんがライフで4コマ描いてたのね。なるほど、4コマは月刊の上にページ数少ないから単行本にまとまるまでに時間がかかる。
 登場人物っていうか登場動物は、主人公の“うる野”(狼だけどだめだめな奴だぞ)や“うさ原”(兎だけど乱暴な奴だぞ)などなど、4コマになっても桑田節は炸裂だ。『真夜中猫王子』を思わせる着ぐるみっぷりもナイス。
 一くせも二くせもある連中がいつの間にか集まって、一種のパラダイス(ダメパラダイス)が形成されているというのが桑田作品には多い。この『だめっこどうぶつ』もそう。ほとんどメインテーマと言ってもいいんじゃないだろうか。作者のダメパラダイスへの愛と怒りという表裏一体の視線がなんとも素敵だ。

 1ってことはいずれ2巻も出るのだろうがいつになることやら。
 雑誌で追いかければいいじゃんとも思うが、4コマ雑誌のコーナーには『まんがなんとか』『まんがかんとか』がやたらとあって、どれが『まんがライフ』だか訳わからん。表紙も同じようなもんだし。毎号『だめっこどうぶつ』が表紙を飾ってくれれば探しやすいんだが。

  「復活の日」の勢いに乗り「日本沈没」に取りかかっていたのが読了。こちらも面白かった。映画の方はアレだが。
 ちなみにこの小説、領土を失った日本民族が世界に散り散りになっていくところで「第一部完」となり終わってしまう。発刊から三十年、いったいいつになったら第二部が始まるのだろうか?それとも、この「第一部完」は打ち切られた連載マンガのそれと同じなのだろうか?
 それはそうと、今SF小説というのはどのぐらい人気があるんだろうか。雑誌はSFアドベンチャーも奇想天外もすでになく、残るは老舗のSFマガジンのみ。書籍の方も売り場の片隅に隠れるように置かれているだけだ。ライトノベルズにはSFもどきがうろうろしているようだが・・・。どうでもいいが、『マグマ大使』に出てきた人間モドキってのはまんまなネーミングだな。ほんとどうでもいいな。

 SARSウイルス流行で小松左京の『復活の日』を思い出し、本棚の奥にしまってあったのを探し出して10数年ぶりに少しずつ読んでいたのが読了した。
 1965年作という40年近くも前に書かれた作品にもかかわらず、非常に生々しく迫力のある作品だった。
 もちろん、細菌兵器として開発されたMM-88と、動物から人間に感染したと思われるSARSウイルスを比べるのはある意味ナンセンスなので、それについては触れない。それよりも小松左京という作家のすごさに感心した。
 細菌、ウイルス、地質学、社会学などについての知識。それらを組み合わせて一つの作品にする構成力。そしてストーリー上などに多少の無理が生じても、それをねじ伏せて読者に納得させる筆力。つくづく日本人離れした作家である。さすが力技で日本を沈めてしまっただけのことはある。

 『さよならジュピター』でトホホな感じになってしまった小松左京だが、あれは映画がトホホなんであって、原作はかなり面白い。地球に衝突してくるブラックホールに木星をぶつけて防ぐというこれまた力技。だけど基本的にはちゃんと科学的根拠があって、それをちゃんと構築した上で大嘘をついているのだ。テロで妨害してくるのがどこかの国とかの政治的集団ではなくて、自然保護を訴える新興宗教というところなど、後のオウム真理教によるテロなどを思わせたりする。思想より宗教の方が危険なのだ。
 ま、脚本や総監督として小松左京はクレジットされているので、原作は原作、映画は映画と言い切れない点もあるのだが・・・。でも、実はわたしあの映画って割と好きなんだよね。とかく批判される特撮もあれはあれで一つの味だし。ま、公開時(1984年)に劇場で観たっきりなんで、あんま憶えてないんすけどね。
 ともあれ「君は?とっても大きくて?♪」ですよ。うん。

 本屋の新刊コーナーに竹本泉氏の本があった。やれうれしやと手に取ってみると、なにやらデジャブが。タイトルは『はたらきもの』・・・それって、昔出ていなかったかぁ。
 とりあえず買って帰る。そして本棚をあさるとあったあった。主婦と生活社の『はたらきもの』が。両者を比べてみると内容はほとんど同じ。たが、再販(朝日ソノラマ)の方が一回り大きく、カラーの口絵もついている。ついているのだがしかし、旧版が534円で新版が800円と値上がりしているのがちょっと悔しい。まー、旧版を持っているんだから買う必要はないんだけどさぁ。やはりついつい・・・
 ちなみに朝日ソノラマの復刻シリーズは『ちまりまわるつ』、『虹色♪爆発娘』、『ばばろあえほん』と続くようだ。どれもすでに持ってるんだけどなぁ・・・竹本氏は嫌だそうだが、せめて文庫で出してくれ文庫で。

 で、スティーヴン・キングの『ザ・スタンド』なんですが、これがおもしろーてかなわん。軍事兵器として造られたインフルエンザ・ウイルスが外部に漏れてしまい、罹病した人がどんどん人が死んでいく。しかし、先天的に免疫を持っている人たちがいて、その人たちは生き残っていくのだが、どうも悪魔的な男がいるようで・・・ってあたりまで読みました。なにしろ上巻790ページ、下巻635ページ、それぞれ上下二段組みという鬼のように厚く鬼のように分量のある本でして、読んでも読んでもなかなか残りページが減らない。いや、これまた鬼のように面白いので残りページ数が少なくなっていくのが惜しくてしょうがないといった具合でして。
 最近、本を読んでも長続きせず、集中力が落ちたのかなと思っていましたが、なーに面白い本に出会っていなかったせいもあるんでしょうな。『ザ・スタンド』は気がつくと4?5時間経っていたなんてこともあります。
 インフルエンザ・ウイルスといえば小松左京の『復活の日』も確か特殊インフルエンザ・ウイルスをスパイが運搬中に漏らしてしまいそれが広まって人類が絶滅寸前までいくんだったと記憶しています。毎年のように流行するインフルエンザですが、実はかなり危険な物に成りうるんですね。事実、毎年変種が出てきて、ワクチン注射といってもなかなか効果がでないとか。うむむ、おそろしい。そろそろ、夜は寒くなってきましたし、暖かくして寝よう。って、そーゆーことじゃない?

 なんでも東芝が掃除機ロボットを発売するそうで。掃除機ロボットと聞いて思い出したのが『夏への扉』です。ハインラインの傑作SFですね。
 読んだのがもう10年は前の話なのでおおざっぱにしか憶えていないのですが、発明家の主人公が最初に作り出したのが掃除機ロボットだったはずです。よし、次は家事全般をやるロボットを作るぞと意気込んだ主人公ですが、恋人と友人に裏切られ冷凍睡眠で数十年後の世界に送られてしまう。そして彼はもう一度過去に戻ろうと考えるが・・・。うーん、懐かしい。SFの中では基本の一作だと思うので、興味を持った方は本屋で探してみるのもよしかなと。SFといってもハードではなく読みやすかったと思います。それに猫好きにはおすすめ。ピートという猫が出てくるのですが、主人公とこのピートとの関係が良いんですよね。うーむ、主人公なんかの名前はすっかり忘れているのにピートだけ憶えている。
 で、東芝の掃除機ロボットなんですが、自走式で勝手に掃除をしてくれてバッテリーが弱まると充電台に戻って自ら充電を行うという優れ物。『夏への扉』の掃除機ロボットも確かそんな性能だったはず。ようやく実現するんですね?。でも約八畳間でなおかつ万年床のわたしの部屋では役に立たないだろうな。広々とした大きな部屋のあるお屋敷向きなんでしょう。ま、予価が30万円近くということですから、しばらくはお金持ちしか買えないでしょうが。10年後ぐらいには当たり前の商品になってるのかな。一家に一台メカ沢!・・・ってメカ沢って一台?それとも一人?

竹本泉著『てけてけマイハート』第1巻
なんと4コママンガ誌『まんがライフ』にて連載中の作品をまとめたもの。
主人公早坂のぞみは24歳でありながら、見た目は中学生。
補導歴は数知れずの女性なのである。
中学校教師の吉田しげるはどこかで見た顔なので何度も補導をしてしまうが、実は中学時代の陶芸クラブの1年後輩だったのだ。
4コママンガではないものの、これで少女マンガ『なかよし』から始まって、少年誌、マニア誌、青年誌、そしてこの一般誌と幅が広いですなぁ。あとは成年誌か?(でもあの絵柄ではなぁ)
でも、どれを読んでもあきらかに竹本さん。
竹本さんはわたしの一番好きなマンガ家さんかな。
しかし、ないよーはいつもとそんなに変わりません。どれもこれもヘン。
めぐみはデートで映画『悪魔の毒毒シスターズ』(3本立てに誘うし)
吉田は江戸川乱歩原作、美和明宏の『黒蜥蜴』に誘うし。
ヘンでいーでっすな。
買いませう。っていうーか買って。

特に行きたいところもなし、なによりもお金がないっ!
金がないのは首がないのと同じやっ!てなもんで、本棚をあさる。
ジャック・ヒギンズの 『鷲は舞い降りた 完全版』が出てきたので1日かけて読む。
一郎君は『鷲は舞い降りた』は読んだかい?

一郎「いえ、読んだことないですね」

それはいかんなー。ぜひとも読んでシュタイナ中佐たちの男心に触れるんだ。

一郎「そういえば、映画化もされてましたよね」

うん。『大脱走』などのジョン・スタージェス監督で主演はマイケル・ケイン。
他にはドナルド・サザーランドやロバート・デュバルなんかが出演してるな。

一郎「へー、出演者は館長好みのフケ専じゃないですか」

あのね、そういう誤解を招くような用語は使わないでくれる。
映画自体はイマイチだったが、あの傑作の映画化だからしょうがないのかもしれないな。
ジョン・スタージェスも盛りを過ぎてた頃の作品だし。
とにかく、『鷲は舞い降りた』は読みなさい。冒険小説ファンなら読んでいて当然だぞ。

一郎「はーい。 でもわたしは冒険小説ファンってわけじゃないんですが(ぼそっ)」

『トランジスタにヴィーナス』第1巻
竹本泉さんは昔っからのファンで、おそらくわたしがコミックスを全部持っている
唯一の作家さんです。
当文化会館のメインコンテンツである 『姫さまお静かに』のタイトルは
竹本さんの初期の作品『魔法使いさんおしずかに!』からいただいていますし、
内容は竹本さん版『あんみつ姫』から多大なるインスパイアを受けています。
人が読むと「どこが?」かもしれませんが。

一郎「メインコンテンツって割には全然更新してないですね」

うぐぅ。でも、話はずいぶん先まで出来てるんだよ。
あとは書くだけなんだが・・・うじゃうじゃ
それはともあれ、最近の竹本さんの作品は露出度が高かったり、入浴シーンが
多かったりします。

一郎「『乙女アトラス』とか『てきぱきワーキンラブ』とかがそうですね。
    『トゥインクルスターのんのんじー』にいたっては毎回の入浴シーンがお約束でしたし 」

で、最新刊の『トランジスタにヴィーナス』の主人公イーナスは
竹本作品にしては珍しく20代の女性が主役です。
職業がスパイなんだが、これまでよりさらに露出度が高く色っぽいぞ。

一郎「おまけにキス魔なんですね」

そうそう。
可愛い女の娘や男の子にキスしまくってる印象があるね。
読者サービスっていうより、作者が描いてて楽しいんだろうな。
でも、連載してる雑誌『コミックフラッパー』って誰が買ってるんだろう?
読者層が謎だ。しかも、最近あんまり書店で姿を見なくなってきたし。

一郎「2巻が出るか、微妙なとこですね」

出てほしーぞ。

なかなか見つからないもんだな。
ある店では全4巻の内の2,3巻だけあったりとかで、
欲しいものを見つけるのに、何件か古本屋を廻ったぞ。

一郎「何の話しですか?」

白泉社中心のマンガ家の桑田乃梨子さんのコミックスを探してたんだが廃版が多くてね、
古本屋廻りをしたんだ。
「おそろしくて言えない」がなかなか全巻揃わなくってね。
結局、5件も廻ってしまった。車の走行メーターは30Kmだよ。
でも、欲しいものは全部揃ったからラッキー。

一郎「どうして突然桑田さんの作品を読もうと思ったんですか?」

いやね、『男の華園』の最終巻を買ってきてね、わたしには珍しく
ジーンとしてしまったものだから、前のも読みたくなってさ。

一郎「『男の華園』・・・ホモのマンガですかぁ?」

違うってば。男子新体操部を舞台にした、ダラダラアンチスポ根マンガだよ。
ラストシーンが、先輩が全部卒業などでいなくなってしまって、
学生生活を振り返って「楽園だった」という感じでさ、
なんか、自分の学生時代を思い出してしまった。

一郎「どれどれ。(ペラペラ)あまり絵の上手い人ではないですね」

いーんだよ、そんなことは。絵なんて見てれば慣れる。
桑田さんの作品は雰囲気がいいんだよ。
『1+1=0』なんてぜひとも映画化してみたいねぇ。

一郎「1+1=2でしょう。それ、計算合ってませんよ」

だから、作品のタイトルだってば。貸したげるから、明日までに読んどきなさい。
わたしはもう、読む度に巻末のおまけマンガでボロ泣きよ。普段ひたすらに固い涙腺の元栓が壊れたんじゃないかというぐらいのボロ泣き。桑田さんは決して泣かそうと思って書いてはいないだろうからこそ心の奥底に届くんだ。読め、笑え、そして泣け!

一郎「読んどきなさいって・・・これも助手の仕事のうちですか?」

もちろん。

一郎「考えてみれば、助手の仕事って給料出るのかな?」

『黒布KUROKO』

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少年チャンピオンにて高橋葉介氏の新連載『黒布KUROKO』が始まりました。
第1回は都市伝説風なオープニングで始まり、怪事件を解決する黒布の2人も
ボケとツッコミタイプでなかなか面白かったです。
ノリとしては『学校怪談』後期の感じですね。
本日発売号の第2回も、ハイテンションでとばしてます。(始まり方はちょっとグロですが)
高橋葉介氏といえば大昔はエログロな人でしたが、いつの間にかギャグメインに
なっていますねぇ。
夢幻紳士・冒険活劇編の頃から笑えるギャグ作家になって、その道を突っ走ってますな。
たまに、短編で昔のような作品も発表されておりますが。
ふ?む、ふ?む、ギャハハと第2回を読み終え、コンビニを後にする。
って、立ち読みかい。(ビシッ) 雑誌ぐらい買えっーの。
えー、でもでも、他に読むとこないし。
他の作家さんに失礼なやっちゃなー。

まぁ、高橋氏のコミックスは買ってるんですけどね。

『丸かじり』シリーズ

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東海林さだおの『丸かじり』シリーズを読む。
この人の、自然体な文章にはあこがれますなぁ。
なんだかんだで、全巻読破。

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