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『ダ・ヴィンチ・コード』 手がかりが手がかりを産むのかよ

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『ダ・ヴィンチ・コード』(2006) THE DA VINCI CODE 150分 アメリカ

監督:ロン・ハワード 製作:ブライアン・グレイザー、ジョン・コーリー 製作総指揮:トッド・ハロウェル、ダン・ブラウン 原作:ダン・ブラウン 脚本:アキヴァ・ゴールズマン 撮影:サルヴァトーレ・トチノ 衣装デザイン:ダニエル・オーランディ 編集:ダニエル・P・ハンリー、マイク・ヒル 音楽:ハンス・ジマー
出演:トム・ハンクス、オドレイ・トトゥ、イアン・マッケラン、アルフレッド・モリナ、ジャン・レノ、ポール・ベタニー、ユルゲン・プロフノウ、エチエンヌ・シコ、ジャン=ピエール・マリエール

 観ていて思いだしたのが、ニコラス・ケイジ主演の『ナショナル・トレジャー』(2004)だ。
 どちらもつまるところは宝探しの話。まずは主人公が手がかりを手に入れる。
 手がかりによって見出されるのが新たなる手がかり。そして新たなる手がかりによってさらに新たなる手がかりが見つかる。ひたすらこれを繰り返しているだけ。
 確かにこれならば一見だれることなくラストまで観客を引っ張っていける。
 こういう話法はどんなもんだろうかと思う。原作も一気にラストまで読んだし、映画もラストまで一見緊張感はあった。しかし、オレとしては押しつけられている感が強くて好きではない。

 インターネットマンガ喫茶で読んだパタリロにあったと思うのだが、あるミステリー好きの科学者が死に、ある謎が残る。
 手がかりを追っていったパタリロたちは、そこで答えではなく新たなる手がかりらしきものを見つける。
 しかしパタリロは「ミステリーでは手がかりによってもたらされる物は答えでなくてはならない。手がかりによって次の手がかりが見つかるなんてことはない」とか言っていた記憶がある。
 間違っていてはいけないので車でひとっ走りマンガ喫茶へ。祝日とあってかそれなりに混んでいた。
 どの巻に収録された話か分からないので、取りあえず新しい方から調べていく。
 棚の前に立ったままページをめくること5分ほど、第55巻の最後に収録されたエピソード『ジラードの遺産』にそれはあった。

「推理小説マニアは謎の上に謎をかさねたりはしない
隠し場所が謎で見つかった物が
さらに暗号になってるなんて
ことはありえない」
「一つの謎ときには一つの答え
つまりあれはただの○○で
理論の隠し場所は他にあると
いうことだ」

 このパタリロのセリフだけで十分だという気もするが後を続ける。

 いくつかの手がかり、つまりは鍵を集めないと答えに至らないならともかく、手がかりが手がかりを生み出すというストーリー展開は、確かに観客を最後まで引きつけはする。だが、つまるところ一種の手抜きであろう。観客をハラハラさせたりリラックスさせたりする緩急がなく、ひたすら急急だけだ。
 本の場合はまだ読み手が自分のペースで読み進めることが出来るが、映画の場合は展開のペースを一定の物で押しつけられてしまう。その押しつけが疲れる。
 ここで対比としてアルフレッド・ヒッチコックを出してしまうのはあまりにも安易だが、ヒッチコックは作中に登場する答えないし手がかりをマクガフィンと呼び、それ自体には意味がなく、映画を語り展開させる上での小道具でしかないとする。
 彼ならば最初の一つの手がかりと最後の答えだけで、一本の充実した映画を作り上げ、観客を魅了し楽しませることだろう。

 ラストのオチについてはどうとも思わない。
 『シックスセンス』を始めとする最近のオチ至上主義が、映画界に悪い影響を及ぼしていると考えているぐらいだ。
 別段、映画が面白ければオチなんてどうでもいいんだが、シャマラン作品はオチしかないからなぁ・・・

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