『X-MEN:ファイナル ディシジョン』(2006) X-MEN: THE LAST STAND 105分 アメリカ
監督:ブレット・ラトナー 製作:アヴィ・アラッド、ローレン・シュラー=ドナー、ラルフ・ウィンター 製作総指揮:スタン・リー、ジョン・パレルモ 脚本:ザック・ペン、サイモン・キンバーグ 撮影:フィリップ・ルースロ、ダンテ・スピノッティ プロダクションデザイン:エド・ヴァリュー 衣装デザイン:ジュディアナ・マコフスキー 編集:マーク・ゴールドブラット、マーク・ヘルフリッチ、ジュリア・ウォン 音楽:ジョン・パウエル
出演:ヒュー・ジャックマン、ハル・ベリー、パトリック・スチュワート、ジェームズ・マースデン、ベン・フォスター、ファムケ・ヤンセン、イアン・マッケラン、レベッカ・ローミン、アンナ・パキン、ショーン・アシュモア、アーロン・スタンフォード、ダニエル・クドモア、ケルシー・グラマー、ヴィニー・ジョーンズ、マイケル・マーフィ、ダニア・ラミレス、エリック・デイン、キャメロン・ブライト、エレン・ペイジ、ショーレ・アグダシュルー、ケン・レオン、オマイラ、アンソニー・ヒールド
映画は20年前の出来事から始まるが、ここではまず数万年ほど昔の話から語ろう。
旧人から新人へと進化してきた生物はその新人の中でもさらに進化を続け、ネアンデルタール人から我々ホモ・サピエンスへと主役が変わった。
この交代劇の時にどのような事態が起きたのだろうか。ホモ・サピエンスが餌場や狩り場が干渉しあうネアンデルタール人を惨殺してついに滅ぼしたのか。
実際にその時のことを見てきた人がいるわけではないが、どうも研究によると大きな対立はなかったという説が有力だそうだ。そもそもの個体数自身が少ないので大きな争いに発展しなかったというのもあろう。
では何故ネアンデルタール人は滅びたのか。ある学者はこう語る。
「単に栄枯盛衰さ」
原作の『X-MEN』は一度も読んだことがないことをまず言っておく。原作ファンからすれば間違った解釈もあるかもしれないが、オレは単に『X-MEN1~3』を観たというだけの男だ。
ミュータント側は大きくプロフェッサー側とマグニートー側に分かれる。プロフェッサー側は彼らは次世代の人種で、ネアンデルタール人からホモ・サピエンスと主役が変わったように時がたてばじっくりとミュータントの時代が来ることを確信している。その世代交代を焦ることなく現時点ではホモ・サピエンスと共存して平和を求めている。
一方のマグニートー側は、彼自身がユダヤ人としてナチスに迫害され、そしてミュータントとしても迫害されたことからホモ・サピエンスを憎みそして見下している。共存ではなく、手段があれば一刻も早くホモ・サピエンスを滅ぼし、ミュータントの時代を作ろうとしている。
そして我々ホモ・サピエンスはミュータントが旧人→新人→ミュータントという存在であることを恐れている。あくまでもホモ・サピエンスであり一種の病気にかかっているだけだと思いこもうとしており、また「治療」の可能性も探っている。
ミュータントが次なる進化の段階なのか、それともただの突然変異なのか、確実なところをオレは知らない。言えるのは『X-MEN』は一般的に言われるところのヒーローではないということだ。
プロフェッサー側にしろマグニートー側にしろ、ホモ・サピエンスと自分たちは違う存在だと思っているし、人々を守るために戦っているわけではない。。描かれるのは彼ら自身の葛藤だ。
監督がブライアン・シンガーからブレット・ラトナーに変更になった。その理由は知らんが内部でいろいろあったのであろう。そんな映画の外で起こったことには興味はない。
監督の交代によって作品のカラーが大きく変わった。
ブライアン・シンガーは登場人物の心理描写を積み重ねていくことでストーリーを展開する人だが、ブレット・ラトナーはアクションでストーリーを展開させる映画監督だ。この場合のアクションとは格闘シーンやスタントシーンという意味に限定せず、「行動」という意味でのアクションだ。歩くこと、走ること、抱き合わせること、見つめること。そんな登場人物の行動によって作品を構築していく。だから、前2作と比べると主人公たちが自分の悩みについてあれこれ考え落ち込んだりさせずに行動によって葛藤を描く。
どちらの演出方法が上か下かという問題ではない。ただ、タイプの違う監督が続編を撮ったならばそれまでと雰囲気が違う作品になるのはごく当たり前なことである。
1、2作目であれこれ思わせぶりな複線を引いてある状態に放り出されて、「さぁこれらをまとめてこの1作で完結させろ」と言われたブレット・ラトナーはさぞ苦労したことだろう。しかも予算はちょっと少なめな感じ。
その結果、ウルヴァリンの失われた過去と記憶についてはほとんど無視しているし、主要な登場人物の何人かを殺してしまう。これには出演者側からの「そろそろこの役を降りたいんだけど」という声もあったのかもしれない。
完結だろうと大ヒットすれば続編を作るのがこの業界だが、全作で死んでしまえばもう引っ張り出される心配はあまりない。「あまり」をつけたのは時として生き返らされてしまうこともあるからだ。2作目の時点で死んでしまったある人物が甦ってくるが、これは2作目の時点ですでに決まっていたのか。それとも本人が次も出たいと要求したからなのか。まぁ理由はどうでもいい。
とにかく大なたを振るった感じではあるが、広げきった風呂敷をそれなりにたたんで、ラストにちょっとしたくすぐりを入れて映画は終わる。あのくすぐりは続編への伏線ではなく、これで映画のシリーズは終わったが物語はまだまだ続くという意味だと解釈した。
好きなシーンは、灼熱の炎と極寒の冷波を二人の対立するミュータントが撃ち合い、お互いの中間で拮抗してバシバシっと火花を飛ばすところ。ミュータントの能力に戦闘値っぽいレベルがあったりで、まるで『ドラゴンボール』かなんかのアニメやコミックみたい。あっ、原作はアメコミか。