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2006年09月 アーカイブ

2006年09月01日

映画バカ青春記 第47章 『ポリスアカデミー』と青春のレジスタンス

 受験も近づき、クラスの中がどこかピリピリしていた3学期の出来事。
 ロングHRの時間を利用して、レクリエーションをするという話になった。
 視聴覚室を借りて、みんなで楽しい映画でも観てリラックスしようや。
 そこまでは良かった。
 問題は、クラス委員の借りてきた「楽しい映画」とやらが『ポリスアカデミー』(1984)だったということだ。

 1984年に『ポリスアカデミー』を映画館でオレは観ている。何かの同時上映だったのだろう。
 もしも、『ポリスアカデミー』目当てで映画館に行ったのならば、オレは当時のオレを許さない。決して許さない。いくらまだ映画を観る目が出来ていないとはいえ、『ポリスアカデミー』目当てたぁどういうこった。『トップ・シークレット』を観ながら腕立て1000回、腹筋1000回を3セットだ。

 オレは『ポリスアカデミー』が嫌いだ。大嫌いだ。
 コメディと銘打てば、どんな手抜きをやっても許される。そんな作り手の甘えが見え見えで、腹が立ってしょうがない。
 コメディやるなら本気でやれよ。笑わせるなら本気で笑わせろよ。小道具や大道具に金かけろよ。
 『ポリスアカデミー』で面白かったのは、ガンオタクのタックルベリーぐらいだが、これも中途半端。シリーズ後半になるとエスカレートして少しは面白くなるが、一作目は単なるガンオタク。
 そう、今シリーズ後半と言ったが、オレは結局シリーズ6作目の『ポリスアカデミー6 バトルロイヤル』まで映画館で観ているのだ。もちろん目当ては同時上映の作品だ。でもって、併映の『ポリスアカデミー』シリーズを見ては怒っていた。怒るなら見なければいいじゃないかと言われるだろうが、金を払っている以上もったいない。それになにより、観ているからこそけなす権利を持てるのだ。観ていない作品をけなしたり貶めたりするのはクズのやること。

 ともあれ、暗幕を締めて真っ暗になった視聴覚室の、当時としては大型のテレビにワーナーのマークが映し出された。
 オレは一番後列に座っていたが、映画が始まると椅子の向きを変えてテレビに背を向け、目を閉じると耳に指を突っ込んだ。
 上映時間の96分が終わるまで、ずっとそのままでいた。

 これが当時のオレのレジスタンス方法だった。
 本来ならば、「楽しい映画」という不吉な単語が出た時点で、何らかの理由を付けてクラス委員がビデオを借りに行くのにレンタルビデオ屋までついて行って、まともな「楽しい映画」を借りさせるべきだった。
 オレにだって多少の良識はあるので、クラスで観る映画に『トップ・シークレット』は選ばないが、『フライング・ハイ』あたりを薦めたりしただろう。
 それをやらなかった時点で負けだ。

 壇上に上がって
「お前ら、こんなクズ映画を観て笑っていて良いのか?このクズ映画に喜んでいて良いのか?世の中にはこんなクソ溜のクソよりも面白い映画は星の数ほどあるぞ。クズ映画にNo!を。クズ映画にNo!を。さあ、席を立て。映画館へ行け」
 ということだ出来るまでは吹っ切れていなかった。これは大学に入ってからだ。

 当時は面だって反逆することも出来ず、かといって黙って負けを認めて映画を観ることも出来なかった。
 それでやったのが、後ろを向いて目を閉じて耳をふさぐことだった。
 これが18歳のオレのレジスタンスだった。

 馬鹿げているし意味がない。自己満足だ。
 目を閉じて耳をふさいでも映画はなくならないし、何も問題は解決しない。『ポリスアカデミー』はクズなままだし、クラスメイトはそんなクズ映画でも少しは笑ったりするのだろう。
「世の中の人は本気で映画を観ていない」などと青臭いことも思った。そして、大学に入ってオレもその本気で観ていない人の一人だったと気づかされるのだが、それはまた後の話。

 意味がないし、なにも生み出さないレジスタンスだ。だが、校舎の窓ガラスを割って回ったり、バイクを盗んで暴走するよりよほどスマートだし、何より人に迷惑がかからない。

 今ならばどうするだろう。
「君たちは間違っている~!」
 と叫ぶと、教台の上にすっくと立ち、
「『ポリスアカデミー』はつまらん。誰がなんと言おうとつまらん。こんな映画で貴重な時間をつぶすなどもってのほかだ。オレのお薦めはまず『トップ・シークレット』だな。ザッカー兄弟とジム・エイブラハムズのギャグが冴え渡ってるぞ。それから『ブルースブラザース』は外せないな。ラストのパトカーとの大追跡は見所だ。コメディ映画といえば、日本の映画も負けちゃいない。クレイジーキャッツ主演の『大冒険』は笑える上に、植木等のアクション満載の傑作だ、観ておいて損はないぞ。コメディ=お下劣なギャグじゃないのを証明しているのがエルンスト・ルビッチの『生きるべきか死ぬべきか』だ。おしゃれなルビッチタッチではらはらドキドキなスパイ合戦と脱走劇が見事なコメディとして描かれている。コメディといえば外せないのがイギリスのコメディ集団パイソンズだな。TVシリーズの『空飛ぶモンティパイソン』も良いが、オレがこれこそ傑作という一本を挙げるのなら『ホーリー・グレイル』と『ライフ・オブ・ブライアン』だな。って、それじゃ二本だろ。まったくこの~ちょんちょん」
 などという話を延々繰り広げると言ったところだろうか。

 昨年、学生時代の友達と飲み会をやった後に、終電を逃してしまい、仕方なく朝までネット喫茶で過ごしたが、仮眠を取り足そうな友人の横で、一晩中しゃべり続けたのはオレだ。その時は躁の時期だったってのもあるが、よくもまぁこれだけというぐらいあれこれと脈略もなく話し続けたモンだ。

2006年09月02日

映画バカ青春記 第48章 文章の書き方

 高校時代で一番印象に残っている授業が、3年の選択科目であった『文章表現』とかいう授業だった。
 これは通知票にはあまり関係がなく、受験にも影響しない。一種、教養的科目だった。
 内容は見ての通り。思っていること、伝えたいことを、まとめ上げて、それを文章に書く。それだけ。
 たったそれだけが、いかに難しく奥深く、そして大切なのかを知った。

 担当した教師はS先生だった。この先生に担任になってもらったことはなく、何度か現国を受け持ってもらったことがある程度だったが、オレにとって高校での数少ない恩師である。

 その人がどれだけ素晴らしいことや良いことを考えていても、それを人に伝えることが出来なければ何の意味もない。
 人によってはそれを絵を描くことで伝えたり、音楽を作曲することで伝えたり、踊りで伝える場合もある。
 だが、そんな特技がなくても、紙と一本のペンさえあれば誰にだって書ける。それが文章だ。

 オレたちが習ったのは、自分の考えを他人、それは不特定多数の場合もある、にいかに正確に、そしてその真意を伝えるかということだ。
 書き方によってはビジネス文書になるが、違う応用の仕方をすればエッセイや小説、論文にもなる。そんな、文章を書く基本を教えてもらった。

 たいていの場合、人は何かを伝えたいから文章を書く。いきなり書き始めては、まとまる物もまとまらないので、まずは、何を言いたいかをしっかりと整理する。そして、それを伝えるためには文章をどのように組み立てていったらいいかを考える。
 頭の中に浮かんだことをそのままダラダラと書いていったのでは日記以下だ。
 4コママンガだったら起承転結だし、ビジネス文書の場合はいきなり結論から入る場合が多い。

 まず書き手はどんな人物なのか、どんな状況にいるのか、そういった書いている本人、作者の視点がしっかりと存在していることが重要だ。
 この視点さえ強固ならば、話があちこちに飛んだり、多少前後しても、文章の流れは比較的つかみやすい。
 物事への描写があっても、それが作者の視点なのか、単なる地の文なのかでは当然異なる。
 作者がいて、何を示したいかがはっきりすれば、あとは結論に向けて書いていくだけだ。

 その結末までへの持って行きかたには、これは幾通りもあるが、それは技術の部分だ。その後の修練でいくらでも磨くことが出来る。
 話を肉付けるために、その何かについて事細かに克明な描写をすることもある。一般的ではない物ならば、分かりやすい物を比喩として出す方法もある。言いたいことをわざとぼやかして、はっきりと書き表さない手だってある。やり方次第で、表現力はいくらでも広がっていく。

 何を表したいかは、生きていれば色々言いたいこともあるだろう。だったらそれについて書けばいい。ネタは面白いつまらないを抜きにすれば、探せば誰にだってある。
 世界の出来事から晩飯のおかずが上手かったことまで、何だって良いのだ。

 オレが一番重要だと思うのは視点だ。
 作者としての視点を習ったが、これは応用すれば登場する自分以外の人物の視点、人間ではなくいわゆる神の視点、などなどいくらでも広がる。
 一人称小説、三人称小説など色々あるが、それらの一番の差は視点がどこにあるか?だ。

 物を書くときは、視点をはっきりとさせろ。S先生が教えたかったのがそのことなのかは分からないが、オレが学んだのはそれだった。

 そして、それは大学に入ってから「映画における視点とは」という考えに繋がっていくのだが、それはまた後の話。

2006年09月03日

映画バカ青春記 第49章 ついに大学受験スタートだ

 はっきりとは覚えていないが、1月に入ると私大の入試が始まった。

 最初に受験日がやってきたのがA知大学だった。
 受験したのは経済学部。特に経済が好きだったわけではない。本当は文学部を受けたかったのだが、愛知県の私立大学にはあまり良い文学部がないのだ。
 となると残るのは経済か法学。学年が進んで常に六法全書とかを持ち歩いてそうで、重そうなので法学は止めた。雰囲気や学問としてではなく、物理的に重いという理由で法学部を断念したのもオレぐらいだろう。
 てってけてってけ試験を受けて、出来はまぁそれなり。受かったかもしれないし、落ちたかもしれないし。そんな手応え。


 次は名城大学の商学部経済学科だった。当時は商学部だったが、現在では経済学部に学部編成があったようだ。
 名城の経済学科は入試がマークシートだった。
 マークシートと言えば、幾つかある回答例から正解だと思おう番号のマスを鉛筆で塗りつぶすヤツ。
 回答例が幾つだったか覚えていないが、めちゃめちゃに塗っていっても確率的には合格も可能だ。
 名城の法学部のヤツに聞いたが、法学は筆記式だったそうだ。名城大学は生徒数1万人を超すマンモス校だが(うわっ、このマンモス校って響きなつかしっ)、なかでも商学部はやたら学生数が多かった。そのため、手間のかからないマークシート式にしたのだと勝手に推測している。
 記憶力に難があって、「なんとなくは覚えてるだけど、え~と」で詰まるオレにとってこのマークシートはありがたかった。世界史のうろ覚えの部分が回答例から簡単に絞り込めた。

 英語は・・・分からんわっ。うろ覚えなら絞り込めるけど、そもそも覚えてないっつーの。もちろん、出来は最悪。

 そして、運命の国語のテストの時間となった。
 この中でも現国のテストは、オレが今までに受けてきたテストの中で、最もしびれる出来。
 大学のテストは合格不合格の発表しかないが、自己採点ではオレはこの現国で100点を取っている。

 合格しそうか?それとも不合格か?と尋ねられたら「合格じゃぉぉ!」と叫ぶ手応えだった。


 そしてA学院大学の文学部心理学科の受験日。
 すみません、お父さん、お母さん。ずっとずっと騙してきました。オレは・・・オレは・・・
 試験当日・・・・・・・・・ぶっちして映画を観に行きました。

 だって、A学院って家から遠いんだよ。名鉄で名古屋駅まで出て、そこから地下鉄で延々終点の藤が丘まで行って、そこからさらにバスで10分だよ。片道2時間じゃ着かないって。やだよ、そんな遠くまで行くの。
 下見で行ったときでもうこりたっての。
 A学院はお坊ちゃま大学と言われていて、在校生のほとんどが車で通学していて、学内には生徒専用駐車場があると言われていたが、オレの場合そもそもお坊ちゃんじゃない。車を買うったって、バイトをしたらそれは映画関係に回すつもりだから無理無理。というか、往復4時間以上かかったらバイトをする暇もない。

 さぼって何を観に行ったかは覚えていないのが残念だ。
 で、合格か?不合格かと尋ねられたら?「するわけねぇ」

映画バカ青春記 第50章 合格?浪人?さぁさぁどっちだどっちだ?

 名城大学の掲示板に合格者の受験番号が張り出されていた。
 オレの番号があった。当然だ。

 A知大学の号学者番号にもオレの番号があった。
 おおっ、合格したのか。

 A知学院大学には行っていない。
 これでオレの番号があったりする手違いがあったら大笑いなんだが。

 これで合格した大学が2つ。とりあえず浪人はなくなった。
 青春期となると「受験ネタ」でもっと引っ張れそうだが、実際のところ、受験勉強をほとんどした記憶がない。受験校も愛知県の私大というのがすでに狭い枠だったので選択に悩まなかった。なんか適当にテストを受けた。なので引っ張りようがないのだ。

 さて、合格はしたと。今度は2つの内、どちらかを選ばねばならない。
 う~ん、と一瞬迷ったふりをしてから名城大学に決めた。

 ここで、1987年当時の名古屋の大学事情を知っている人だと、「えっ?」と思うかもしれない。
 大学の難易度というか偏差値だとA知大学の方が若干高かったのだ。
 では、オレが何故名城を選んだかというと、理由は2つある。

 一つは、A知大学の経済学部はオレが入学した時点では名古屋に校舎があったが、豊橋に新校舎を建築中で、3年からは豊橋校舎に通わされる可能性があったからだ。
 豊橋といえば渥美半島の付け根。知多半島中央の半田市から名鉄電車に乗っているのがおよそ1時間半。家から学校だと2時間以上はかかる。
 名城ならば知多半田から名鉄に乗って金山で下車。当時はまだ金山総合駅が出来ていなかったので、5分ほど歩いて地下鉄金山駅へ。金山から上前津で名城線から鶴舞線に乗り換え塩釜口で下車。名城大学は駅から歩いて5分だから、1時間半あれば十分着く。通学は毎日のことだから楽な方が良い。と、これは親向けの理由。

 もう一つの理由が本当の理由である。
 当時、大学選びの中で映画研究会があるかどうかとその活動具合を調べていたオレは、名古屋の大学の映画研究会の中で、活動が盛んで面白い作品を作っている活気のあるサークルは名古屋大学の映画研究会と名城大学のシネマ研究会だ。という情報を得ていたのだ。
 名古屋大学は無理だが、名城ならば合格する可能性はある。そして合格した。そのオレが名城を選ばない理由があるだろうか。

 そしてオレは名城大学に入学手続きをした。
 公立組はまだ試験を残していたが、私立組は一足早い春休みだった。
 学校は登校日にだけ出てくれば良かったので、オレは合格祝いとしてせしめた金で連日映画を観ていた。

 ちなみに、卒業生がどの学校を何人受験し、何人合格し、その中から何人実際に入学したかという資料が学校にあった。
 過去数年分を調べてみたところ、毎年数人は名城大学を受験し、その全員が合格していた。
 なのに進学者は0。どういうことだろうか?

1.合格後、不慮の事故で死亡した。
2.宇宙人にさらわれて改造された。
3.受験生と見せかけて、実はCIAに潜り込んだKGBのダブルスパイだった。

 答えは4.の「滑り止めとしての受験で、他が受かったのでそっちに行ったと見せかけて、5.の」「母親が出生届の書き方を間違えて、本当は1歳年下で、受験は来年だった」ではないかと思う。
 うーむ、『とどろけ!一番』

 まぁ、名古屋は田舎なので公立志向が強く、半田高校は生徒の半分は公立大学に進学し、私立は軽視される傾向はあった。
 うーむ、『四菱ハイユニ』。って、コロコロコミックネタはもういいっつーの。

2006年09月04日

映画バカ青春記 第51章 史上最速の新入部員

 名城大学の入学式は愛知県体育館で行われた。
 新入生の何割かはスーツ姿で出席していた。
 それを見てオレは「アホか、こいつら」と思った物だ。
 入学式出席のためにスーツを買って、その後それをどうするつもりなのだろう。
 学生の日常生活で着る機会はまずないだろうし、タンスの肥やしになるだけだ。
 もちろんオレは普段着。さすがにダラッとした格好ではなかったが、別段着飾るようなことはしなかった。

 退屈な入学式終了後、(入学式や卒業式というのはなんでああも退屈なのだろうか。ひょっとしたら退屈にしなければならないという文部省の影のお達しがあるのかもしれない)、一部の学部は手続きのために学校へ行くことになっていたが、経済学部はそのまま解散で手続きは後日ということになっていた。
 しかし、オレは学校へ向かった。
 今日からオレは名城大学の学生。ならば、その初日にやらなければならないことがある。
 もちろん、シネマ研究会への入部だ。

 名城大学の映画研究会はシネマ研究会という名前だ。
 なぜ映画ではなくシネマなのかは不明だが、過去に部内での対立、映画研究会とシネマ研究会に分裂、その後より力を持ったシネマ研究会が残り映画研究会は廃部になったという噂を聞いたことがあるが、真実かは定かではない。
 部室が集まったなかなか立派な建物に入っていくと、正面入り口から2階分階段を上る。階段の踊り場には「民青粉砕」などの落書きが書かれていた。その時は「なんじゃこりゃ?民青って何?」でそのまま通り過ぎた。
 妙に薄暗い廊下を進み、「シネマ研究会」という妙に立派な木の看板がかかったドアの前に立った。
 そして軽く深呼吸をして、ドアをノックした。
 しばらくして、どうぞ~と返事があった。
 ドアを開けて部室に入った。
 中には3人の男性がいた。
 パイプ椅子を三つ並べて横になっていたヒゲの濃い人物がチャックさん。
 テーブルを前に座っていたのがU2氏。
 そして3人目がUMEさん。
 チャックさんは興味なさげに横になったまま。珍しく緊張しているオレにU2氏が声をかけてくれた。
「えーと、なんか用?」
「はっ、はいっ。入部しに来ました」
「へっ?」

 入学式が学外で行われ、ほとんどの生徒はその日学校に来ない。
 だがらその日、新入部員希望者が来るとはまったく考えていなかったそうだ。
 これまでのシネ研(シネマ研究会)の歴史でもそんなのはなかった。
 そしてオレは、シネ研史上最も早く入部した(んじゃないかな)という男となった。
 この入部によってオレの人生は大きく変わっていくことになるのだが、それはまた後の話。

2006年09月05日

映画バカ青春記 第52章 来たれ!シネ研へ

 学校が本格的に始まると、各部とも新入部員の獲得のために勧誘に走った。
 学内のあちこちには立て看板、通称立て看がいくつも立てられていた。
 我がシネ研の立て看は、何がどういう理由なのかしらないがメインの校舎である1号館の正面玄関右側という絶好の場所に立てられていた。
 しかも、他の部の立て看がせいぜい畳一枚ぐらいの大きさなのに、シネ研のは実に巨大。四畳半はあって実に目立つ。

 何故シネ研が優遇されていたのか。各サークルの中で力を持っていたかは、実は古い過去の出来事ゆえだった。
 それに関してはあまりに古いこと故、オレはほとんど知らないのだが、その年の秋の終わりにある事件で関わってくるのでそこでちょっと書く。

 オレ自身新入部員だが、当然のごとく勧誘にかり出された。
 主な仕事はビラ配り。名城大学は丘の上に立っている。丘の上の学校というとなんか学園ゲームのようで聞こえはいいが、実際に通ってみると疲れるし面倒なだけだ。
 正門からその丘を登ってくる生徒に片っ端からわら半紙に刷った勧誘のビラを配る。
 どの生徒にも片っ端から配ったら、1年生以外にも渡すことになるので非効率じゃないかと思った人は、私大文系を甘く見ている。
 1コマ目の授業に間に合うように出てくるのは新入生ぐらいなものだ。これが二年生となると遅刻して出席する。三年となると出席しない。四年生となると、そもそも朝の1コマ目の授業など選択しない。
 まぁこれは半ば冗談だが(ってことは半分はマジかよ)、2日も作業をやれば新入生かそうでないかは分かるようになる。やはり初々しいというか希望に満ちあふれた顔をしている。
 ビラ配りは、サラ金のティッシュ配りみたいなものでほとんど反応がないが、たまに興味を持ってくれた人がいて、「シネマ研究会ってどんな活動をやってるんですか」と尋ねてくれることもある。
 そうなると、これが困る。
 オレ自身、入部したばかりの新入部員なのだ。部活動の内容などほとんどしったこっちゃない。
「えーと、8ミリフィルムで映画を撮っています。前期と後期で年二回上映会をやります。それから、その月に観た映画の感想や映画評を各自が書いて『ル・シネマ』という機関誌を作ります」
「ふーん」
 で、そのまま行ってしまう。

 映画は好き。結構観るよという人は多いが、大学のサークルに入ってまでという映画好きは案外少ない。
 授業で知り合った人を部室に連れてくるまでは成功したが、二度とこなかったりもした。

 一人目の新入部員(つまりオレだが)が入ってくるのは異様に早かったが、二人目がなかなか入ってこなかった。
 それでも地道なビラ配り、サークル説明会、部室を訪問した新入生への説明などで、ポツポツと入部者が増えていった。

 5月に入る頃には、4年制から男子部員6人、短大から3人。
 合計9人の新入部員が誕生していた。
 シネ研の部員合計数が30人台なので、例年並みの人数とのことだった。
 こうして、オレのシネ研生活が本格的にスタートした。

2006年09月06日

映画バカ青春記 第53章 新歓コンパとあだ名

 名古屋は鶴舞公園の中に池乃茶屋という店がある。
 シネ研のコンパは古くからの慣例でそこで行うこととなっていた。
 よって、その年の新入生歓迎コンパもそこで行われた。

 新入生は自己紹介を兼ねて一人一芸をやらされた。
 今考えれば、気楽に小ネタをやればいいのだろうが、当時は本気で悩んだ。
 悩んだ結果が座布団回しだった。人差し指の先に座布団の中央を乗せグルグル回す。
 不評だった。

 もっとも、他の部員の芸もおよそ似たような物だったし、同じく不評だった。
 その不評振りを楽しむ物だと分かったのは2年生になってからだ。

 池乃茶屋から地下鉄の鶴舞駅に向かう途中には池がある。
 例年、新入生はその池に落とされるという伝統があった。
 そのため、新入生は池から離れた道の反対側を歩いていた。
 しかし、そんなおいしい場面を逃すオレではない。
 酔っぱらった振りをしてフラフラしながら池の近くを歩いていた。
 そこに食いついてきたのがCさんだ。Cさんはオレに体当たりをしてきた。オレは「うわぁぁぁ~」と叫びながら池に落ちた。
 池といっても、せいぜい30センチほどの深さで、水はきれいだ。そこに転びながら落ちたので、胸のあたりまでびしょ濡れとなってしまった。
 5月とはいえまだ夜風は冷たい。下半身のジーンズはともかく、上半身の水を含んがMA-1がぐっしょりと重かった。

 その年、池に落とされた新入生はオレだけだった。
 そして、オレが最後の一人となった。
 翌年からは新入生を落とそうとするヤツはいなかったし、2年後にはその慣例すら過去の伝説となっていた。
 その後、復活することもなかったろう。
 じゃあ、お前が落とせば良かったじゃないかと言われるかもしれないが、それはオレの芸風ではない。オレは落とされる側であって、落とす側じゃないのだ。そこんとこ重要。

 この映画バカ青春期に登場する人物はイニシャルを取ってNさんとか、Mとか呼んでいる。
 だが、オレを池に落としたCさんは例えば千葉とかいった名前ではない。Cとはまるで関係ない名前だ。
 ではなぜCなのか。まず、最初にある名字の人物がシネ研にいた。翌年、同じ名字の新入生が入部してきた。これではややこしいので、最初からいたのをA、後から入ってきたのをBと呼ぶことになった。
 これでもうお分かりだろう。さらに翌年になって入ってきたのがCさんだ。イニシャルではなく「しー」「しーさん」というあだ名なのだ。
 それを知るまでオレは、てっきり「椎(しい)」という名字なのだと思っていた。
 オレが始めてシネ研を訪れた日、パイプ椅子を並べて横になっていたチャックさんという人物がいる。妙にヒゲが濃いし、どこか日本人離れしていたのでひょっとしてアジアからの留学生か?チャック・ウィルキンソンとかいう名前なのかと思ったら、入部時のアンケートで「好きな俳優は」という問いに「チャク・ノリス」と答えた瞬間からチャックというあだ名になったんだそうだ。恐ろしいところである。
 オレにはこれといったあだ名がつかなかった。キャラが薄かったんだろうか。未だに残念だ。

2006年09月07日

映画バカ青春記 第54章 映画を観るにもバイトをしなきゃ金がない

 大学生になったオレだが、昼食代などとして親からまだ1万円程度の小遣いをもらっていた。
 いくら2食(第二学食)が300円で腹がふくれる安さでも、金鯱(きんこ)のランチが450円(後に500円、だったかな)の値段でボリュームたっぷりでも、月の収入が一万では実際に飯を食ったら終わりだ。
 映画を観るためにはバイトをしなくちゃいけない。どうせバイトをやるなら、映画に関係あるバイトをやろうと思っていたオレに、バイト募集のチラシが目に入った。
 そこはオレが通学するときに使っていた地元の駅の近くにあるビデオレンタル屋だった。
 ちょっと値段が高めなのと、競合店と比べてタイトル数が少なかったのでオレは利用したことはなかった。

・・・ビデオ屋でバイトか。店員割引で安くレンタルできるのかな。それならやる価値はあるよな。
 チラシによると時給は500円と、当時の相場としてはちょっと安かったが、家に帰る通り道だから通勤が楽だ。
 とりあえず面接を受けに行った。
 数日後、採用の連絡が入った。こうしてオレのバイトが始まった。

 その店は、店頭にはパッケージだけを置き、テープそのものはレジ裏にあり、バックヤードの作り付けの本棚にずらっと並んでいる中から店員が取ってくるという方法だった。
 当時のビデオレンタル屋はその方式が多かったと思う。まだ性能が良くて便利な警報装置が出来ていなかったのだろう。
 後に、防犯タグなどが商品について、商品自体を展示するようになったが、ゲームショップなどはそのタグを剥がしたり、X線防止袋に入れるなどしての万引きが多発したため、展示しているのはパッケージをカラーコピーした見本で、商品はレジの裏側に置いてある店が増えている。

 このバックヤード方式だと万引きの心配はないのだが、レジから人が離れるわけにはいかないので、商品を取ってくる係として2人体制で運営しなければならない。人件費が二倍かかるわけで、経営者としては頭を悩ますところだろう。
 夕方から夜や土日はともかく、平日の昼間などめっぽう暇だ。その店は昼の12時から夜の12時までの営業で、オレは平日の4、5時頃からラストまで週に2、3日働いていたが、5時の時点での売り上げ0円なんてのはざらにあった。

 どうかな~と思っていた店員割引は存在した。新作は不可だが、それ以外なら半額で借りられる。これは嬉しかった。
 しかし、12時で店を閉めた後、清掃やレジ締めで30分はかかるのだが、時給が付くのは12時までだった。これには不満だったが、店長が軽いパンチパーマとちょっとやばめな雰囲気な人なので黙っていた。

 オレがバイトを始めた1987年時点でレンタル料が2泊3日で確か1000円だった。
 競合店が確か800円ぐらいと少し安く、タイトル数も少ない上に値段が高くてどうするんだと思った記憶がある。
 途中で、2泊3日で500円と大幅値下げされ、さらに、新作は2泊3日だが、旧作は6泊7日と現在のビデオレンタルに近いスタイルになった。

 時給の安さは店員割引でカバーできたが、休みがなかなか取れず困った。
 店長の他は、店員が2人、バイトが2人の5人体制で年中無休1日12時間営業を回していた。
 バイト先は自宅近くなので学校を出てから到着までに1時間半ほどかかる。3時頃には学校を出ていなければ間に合わない計算で、シネマ研究会での活動が盛んになり、映画製作に関わるようになってくると、時間や休みに融通が利かないと支障が出る。
 バイトとシネ研のどっちを取るかと言われると、そりゃもちろんシネ研を取る。

 そこで、1年から2年になる時の春休みに入ったときに、3月いっぱいで辞めると店長に伝えた。
 すると店長が顔を真っ赤にして怒った。
「こんな間際になってから言うとはどういうことだ。ウチが人数ギリギリで回しているのは知ってるだろ。お前が辞めたら他に人を雇わなきゃならん。そのためには求人広告を出すんだぞ。お前がその広告代を出せ。嫌なら代わりの人間を連れてこい。じゃないと辞めさせんぞ」

 店長のパンチパーマは伊達ではなかったと見える。

 しかし、間際っつったって大学の春休みは延々長い。言ったのは2月の頭なので辞めるまで2ヶ月近くある。充分な期間だと思う。
 人数がギリギリなのはオレのせいじゃない。経営者のあんたの責任だろ。
 はぁ?なんでオレが求人広告の広告費を出さなきゃらならんの。それに求人広告ったって店頭に張り紙するだけじゃん。
 代わりの人間を連れてこいって、そんな話聞いたこともありません。なんなら労働基準局に確認してみましょうか。

 そんなようなことを丁寧な口調で言った。
 頭に来た店長は、
「お前なんかもう来なくていい。今すぐ制服を脱いで帰れ。いや待て、制服はクリーニングに出して持ってこい」
 と追い出された。
 せっかく、人員募集と教育のために2ヶ月の猶予を含めて提案したのに、まったく。
 まぁ、後腐れなくすっきりきっぱりと切れて良かったのかもしれない。
 その後、人数不足などで苦労したとは思うがオレの知ったことではない。

 ちなみに数年後、前を通ったところ、ビデオレンタル屋ではなく他の店になっていた。

2006年09月08日

映画バカ青春記 第55章 U谷氏の映画学習会

 新入部員としてシネマ研究会に入部したオレ。しかし、何で研究会なのに入会や会員と呼ばなかったのだろうか。
 高校時代では、周りに自分より映画を観ているヤツはいなくて、いっぱしの映画通気取りだった。そんな自分が数多い映画のほんの一部分しか観ていなくて、面白い映画はもっともっとたくさんあって、そして大劇場で公開している現在の娯楽作だけではなく、色々な映画とその楽しみを教えてくれたのがU谷先輩だった。

 U谷先輩は学年が2つ上で、おしゃれ系インテリっぽい雰囲気だった。
 映画の路線としては、リュミエール派ないし蓮實重彦派。リュミエールとは映画の発明者リュミエール兄弟の名前を取った映画雑誌のこと。やたらと難解な言葉が飛び交う。蓮實重彦は、フランス文学者で東大の教授。後に東大の総長をやったこともある。ごちゃごちゃっとした難解な文を書く。渋谷の映画館で一度見かけたことがある。ひょろっとした体型だが背が高く、遠くからでも一目で「あっ、蓮實だ」と分かった。
 自主映画には蓮實重彦の影響を受けた人も多い。立教大学で講義を行っていたときの教え子である黒沢清や周防正行は、蓮實の直弟子あるいは息子といっても良いのではないだろうか。
 リュミエールや蓮見重彦などについてはまたのちのち書いていくことにするが、おおざっぱに言うと、映画至上主義、映画とはなんぞやと感じそして思考する一派。・・・かな。

 念のために言っておくと、蓮實が観る映画ってのはやたらと幅広いので誤解されているが、彼の基本はハリウッド映画、それも1940年代あたりの黄金期のハリウッド映画だ。
 文章が難解っぽいので誤解されているが、映画って最高!なオヤジだ。
 不当に低く評価されているトニー・スコットについて、『マイ・ボディーガード』の活劇ぶりを絶賛した文章を読んだことがある。
 それ以外にも、他の映画評論家が語るに値せずと無視した『ハリウッド映画』にも語っていて、あなどれん。
 ちなみに、トニー・スコットの兄であるリドリー・スコットは退屈なので嫌いだそうだ。

 そのU谷先輩が、新入部員相手に学習会を開いた。
 会場は図書館の視聴覚室。そこのビデオプロジェクターで映画を観て、学習されられた。
 自由参加ではあったが、こういうのはなかなか欠席しにくい。
 第一回目の作品は『夜の人々』とかいう、タイトルも知らないし、監督のニコラス・レイも聞いたことがないモノクロ映画で、こりゃ退屈な芸術作品でも観させられるのかな、と少々うんざりした気分で参加した。

 そして96分後、オレは自分が映画のことなんか、まだなーんも分かっちゃいなかったことを思い知らされたのだ。

 『夜の人々』はボニーとクライド事件を題材にした初めての映画である。
 モノクロの画面、大恐慌時代のアメリカ南部。貧しい生まれの青年が犯罪に走り、ついには刑務所に収容される。
 しかしそこを脱獄した彼は、仲間とともにさらに凶悪犯罪を続ける。しかし、一人の娘と出会い彼は恋に落ちる。
 彼は更生し真面目に働こうとするが、犯罪者としての過去が彼につきまとう。
 各地を転々としているうちに、ついには娘まで巻き込んで再び犯罪に手を染めてしまう。
 警察に追われながら彼らは逃避行を続けるが、ついには追い詰められ・・・

 美しい。圧倒的なまでに美しい。結局はこれまでほとんど娯楽映画しか観てこなかったオレには、味わったことのない感動だった。
 監督のニコラス・レイは驚くことにこれが初監督作品。
 この『夜の人々』を観てしまうと、同じ題材だという理由で比較するのも本来はおかしいのだが、アーサー・ペンの『俺たちに明日はない』(1967)がなんと下劣で下品で面白味に欠けることか。
 それまでは、世間の評判も良いからやはり傑作なんだろうと思っていた『俺たちに明日はない』は、一瞬にして駄作へと成り下がった。そんなコペルニクス的転回を、U谷先輩は『夜の人々』一本でオレに対してやってのけたのだ。

 ボニーとクライド系というか『夜の人々』に近い若い男女の逃避行物だと、テレンス・マリック監督、マーティン・シーン主演の『地獄の逃避行』(1973)や、マーチン・シーンの息子エミリオ・エステヴェスが父に捧げるかごとく初監督・主演した『ウィズダム/夢のかけら』(1986)がお薦めだ。
 『テルマ&ルイーズ』(1991)も逃避行物だが、これまでのように男女ではなく、女性二人になっていたので、どうなるのかと期待して観に行ったら、中身はこれまで通りの平凡な逃避行物なのでがっかりした覚えがある。

 U谷先輩が観せてくれたのは他に、

 『見知らぬ乗客』(1951)/アルフレッド・ヒッチコック

 『最前線物語』(1980)/サミュエル・フラー

 『特攻大作戦』(1967)/ロバート・アルドリッチ

 『ドノバン珊瑚礁』(1963)/ジョン・フォード

 『赤ちゃん教育』(1964)/ハワード・ホークス

 『カルメンという名の女』(1983)/ジャン=リュック・ゴダール

 『ウィンチェスター銃'73』(1950)/アンソニー・マン

 などがある。
 モノクロ時代のヒッチコックや、サミュエル・フラー、ロバート・アルドリッチにジャン=リュック・ゴダール 、そしてもちろんハワード・ホークスとジョン・フォード。
 実に豪華なラインナップだ。そのまんまといえばそのまんまな定番ではあるが。
 ある程度映画に詳しい人なら分かるだろうが、入門者用に比較的取っつきやすい作品を選んである。
 難解な映画を作るとされているジャン=リュック・ゴダール作品の中で、ストーリーが初心者にもはっきり把握できる『カルメンという名の女』を持ってくるところなどさすがだ。
 『東風』(1969)辺りを持ってこられたら、大爆睡大会になっていたことだろう。

 これまでの自分が映画のほんの一部にしか触れていなかったことをこの学習会によって気づいたオレは、古い映画やハリウッド映画以外の作品にも興味を持っていった。
 しかし、当時の名古屋はすでに名画座が壊滅していたので、リバイバル上映はシネマテークやシネマスコーレなどの単館がやるのを観に行くしかなく、映画に関する本を読んで、「あっ、これ観たいな」と思ってもなかなか観る機会がなかった。
 レンタルビデオもまだ黎明期を過ぎたあたりで、タイトル数も少なく新作中心で旧作は少なかった。テレビの洋画劇場は近作中心なので、NHK教育が時々やる名画がありがたかった。
 今ならばレンタルビデオ・DVDのやセルDVDのタイトルは圧倒的に増えたし、wowowやスカパー!の映画専門チャンネルなどもある。個性的な作品を上映するミニシアターも増え、旧作やマイナーな作品を観ることの出来る機会が圧倒的に増えた。
 そう考えると、オレたち1980年代後半から1990年代初頭にかけて地方都市で映画を熱心に観ていたファンというのは、映画を観るという環境にはあまり恵まれていなかったのかもしれない。
 しかし、ネット上での映画評などを読んでいると、オレよりも圧倒的に映画を観ることについて有利な10代、20代の人が、基本とも言える作品を観ていなかったり、明らかに無知なのを見かけたりする。もちろん、古い作品から新作までしっかりと観て、映画についてちゃんと考えている人のたくさんいる。

 結局は、環境ではなくて本人の映画を観たいという欲望だろう。
 それから、それを導いてくる先達者か。
 もしもオレが、あの年のあの名城大学のあのシネマ研究会に入部していなかったとしたら、今のオレは全然違ったオレになっていただろう。

2006年09月09日

映画バカ青春記 第56章 (おおざっぱな)シネ研式自主映画撮影法

 入学当初はまだそれなりに授業にも出席していたが、5月6月頃ともなると、出席を取る授業だけ出て、あとは部室で映画について話したり、雑談したり、遊んだり、寝てたり、まあそんな生活だった。
 そして、自主映画製作にも携わった。

 大学の映画研究会の映画製作というとどのようなイメージをお持ちだろうか。
 入学前のオレは、サークルが一体になって、監督や脚本、カメラなどを分担して、みんなで一本の映画を作るんだと思っていた。
 しかし、他の大学がどうやっていたのかは知らないが、とりあえず名城大学のシネマ研究会(以後シネ研)では違っていた。

 ある部員がいたとする。その部員が脚本を書く。うむ、これを実際に映画にしたいなと思ったら、部室に行って出演者となる部員の頼む。外部の人に出演してもらうことも多少はあったが、色々とトラブルの元(これはまたいずれ)なので出演者は部員中心だった。
 そしてカメラ屋に行って8ミリフィルムを買う。人によってはスーパー8だったり、あるいはシングル8だったりするが、ともあれ確か1本で2000円ぐらいだったろうか。金の出所は本人の財布からである。部からは一銭も出ない。
 金は出ないが、カメラや照明、編集機材や映写機は部にあるので、それは自由に使える。
 出演者を連れて、その日の撮影場所に移動。休みの日に人を集めるのはなかなか難しいので、撮影は平日中心。みんなそれぞれ授業もあるので、撮影時間は限られている。特に、夏休みまでの前期は日が長いので遅くまで撮影できるが、後期だと4時5時にはもう暗くなってしまう。そのため、撮影現場は学校内やその近場が多かった。

 現場に着くと、三脚を立てそこにカメラを据える。やはり基本は三脚だ。
 そして出演者を立ち位置に立たせると、「じゃあお前は「これこれこう」ってセリフを言って、そしたらお前は「なんたらかんたら」って返せな」と指示すると、カメラリハーサルを始める。うまくいったらそのまま本番。
 台本をあらかじめ役者に渡して読ませておくとかはごく一部の作品を覗いてほとんどなかった。それでは役作りも何もあったもんじゃないが、考えてみれば部員は演技に関してはまったくの素人。役作り以前の問題だ。
 そして脚本を書いた部員=監督が満足いくカットが撮れたらOK。そして次のカットへ。
 映画は上映される順番に撮影していくわけではない。ファーストショットとラストショットが同じ場所だったら、同時に撮影することだってよくあることだ。
 全部のシーンに自分が登場しているわけではないので、映画の全体像は作品が出来るまで分からない。
 映画が上映されて、主人公を演じた部員が、始めてこういうストーリーなのかと知ったケースもある。

 撮影されたフィルムの現像に1本1000円ぐらいかかった。もうちょっと安かったかな。
 フィルム1本が約3分なので、3分撮るのに3000円かかる。
 となると、30分の映画撮るのに3万円か~、などと甘く考えてもらっては困る。
 撮影されたフィルムは確かに3分だが、NGショットや、カットの頭や尻を削ったりすると、これがあっという間に2分、1分半になる。個人的経験によると3分撮って1分使えるかどうかぐらいだ。
 1分撮るのに3000円。30分の映画を撮るとなったら、少なくとも9万。学生にとって、特に貧乏が癖の多かったシネ研部員にとって9万は大きい。
 しかも、これはフィルム代だけ。編集に使うのはセロテープに似たスプライジングテープぐらいで、これはたいした金額でもないが、撮影には多少なりとも小道具が必要だ。オレの場合は脚本を書く段階で、自分が持っている物や誰かが持っている物を利用するように工夫していたが、それでも「ここで銃で武装した警官隊を登場させたい」とかなると、自分や他の部員が持っている銃だけでは足りず、発砲シーンではないからと東京マルイの1900円ぐらいのエアガンを4、5丁買ってくる。これでもう1万だ。
 他には、撮影時に出演者にジュースや学食で飯を奢るぐらいのことはする。
 これらの金は全部監督が出す。

 撮影したフィルムを編集したら、次は音入れの作業。アフレコの場合は、ここで声を入れるし、他には効果音や音楽を入れる。
 そのほか、まぁ細かい作業もあるんだがそれはまた今度にして、これでとりあえず映画は完成。
 ちなみに、30分の映画と何度か言っているが、30分だと自主映画としては長編の部類に入る。短編で10分以内。普通の作品は10分から20分の間だった。
 これは、予算の関係もあるが、時間が長くなればなるほど作品を持続させる力が必要となるからで、30分超えの作品を作ろうと思ったらかなりの力量、体力、資金が必要になる。
 サークル全体で1本の作品を撮るのならば、負担をそれぞれで分担できるのだが、シネ研スタイルだと監督一人が背負う形だ。
 なんといってもほとんどの場合が、監督=脚本家+カメラ+照明+衣装+美術+編集+音声+音楽+タイトル・クレジット作成などなど一切合切だ。精神的にも肉体的にもなかなかヘビーだ。
 全ての責任は監督一人で受け止めねばならない。独裁者がそうなように、監督というのも孤独な仕事だ。
 自主映画というより個人映画だ。

 だがそれらの苦労も、上映会でスクリーンに作品が上映されると・・・・・・
・・・・・・
 ああっ、なにこのカット。構図めっちゃ悪いじゃんか。それに照明の影が背景の壁にくっきりでちゃってるよ。って、ダサダサなセリフ。あー、今のシーンの変わり目の編集下手だなー。うわっ、手持ちカメラで撮ったカットが思いっきり手ぶれしてるよ。同時録音で撮ったんで最初の数コマは音声が途切れてるよ。手抜きするんじゃなかった。あー、映像と音楽が全然合ってない。いらないだろこのシーンは、カットしろよカット。そもそも刑事と探偵といいながらどうみたってスーツ着ただけの学生だろ。てか、スーツじゃなくて単なるジャケットじゃんか。でも衣装を揃える金までないしよ~

 と頭を抱え、恥ずかしくってまともにスクリーンなど観ていられないのであった。
 いやほんと、自分が撮った映画を観るってのは人にもよるだろうが、オレの場合はやたら恥ずかしい。撮った作品は8ミリフィルムからビデオテープに落として、現在ではDVDにしてあるが、再生するたびに思わずテレビの前で死んだふりしてる。

 この様に、シネ研は各自一人一人が監督という独立採算制・・・はちょっと違うか。それぞれが一国一城の主方式だった。
 この方式だとお金がかかった大作や長編は作るのが難しいが、代わりに前期・後期と年に2回行われる上映会には、毎回10本程度の個性豊かな作品が揃う。これはシネ研の魅力だったと思う。
 中にはシネ研全体をほぼ巻き込んで自分の映画を撮ってしまった人もいるが、それはその人が監督として非常に有能でることを他の部員が認めていたからであり、またその人がやたら押しが強く強引だったからである。

 今では学生の自主映画はビデオ撮影が主だろう。
 デジタルビデオで撮影して、パソコンに取り込めば、昔みたいにフィルムの山に埋まることも、フィルムを汚すこともなく編集が出来る。
 ビデオプロジェクターも性能が上がったので、大画面で映しても8ミリ映写機と比べてさほど遜色がない。
 1年ほど前に、人から頼まれて結婚式の披露宴を撮影したビデオを編集して、クレジットなどを入れ、最終的にはDVDビデオにしたが、実に楽だった。

 もっとも、当時のオレが今と同じ機材を持っていたとしても、結局は上映作品を観て頭を抱えてるんだろうけど。

2006年09月10日

映画バカ青春記 第57章 『ダイナマイト・ジョー』、撮影現場初体験

 ボックス(BOX)でダラダラと映画などについて話していると、そこに4年生のA田先輩が現れた。
 ちなみにボックスとは部室のこと。名城大学独自の用語ではなく、主に関西を中心に他校でも使われている用語だ。
 A田さんが
「おーい、そこの1年、東森だったか?時間あるなら撮影手伝え」
 こうして、オレの初映画撮影現場体験となったわけである。

 ロケ地は校内。
 理学部が使っている実験棟の辺りで、大きな配管が通路を通っている。
 ロケに参加したのはA田さんと、主演の同じく4年生のK戸先輩。他に2人ほどだった。
 A田さんはカメラを構える。その前にK戸さんが立つ。
A田さんの「よーい、スタート」と当時にK戸さんと、それを後ろから撮影するA田戸さんが走る。
「OK」で、そのカットは終了。
 新人だからといって、今何をやっているかなどの説明はなく、放ったらかしにされてオレはボーッと撮影風景を眺めていた。

「よし、次は台車を使うぞ。東森、持ってこい」
 A田さんに言われて、オレは部の備品である台車を持って行った。荷物を運ぶときに使うあの台車である。
 なにか運ぶのかと思ったら、カメラを抱えたA田さんがその上に腹ばいになる。
「スタートと言ったら全力で台車を押して走れよ。そしてストップといったら止まれ」
 A田さんが俺に指示をする。
 5メートル前に見えるのは地上から50センチほどの高さを走っている配管。
 なにがどうなるんだととまどう間もなく、スタートの合図。
 とりあえず、台車をガラガラと押して走る。A田さんの上半身が配管の下に入った辺りで「ストップ」の声。
「うーん、ちょっとスピード感がないな。もっと本気で押せ、本気で」
「じゃぁ、フルスピードで行きますよ」
 そんなこんなで何度か繰り返してようやくOK。
 その日はそれで解散。正直、なにがなにやらさっぱりだったが、さほど重い荷物を運ぶ作業があるわけではないシネマ研究会に、備品として台車があるわけは分かった。

 後日、その作品は『ダイナマイト・ジョー 人間暴走機関車』という名で完成した。
 これがもう、徹頭徹尾暴走しまくりのアクション映画。上映時間も1時間近くの大娯楽作品として仕上がった。

 とうの昔に金を掘り尽くした鉱山街。
 しかし、数少ないがそこに残って金を掘り続ける男たちがいた。
 彼らをそこまで執着させるのは一つの伝説だ。まだ山には金が残っており、それを掘り出せた男だけが謎の美少女タカラノヅカオトメと共に、この死にかけた街を捨てて出て行くことが出来るという伝説だ。
 ある日、男たちの中に衝撃が走った。彼らと群れずに一人で街の隅に暮らしていた男、ジョーが金を掘り当て乙女と街を出て行くというのだ。
 はぐれ者のジョーに伝説を奪われると知った男たちは、ジョーを殺すために動き出す。
 街を支配するのは2つのグループ。クンフーなどの武闘派集団とパンクスグループだ。
 男たちと戦いながら街を抜け出すために走り続けるジョー。
 そこへ、ジョーが探す美少女が自分だと勘違いした山女まで加わり、暴走は続く。
 しかし、ジョーは金など掘り当ててはおらず、ただ死んだ街を抜け出して噂に聞く新大陸を目指しているだけで、伝説の美少女など存在しない。
 それを知ってか知らずか、ただひたすらに戦い、燃え、爆発する男達と女。果たして、生き残るのは誰か?

 そして、自分が撮影したシーンの意味が分かった。
 敵に追われる主人公ジョーが、追い詰められて配管の下に逃げ込み、その下を匍匐前進するシーンの一部だったのだ。
 A田さんが台車に腹ばいになって取ったシーンは、配管の下に潜り込むジョーの一人称カットだった。
 映画の撮影とは、そのシーンだけ見ていると何がなんだか分からない物だ。脚本を読んでいても、カット割りまで聞いていないとなかなかイメージできない。ある意味、映画の撮影現場というのは退屈だ。

2006年09月11日

映画バカ青春記 第58章 前期上映会と自主映画はつまらない?

 ボックス(部室)で過去の作品を8ミリ映写機で上映して観たことは何度もあったが、ちゃんとした上映会はこれが初めて。
 名城大学シネマ研究会の前期上映会が大々的に上映された。

 ごめん、ちょっと嘘。いや、かなり嘘かも。
 上映会は学校内、一号館の3階にある中規模の教室だった。大学の教室は中規模以上だと前から後ろに上る形で段差が付いているので、上映会にはちょうど良い。しかし、外部の名古屋駅(名駅)や栄えなどの繁華街でやるのではないので、観に来てもらうといっても、他校の映画研究会部員や名城の生徒。
 学内にポスターを張り出したり朝の登校時間にチラシを配ったりして宣伝はした。
 しかし、普通の人が学生が撮った自主映画に興味を持つとあなたは考えますか?オレは考えない。、
 実際、部員以外の客は、仲の良いサークルの連中が数名で、ほぼ内輪の上映会。
 まぁ、他校の上映会にも何度か行ってみたが、どこも同じようなものだった。
 無料なんだから来てくれよとも思うが、オレが映画に普通にしか興味がない人間だったらまず行かない。
 厳しいし寂しいけど、それが現実だ。

 上映された作品は約5~8本。新人監督の作品から、学年が下の監督が撮った作品から先に上映される。
 面白いのもあったし、難解でよく分からないのもあったし、正直つまらないのもあった。
 どの監督も同じ部員としてよく知っているので、やはりひいき目になる。出演者もほとんどが部員だし。

 お祭り的なイベントという感じではなく、ワクワク感はあったが基本的にみんな真面目に観ていた。
 上映会の後にはサークルの機関誌『ル・シネマ』で上映会特集号を出すので、そこに掲載する記事のためにもちゃんと観ておかねばならない。
 機関誌といっても、リソグラフで印刷した物やコピーした原稿をホッチキスでまとめただけの、いわゆるコピー誌だ。部外に配布するわけではなく、サークルの人数+αしか作らない小規模な物だ。
 まだ、家庭用ワープロもようやく普及してきた時代で、ほとんどの部員は手書き原稿だったし、学生のお遊びといえばお遊びだ。でも、真剣に書いてたんだぞ。

 部員であるから当然上映会に出席した。だが、今もし街を歩いていて自主映画上映会をやっている会場の前を通りかかったとして、それが無料であったとしてオレは観るだろうか。
 まぁ、観ない。
 だって、自主映画って、ほとんどは外部の人間にとってはつまらないからだ。
 自主映画を盛んに制作するサークルに所属していたことがあって、自分自身が5本の自主映画を撮ったが、いやそうだったからこそそう言い切る。
 外の人間にとって自主映画はつまらん。その輪の中にいると楽しいんだけどね。

 自主映画はつまらないけど面白い。監督の独りよがりになってしまうとか、表現したい内容と表現する技術とに差がありすぎるとか、そもそも映画は金と人が掛かるとか、色々と理由はあるが、それについてはまたいずれ後で書く。

 あれこれ書いてしまったが、もしもどこかの大学祭に行ってそこの映研が上映会をやっているだろう。無料だったら一度観てみるのも面白い。
 ここで書いたのは、いわゆる学生映画といわれる自主映画。学生映画と自主映画とは違うという主張もあるようだ。ないか?といわれるとある。
 学生映画ではない方の自主映画は、芸術志向強く、娯楽性は弱い。個人的には、娯楽性を求める者はマンガや小説、ゲームなどの他分野に行ってしまうからだろう。同じレベルの娯楽を作ろうと思ったら、映画とそれ以外(といっても文章しか書いたことがないが)とでは、それかかる物量人員金額が違う。
 オレが入学する少し前にに卒業していた先輩に、O原という名古屋の自主映画監督がいる。この人は娯楽志向ではなく、一般的には難解な映画とくくられる傾向の人だが、8ミリフィルムから16ミリフィルムに移行して、本格的に照明や音声をやったら、あっという間に一千万円使って、さらに金がいるという状況になったそうだ。
 小説やマンガ書いて一千万は使わんよな、あまり。

 っと、話がずれたが、社会人になってからも自主映画を作り続けている人の作品は、オレの主観だと、面白い作品と、こりゃひどいとに激しく分かれる。
 興味がないので、そもそもあまり数を観ていないので、詳しいことは言えない。だが、学生映画出身の監督としては黒沢清や周防正行、塩田明彦、最近ではTVのウルトラマンシリーズなどをやっている小中和哉などがいる。
 自主映画出身の監督は、単にオレの知識不足だがほとんど知らない。んー、渡邊文樹?

 でも、ジョン・ランディスもサム・ライミも、ピーター・ジャクソンも自主映画出身。
 日本にはまだまだ、個人レベルでの映画製作は発展途上なんだろうか。

2006年09月12日

映画バカ青春記 第59章 シネ研の月刊機関誌『ル・シネマ』、映画について語らおう

 シネ研では月に一度、『ル・シネマ』という機関誌を作っていた。機関誌といっても、部員の数+保存分の全40部ほどで、印刷所に出すわけでもないコピー誌だ。
 大学は休みが多いので、上映会などの特別号を除くと年間で8冊ほどだっただろうか。
 しかし、なんで名城大学はシネマ研究会に『ル・シネマ』なんだろうか。今でこそさすがに慣れたが、入部当時は『シネマ研究会』やら『ル・シネマ』といったおフランスざんスな単語はどうもこそばよかった。
 設立当時に、部内で勢力争いがあって、最終的にフランスヌーベルバーグ派が勝ったという説もあるが、そもそも映画研究会というサークルがすでにあって、学生運動の中核だ革マルだの対立から、分裂あるいは新設しシネ研が生き残ったなどの説もある。さすがに古い話なので、オレの知っている年代の中ではうわさ話レベルしか知識がなく、答えは歴史の彼方、闇の中だ。

『ル・シネマ』は一人最低1ページ、人によっては3ページも4ページも書く。過去の作品について書いても良いが、基本的にはその月に観た映画について書くことになっていた。
 それまでは、ノートに日記めいた物をつけているだけだったので、学生なりに評論っぽい文章を書けることが嬉しかった。それに、日記だと自分が読んで終わりだが、『ル・シネマ』だと部員全員が読んでくれる。
 そこで書いて書いて、かなり書いた。1作品を2ページにまとめ、こりゃ書く意味がないなという作品以外は書いたので、月に20評論近くは書いていたことになる。
 これを全部掲載しては、『ル・シネマ 東森時音特集号』になってしまうので、1作品を選んで提出。

 最初は手書きで書いていたが、後に父親が買った東芝のワープロ“Rupo”を奪い、ほぼオレ専用にして、キーボードに移行。この1987年以降、オレが書いた文章はほとんどがキーボード入力で、手書きで書いたのはごく短文や履歴書などだけ。
 そのRupoは20文字5行表示(ぐらい)で、まとまった文章を書くと推敲が面倒だったので、1988年にはパソコンで書くようになり、以後は基本的に変化無し。パソコンというより、身も心もATOKだ。

 そして『ル・シネマ』の今月号が出来上がると、部室棟の会議室を借りて“読み合わせ”というのを行う。
 各自、自分が書いてきた評論を読んでいって、読み終わった後で討論に入る。
 書いて終わりではなく、この討論の部分が重要であったと今では分かる。オレも映画バカ黙示録という場で批評もどきを書きつづってはいる。だが、一人では討論は出来ない。やってもいいが、きっと単に変な人だ。

 “読み合わせ”は勝ち負けではない。理路整然として言葉の表現に長けている者が打ち負かす形になることはあるが、打ち負かすのが目的ではない。
 ある映画を観て、自分がどう感じたか、どう思ったか。その映画とは何なのかについてガンガンしゃべり、言い合う。
 一心同体どころか、それぞれ自分勝手でまとまりのない集団だ。だが、白熱した討論が終わると、そこで全部終わり。ひょっとしたら目に見えないところで引きずっているかも知れないが、基本的にはすぱっと終わって遺恨無し。
 気の良い連中が集まっていたのだろうか。それともやはりみんな映画好きだからか?

 その後社会に出て、回りに映画についてちゃんと語れる人があまりいなくなってからは、ネット上での映画討論の場にも参加してみたことがある。
 ニフティ・サーブなどのパソコン通信の時代は割と面白かった記憶があるが、インターネットに移行して以来、あまり楽しくはない。
 現在だと、2ちゃんねるなどの匿名掲示板、mixiなどのソーシャルネットワーキングサービス、そしてブログの3つに取りあえず分けてしまおう。

 まず、2ちゃんねるは匿名の悪い部分が前面に押し出されて、殺伐としすぎで面白くない。たまに、「おっ、これは」という意見が出てきても、意味のないあおりや品格のない文の方が圧倒的に多すぎる。
 ある批評が気に入らない場合は、それへの反論よりも、会ったこともない投稿者への憶測(というか、むしろ妄想)による人格攻撃に終始する。議論に発展性がほとんどない。
「お前ら、騒ぎたいなら他所行って騒げ。映画について語りたいんなら語れ。はっきりしろ」
 荒らしやあおりにはなにも言わない。スルーすることとなっているようだし、スルーというか無視ね無視。

 mixiも「流行っているようだが、取りあえずどんなもんかな」と、邪道斎氏から招待してもらって参加してみた。
 mixiは実名までは分からないが(まれに実名を使っている怖い者知らずもいると聞くが)、誰がその発言をしたかというのは分かる。その点、匿名とは違い、責任がはっきりしている。
 そこまではいいのだが、論争になるのを怖れてか、反論した相手に嫌われるのが嫌なのか、人格攻撃と勘違いされるのを怖れて幾重にもオブラートくるんだ発言ばかり。これでは討論らしい討論にならない。単に雑談場。
 そういう、のんびりとした雰囲気が良いという人もいるのかも知れないが、言いたいことをすぱっと言えないってのはどうも気が詰まる。

 ある映画があって、それを観た人が複数いれば、複数の感想があって当たり前。
 その映画を好きな人もいれば、嫌いな人もいるのが当たり前。
 で、単に不毛な言い争いをして荒れ果てた大地を作るだけなのが2ちゃんねる。
 お花畑に集まって、みんなで仲良く(腹の中までは知らんが)ダベっているのだmixi。

 オレとしてはどっちもイヤ。
 思ってることや考えはガンガン言って、相手の発言もちゃんと聞いて、作品に対する理解を深めるための激戦化した討論。それがやりたい。
 でも、戦争が終わってふと見ると、爆発や銃弾で荒れ果てた大地に、一輪の花が力強く咲いている。そんな一輪の花を大切にしてこその討論じゃないんだろうか。
 相手を徹底的に言い負かすこと、罵倒することだけを目的として、結果、10000年は雑草も生えない焦土とすることに何の意味があるだろうか。

 で、ブログなんだが。
 この映画バカ黙示録はブログツールとして有名なMovable Typeを使っているが、自分ではブログだと思っていない。
 世の中には親切というか、イヤなヤツがいるもので、「あなたのサイトはブログではないですね。そもそもブログとは様々なサイトを巡っている最中に目に付いたいくつもことをまとめて、そこへのリンクと共に掲載するものです。あなたのは自分の文章を単に載せているだけの自己満足です。文も長すぎです。これなら日記cgiで充分でしょう」と匿名で指摘してきた。
 アホくさいので無視して、コメント削除した。
 ブログの定義付けのためにMovable Typeを選んだんじゃなくて、単純に使いやすいから。以前はhtml記述ソフトを使っていたが、Movable Typeにしてから毎日の更新にかかる時間が半分以下になった。
 秀丸エディタで文章をガガガッと書いて、読み直しもせずにアップロードして保存で完了。楽なもんだ。

 ブログには、プライバシーは保たれつつも、発言への責任も持たされる場と成りうる可能性が高いだろう。
 mixiなどSNSは与えられた遊び場だが、ブログは自分で作った遊び場だ。設備の整い綺麗に清掃された公園でお行儀良く遊ぶより、横町の空き地の草っぱらで好き勝手に遊ぶ方が楽しいんじゃないかなぁ。

 つまるところ、映画バカ黙示録は、オレにとって『ル・シネマ』の延長なのだ。
 そして、『ル・シネマ』であるからには、“読み合わせ”という討論の場が必要なのだが、それがない。
 今になって思うと、世の中バブルだというのに金はなかったが、時間は山ほどあったし、映画を色々観て、シネ研の仲間とそれについてガーガー言う。話し合っても、別段これという結論が出るわけじゃないが、それでいい。そんな学生時代ってのは貴重だったんだなと。
 社会人になると、趣味についてあれこれ本気で話せる相手を見つけるのは、これでなかなか難しい。

2006年09月13日

映画バカ青春記 第60章 夏合宿と総括

 夏休み、俺たちシネ研部員は4年生を除く1~3年生で夏合宿に行く。
 夏合宿は三泊四日。1年の時は確か白馬かどっか、とりあえず山だった。
 『ル・シネマ』の山の中から、1988年の夏合宿資料が出てきた。オレが1年生だった1987年も似たような物だろう。記憶がまるっきりあいまいなのでどうしようかと思ったがこれでどうにかなりそうだ。

 朝の9時半に名古屋駅に集合。そこから貸し切りバスで長野に移動。
 午後2時に宿に到着。「やれやれ、やっと着きましたね」と、仲の良かった2年生の先輩に話しかけても「おぅ」と返ってくるぐらいで、何か避けられている。どうも視線も合わせない。
 オレだけではなく、1年生全員が2年生全員から無視されている。
 どうしたんだ、これは?

 荷物を部屋に納めたら、資料や筆記具を持って会議室に集合。
 そして、到着してわずか30分後、一息入れる暇もない。
 そして、シネ研合宿名物“総括”が始まった。

 1年生と2年生が向かい合うように席につく。
 2年生が、あまり慣れていない上に似合わない厳しげな顔つきでこちらを睨んでいる。
 あらかじめ、総括文として、いわゆる反省文を書かされて、それを小冊子にまとめてある。
 1年生の列の端からその反省文を読み上げさせられる。
 読み終えると、「お前はここがいかん」「そこもいかん」「反省しろ」と、いつにない雰囲気で猛烈に責め立てられる。
 ふと横を見ると、赤い手帳を掲げた人民服の若者が「自己批判せよ」と叫んでいる。いや、それは嘘だが。
 とにかく、怒られ、反省を強要させられる。それが総括だ。

 “総括”とは広辞苑によると「別々のものをまとめ合せること。全体を総合して、しめくくること。また、全過程を検討・評価すること」だそうだ。
 だが、夏合宿での“総括”は、

「総括:連合赤軍は、しばしば総括(そうかつ)と称して各人に政治的な反省を迫ることがあった。これはやがて、本人の自覚を助けるとして、周囲の者が総括をしている者に対し、意見や批判を行うものに発展した。」

 学生運動時代に、過激派が内部で行っていた行為に由来するようだ。
 過激派の総括は最終的に破綻してリンチや殺人にまで発展した。幸いなことに、シネ研の総括は言葉のやり取りだけで終わっていた。
 学生運動など20年は前の出来事だというのに、何故に1987年の夏合宿で、映画のサークルであるシネマ研究会が総括をやらねばならないのか。
 オレはよく知らないのだが、というよりもシネ研を含めた天白文化サークル連合の中でも詳しいのはごく数人なようだが、この天白文化サークル連合、通称天白文サ連、もっと略すと単に“天白”は学生運動が盛んだった1960年代後半に、中核派だか革マル派だかに所属していたらしい。
 サークル棟の階段に「民青粉砕」と落書きがされていたが、民青こと日本民主青年同盟は過激派と対立していたことからも納得できる。ちなみに、この「民青粉砕」は管理人が消しても消しても、また書かれていた。
 先ほども言ったように、オレはここらのことに関しては詳しくない。ほとんどの学生にとって、学生運動など自分が生まれる前か生まれた頃の出来事だ。だが、一部の学生および一部の卒業生にとっては現在進行中の出来事だったようだ。
 それにまつわり秋にはある騒ぎが起こるのだが、それはまた後で。

 シネ研の合宿に“総括”という単語が入ってきたのも、その学生運動の時代だろう。
 さすがに1987年には「何じゃそりゃ?」な過去な言葉だったが、大学の学内というのはある種の閉鎖空間で時間の流れが妙なところがあり、なんだかんだで生き残っていたのだ。
 オレが卒業するまでの間の数年間でも、“総括”的な上級生からの批判は影を薄め、単なる反省会へと変わっていった。
 総括では1年はあくまでも批判される者で、上級生は批判をする側。上級生は絶対である。
 反省会は1年生だけではなく、上級生も反省する。上級生は絶対ではない。
 この差は大きい。

新入生入学の時期には白いヘルメットとタオルによるマスク姿でアジビラを配るなど、かろうじて生き残っていた過激派の残党(ほとんどは学生ではなく、卒業生などだったそうだが)は急速に姿を消していった。
 バブル経済の時代になり、日本社会そのものが変質している時期であったのも関係あるのだろう。自分の意志とは関わりなく、オレはシネ研や天白文サ連の転換期に在籍していたのだ。

 合宿での総括に意味はあったのか。
 普段のサークル生活で規律や規則をやたらととやかく言わない代わりに、ここでまとめてやっておくという意味ならばあった。
 文化系のサークル、しかも全体で一つの作業を行っていないサークルなので、結束力は強くなかった。それを“無理矢理”強める役割はあった。
 だが、怒ったり人を批判するのに慣れていない2年生には、怒られながらも「無理してるなぁ」と感想を持った。
 こっちだって、映画を観に行くことはもちろん、サークル内の活動も力を入れていたので、あれこれ細かいところを怒られてもあまり反省しようがない。
 とにかく、消えていきつつあるイベントだった。

 文化系サークルの夏合宿ときたら普通は遊び合宿だろう。
 だが、1988年の資料だと、シネ研の夏合宿は

1日目 9:30名古屋駅発 14:00現地到着 14:30総括 18:00夕食 以後自由時間(飲み会)
2日目 9:00総括 昼食と30分の休憩をはさみ 18:00夕食 以降自由時間(飲み会)
3日目 9:00総括 11:00昼食 以降自由時間(飲み会)
4日目 10:00自由時間 12:00昼食 14:00出発 18:00名古屋駅着

 といったタイムテーブルだった。寝たり食事をしたり、飲み会をしたりといった生活に欠かせない時間を除くと、半分以上を会議で過ごしていたことになる。

 夏合宿を終えると、下級生も上級生も多少顔つきが変わる。
 顔つきや精神面が変わっても、まぁ長続きはしない緊張感だが、夏休み明けから突入する名城大学学園祭、天白のそれは天白祭といったが、一大イベントへの準備に必要なのだ。
 ところが1987年の天白祭は・・・

2006年09月14日

映画バカ青春記 第61章 再会と『3-4X10月』でトンチンカン

 1987年の9月、オレは半年ぶりに母校である半田高校を訪れていた。
 文化祭である柊祭の一般公開日、校内は賑わっていた。
 所属していた放送部のスペースをのぞくと、あとは特にやることもない。
 なんとなく校内をぶらついていたら、図書館で高校3年生の時にちょっとだけ付き合った彼女と出会った。
 彼女は高校3年生になっていた。進学について悩んでいるとの相談を受け、なんだかんだと答える。
「悩んだって落ちるときは落ちるし、悩まなくたって受かるときは受かる」とか、人によっては不真面目と感じるかも知れないが、オレなりに思っていることを話した。

 それから、月に1度ほど電話をするようになった。
 相手が受験生なので、付き合うとかではなく、とりあえず友達として。
 そして、1988年の3月に彼女の進学が決まると、正式に男女交際を始めることとなった。

 だが、その時のオレは「女の子と遊ぶ」よりも「映画を観たり、映画について考えたり、映画について話したり」する方が面白くってしょうがないという映画バカだった。
 なに言ってんだって感じだが、世の中に恋愛至上主義者がいっぱいいるのだから、たまには映画至上主義者だっている。
 彼女は映画はほとんど観ない、観なくても困らないという人だった。
 そんな二人がなぜ付き合うようになったのか、なぜ長続きをしたのかは、よく分からないが、一つには月に一度会うか会わないかというデート頻度の少なさだろう。
 大学生の男と短大生の女が交際していて、遠距離恋愛でもないのに、月に一度しか会わない。まぁ、ちと変わっている。

 映画に誘ったら、「面白い映画が良い」というので、北野武の『3-4X10月』(1990)に連れて行ったことがある。
 今にして思えば、映画好きでもない彼女を北野武の映画に連れて行くなんて無茶なのだが、“面白い映画”の部分だけに反応したのだ。
 いずれ単独の映画評で書くだろうが、『3-4X10月』には思いっきり期待していた。
 『その男、凶暴につき』では出来の悪い脚本と設定をかなり無視していたが、それでもまだ縛られているところがあったが、今度は武オリジナル脚本だ。名実とも武の映画で、これが真のデビュー作だと思っている。

 観終わった後で、興奮してあれこれ話しているオレに彼女は、「ガダルカナル・タカがスナックに来ていた女性客を殴ったのが許せない。女の人に暴力を振るうなんて最低」と応えた。
 正直、彼女が何を言っているのか理解できなかった。
「いや、それはタカが元暴力団員で、スナックのマスターになっても過去が忘れられず、半端な男になっているのを表すシーンで」うんぬんと、トンチンカンな受け答えをした記憶がある。

2006年09月15日

映画バカ青春記 第62章 一年生監督TROさん発進

 別に規則があったわけではないが、監督作品を作るのは2年生になってからというのが普通だった。
 入部当時に映画の作り方として、8ミリフィルムカメラや編集機、サウンドエディターなどの使い方は教わっていた。だが、この講義は、機材を使っていかに映画を作るかというよりも、機材を使っても壊さないで済むようにということに主眼が置かれていた。
 当時、既に8ミリフィルムの機材はほぼ生産を止め、市場に流れる中古も減りつつある。今持っている機材を如何に壊さずに大事に使うかは重大事項だったのだ。

 映画の作り方のノウハウ面については教えてもらえなかった。というよりも、自主映画・学生映画にはっきりとした作り方はない。
 大型書店に行くと、映画の製作に関する本が数少ないながらあったりもするが、これはプロの商業作品か、かなり大規模な自主映画用の内容だった。これから草野球をやろうというのに、プロ野球の練習内容を持ってこられても困る。
 個人製作のシネ研において、決まった映画の作り方はなかった。
 新人は、上級生の映画製作現場を手伝って、「うむむ、なるほど」とか「こう撮るのか」などして、映画の作り方を盗んで、自分なりの映画製作のやり方を作り出すしかなかった。
 なにやら、職人の世界みたいだが、職人の場合は手本となる師匠がその仕事では一人前である。それに対し、シネ研の場合は上級生も、オレたち1年生よりかは知識も経験もあるが、つまるところ大差ないという点が大きく違う。

 これが映画の専門学校だったら、きちんとカリキュラムを組んで、演出の方法の基礎から学んでいくのだろうが、シネ研にはその絶対的な教師役がいない。
 脚本の書き方一つにしても、先輩はそれぞれ自分にやりやすいように、書式についてはかなりいい加減にやっていたので、これも自分なりの脚本の書きかたを見つけ出さなければならない。
 結局、シナリオの描き方も、撮影の仕方も、編集の仕方も、先輩が撮っている現場にスタッフなどで参加して、実地で学ぶしかなかった。

 つまり、一言で監督をやるといっても、これがなかなか大変なのだ。
 監督は2年生からというのは、しきたりではなく、なんとか映画を作ることが出来るようになるには、1年は経験を積まないと難しいということだったのだ。

 そこにTROさんの登場である。
 このTROという男は、この1年生の時点では映画に関して深い知識を持っていなかったが、とにかく行動力があった。
 自分一人だけではなく、回りを自然に巻き込んでいく才能を持っており、天性のリーダーの資質を持っていたように思う。
 しかも、バカだった。

 このTROが後期の上映会に作品を出すと宣言した。1年生監督である。
 大学に入ってくるまでは空手をやっていたTROだけあって、アクション映画。
 ストーリーは

 ・なんか、悪の組織がいる。
 ・組織は戦闘力の高い主人公を仲間に引き入れようとしている。
 ・主人公がそれを拒むので、組織は主人公の恋人を誘拐する。
 ・主人公は恋人を取り戻すため、組織に乗り込む。
 ・次から次へと現れる敵を倒しながら先へ進む。
 ・ついにはボスを倒して恋人を奪還する。

 はっ、ファミコン版『スパルタンX』のシナリオがなぜここにっ?!
 正直、勢いは感じるが、映画としてはまだまだな作品だった。
 シナリオの単調さは今さら書く必要もないだろう。
 見せ場の格闘シーンも、あまりカットを割らず、素人の格闘が丸分かりで迫力に欠ける。
 そして、なにより、やっとの思いで助け出した恋人が・・・恋人が・・・なんでセーラー服で女装した3年生なんだよ!
 ギャグか、これはっ!

 なんでも、ラストの再会シーンで主人公(男)と抱き合う必要があったため女優が見つからず、そこで考え抜いたあげくに映画のシーンとなったそうだ。
 でもね、でも軽く抱き合ってくれる女優を捜す方が、3年生の先輩(男)を説得してセーラー服を着せるよりも簡単なんじゃないか?

 確かに、自主映画に出てくれる女優を捜すのは大変ではある。
「えー、映画?出る出る」と気楽に応じてくれる人は多いが、映画の撮影現場というのは映画作りを分かっている人じゃないと退屈だ。
 女優のご機嫌を取る人員がいるわけでもなく、途中で飽きて逃