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映画バカ青春記 第48章 文章の書き方

 高校時代で一番印象に残っている授業が、3年の選択科目であった『文章表現』とかいう授業だった。
 これは通知票にはあまり関係がなく、受験にも影響しない。一種、教養的科目だった。
 内容は見ての通り。思っていること、伝えたいことを、まとめ上げて、それを文章に書く。それだけ。
 たったそれだけが、いかに難しく奥深く、そして大切なのかを知った。

 担当した教師はS先生だった。この先生に担任になってもらったことはなく、何度か現国を受け持ってもらったことがある程度だったが、オレにとって高校での数少ない恩師である。

 その人がどれだけ素晴らしいことや良いことを考えていても、それを人に伝えることが出来なければ何の意味もない。
 人によってはそれを絵を描くことで伝えたり、音楽を作曲することで伝えたり、踊りで伝える場合もある。
 だが、そんな特技がなくても、紙と一本のペンさえあれば誰にだって書ける。それが文章だ。

 オレたちが習ったのは、自分の考えを他人、それは不特定多数の場合もある、にいかに正確に、そしてその真意を伝えるかということだ。
 書き方によってはビジネス文書になるが、違う応用の仕方をすればエッセイや小説、論文にもなる。そんな、文章を書く基本を教えてもらった。

 たいていの場合、人は何かを伝えたいから文章を書く。いきなり書き始めては、まとまる物もまとまらないので、まずは、何を言いたいかをしっかりと整理する。そして、それを伝えるためには文章をどのように組み立てていったらいいかを考える。
 頭の中に浮かんだことをそのままダラダラと書いていったのでは日記以下だ。
 4コママンガだったら起承転結だし、ビジネス文書の場合はいきなり結論から入る場合が多い。

 まず書き手はどんな人物なのか、どんな状況にいるのか、そういった書いている本人、作者の視点がしっかりと存在していることが重要だ。
 この視点さえ強固ならば、話があちこちに飛んだり、多少前後しても、文章の流れは比較的つかみやすい。
 物事への描写があっても、それが作者の視点なのか、単なる地の文なのかでは当然異なる。
 作者がいて、何を示したいかがはっきりすれば、あとは結論に向けて書いていくだけだ。

 その結末までへの持って行きかたには、これは幾通りもあるが、それは技術の部分だ。その後の修練でいくらでも磨くことが出来る。
 話を肉付けるために、その何かについて事細かに克明な描写をすることもある。一般的ではない物ならば、分かりやすい物を比喩として出す方法もある。言いたいことをわざとぼやかして、はっきりと書き表さない手だってある。やり方次第で、表現力はいくらでも広がっていく。

 何を表したいかは、生きていれば色々言いたいこともあるだろう。だったらそれについて書けばいい。ネタは面白いつまらないを抜きにすれば、探せば誰にだってある。
 世界の出来事から晩飯のおかずが上手かったことまで、何だって良いのだ。

 オレが一番重要だと思うのは視点だ。
 作者としての視点を習ったが、これは応用すれば登場する自分以外の人物の視点、人間ではなくいわゆる神の視点、などなどいくらでも広がる。
 一人称小説、三人称小説など色々あるが、それらの一番の差は視点がどこにあるか?だ。

 物を書くときは、視点をはっきりとさせろ。S先生が教えたかったのがそのことなのかは分からないが、オレが学んだのはそれだった。

 そして、それは大学に入ってから「映画における視点とは」という考えに繋がっていくのだが、それはまた後の話。

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