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映画バカ青春記 第60章 夏合宿と総括

 夏休み、俺たちシネ研部員は4年生を除く1~3年生で夏合宿に行く。
 夏合宿は三泊四日。1年の時は確か白馬かどっか、とりあえず山だった。
 『ル・シネマ』の山の中から、1988年の夏合宿資料が出てきた。オレが1年生だった1987年も似たような物だろう。記憶がまるっきりあいまいなのでどうしようかと思ったがこれでどうにかなりそうだ。

 朝の9時半に名古屋駅に集合。そこから貸し切りバスで長野に移動。
 午後2時に宿に到着。「やれやれ、やっと着きましたね」と、仲の良かった2年生の先輩に話しかけても「おぅ」と返ってくるぐらいで、何か避けられている。どうも視線も合わせない。
 オレだけではなく、1年生全員が2年生全員から無視されている。
 どうしたんだ、これは?

 荷物を部屋に納めたら、資料や筆記具を持って会議室に集合。
 そして、到着してわずか30分後、一息入れる暇もない。
 そして、シネ研合宿名物“総括”が始まった。

 1年生と2年生が向かい合うように席につく。
 2年生が、あまり慣れていない上に似合わない厳しげな顔つきでこちらを睨んでいる。
 あらかじめ、総括文として、いわゆる反省文を書かされて、それを小冊子にまとめてある。
 1年生の列の端からその反省文を読み上げさせられる。
 読み終えると、「お前はここがいかん」「そこもいかん」「反省しろ」と、いつにない雰囲気で猛烈に責め立てられる。
 ふと横を見ると、赤い手帳を掲げた人民服の若者が「自己批判せよ」と叫んでいる。いや、それは嘘だが。
 とにかく、怒られ、反省を強要させられる。それが総括だ。

 “総括”とは広辞苑によると「別々のものをまとめ合せること。全体を総合して、しめくくること。また、全過程を検討・評価すること」だそうだ。
 だが、夏合宿での“総括”は、

「総括:連合赤軍は、しばしば総括(そうかつ)と称して各人に政治的な反省を迫ることがあった。これはやがて、本人の自覚を助けるとして、周囲の者が総括をしている者に対し、意見や批判を行うものに発展した。」

 学生運動時代に、過激派が内部で行っていた行為に由来するようだ。
 過激派の総括は最終的に破綻してリンチや殺人にまで発展した。幸いなことに、シネ研の総括は言葉のやり取りだけで終わっていた。
 学生運動など20年は前の出来事だというのに、何故に1987年の夏合宿で、映画のサークルであるシネマ研究会が総括をやらねばならないのか。
 オレはよく知らないのだが、というよりもシネ研を含めた天白文化サークル連合の中でも詳しいのはごく数人なようだが、この天白文化サークル連合、通称天白文サ連、もっと略すと単に“天白”は学生運動が盛んだった1960年代後半に、中核派だか革マル派だかに所属していたらしい。
 サークル棟の階段に「民青粉砕」と落書きがされていたが、民青こと日本民主青年同盟は過激派と対立していたことからも納得できる。ちなみに、この「民青粉砕」は管理人が消しても消しても、また書かれていた。
 先ほども言ったように、オレはここらのことに関しては詳しくない。ほとんどの学生にとって、学生運動など自分が生まれる前か生まれた頃の出来事だ。だが、一部の学生および一部の卒業生にとっては現在進行中の出来事だったようだ。
 それにまつわり秋にはある騒ぎが起こるのだが、それはまた後で。

 シネ研の合宿に“総括”という単語が入ってきたのも、その学生運動の時代だろう。
 さすがに1987年には「何じゃそりゃ?」な過去な言葉だったが、大学の学内というのはある種の閉鎖空間で時間の流れが妙なところがあり、なんだかんだで生き残っていたのだ。
 オレが卒業するまでの間の数年間でも、“総括”的な上級生からの批判は影を薄め、単なる反省会へと変わっていった。
 総括では1年はあくまでも批判される者で、上級生は批判をする側。上級生は絶対である。
 反省会は1年生だけではなく、上級生も反省する。上級生は絶対ではない。
 この差は大きい。

新入生入学の時期には白いヘルメットとタオルによるマスク姿でアジビラを配るなど、かろうじて生き残っていた過激派の残党(ほとんどは学生ではなく、卒業生などだったそうだが)は急速に姿を消していった。
 バブル経済の時代になり、日本社会そのものが変質している時期であったのも関係あるのだろう。自分の意志とは関わりなく、オレはシネ研や天白文サ連の転換期に在籍していたのだ。

 合宿での総括に意味はあったのか。
 普段のサークル生活で規律や規則をやたらととやかく言わない代わりに、ここでまとめてやっておくという意味ならばあった。
 文化系のサークル、しかも全体で一つの作業を行っていないサークルなので、結束力は強くなかった。それを“無理矢理”強める役割はあった。
 だが、怒ったり人を批判するのに慣れていない2年生には、怒られながらも「無理してるなぁ」と感想を持った。
 こっちだって、映画を観に行くことはもちろん、サークル内の活動も力を入れていたので、あれこれ細かいところを怒られてもあまり反省しようがない。
 とにかく、消えていきつつあるイベントだった。

 文化系サークルの夏合宿ときたら普通は遊び合宿だろう。
 だが、1988年の資料だと、シネ研の夏合宿は

1日目 9:30名古屋駅発 14:00現地到着 14:30総括 18:00夕食 以後自由時間(飲み会)
2日目 9:00総括 昼食と30分の休憩をはさみ 18:00夕食 以降自由時間(飲み会)
3日目 9:00総括 11:00昼食 以降自由時間(飲み会)
4日目 10:00自由時間 12:00昼食 14:00出発 18:00名古屋駅着

 といったタイムテーブルだった。寝たり食事をしたり、飲み会をしたりといった生活に欠かせない時間を除くと、半分以上を会議で過ごしていたことになる。

 夏合宿を終えると、下級生も上級生も多少顔つきが変わる。
 顔つきや精神面が変わっても、まぁ長続きはしない緊張感だが、夏休み明けから突入する名城大学学園祭、天白のそれは天白祭といったが、一大イベントへの準備に必要なのだ。
 ところが1987年の天白祭は・・・

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