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B002P6XVAS.jpg『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』  (1966) THE WAR OF THE GARGANTUAS 88分 日本 東宝

監督:本多猪四郎 製作:田中友幸、角田健一郎 脚本:本多猪四郎、馬淵薫 撮影:小泉一 美術:北猛夫 デザイン:成田亨 編集:藤井良平 音楽:伊福部昭 アクション:開田裕-サンダ 中島春雄-ガイラ 特技・合成:向山宏 特技・撮影:有川貞昌、富岡素敬 特技・操演:中代文雄 特技・美術:井上泰幸 特技監督:円谷英二
出演:ラス・タンブリン、佐原健二、水野久美、田崎潤、中村伸郎、伊藤久哉、田島義文、桐野洋雄、山本廉、岡部正、勝部義夫、伊藤実、岡豊、渋谷英男、橘正晃、小宮康弘、ヘンリー大川、森今日子、沢村いき雄、広瀬正一、伊原徳、堤康久、坂本春哉、津田光男、キップ・ハミルトン、大前亘、古谷敏
声の出演:睦五郎、木下華声

『フランケンシュタイン対地底怪獣』(1965)の続編である。
 何故日本にフランケンシュタインの怪物がいるのかなどは本編では一切説明されていないので、知りたい方はそちらを参照のこと。

 船が大ダコに襲われた。その大ダコの後を追うように、巨大な怪獣が出現。乗組員5人のうち4人までを食ってしまう。クロールしながら乗組員を追ってくる怪獣がまず怖い。この後、大ダコは登場しない。何だったんだアレは。『フランケンシュタイン対地底怪獣』の海外版では向こう受けする大ダコとの対決のシーンがあったと言うからセルフパロディか?
 海の怪獣はフランケンシュタインの怪物サンダの細胞が分裂して生まれたその名もガイラ。サンダは性格が優しく人の言うことを聞くのに対して、ガイラは人を捕まえてムシャムシャと食う。そして衣服などをペッっと吐き出す。怪獣映画だと思って観に行った子供達の心にトラウマを残したという。
 ガイラは羽田空港へ上陸。羽田は一大パニックとなる。この羽田空港のセットは精巧に作られていて特に広さに見応えがある。怪獣というと大体ゆっくりと動くが、比較的小型なガイラは動きが速い。ダッシュでスクリーン目がけて走ってくる。怖い。
 陸上自衛隊がガイラ退治に乗り出すことになる。大型ヘリコプター3機や戦車、特殊車両を貸し出すなど実際の自衛隊は大盤振る舞いだ。
 山に向かったガイラを放電作戦とメーサー光線で良いところまで追い詰めるが、兄弟の危機を感じ取ったサンダが現れガイラを救い出すと山の中に消えてしまう。
 ここまでならば仲の良い兄弟なのだが、ガイラが人を食うと知ったサンダは弟とケンカ別れ。そして一大兄弟ゲンカの場は銀座へと移る。

 この作品はBlu-ray版で観た。自分が生まれる前の映画がこれだけクッキリ高画質で見られるとは思わなかった。光度バランスも取れていて、照明の当たり具合も上手く再現されていて画面に深みを感じる。
 弱点としては、高画質すぎてミニチュアワークの粗が見えてしまうことだ。かなり凝ったミニチュアなのだが、今現在の大人から観るとやっぱりちょっとね。
 それでも、サンダ(だったかな)がへし折る橋がちゃんとコンクリートとアスファルトでえ出来ているように見えるのは見事。実際は石膏や木なんだろうと考えるとすごい職人芸だなと感じさせる。
 円谷英二が特技監督を務めているだけあって特撮のクオリティは高い。お気に入りのメカがメーサー殺獣光線車だが、こいつがメーサー光線を横になぎ払うと、立ち並ぶ木が光線にあわせてなぎ倒されていく。おそらくやってることはミニチュアの木に火薬を仕掛けて順番に爆発させていくなど単純なことなのだろうが、効果としては抜群である。それにしてもメーサー殺獣光線車のデザインは見事。『ウルトラセブン』で有名な成田亨デザインでいいのかな。
 しかし、サンダは山の怪獣なのにガイラは何で海の怪獣になったのか。何で人間を食うようになったのかは不明のままである。
 人を食うに関しては幼少時に人間と触れ合わなかったものだから、単に食料としてしか思っていないのだろう。生きるためには物を食べなければならない。食べられる人間側としてはたまったものではないが、怪獣としての道理は通っている。
 サンダが人間を食べないのは幼少時に水野久美ら京都のフランケンシュタイン研究所の人間と親しくして教育を受けたからだ。サンダの怒りは正当なものだが、それをガイラに分かれというのも無理があるのだろう。
 巨大な海彦と山彦はしょせん相容れない存在だったのだ。そう考えると、怪我をした弟に必死で湖の水をかけてやる光景が悲しくてならない。
 2匹の戦いは人間型であるがゆえに、恐竜型のゴジラなどと比べて遙かにアクションの自由度が高い。終盤の銀座→港での戦いは迫力物である。
 音楽は伊福部昭が担当し存分に伊福部節を聞かせてくれる。特に、山でのガイラとの戦いでかかるマーチは最高の出来だ。
 ラストは唐突に海底火山の噴火が起こって海で繰り広げられる世紀の兄弟ゲンカはなんだかよく訳の分からないまま無理矢理決着が付いてしまう。これもデウス・エクス・マキナと言っていいのだろうか。

B00005EF3I.jpg『バトルヒーター』(1989) 93分 日本

監督:飯田譲治 総監督:川島透 製作:山本久、石井俊雄、市山尚三 プロデューサー:新田一郎、瀬田泰、出口孝臣 製作総指揮:大里洋吉 原作:睦月三日生、島川AZ 脚本:中島吾郎、飯田譲治 撮影:水野尾信正 美術:高橋章 編集:高島健一 音楽:BAKUFU-SLUMP、松原幸広 特技監督:古賀信明
出演:パッパラー河合、NEWファンキー末吉、岸谷五朗、奥貫薫、柄本明、室井滋、小倉久寛、バーベQ和佐田、サンプラザ中野、三宅裕司、富田靖子、小宮孝泰(コント赤信号)

 オレがいた名城大学シネマ研究会は天白文化サークル連合というのに属していて、文化祭の目玉が一号館前駐車場で行う無料のロックフェスティバルであった。
 オレの入学とは入れ違いになるのだが、1986年までの数年のトリを勤めていたのが当時まだパンクロックだった頃の『爆風スランプ』。ステージから観客に消火器を撒くわ、どっかから扉を外してきてそれを観客の上に放り投げその上にサンプラザ中野が乗って暴れ回るわ。記録フィルムを見ると好き勝手なステージだった。
 そのサンプラザ中野が今となっては株式投資家で健康オタクになるとはまるで予想が出来なかった。ロックしてねぇなぁ。でも、当時の爆風スランプは確かにロックだった。

 その爆風スランプの第一回主演映画がこの『バトルヒーター』だ。ちなみに第二回主演作はない。
 ゾンビは人を喰う。巨大蜘蛛や巨大蜥蜴に巨大ワニも人を喰う。『チャイルド・プレイ』のように人形も人を襲えば、コンピューターだって人を襲う。だが、炬燵が人を襲って喰うというのはこの映画が史上初だ。史上初のまんまで後継者は未だ登場していないが。
 廃棄された中古家電を回収しては修理して販売している中古家電商(柄本明)とそこの店員のパッパラー河合が処分場で一台の炬燵を手に入れたところから物語が始まる。その炬燵はなんと、呪いがかけられた暗黒の人喰いゴタツだったのだ。何故?と言われても困る。そういう設定なのだから。
 終盤では岸谷五朗が率いるパンクロックバンドが無理矢理にアパート麒麟荘内でライブを行う中、人喰いコタツの大暴れが始まる。岸谷五朗は歌い始めると声は爆風スランプのボーカルサンプラザ中野の声になるが、動きがロック歌手している。勘違いでその会場に押し寄せた女子高生は“爆風スランプファンクラブ”の皆さん。今見ると、怖ろしく野暮ったいが、今の女子高生も2028年頃に映像で見たら野暮ったいのだろう。そんなもんだ。
 誰が良いったって家電屋の主人、柄本明が良い。洋服ダンスの奥には『電気様』を祀る謎の祭壇があったり、ラストには手製のパワードスーツモドキで応援に駆けつける。そのタイミングは『エイリアン2』のラストで登場する“パワーローダー”そのまま。ってかパクリだが格好いい。最近の柄本明はウルトラスーパー超大駄作『魍魎の匣』でもマッドサイエンティストを演じているが、こちらの方がよっぽどクレージー。
 爆風スランプのギタリストであるパッパラー河合が主演。白目を剥いて寝るという主人公を演技の素人なりにちゃんと演じている。
 サンプラザ中野は謎の僧侶役で登場。「うむむ、これは……」とか言っている内に空から落ちてきた『バトルヒーター』のタイトルに吹き飛ばされて大怪我するし、ラストには『END』の隕石に押しつぶされる。この散々な扱いが良い。
 一つだけシーンを挙げろと言われたら、麒麟荘に住む老夫婦を選ぶ。彼らは世間に迷惑をかけた来なかったことだけが唯一の心の誇りで、これからの生活に対する絶望からか自殺を選ぶ。その自殺も、パッパラー河合から借りた半田ごてで感電装置を作り、それが作動すると自分たちは感電死し、部屋の中には白黒の鯨幕が貼られ、台の上には二人の位牌まで建つようになっている精巧な仕掛け。
 1989年の公開時以来に観たが、当時感じた以上に皮肉と毒を含めた美しいシーン。2008年の現在は、政府が老人に「とっとと死ねや」と言っている現状をすでに見据えていたのかも知れない。

 後の『ナイト・ヘッド』などを撮る飯田譲治の商業デビュー作だが、興行的には大コケ。爆風のファン層には受けない内容だろうし、B級ホラーファンには爆風主演というのが抵抗となる。
 だが、麒麟荘という古く狭いアパートの中だけでほとんどのシーンを成立させ、根っからくだらなくて素敵なB級ホラー映画。あまり人数的には喰われないんで、もっともっとバックバックと喰いまくって欲しかったというのはあるが、「爆風スランプ?それ何?」となった今こそ正当な評価を受けるかも知れない。

B000CFWN6C.jpg『ブルークリスマス』(1978) BLOOD TYPE:BLUE 133分 日本

監督:岡本喜八 製作:嶋田親一、垣内健二、森岡道夫 脚本:倉本聰 撮影:木村大作 美術:竹中和雄 編集:黒岩義民 音楽:佐藤勝
出演:勝野洋、高橋悦史、沖雅也、岡田英次、竹下景子、仲代達矢、中条静夫、大滝秀治、新井春美、岡田裕介、八千草薫、天本英世、岸田森、神山繁、小川信司、稲葉義男、岡本みね子、松田洋治、大谷直子、草野大悟、小沢栄太郎、潮哲也、芦田伸介、中谷一郎、島田正吾、松本克平、永井智雄、田中邦衛

 世界中でUFOの目撃情報が相次ぐようになった。そして、光り輝くUFOを目撃した人は、血が青くなってしまう。だからといって健康に害はなく、精神面での欠点が治っていたりする。ひょっとしたら人類はUFOによって進化の次なる段階を登り始めたのかもしれない。
 しかし、青い血の人々を人間以外の物として考えた各国政府は、ついにその抹殺計画を企てる。

 雪で景色が白に染まるからホワイトクリスマス。殺害されたUFO人の青い血で染まるからブルークリスマス。
 人間の血管を流れているのは鉄と結びついたヘモグロビンだが、青い血の人に流れているのは銅と結びついたヘモシアニン。要はイカの血と同じだ。イカも血が青い。UFOからの“宇宙光線”で血液の質が変わってしまったのだ。
 国営放送JBC(大河ドラマとかを作っているようなので元ネタはNHKだろう)の記者仲代達矢が基本的な語り手。UFO事件について発言した科学者を追ってニューヨークへ飛んだり、パリ支局に転勤になったりとあちこち飛び回る。でも、その角刈りな髪型は微妙だぞ。
 もう一人の主役は国防省の自衛隊員勝野洋。行きつけの理髪店で働く竹下景子に恋心を抱いているが、彼女が青い血の持ち主だと知ってしまう。ついにはその抹殺命令を下され、任務と恋とに挟まれて苦しむ。
 UFOの姿は画面上に登場しない。目撃者の証言で語られるのみだ。ストーリーとしても重く、ハッピーエンドとはかけ離れた終わり方で、射殺された恋人の赤い血と青い血が雪の上を流れて、一つに交わるシーンに辛うじて希望を残す。
 新しい人種が生まれたら、それを人間と見なすか否か。劇中の各国政府はは侵略者と考える。そして、大衆の意識を「青い血は悪だ。青い血をした人は敵だ」と思い込ませていく。人種差別は肌の色の違いが主な理由だが、それが血の色になっただけだ。竹下景子が理髪店で観ているテレビ番組が、ナチスによるユダヤ人虐殺であることからも、この映画のテーマは浮かび上がる。
 最近では国会で「UFOは実在するか?」なんてことを真面目に議論しあっていて、アホかと思っていたが、ひょっとしたら政府は私たちの知らない新しい事実を知っていて、それを隠しているのかも。なんつってな。
 あれこれ理由を付けて、全国民の血液検査を強行する政府。自衛隊の上官が、「俺の血も青くなっているんじゃないかと不安でたまらないんだ」とナイフの傷が幾筋もついた左腕を見せるシーンの怖ろしさ。
 岡本喜八の骨太な部分が出たポリティカル・フィクション&SFの傑作。キャストも実に豪華だ。

「血が青くなったら、肌の色が変わるんじゃねーの」という野暮なツッコミもあろうが、あれは化粧でごまかしているのだ。UFO人の女性が寝る時に化粧を落とすと、顔面が青いというシーンがちゃんとある。
 SFXを使わなくてもSF映画は成立すると言うことを示した一本。

B000O17BZC.jpg『馬鹿が戦車でやって来る』(1964) 93分 日本

監督:山田洋次 製作:脇田茂 企画:市川喜一 原案:團伊玖磨 脚本:山田洋次 撮影:高羽哲夫 美術:佐藤公信 音楽:團伊玖磨
出演:ハナ肇、犬塚弘、岩下志麻、松村達雄、花沢徳衛、谷啓、東野英治郎、飯田蝶子、戦車87号

 完璧である。
 タイトルは。

 馬鹿がやって来るんである。
 しかも、戦車でやって来るんである。

 これはもう、タイトルアカデミー賞があったら、上位入賞間違いなし。
 タイトルは。

 学生時代に、このタイトルを聞いた時は驚いた。
 『男はつらいよ』なんて駄作を撮っている山田洋次が、こんなパンクでアナーキーでバカなタイトルの映画を手がけていたとは。
 そして、ビデオでこの作品を観る機会があった。
 最高だった。タイトルは。
 後はもう、かなりどうでもいい映画だ。しょせんは、山田洋次。パンクでもアナーキーでも、そして馬鹿でもない。

 馬鹿ことハナ肇が鬱屈させた思いがついにぶち切れて、戦車で村を破壊しまくるが、爽快感がない。閉鎖的村社会に、弱者がついに牙を剥く重要なシーンなのに、その意味すら感じさせない。
 どうやら山田洋次に“馬鹿”というものが理解できていないようだ。
 香具師であるヤクザ者の車寅次郎を、お調子者のお人好しとしてしか描けなかったのも無理はない。

 社会風刺か、寝ぼけたような映画史しか撮れない馬鹿な山田洋次が、喜劇映画の重鎮となってしまったことは、実に悲劇である。
 このことで、日本の喜劇映画はゆうに20年は後れを取った。未だに『釣りバカ日誌』が続いているなんて、ひどい話もあったものだ。

 ちなみに、オレにとってバカは褒め言葉。馬鹿はけなし言葉。口頭だと区別が付かないので、“馬鹿“は“頭が悪い”と呼んでいる。東大を出ていようが、馬鹿は馬鹿だ。

B000HXE3VM.jpg『FREEDOM 1』(2006) 24分 日本

監督:森田修平 演出:片山一良 脚本:佐藤大、千葉克彦、野村祐一 シリーズ構成:佐藤大、千葉克彦 美術監督:市倉敬 音楽:池頼広 キャラクター・メカニックデザイン:大友克洋
声の出演:浪川大輔、森久保祥太郎、山口勝平、桐本琢也、松本大、加藤精三、福原耕平、田中一成、仙台エリ

 約300年後の未来、月、『1984』まではいかないが管理された社会。ビークルと呼ばれるマシンでレースに興じる主人公たち。
 地球は人が住めなくなっているとのことだが、詳しくは語られない。だが、月面に1枚の写真が撃ち込まれて、そして天に見える地球は青く輝く。
 1作目であるこの作品ではレースが中心となっていて、今後どのような展開になるかはまだ分からないが、タイトルの『FREEDOM』の意味合いも含めてストーリーが繰り広げられるのだろう。

 日清食品のカップヌードルとタイアップしていると聞いてはいたが、実際に観てみると劇中で主人公たちが実に美味そうに食っていて、むしろ「24分間のカップヌードルのCM」ではある。
 第1話として十分に楽しめたが、なんでカップヌードルのCMに金を出してレンタルしなければならないのかという感じもする。カップヌードル1ケースのおまけにDVDを付けてもいいんじゃないだろうか。
 オープニングには実写による廃墟や閉鎖された遊園地の映像が登場するが、これは後への伏線となっているのだろうか。ともあれ、続編を期待する。

 買い出しに行ったスーパーで思わずカップヌードルを数個購入。美味かったが、彼らが食っていたのはビッグじゃなくて普通のカップヌードルなのに手に持っている映像では二回りぐらい大きく見える。つまり未来人は月面の狭いドーム環境に合わせて体格が小さく進化したと。・・・違うな、やっぱCMだ。

B000BQVDHC.jpg『亡国のイージス』(2005) 127分 日本

監督:阪本順治 製作:坂上直行、久松猛朗、千野毅彦、住田良能 プロデューサー:佐倉寛二郎、古川一博、河野聡、伊東森人、椎井友紀子 エグゼクティブプロデューサー:伊達寛、川城和実、高野力、北川淳一 企画:小滝祥平、遠谷信幸 原作:福井晴敏 脚本:長谷川康夫、飯田健三郎 撮影:笠松則通 美術:原田満生 編集:ウィリアム・アンダーソン 音楽:トレヴァー・ジョーンズ 録音監督:橋本文雄
出演:真田広之、寺尾聰、佐藤浩市、中井貴一、勝地涼、チェ・ミンソ、吉田栄作、安藤政信、真木蔵人、岸部一徳、原田美枝子、原田芳雄、城戸光晴

 あのつまらん原作、いやクソな原作をどうにか観せる映画にした阪本順治手腕は買う。だがまぁ、やはり劣悪な材料をどう調理したってまともな料理になるはずがない。

 乗っ取られたイージス艦で、唯一自由のみである主人公が悪党をやっつける。
 ストーリーは『沈黙の戦艦』そのまんま。リアルにした『沈黙の戦艦』といったところだが、そもそも設定自体が大嘘なんだから、主人公がメチャクチャ強い“コック”と大嘘を平気な顔でついた時点で『亡国のイージス』の負けだ。

 叛乱を起こした副長(寺尾聰)以下の海上自衛官が何がやりたいのかピンとこない。憂国だ愛国心だということらしいが、それで何故に朝鮮人と手を組むのかが分からん。純粋に金が目当てだったとかで良かろうに。
 朝鮮人の指揮官(中井貴一)も、何故イージス艦を乗っ取らなければならなかったか、意味が分からない。化学兵器で東京を壊滅させるつもりだったようだが、その化学兵器がイージス艦に搭載されていて、それを奪取するためならば分かるが、在日米軍から盗んですでに自分たちで持っているのである。
 だったら、自動車なり列車なりで東京へ持っていってばらまけば良いだけのことでは?

 亡国だ憂国だ愛国心だと曰っておいて、最後には愛や人の力が勝つ。
 オレは、愛国心だ憂国だと騒ぎ立てる奴も嫌いだが、人類愛だヒューマニズムだと声高に主張するヤツらも嫌いだ。
 原作者の福井晴敏はその両方であるようだ。グダグダうるさいだけ。そりゃオレの趣味には合わんわ。
 自衛隊内に極秘に設置された情報組織「DAIS(ダイス)」なんかは、少年マンガかよっと吹き出してしまった。
 原作は原作、映画は映画な訳だが、どっちもつまらんよと。

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『病院坂の首縊りの家』(1979) 139分 日本

監督:市川崑 製作:馬場和夫、黒沢英男、市川崑 原作:横溝正史 脚本:日高真也、久里子亭 撮影:長谷川清 美術:阿久根巌 衣装:長島重夫 編集:小川信夫、長田千鶴子 音楽:田辺信一
出演:石坂浩二、佐久間良子、桜田淳子、入江たか子、河原裕昌、久富惟晴、三条美紀、萩尾みどり、あおい輝彦、加藤武、大滝秀治、岡本信人、中井貴恵、草刈正雄、小林昭二、三木のり平、林一夫、横溝正史

 個人的には市川崑にはまったく興味がなくて「東京オリンピックでも撮ってろ」という感じだし、映画版『金田一耕助』シリーズもおどろおどろしさを全面に売りにしていて好きになれなかった。
 それから月日は流れ、20年ぶりぐらいに観た『病院坂の首縊りの家』がつまらなかったかというと、これが面白いから不思議な物だ。

 面白かったと言っても、生首やストーリー展開のテンポ、演出の間などがコメディ映画的で面白かったのだ。
 血が噴き出すシーンなどがある。当時はどうだったか知らないが、今となっては笑える。
 はっと何かを気づいたらしくて走り出す金田一。その金田一が街中を走るシーンがタタタタッと映し出されて、で結局大したことが分かったわけではないというあのタイミング。コメディ映画のそれだ。
 斜に構えてミステリー映画をコメディ映画として捉えているのではない。金田一シリーズは最初からコメディ映画だったのだ。
 そう考えれば大滝秀治や三木のり平などが毎回別人として出演している謎も解ける。加藤武の等々力警部が名前は同じだが、別人という設定で各作品で金田一に会う度に初対面になっているのもギャグなのだ。
 草刈正雄と石坂浩二の掛け合いなどやりすぎではないかと思うほど。

 例によって金田一はあまり役に立っていない。
 ラストの謎解きでは、最初の生首事件の時にすでにあなたを怪しいと思っていました、と言っているが、だったらなんとかしろよ。殺されるべき人間は全員殺されているから、ほっといても事件はそこで終わってるだろうに。
 若手刑事から「あの証拠の乾板(写真のネガで、フィルムではなくガラスに焼き付けている)はどうしましょうか」といわれた等々力警部が「そんなものあったかなぁ?」ととぼけるところがいい。
 その乾板はある人物の恥辱的写真が焼き付けられており、証拠として警察が押収したらその恥が公になってしまう。事件は解決したのだから、乾板はなくてももはや捜査に影響はない。だから等々力警部は金田一が乾板を持ち出し割って砕いてしまうことを黙認したのだ。男だねぇ。
 狂言回しというかコメディリリーフの役割を受け持つ等々力警部だが、刑事としての実力はあるのだろう。連続殺人なんてのがあまりに特殊なのだ。

 冒頭の横溝正史は素人演技だが、セリフも自然で上がった様子もなく落ち着いたもの。奥さんも本物の横溝夫人だとか。

 さすがに開発が進んで建物や街が作り直されため、昭和20年代を再現するのは難しくなったようだ。病院坂はその幅や傾斜など趣はあるのかも知れないが、左右に立ち並ぶ家、特に右側にある洋風住宅がどうしたって現代だ。
 この作品が劇場版金田一シリーズの最終作となったのも時代の流れなのかも知れない。
 とか思ってたら、また市川崑監督、石坂金田一で『犬神家の一族』を撮ってるんだよな。なんで今さら・・・角川春樹は過ぎし日の栄光を忘れられないのか?

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『ヒルコ 妖怪ハンター』 (1991) 90分 日本 1991/05/12鑑賞

監督:塚本晋也 エグゼクティブプロデューサー:長谷川安弘 企画:堤康二 原作:諸星大二郎 脚本:塚本晋也 撮影:岸本正広 SFX:浅田英一 音楽:梅垣達志
出演:工藤正貴、沢田研二、竹中直人、上野めぐみ、室田日出男

?オレはいつでも燃えている その28?
 諸星大二郎の『妖怪ハンター』が沢田健二主演で映画化されると聞いて、「おお、これは絶妙なキャスティングかも」と喜んだ。話題になった自主映画『鉄男 TETSUO』(1989)はあまり好きではなかったので、これが商業映画デビューとなる塚本晋也には不安も覚えたが、楽しみにして公開翌日に観に行った。
 原作では長髪でニヒルな考古学者稗田礼二郎が、映画では髪も短くよれよれの白い麻のスーツで部屋にゴキブリが出ては大騒ぎをしてキンチョールを吹きかける情けなく頼りない男になっていた。なんじゃこりゃと思ったが、その違和感も最初の10分で消え去り、あとはラストまでドキドキハラハラしながら同時に爽やかに楽しんだ。

 田舎の田園地帯。そこにある中学校を舞台に少年八部まさお(工藤正貴)と稗田礼二郎が古墳と謎の妖怪ヒルコをめぐって冒険を繰り広げる。
 古くから伝わる言い伝えによると、ヒルコという魔物がこの地にある古墳に封じ込められているという。その古墳を見つけ出した中学教師の八部(竹中直人)が女子生徒月島と一緒に失踪する。まさおは二人の友人と一緒に父と月島を捜して学校内をうろついている。そこに、友人である八部から古墳について手紙をもらっていた稗田がやってくる。だが、すでにヒルコの封印は解かれつつあり、夏休みの学校は惨劇の舞台となった。

 主役を稗田からまさおにすることで、この作品は過酷な経験を経て成長する少年の一夏の物語となっている。まさおは背中に二枚の湿布薬を貼って登場する。そしてヒルコによってヒルコによって人が殺される度に、その人の顔がまさおの背中に痣となって焼き付けられる。八部家は先祖代々古墳を守る一族でその重みと責任を背負わされているのだ。終盤に入る前に用務員の渡辺(室田日出男)が右側の湿布薬をはがすとそこには八部の顔があった。左側もはがそうとするが、その手をまさおが止める。そこにはまさおが恋していたが口もきいたこともない相手である月島があるはずだ。その想いを胸に、まさおは最後には世界と人類を背負うことになる。その危機を友人二人が救うシーンは感動だ。

 ヒルコの姿は中盤まで映し出されず、それまでは床や壁をはい回るヒルコの視点で登場する。『死霊のはらわた』(1983)で森の中を高速でうろつき回る死霊の描写に似ている。中盤になって現れたヒルコは人の頭を首から切断し、そこに乗り移って蜘蛛かカニのような足を出して移動する。蝿のような羽根で空も飛ぶ。人間に精神攻撃を仕掛けてくる怪物だが、キンチョールに弱いという弱点がある。モデルアニメーションやマペットで不気味な姿が映像化されている。ハイビジョン合成で大量のヒルコがうぐめく様はなかなか見事。
 屈指のシーンは山の上で稗田が古墳の場所に気付くシーンだ。紙に書かれた菱形の古墳の地図から眼下に広がる夜の学校へとダイナミックな視点の切り替えがある。これを映画館のスクリーンで観た時には背筋がぞくぞくっときた。DVDやビデオで観ても良いシーンなんだが、やはりここはスクリーンじゃないとと思ったりもする。
 池の底から差し込んでくる地上の明かりを、ヒルコたちがうらめしく見上げているシーンも良い。いつか地上を我が物にせんと、太古の昔からずっと見上げて来たのであろう。

 大胆な設定の変更が加えられているため、原作『妖怪ハンター』の愛読者には評判が悪いかも知れない。ただでさえ諸星大二郎は熱狂的ファンが多そうだし。だが映画は映画、原作は原作。出来上がった作品が面白ければそれでいいじゃないか、と思う。

『バナナシュート裁判』(1989) 82分 日本 1989年鑑賞

監督:佐藤闘介 脚本:佐藤闘介、伊藤暢幸 撮影:浜口知俊、林民夫 美術:古谷伸二 制作:宮川洋紀、伊藤正昭
出演:油井昌由樹、原浩之、河野牧子、入江達也、木下浩

 えーっと、何の記念だったか忘れてしまったが、とりあえずサッカー映画特集第三弾。といってもこの作品はサッカー映画じゃないし、まともなサッカーも登場しない。
 一応は商業映画なのだろうが、限りなく自主映画に近い。というか自主映画。わたしは自主映画って奴が嫌いで、やはりこの映画も嫌いだ。青春期のウダウダをそのままウダウダ描いているだけで最初っから最後までウダウダウダウダウダウダウダウダ。あーもうイライラするっ!もっとこうパーッと弾けたりズダダダっと突き抜けたりしないものかね。何が楽しくてこんな映画を撮ってるんだか。

 男二人女一人の平凡な高校生三人組が、自由気ままに生きる中年男に出会ってその生き方に感化される。そして自分たちも夢に生きようとするが現実の前にあえなく負けてしまう。そして、夢を追って南米に旅だったはずの中年男は本当は南米になど行っておらず日本にいただけだった。しかし、主人公の少年は嘘つきで現実から逃避する中年男の生き方を認め自分もそれに同調するのだった。

 って、何だよこのストーリー。結局現実逃避かよ。行けよ南米ぐらい。でコロンビアにでも行ってゲリラに捕まって殺されるぐらいしろよ。さらにすごい奴ならそこから脱出するってのが男だろ。海外に行ったと嘘ついて日本にいたって、あんた「ゴールデンウィークにハワイに行くって近所に嘘をついて、カーテンを閉めた家の中でひっそり隠れてる見栄張り家族」かよ。
 これといった夢や目標もなく、漠然とした不安が胸の奥にあったりする。確かにそういう青春もあるだろう。だが、それを映画にする意味がどこにある。鬱陶しいだけ。なんかむかつくだけ。文学ならまだしも、映像で見せられるときついぞそれは。ほんと、ウダウダウダウダウダウダウダウダウダウダだ。
 こういうのがリアルだとか、青少年が夢や希望を持てなくなった現代社会を描写しているだとかトンマな感想もあるがやかましい。これは単に監督の佐藤闘介がウダウダ野郎なだけだ。二作目の『曖・昧・Me』(1990)を観てもわかるだろう。まったく、男気俳優佐藤允の息子だというのにとんだヘコ虫マンだ。
 せめて中年男がスナフキンのような魅力的な人物だったら印象も変わっただろう。高山みなみではなく岸田今日子がムーミンを演じていた旧「ムーミン」版のスナフキンだ。ハーモニカではなくギターを弾いていたスナフキン。テント暮らしで冬になるとムーミン谷を離れて暖かい南へと旅に出る、自由人と言えば聞こえは良いが、今になって思うと彼は無職なホームレスであった。しかし、親友であるムーミンに人生の意義などを時に分かりやすく時には喩えて教えた導師でもある。
 せめて、本当にせめて中年男がただの情けない敗北者ではなく、同じ状況にあってもなお輝いて見える人物であったならば少年たちが魅せられるのも分かるし、化けの皮がはがれてその正体が露わになっても背を向けずに受け入れることの説得力も出ただろう。
 というわけで「クズ映画」の称号を与えて今日は終わる。

『北京的西瓜』(1989) 135分 日本 1989/12鑑賞

監督:大林宣彦 製作:川鍋兼男、大林恭子 プロデューサー:森岡道夫 企画:川鍋大 原作:林小利、久我山通 脚本:石松愛弘 撮影:長野重一 音楽:根田哲雄
出演:ベンガル、もたいまさこ、林泰文、柄本明、天宮良

 スイカ関連映画2本目。
 でもまったく憶えていない。観終わると同時に完璧に忘れていた。いや、観ると同時に記憶から消去していった。
 大林宣彦監督作品としては1983年に観た『時をかける少女』は好きだった。正確には当時の原田知世が好きだった。それ以外の大林宣彦作品は正直言ってどうでもいい。1980年代後半にはわたしにとってホントどうでもいい監督になり、以降そのままだ。
 ロリコン野郎なんだから素直にロリコン嗜好全開の映画を撮ってればいいのだ、大林は。それを何をどう勘違いしたのか、自分には娯楽映画や文芸映画も撮れると思い込んでいるから始末に負えない。
 『北京的西瓜』は日本に留学に来て苦しい生活の中がんばっている中国人留学生と、そんな彼らを見かねて援助を始めた八百屋夫婦についてのストーリー。全編を通して偽善や自己満足に満ちあふれていて観ていて苦痛だ。ラストには国に戻った留学生から八百屋夫婦連絡が来て・・・ってのはまったく何だよそれは。鶴の恩返しじゃねーっての。もしかして助けた亀に連れられてだったら延々帰ってこれないだろ。
 夫婦が中国を訪れるシーンは天安門事件のため撮影できず、代わりに37秒間の何も映っていない映像が挿入されているが、んな中途半端なことをするな。中国当局から許可が下りなかったのなら機材を隠して持ち込みゲリラ撮影をしろ。それが当局に見つかり逮捕・秘密裏に殺害されても映画のためだ文句を言うな。それぐらいの覚悟もなしで映画を撮ってんじゃねぇぞ、この腑抜け野郎。それが出来ないってんなら未完成のままお蔵入りにしとけ。そっちの方がずっと世のためだ。
 こんな河童に尻子玉を抜かれたような映画に騙されるな。感動なんかするな。と、今日は何だか機嫌が悪いわたしは怒ったりするわけだ。
 中国を扱った映画なので文句を付けると妙なところからクレームがあるかも知れない。だが「中国を扱った」から貶しているわけではなく、単にクソつまらない上に社会派気取りで自己愛完結しているから文句を言っているのだ。仮にイラクからの留学生だったりジンバブエだったり、あるいはアメリカだったとしてもこの映画のひどさに変わりはない。

『塀の中のプレイ・ボール』(1987) 104分 日本

監督:鈴木則文 製作:織田啓二、杉崎重美 プロデューサー:大西悦子、小坂一雄 原作:安部譲二 脚本:鈴木則文、溝札昌裕 撮影:羽文義昌 美術:重田重盛 音楽:山崎稔
出演:草刈正雄、小柳ルミ子、伊武雅刀、山城新伍、長門勇、岡田奈々、ガッツ石松

 囚人チームと看守チームがスポーツで対戦する映画というと『ロンゲスト・ヤード』が有名だが、実は日本映画にもあったりする。スマッシュヒットした『塀の中の懲りない面々』の二作目にあたる『塀の中のプレイボール』がそれだ。
 監督が鈴木則文だからと映画館まで観に行った。東映以外で鈴木則文がメガホンを取るのは珍しい。一応はヤクザ物に属するが、東映ヤクザ物とは雰囲気がかなり違い人情重視になっているのが松竹作品らしい。

 『塀の中』というだけあって舞台は刑務所の中。アメリカの刑務所物はかなり悲惨でつらそうだが、このシリーズにおける日本の刑務所は不自由なことは多くてもそれなりに快適そうで、囚人同士の暴力沙汰やどっからか物を仕入れてくる調達屋は登場しない。刑務所物を観る度に疑問だったのだがあの調達屋ってのはどこから物資を手に入れてくるのだろうか?刑務所じゃなくて捕虜収容所になるが、『大脱走』のジェームズ・ガーナーは看守の弱みを握って裏で取引していたが、刑務所の場合もやはり看守なのだろうか?

 刑務所の中で囚人達が休憩時間に楽しんでいるのがソフト・ボール。以前は看守チームとの対戦も行われていたという話を聞いた主人公(草刈正雄)は再びその試合を実現させようとする。それと同時に、各囚人の犯した罪や過去が語られていく。
囚人の中にガンを患い余命いくばくもない老人がいて、彼がいろいろと面倒を見た少女が今ではスター歌手になっている。彼女が慰問コンサートを行うが会場に老人の姿はない。そして雨の降りしきる中、一つの棺が門を通って塀の外へと運び出される。ベタだがぐっとくるシーンだ。

 もう20年近く前の作品で、今さらレンタルビデオで借りる人も少ないだろうし、テレビで放映されることもまずないだろうから書いてしまうが、結局のところ看守チームとの対戦は実現しない。
原作がそうなっているのか、映画の都合でそうなったのかは知らないが、観終わってみると「なるほどあのまま看守チームと戦わせたら、その勝負に目が行ってしまい囚人達の群像劇が置いてけぼりになってしまうな」と感じた。何を見せて何を見せないかは演出における重要な点だ。
 ソフト・ボールの試合の代わりにラスト近くにどつき合いが用意されている。怒った主人公は看守長(山城新五)のいる部屋へと乗り込み、怒鳴り合ったあげく激しい殴り合いを始めるのだ。この殴り合いがなかなかに良い。アクションとしては大したことはないのだが、「決着はこの拳でつけるぜっ!」とセリフではなく俳優の身体で語らせている。勝負は看守長が勝って終わる。嫌な奴だった看守長もそれなりに男であった。山城新五のことなど興味はなく単なるチョメチョメ野郎だと思っていたがちょっと見直した。ちょっとだけだけどな。

『ハウルの動く城』(2004) HOWL'S MOVING CASTLE 日本 119分 2005/01/23鑑賞

監督:宮崎駿 プロデューサー:鈴木敏夫 原作:ダイアナ・ウィン・ジョーンズ 脚本:宮崎駿 美術監督:武重洋二、吉田昇 音楽:久石譲
声の出演:倍賞千恵子、木村拓哉、美輪明宏、我修院達也、神木隆之介、大泉洋、大塚明夫、原田大二郎

宮崎アニメの集大成的側面を持っているが、その割には心底のめり込んで作ったという感じはしない。なんか微妙な映画だ。
もうね、多分宮崎駿自身はいい加減引退したいのではないかと。前に「もう監督はやらない」発言をしていたし。宮崎のように自分でキャラクターデザインから世界観などの美術までやってしまう人は、映画の隅々の細かい点に至るまで自分で把握・管理し支配下に於かないと我慢がならないのだろう。実写の監督ならば美術・衣装・撮影の各担当者に監督によって程度は変わるがお任せして負担を減らせるだろうが、宮崎はかなりの部分が自分の背中に背負ったまま。そりゃ年も年だしいい加減疲れるわ。
だからってスタジオ・ジブリという所帯を持ってしまったからには、そこの人間を遊ばせているわけにもいかない。ジブリ自体は金銭的に余裕があるだろうが、映画作りをしないと現場の才能が育たないどころか枯れていくから、1?2年に1作程度のペースで新作を作らなければならない。本当はそこでそろそろ若手に監督をバトンタッチしてもいいのだが、それなりに才能を開花させていた『耳をすませば』(1995)は病死してしまうし、では他の奴はどうかと撮らせてみると『猫の恩返し』(2002)や『ギブリーズepisode2』(2002)などという駄作を出してくる。こりゃ、後を託そうにも頼りなくて引退できんわ。
そんなわけで、しょうがなく撮ったのではないかなと思われる『ハウルの動く城』には『もののけ姫』や『千と千尋の神隠し』が持っていた張りつめるような緊張感は存在しない。はっきりしたメッセージを打ち出しているわけでもない。ここしばらく精神的に追いつめるように撮っていた宮崎駿が、久々に肩の力を抜いて撮っている感じで観ていて少し嬉しかった。

主人公は地味な娘のソフィー。彼女は呪いで老婆にされてしまう。その声を演ずるのは倍賞千恵子で、最初は「老婆の時はともかく、若いときも倍賞なのかよ。若い役者がやったほうが良かったんじゃないの」と思ったが、観ている内にそれはまったく気にならなくなる。いや、映画を観れば分かるが、老婆のソフィーと娘のソフィーははっきり線引きされた異なる存在ではなく、彼女の心がときめくことによってボーダレスにその間を揺れ動く、突き詰めれば同一の存在なのだ。
ソフィーは今は亡き父親から譲り受けた帽子屋で働く地味な娘だ。母親は遺産で遊び暮らしているようだし、妹は社交的な性格でソフィーとは正反対だ。しかし、ソフィーはそんな母や妹を羨むことなくやはり地味に暮らしている。おそらく友達も多くはないだろうし、恋人はいない。これまであまり恋もしてきたことがないのだろう。だからひょっとすると、ソフィーは荒れ地の魔女呪いで若さを奪ったのではなく、その心の年齢にふさわしい姿に変身させたのかも知れない。
老婆になることによって初めて自分とはなにかという自我に目覚めたソフィーは、自身を模索するうちに心の中に固く縮こまっていた「ときめき」とでも呼ぶ物の存在に気付き、ときめくソフィーの心に合わせて時には姿が若い娘のそれに変わる。冒頭のソフィーは他人を寄せ付けず自分の殻にこもった娘だったが、問題なのは地味であることではなく他人への心の開き方なのだろう。
恋するとは自分以外に他人の存在を意識すること。つまり恋には自我の目覚めが不可欠である。城が動くとか飛行機械からの爆撃などが登場するが、突き詰めるところ一人の女性が自我に目覚めていく過程を描いた映画なのだ。
重要なのは外見ではなく心である、女はいくつになってもときめけば恋してもいいのだ、というこの映画の主張は、2004年に日本を席巻した『春のソナタ』へのオバサンの想いと同じ物なのかも知れない。だからハウルを演ずるのが木村拓哉なのだろう。どこか現実離れした生活感を感じない木村拓哉”という存在とその声は、才能溢れる魔法使いハウルにぴったりだ。もちろん、ハウルは同時にヨン様ことペ・ヨンジュンでもある。汗の匂いも男臭さも感じさせないハウルは、男の側から見ると現実味のない薄っぺらな存在にも思えるのだが、だからこそ理想的な初恋の対象になりうるわけで、遠い日の初恋を再体験もさせてくれるのだろう。

『ハウルの動く城』はもちろん韓国でも公開されるだろう。そのときのハウル吹替担当はペ・ヨンジュンでどうだろうか。

『八甲田山』(1977) 日本 169分 2005/02/05レンタルDVDにて鑑賞

監督:森谷司郎 製作:橋本忍、野村芳太郎、田中友幸 企画:吉成孝昌、佐藤正之、馬場和夫、川鍋兼男 原作:新田次郎 脚本:橋本忍 撮影:木村大作 美術:阿久根巌 衣裳:長島重夫 音楽:芥川也寸志 助監督:神山征二郎
出演:北大路欣也、高倉健、丹波哲郎、三國連太郎、緒形拳、前田吟

暑い時にはカレーのような辛くて熱い物を食って暑さを吹き飛ばす。そこで寒い時には寒い映画だろと思って観てみた。結果、寒さが吹き飛ぶどころか余計と寒くなった。しかも気分まで思いっきり憂鬱にマリアナ海溝級にまで沈み込んだ。まったく、橋本忍はいったいなにがしたい、なにが言いたくてこんな映画を撮ったのか。
製作と脚本を兼ねている橋本忍、この人は『七人の侍』(1954)や『砂の器』(1974)などを手がけた東宝系の大物脚本家なのだが、わたしはこの人の作品はあまり好きじゃない。それどころか嫌いと言っても良いだろう。重苦しいのはまあ作風だろうがストーリーよりもテーマを優先させ、登場人物が愚鈍でセリフなどに魅力が感じられない。何より説明的なシーン・会話に終始してしまうことが反映画的で面白みがない。
『八甲田山』では明治35年1月末に青森県八甲田山にて陸軍の兵士200人以上が雪中行軍を行い吹雪のためほぼ全員が凍死に至った『八甲田山事件』という実際にあった出来事を描いている。青森第五連隊からの重装備・多人数の神田隊に対し、史実では存在しない(2005/2/27訂正:弘前三十一連隊による八甲田山踏破も事実。ただし指揮官の名前は徳島ではなく福島)軽装備・少人数の弘前第三十一連隊からの徳島隊を登場させたのは、南極探検におけるイギリスのスコット隊とノルウェーのアムンゼン隊が発想の元となっているのだろう。南極点を目指したスコット隊とアムンゼン隊も南極の雪と風に苦しめられ、スコット隊は南極点到達をアムンゼン隊に先を越されてしまいついには帰路の途中で力尽き全滅してしまった。神田隊と徳島隊が対比されることによってより悲劇性が強調されるというわけだ。
だが、そもそもひたすらうっとおしくなるような悲劇を何故映画化しなければいけなかったのか個人的には理解できない。映画も中盤以降はモノクロのような雪景色の中を軍服の男たちがずらっと並んでゆっくりゆっくり行進し続けていくだけで、段々と力尽きた兵士が一人ぱたり、また一人ぱたりと倒れていく。残った兵隊はもはやそれにかまう余裕もなく死への行進を続けるだけ。ああ、天は我を見放した。確かに鬼気迫る物はあるが、これが短めの作品ならともかく169分もあるのだ。これは観ていて精神的につらい。
無能な指揮官によって部隊が全滅していく様が描きたかったのか、大自然の怖ろしさとその前での人間の無力さを描きたかったのか。だからどうした、そんなこと169分も使ってやるなと思うわけだ。
雪中行軍の撮影は大変だったとは思う。雪の中に機材をセットして、大勢の役者にメイクや衣装を施して揃えそしてカメラを回す。撮影現場を多少知っている者から見るとただそれだけで大仕事だったのが分かる。だが、撮影が大変そうだったということと作品への評価はまた別物で、そこら辺でちょろっロケして低予算で撮った物でも良ければ傑作だし、予算をつぎ込み大規模なセットを作った物でもつまらなければ駄作だ。
唯一良かったなと感じたシーンは、雪国育ちの兵士である緒形拳が雪の寒さの中で初夏の花畑を思いやるシーンだろうか。暖かそうなその花畑の中で軍服の緒形拳がぴょんぴょんはね回ってはしゃいでいる。この撮影シーンを想像しただけで笑える。「緒形さーん、次はちょっとスキップしてもらえますか??」
徳島隊を指揮する高倉健は『網走番外地』(1965)、『居酒屋兆治』(1983)、『鉄道員』(1999)など雪のある風景がよく似合う。『南極物語』(1983)では極寒の地・南極にまで行っている。だがしかし、健さんは雪国ではなく九州は福岡県の出身なのであった。

『星くず兄弟の伝説』(1985) 98分

監督:手塚眞 製作:近田春夫 製作総指揮:近田春夫 原案:近田春夫 脚本:手塚眞 撮影:大沢栄一、飯田哲也 特殊メイク:原口智生 音楽:近田春夫
出演:久保田しんご、高木完、戸川京子、尾崎紀世彦、ISSAY、景山民夫、戸川純、中島らも

昔、『宝島』という雑誌があった。いや、一応今でもあるにはあるが、ロックやポップカルチャーで満ちあふれていた1985年当時の『宝島』とはとっくに別物で、若者向けカルチャー雑誌からヘアヌード誌を経て今ではビジネス誌になっている。あれこれ雑誌の形を模索した結果、ビジネスマンになっている往年の読者層を頼ることにしたのだろうか。
ともあれ、1980年代の『宝島』は時代のムーブメントの一角を担っており、『宝島』系の勢力も強かった。そしてよせば良いのに映画製作に乗り出してしまった。ここから『宝島』の転落は始まっていたのかも知れない。

『星くず兄弟の伝説』は名古屋では上映館にかからず、会場を借りて一日だけの上映だったそうだ。
わたしの先輩達が数人で観に行き上映後のホールで感想を言い合っていた。その中の一人であるU氏が「もう全然っ駄目。なんだこれはよぉう」と大声で貶していた。(またこのU氏は普通に話していても声がでかいのだ)ふと辺りが静まりかえったので振り向くと、トイレに行こうと通りかかった監督の手塚眞が立っていた。その後、手塚眞の作品が名古屋で上映されても監督本人がその地を訪れることはなかったいう。
嘘か本当か知らないが、わたしの所属していた大学のシネマ研究会に伝わる伝説である。でもって、このしょうもない伝説の方がまだ『星くず兄弟の伝説』本編よりも面白いのだから困る。
『宝島』誌に掲載されたかねてつ(現カネテツデリカフーズ)の広告を担当していた縁で故・中島らもが数カット端役で登場しているが、根っからの“ひどい映画”や“B級映画”ファンだった氏ですらエッセイの中で「あれはひどい失敗作だった」と書き記していることからもひどさが分かる。
主役のある久保田しんご、高木完ともにその後ほとんど名前を聞かない。むしろその二人よりも、その追っかけ役で後にアイドルデビューする少女を演じた戸川京子の可愛らしさが印象に残っている。なんでこの人が戸川純の妹なの?と尋ねたくなるような似てない姉妹だったが、戸川京子は2002年7月に自ら命を絶ってしまった。内面では似ていたのだろう。
そう言えば中島らもと相方で景山民夫が出演していた。考えてみると製作年度や出演者の年齢にしては故人の多い映画だ。
音楽プロデューサーに見いだされたスターダスト・ブラザーズが大ヒットするシーンでは、『笑っていいとも』や『オレたちひょうきん族』の1コーナーだった『ひょうきん・ベストテン』に出演する二人が映し出される。これが映画の宣伝でテレビ出演した時の録画をそのまま使っており、予算もあまり多くはなかったことを感じさせる。
ラストで黒幕が登場するがその正体はクレイジーキャッツの『大冒険』へのオマージュないしパクリだったのだろうか?唐突でただもう破綻している。多分現場も破綻していたのではないだろうか。
そんな中、音楽プロデューサーを演ずる尾崎紀世彦がかろうじて映画が吹き飛ばされないよう重しになってくれている。始終サングラスをかけたこのプロデューサーは時に自らマイクを取ってスタンダードナンバーを歌う。もうサビの部分しか憶えていない『若者たちの心にしみる歌の数々』などの劇中歌は、さすが『また逢う日まで』などの大ヒット曲を歌った人だけの迫力がある。
何故に尾崎紀世彦がこの作品に出演しているのか不思議だったが、今回フィルモグラフィーを調べていてこの人は大林宣彦の『HOUSE』(1977)にも出ているのに気が付いた。大林と言えば『ねらわれた学園』(1981)で手塚眞を役者として起用するなど手塚眞との関係は深い。そのつてで紹介してもらったのだろうか。もちろん、わたしは大林宣彦嫌いなので、これは大林が手塚の才能に惚れ込んで後押ししたのではなく、手塚のバックにいる人物に媚びを売っただけではないかと推測している。
手塚眞という監督は東京で自主映画を撮っていた人で、これが一応のメジャーデビュー作になる。自主映画はそれほど悪くなくそこそこ面白い物を撮っていたらしい(未観)。アマチュアの世界でかなり上の位置にいて、「あいつはすごい」「超○○級だ」と鳴り物入りでプロデビューしたら全然通用しなくてそのまま鳴かず飛ばずというのはよくあることだ。だから『星くず兄弟の伝説』と“手塚眞”も単なるそういった事例の一つに過ぎないはずなのだが、それをそうさせない大きな要因が手塚眞が“日本を代表する大マンガ家の手塚治虫の息子”だったことにある。
かなりの失敗作だった『星くず兄弟の伝説』は手塚治虫という存在によって、それこそ伝説とも言える大失敗作になってしまった。
現在、手塚眞は監督ではなく“ヴィジュアリスト”なる肩書きを名乗っている。前向きに名乗っているのではなく“映画監督”など他に名乗れるような肩書きがないからだと推測する。

『ハチ公物語』(1987) 107分

監督:神山征二郎 製作:奥山和由 プロデューサー:鍋島寿夫/進藤淳一 原作:新藤兼人 脚本:新藤兼人 撮影:姫田真佐久 美術:西岡善信 編集:近藤光雄 音楽:林哲司 助監督:中島俊彦
出演:仲代達矢/八千草薫/田村高廣/長門裕之/石野真子/三木のり平

昨日の『伊勢湾台風物語』から神山征二郎監督作ということで。もちろん映画館では観ていない。そこまで映画野郎として腐ってはいないのだ。
後にテレビで放映されたときに観た。観終わった感想としては「あークソつまらんかった。時間の無駄。プップー」だったのだが、一緒に観ていた女性をふと見ると肩をふるふると震わせている。なっなんと泣いていたのだ。それも涙腺全快のダダ漏れ泣き。
「うわっ、あんたなんでこんな映画で泣いてんだよ」
「えーっ!そっちこそ感動しなかったの?!信じられない、この鬼!人でなし!プラナリア!」
「失礼な事を言うな。プラナリアは身体をぶった斬ったら場合によったら頭がもう一つ生えてくるスゴイ奴だぞ。プラナリアに謝れ」
「じゃあこのカルピオネラ!」
「なんだとー。俺のどこが原生動物だー」
というのでケンカになった。『ハチ公物語』が理由とは映画と同じく実に詰まらないケンカだ。
監督・神山征二郎、脚本・新藤兼人というのはかなりやってはいけない組み合わせだ。クソ映画を作るという意味では単体でも強力なのにパーティーを組まれてはたまったもんじゃない。こうなったら一か八か最強呪文のTILTWAITで対抗だ。
実際、この映画はストーリーは実話をそのまんま。(もっとも、この“実話”自体がどこまで事実なのかは大いに疑問が残るが。主人を一心に待ち続けるというストーリーは、戦争に駆り出された夫や息子を待つ銃後の妻の戦意高揚のため、時のマスコミや政府によって都合良く脚色されたおそれは大いにある、と今勝手に思いついたのだが調べてみるとやはりそういう説もあるようだ。わたしが思いつくような事はすでに誰かが思いついているのか・・・)
演出もなんの工夫もなくストレートと言えば聞こえは良いがただ単調なだけ。そのくせ感動させたいシーンでは無理矢理に演技や音楽を盛り上げるあざとさで、観てるこちらとしては「なにやってんだか」と引いてしまう。いわゆる“凡庸”を絵に描いたような、いやフィルムに焼き付けたような作品。
この映画で泣いたという人は少なからずいるようだが、「じゃあ泣いたから良い映画なの?」とは問いかけてみたい。泣くなんて映画の付随要素に過ぎないと個人的には思うんだけどね。つか、数本でしか泣いた事ないし。

ただ主人の帰りを待っていただけで“忠犬”扱いされ、渋谷駅前に銅像まで作ってもらい待ち合わせ場所として有名になっているハチ公よりも、盲導犬として主人に仕えその主人をかばって交通事故に遭い左前足を失ってしまった“名犬サーブ”の方が10万倍ぐらい立派だ。偉いに順番をつけるなんてアホな行為だとは思うが、国だって功績を挙げた人に「はい、あんたは勲一等。はい、あんたは勲三等。はい、あんたは大したことしてないから銀杯だけね」てなことやってるし。
名古屋駅前の交番横に作られた“名犬サーブ”の銅像なんて、JRセントラルタワーズが建てられたせいで階段の下に追いやられたんだぞ。段ボールハウスな人たちじゃないっつーの。こんな扱いじゃ銅像立てた意味がないだろ。
さすがに可哀想だろうと今では久屋大通公園に移されたそうだが、階段作る時点で何とかしろよ名古屋人。こんなセンスで愛知万博大丈夫か?愛知万博のポスターに「一生一度は万博だ」というコピーのやつがあるが、大阪万博に行った人はもう行かなくても良いって事か?じゃあ、しんのすけの父親は愛知万博に来る必要ないな。埼玉からじゃ遠いしな。

結論としては、1987年にもなってこんな古くさい泣き落としの映画を作ってるんじゃねえっ、これは現代映画じゃなくて近代映画だ。映画としての成り立ちがあまりにズレてる。だから松竹はダメなんだよ、ってこと。

『びんばりハイスクール』(1990) 1990/9/4鑑賞

監督:鈴木則文 プロデューサー:若松孝二 原作:石井まゆみ 脚本:渡辺善則/ 鈴木則文 撮影:喜久村徳章 音楽:後藤次利
出演:藤瀬かおり/日原麻貴/八木小織/竹内力/南渕一輝/片桐はいり/キューティー鈴木/阿藤海/由利徹/塩沢とき

これまた鈴木則文監督によるマンガ原作モノなんですが、往年の勢いは消えてあまりパッとしない作品です。
美少年大好きな片桐はいりの高校教師や、巨大なヘルメットを被ったオートバイライダーがそのヘルメットを脱ぐとそのままな髪型の塩沢ときが現れるなどギャグもありますが、全体的に不発で笑えません。
では学生組織の争いに巻き込まれていく主人公の格闘で見せてくれるかというと、別にジャパン・アクション・クラブの人でもないのでパンチやキックの真似をするとスタントマンが勝手に吹き飛んでくれるというお手軽アクション。
物語が展開してもただひたすらに失速していくだけで、70?80年代の鈴木則文作品が持っていたエネルギーは感じられません。もはや古くささを感じるスタイルには、「ああ、もう90年代なんだな」とどこか寂しさを覚えたものです。

『ホワイトアウト』

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『ホワイトアウト』(2000) 監督:若松節朗 原作・脚本:真保裕一 脚本:長谷川康夫/飯田健三郎 出演:織田裕二/松嶋菜々子/佐藤浩市/石黒賢/吹越満/中村嘉葎雄/平田満 古尾谷雅人

よーするに『ダイハード』のパクリ+『クリフハンガー』のパクリ。
以上、終わり。
で終わってもいいんですが、それにはちょっと惜しいところも。

1.アップが異様に多く、バストサイズのカットが中心。しかし、それはテレビのカットサイズであって、映画のそれではないんですね。映画ではもっと引く。アップなんてめったに使わないんだってば。テレビで撮ってきた監督なんですが、テレビの感覚で撮ったんならば勉強不足。ビデオ化やテレビ放映のことを考えてならば本末転倒。

2.人質を捕られているのに緊張感がない。ダムの職員が数人、および下流の25万世帯がダムの放水によって人質になっているのに、それがドラマ作りにおいてあまり緊張感を持っていない。テロリストが結構気楽に人質を殺していくんですが、主人公の富樫(織田裕二)がそれに対して怒りを感じているように感じられない。自分の仕事仲間だろうに。
『ダイハード』でマクレーンが今日会ったばかりの人が殺されたこと対して怒りと救うことの出来なかった無念さを感じているのとは対照的だ。

3.一度ダムから逃げ出した富樫が、再びダムに戻っていく理由がわからない。小説では富樫が戻って行く理由がわかるんですが、映画ではさっぱり。富樫のセリフで無理やり説明してるけど、納得できないっすね。突き詰めれば、作中を通しての富樫の行動原理が分からない。
何故、一介のダム職員がテロリストを相手に戦わなければならないか?
その理由を描ききれていません。これって最大の欠点では?

4.ダム内部と、警察などの外部の動きがつながっておらず、まったく別の話のようである。
全体をとらえてみれば、スケールの大きいところもあり、銃なんかも上手く使っていて(でもテロリスト=AK47ってのは10年前の感覚ですし、ダムの内部というコンクリートで閉ざされた空間で高速小口径のアサルトライフルを使うと、おまけにおそらくFMJ弾でしょうから跳弾しまくるんじゃないでしょうか)、決してけなすだけの作品ではなく、観るべきところもあります。
しかし、テレビの臭いが プンプンしてくるように感じるのは偏見でしょうか?
わたしは映画が観たいんですが。

役者の演技もテレビレベル。納得できるのは佐藤浩一ぐらいですかね。
ドラマを描くならきっちり力を入れて描く。アクション映画にするならきっちりアクションにする。どっちつかずに終わっています。
でも、がんばってるところはがんばっている。ここらへんが評価の難しいところ。
監督は大したことないけど、いいスタッフがいたってことかもしれません。ほんとは単に 『ダイハード』のパクリではなくて、ちゃんとそこから捻っています。
でも、つまりませんでした。

ラスト、ダムにセットされた爆弾のリモコンスイッチ。コンクリートの中に仕掛けられた爆弾なのに、数キロ先から動作するか、普通。そんなに電波が届かないだろうし、届いてもコンクリートで遮られるだろう。
携帯電話だって圏外なくせに。

何しに出て来たんや、平田満。

『ピンポン』

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『ピンポン』(2002) 監督:曽利文彦 原作:松本大洋 脚本:宮藤官九郎 VFX:曽利文彦 出演:窪塚洋介/ARATA/サム・リー/中村獅童/大倉孝二/夏木マリ/竹中直人

 オープニングの窪塚が橋の欄干に突っ立っているシーンからしてなかなかよくて、しかもそれは映画の中盤で再び登場する重要なシーンだったりする。そこら辺からして、それなりに脚本がよく出来ているのではないだろうか。
演出については同じVFX出身の監督でも『リターナー』の山崎と比べると曽利はかなりマシである。派手なところは派手に、抑えるところは抑える。メリハリの効いた演出である。
 役者陣もなかなか良くて、わたしとしてはドラゴンを演じた中村獅童の力の入りまくりつつ抑えた演技(矛盾してるか?)が好み。ペコの窪塚もスマイルのARATAもそれぞれ自分の役割をきちんと把握しているようで、窪塚のバカ、ARATAのシラケとなかなか良い。ただし、竹中直人は相変わらずの演技だが、これは竹中直人が悪いのではなくて、監督の責任だろう。この竹中直人の演技は彼の本来の芸風を元に周防正行が確立させた物で、著作権は周防正行にあると思うのだが。その点、きうちかずひろは『カルロス』シリーズで竹中直人の悪人顔を活かした極悪非道の日系ブラジル人を演じさせていた。
 ただ、誉める部分だけではなくて、まず卓球シーンなのだが、CGを利用して息詰まる試合を描いているのはいいのだが、ラケットに球がぶつかるのを超アップで撮ったり、海王学園のみんな頭を剃った卓球部員たちが一糸乱れぬ動きで練習していたりとやりすぎなシーンも多々見受けられて、いったいシリアスなのかギャグなのかどちらがやりたいのか首をひねる部分もあった。その点、ひたすらバカのためにCGを利用していた『少林サッカー』はやはりスゴイのだろう。
 それと、ストーリーがペコが主役の部分とスマイルが主役の部分にくっきりと分かれていて、ちょっと見づらい。マンガならば分量もあるのでちゃんと処理できるのだろうが、2時間ほどの映画ではちょっと欲張りすぎではないだろうか?もうちょっとどちらかの主役としてのスタンスを強くして役割をはっきりしてほしかった。
 カットといえば、子供時代のシーンのいくつか(特にペコが鉄人28号の格好をしているシーン)、ピンポン球に人が埋もれている幻想的シーン、そしてペコとドラゴンによる天国での卓球などの“いかにもなシーン”はいらない。どうも「ほらほら、オレらってイケてるし?」といった勘違いの匂いが漂ってくる。

 その後を描いたラストはなかなか良し。しかし、ドイツには卓球のプロというのがあるのか。いろんなプロがあるもんである。

『漂流街』

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『漂流街』(2000) 監督:三池崇史 原作:馳星周 脚本:龍一郎 出演:TEAH/ミッシェル・リー/及川光博/吉川晃司/パトリシア・マンテーロ/柄本明

すまなかった三池崇史。あんたのことはすっかりダメダメ監督だと思ってました。
それが、『漂流街』で認識を改めました。
面白い。理屈抜きにハイテンションでいけてます。

一郎「なんでこれまではダメ監督だと思っていたんですか?」

う?ん、まず三池崇史はVシネマ中心で、劇場公開されるのが少なくてあまり観ていなかったってこと。
そして、その数少ない劇場公開作品でわたしが観たのが、まず『アンドロメディア』で、これはもう「ダメダメじゃんじゃん、ダメじゃんじゃん?」と踊りだしてしまうような究極のつまらなさだったし、もう1本の『サラリーマン金太郎』で、これは「さっぱり、さっぱり?」な出来だった。
他にはWOWOWオリジナルドラマ『天然少女萬』と『多重人格探偵サイコ』を撮ってるけど、この2作品はすでに記憶から抹消されているぐらいヘナチョコだった。
そんなだから、ダメ監督だと思っていたんだけど・・・

今回は、のっけからどう見たって海外なのに「埼玉県」と字幕が出てのヘリによる不法入国者強制送還バスの追跡劇。
ここで、ヒロインに話し掛ける中国人のおばさんがいい味を出してるんだ。
そっから先は舞台を新宿に移して、海外逃亡のために闘鶏場を襲ったところ、現金ではなくてヤクザのヘロインを奪ってしまったことから、様々なドラマやアクションが始まる。
これがまた、唐突でテンション高くて、新宿の裏社会の描写が面白くっていい。
ヤクザ役の吉川晃司がいい味を出してるね。
中国人マフィアのボスとの卓球対決はじっくり描いて欲しかった。

原作者の馳星周が闘鶏場で鶏を運ぶ男で出演していたり、闘鶏のシーンでマトリックスのパロディなんかもあるぞ。
卓球のシーンで吉川晃司は飛んでくる刃物をえびぞりになってよけてるし。

とにかく、三池崇史はやっぱり面白い監督だったんだ。収穫収穫。
ビデオでこれまでの作品を見直そう。
一部の作品だけで評価しちゃ、やっぱりダメだね。観続けることが大切か。まぁ、そうは言っても、なんでもかんでも観ているだけ時間も金もないけどさ。

*公開時に執筆したもの。結局三池作品はあまり好みでないことがわかった。

『バトル・ロワイアル』(2000) 監督: 深作欣二 製作:片岡公生/小林千惠/深作健太/鍋島壽夫 脚本:深作健太 撮影:柳島克己 出演:藤原竜也/前田亜季/山本太郎/栗山千明/柴咲コウ/安藤政信/ビートたけし

*公開時に執筆したもの。いまでもさほど感想は変わっていない。

公開初日に、早速観てきましたぞ。

一郎「あれ?今日は仕事じゃなかったんですか?」

仕事が終わってから行った。だから映画が終わったらもう午後11時近く。でも、そんな疲れなぞ忘れさせてくれるようなスゴイ映画だった。
もう70歳の深作欣二がどうしてこんなエネルギッシュな映画が創れるんだろう?
しかも、すごく繊細で緻密なんだ。
役者がいいぞ。主役の二人藤原竜也と前田亜季もいい。それから山本太郎はおいしい役だったね。かっこよかった。
そしてなによりも教師キタノことビートたけし。この映画、ビートたけしが出ていなかったら、もっと違っていた作品になっていたと思う。
その他のちょっと驚いた出演者では、タケシと電話で話している声が前田愛だったり、バトル・ロワイアルについて説明するビデオのお姉さんが宮村優子だったりする。

国会で問題になるなど、色々な意味で話題になっている映画だけど、生きること、そして死ぬこと。人を殺すこととはどういうことかについて語っている。
娯楽映画でもあり、考えさせられる映画でもある。
中学生同士が殺し合うという話題先行でもいい。前田亜季目当てでもいい。
どんな理由でもいいから、一人でも多くの人に『バトル・ロワイアル』を観て欲しいな。
ってゆーか観ろ。観るんだ?。

一郎「セコいあんたが700円もするパンフレットを躊躇もなく買ってきましたもんね。よっぽど気に入ったんですね」

うん。そろそろ今年も終わりだが、今年のナンバー1は『バトル・ロワアヤル』で決まりだな。
久々に『いつかギラギラする日』(深作監督作品)を観たくなってレンタルビデオで借りてきてしまった。
これから観るんだ?。明日は休みだから夜更かしだい。


『バトル・ロワイアル』その2

一郎「あれ、また『バトル・ロワイアル』ですか。

うん、あの映画についてはかなり語りたいことがある。
今日は原作と映画の関係についてだ。

最初にはっきり言ってしまえば高見広春氏の『バトル・ロワイアル』は映画『バトル・ロワイアル』にとって、原作というより限りなく原案に近い。原作を徹底的に解体して無駄な部分を削り取り、一から再構築したのが映画の脚本なんだ。 あらすじは同じだけど、個々の部分を見ていけばまるで違うものなんだよね。ちなみに脚本を書いているのは、深作欣二の息子深作健太だ。

まず、原作では何人かの生徒について、彼らが背負っているものや過去について触れられているけど、映画において詳しく描かれるのは主人公の七原一人だけ。
その理由としては、おそらく焦点を絞りたかったというのと、上映時間の長さ、そして色々な生徒について過去の回想シーンを入れていたら、時間軸がメチャクチャになってしまって実験映画もどきになってしまうからだろうな。

そして、もっとも大きな変更点は担任教師の描かれ方だ。原作においては悪役であった担任教師が、映画の担任教師キタノは裏の主役になっている。もしかしたら、心理描写という点では、主人公の七原と中川よりも深いかもしれない。
多くの人が死ぬこの映画だけど、キタノの死に方が一番いいぞ。
「クッキー、最後の1枚になっちゃたなぁ」

実を言うと、わたしにとって原作は「まぁ、こんなもんか。つまらん」なんだよね。
中学3年生が同級生同士殺し合うというストーリーを聞いたときはどんなにトチ狂った小説かと思ったが、その実まるで『中学生日記』を思わせるような気恥ずかしく底の浅い青春小説。ティーン・エイジャーならまだしも、わたしにはうっとおしくてしょうがない。いや、ガキの頃に読んでもやはり性に合わなかったろう。健全な不マジメ少年だったからな。
その点、映画は明らかにトチ狂っている。マトモじゃない。
そのテンションの高さは、たけしがギャグで言っていた「深作監督は昔やっていたヒロポンが今になって効いてきました」を思わずうなずかせてしまうほど。
原作が竹刀だとしたら、映画は抜き身の真剣。触れれば斬られる。すべてにおいてギリギリ感が充実している。 だから見る側にもエネルギーを必要とさせる。

『R?15』指定については色々言いたいこともあるけど、こんな面白い映画子供に観せるにゃもったいない。我々大人たちだけで楽しもうって意味ではいいのかも。
もしも、15歳の時の自分がこの映画を観てどう感じるか?興味深いな。


『バトル・ロワイアル』その3

一郎「まだ続くんですか『バトル・ロワイアル』?いい加減飽きましたが」

いいから、黙って話を聞きなさい。
銀座の映画館では「高校生がスピーカーを手に抗議のスピーチを展開するひと幕もあったが」というので、R?15指定反対の抗議かと思いきや、上映反対の抗議だったそうだ。
おそらく、その彼らのコメントだと思うのだが、
「都内在住高校3年男子生徒(18)ニュースで映像が流れているのを見て、身の毛のよだつ思いをした。メンバー6人と抗議に来た。映画はまだ見ていないが、保護者に見ないように働きかけていただきたい。」
・・・・・・アホか。
わたしが映画版『バトル・ロワイアル』にイカレちまってることを抜きにして、客観的に言わせてももらう。
こいつら徹底的なアホだぞ。
何がアホって、自分の眼で観ていない映画の批判をするんじゃない。
観て、自分の頭で考えて、そして批判するなら批判する。抗議するなら抗議すべきじゃないか。
観てもいないのに抗議をするなんて、自分の頭で何も考えておらず、他人の意見に振り回され踊らされているだけだ。性根がなっちゃいない。はっきりいって卑怯だ。
おそらく、彼らは学校ではイイ子ちゃんなのだろう。大人の言うことを素直に受け入れるのだろう。
わたしは高校生の頃ワルイ子ちゃんだったので(不良だったとかってわけじゃないよ)、大人や他人の意見を参考にすることはあっても、それをそのまま受け入れることはなかったんだがな。
自分で実際に見たり聞いたり体験したりして、自分で考え自分の感じたことで動いてきたつもりだ。
同じ作品を観ても感じることは人それぞれだから、『バトル・ロワイアル』に抗議をするのはかまわない。
しかし、最低限のモラルとして映画をちゃんと観てから抗議しなさい。
でなければ、その抗議の声は何の力も持ちはしないよ。

一郎「Zzzz・・・」

一郎君、寝てるし・・・

一郎「Zzzz・・・まったく年をとると説教臭くて・・・むにゃむにゃ」

『VERSUS』

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『VERSUS』(2000) 監督:北村龍平 脚本:北村龍平 出演:坂口拓/榊英雄/松田賢二/新井雄一郎/松本実

  なんでも小山ゆうの『あずみ』が映画化されるとのニュースを耳にした時のこと。
 『あずみ』は読んだことはないのだが、本屋で表紙を見たり『くのいち』好きなセンパイが「あずみが?」とか言ってたことから察するにどうやら忍者物・時代劇だろう。製作費6億で興収30億円を目指すのはちょっと欲張りすぎじゃないかなとか、主演の上戸彩って誰だ?金八先生に出演してたっていっても金八なんぞ見てないから知らんわ。えーと、肝心の監督はと・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・『VERSUS』の北村龍平だぁぁぁ?
 ちょっと待て、いっぱい待て、激しく待て。わたしの読み間違いじゃないよな・・・うむ、上から読んでも北村龍平下から読んだら平龍村北。確かに北村だ。何故?何故故に北村?製作の東宝と日本ヘラルドの偉いさんをとっ捕まえて尋ねたい。何で北村?狭い日本にだってそれなりの人数の映画監督がいるというのに、何でよりによって北村を選ぶんだ?あんたたち『VERSUS』見たのか?見てないだろ。見ていたらあいつに映画を撮らせようなんて考えるはずがないからなっ!

 いや『VERSUS』はホントにマジにすさまじく超ウルトラスーパーデラックスな『クソ』映画だ。刑務所を脱獄した男が犯罪組織の人間とある森で落ち合う。その森は全然意味不明なのだがどういう訳か死者がゾンビとなって襲ってくる森だった。そしてこれまたまるで意味なく登場した女を、何でかさっぱりわからないのだが庇った男は、組織とゾンビを敵に回して戦うことになる。いやもう、脚本がクソなら役者もクソ。もちろんのことながら演出はもっとクソ。映画のどこを取ってもクソ。1カットも容赦なく残さずにクソ。クソの中のクソ。英語で言うとKuso no nakano Kuso!ってそれ英語じゃねーよ。
 久しくこんなにひどい映画は見たことがなかった。どれぐらい久しいかというと・・・300年ぐらい?って生まれてないだろ、っつーかその頃に映画はねーよ。学生の自主映画だってこれではボロカスに言われるぞ。そんなんをよくもまぁ劇場公開したもんだ。わたしは旧作のレンタルで借りたが、それでもレンタル屋に「こんなモンを金取って貸すんじゃねぇ。むしろ借りてくれた人に金払え。無駄にした時間と迷惑料合わせて1万だ。嫌なら2万だ」と詰め寄りたいぐらいだった。劇場では上映終了後に観客が暴動を起こさなかったのだろうか?いや、上映中に暴動が起きなかったのが不思議だ。
 もしも劇場で見ていてしかも監督の舞台挨拶なんぞあった日には、わたしは舞台へと駆け上り監督をぶん殴っていたことだろう。しかし、暴力はいけないよ暴力はと思い直して、監督に「すまん」と謝って助け起こすと、やはり許せずに今度は蹴り飛ばしておまけにエルボー。あーもう、見ていない人にこの腹立ちをどう伝えればいいのか?とにかく日本にゴールデン・ラズベリー賞(最低映画に与えられる賞)があったら、最低映画賞、最低主演男優賞、最低主演女優賞、最低スクリーン・カップル賞、最低助演男優賞、最低脚本賞、最低監督賞と各賞をダントツで総なめにしていたはずだ。
 だいたいこいつらプロの悪党のはずなんだが、どうみても全員頭悪そうで、そこらのヤンキーのアンちゃん。下っ端のチンピラはまだしも、組織のボスぐらいは多少まともな役者を使えなかったのだろうか?やたら銃を向けて脅すシーンがあるが、プロなら必要なときだけしか銃を抜かないし、そして抜いたら躊躇なく撃ち殺すもんだ。毎回毎回お互いに銃を向けあったまま睨み合っててどうするんだよ。『レザボア・ドッグス』のラストの銃による三角形を見習えっつーの。少しはまともに男を描いてみろよ。

 そもそも、犯罪映画なんだかホラー映画だかわからない。娯楽要素てんこ盛りにしたつもりなのかもしれないが、単に中途半端なだけだ。ゾンビ物をやるんならサム・ライミの『死霊のはらわた』やピーター・ジャクソンの『バッド・テイスト』が無理なのは百も承知だが、せめてエド・ウッドの『死霊の盆踊り』の足元レベルの作品は作ってもらいたいものだ。って、『死霊の盆踊り』より遥かに下なのかよ!もっとも『死霊の盆踊り』は観たことをネタにできるし、ティム・バートンが『エド・ウッド』なんて映画を作っていたりするんだが。

 わたしはいろんなモノを叱ってきた。しかし、今になって考えるとそれらは叱るほどのことはなかったんではないか。『叱る』という単語はこの『VERSUS』のために取っておくべきではなかったのか。こいつを映画と呼ぶことすらイヤだ。映画は『観る』で統一してきたわたしが、『見る』をつかうぐらいイヤだ。北村を監督と呼ぶのはイヤだ。ほんとーーーーーーーーーーにイヤだ。
 他に誰かいなかったのか?誰でもいい。なんなら人間じゃなくて犬や猫でもいい。1カットを撮影する前からダメでクソなクズ映画とわかっているものを何故作る?何とかしてくれ、頼むから。心の底から頼むから。あーもう、生きてるのがイヤだ。死んだらどんなことがあっても『あずみ』を見ずにすむな・・・

『ヒルコ/妖怪ハンター』(1991) 監督:塚本晋也 主演:沢田研二、工藤正貴

自主映画『鉄男』(1989)で衝撃的デビューを果たした塚本晋也の初メジャー作品。でもって、今のところ最後のメジャー作品。『双生児』(1999)がどっちだか微妙なところだが、まっ、マイナーだろう。
『ヒルコ』ではニヒルだった稗田礼二郎は頼りなくコミカルなキャラクターになり、主人公は稗田から甥っ子の男子高校生になった。こういった諸星大二郎の原作からの思い切ったアレンジによって、青春ファンタジーホラー娯楽映画となったのだ。
塚本晋也に娯楽映画が撮れるのかとかなり不安な面もあったが、観終わってみるとけっこう心地よく感動しているわたしがいた。
主人公たち3悪ガキにはなにやら青春時代を思い出したし、考古学の知識はすごいのだが実際妖怪に遭遇するとアタフタ慌てふためいてる沢田研二は好演である。猟銃片手の故・室田日出男の迫力はさすが。
古墳の場所が判明するシーンでの視点の移動は何度観てもエキサイティングだ。
うむ、ちゃんと観客を楽しませてくれてるではないか。

マイナーな映画が好きな人は、ハリウッドを始めとするメジャー系の映画を「中身がなく薄っぺら」とか「派手なだけ」と批判する。逆にメジャー系の娯楽映画が好きな人は、マイナーな映画を「難解だ」とか「退屈だ」と批判する。
しかし、本来映画は映画。突き詰めれば単なる傾向の違いだ。
『鉄男』シリーズや『BULLET BALLET バレット・バレエ』などの塚本晋也でなければ撮れないような映画がある以上、別に無理してメジャーな映画を撮る必要はないのだが、肝心の娯楽映画畑の人々がつまらない・しょうもない作品を作ってばかりだとしたら、また塚本晋也に出て来てもらうのも手かもしれない。

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