1980年代前半、一般にもホビー用マイコンが普及しつつあった。
現代ではソフトを購入するなどして使うのが普通だ。だが、当時は市販ソフトもあったが、マイコンを使う=プログラムを作るに近かった。
多くの人は、BASICで「10 GOTO 20、20 GOTO 10」などと自分でプログラムを組んでいたのだ。ちなみに上に書いたプログラムだと無限ループに陥って楽しい(?)
だが、そう簡単にBASICが身につくはずもなく、やっとこさ組んでも簡単なプログラムでしかもエラーに頭を悩まされる。
だったら、上手な人が作ったプログラムを使おう。今だったらネットでダウンロードしてくればいいが、それはまだまだ遠い未来の技術。ではどうしていたかというと、雑誌に掲載されたプログラムをせっせと手入力していたのだ。
マイコン愛好者のおそらく多くが購読したいたのが、マイコンBASICマガジン(1982年7月創刊)という雑誌だった。
そこには全国のプログラマから投稿されたプログラムが掲載されていた。PC-8001用、MZ-80用など機種別のプログラムが、比較的簡単な物から本格的なゲームまで数が多く魅力的だった。
自分の機種用に興味が惹かれたプログラムを見つけたら、オレの場合ほとんどがゲームだった、誌面に印刷された命令文を「10 GOTO 20、20 GOTO 10」とポチポチと入力していく。(だからそれ無限ループだってば)
何本もプログラムを入力しているうちに、「なるほど、この命令はこういう意味なんだ。こういう使い方をするのか」といった具合にだんだんとBASICを憶えていった。
そして、改めて自分でプログラムを組んでみると、以前よりも上達しているのに気がついた。習うより慣れろということか。
BASICマガジンはその後長く発行され続けたが、2003年5月号を持って休刊、事実上の廃刊となったそうだ。
その頃オレは屋根裏を改造した屋根裏部屋に住んでいた。二階廊下の天井に入り口があって、梯子を上って部屋に入る。
天井が屋根の形に三角に傾斜がついていて、『アルプスの少女ハイジ』が暮らしていた部屋をイメージさせた。
窓はトイレについているような小さな窓が一つあるきりで、換気は悪く断熱材も少なかったので、夏は暑く冬は寒かった。床面積は10畳ほどだが、隅に行くと天井が低くなりかがんでいても頭を打つので、実際に使えるのは6畳ほどのスペースだ。そこに机やベッドなどを持ち込んで城としていた。
中学1年で同じクラスだったMというヤツと友達になり、Mはよくウチに遊びに来ては二人でMZ-80Kを使って遊んだ。どことなく秘密基地みたいでその部屋が大好きだった。
『スタンド・バイ・ミー』などに木の上に造った小屋が登場するが、あれにちょっと似た感じだ。
Mとは同じ高校に進み、そこでも一緒に遊んだり、生徒会や文化祭の活動での仲間だったが、それはまた後の話。
数ヶ月後にS医師にMZ-80Kを返してしまったため、手元からマイコンがなくなってしまった。
一度「自宅にマイコンがある」という生活をしてしまうと、なかなか元の生活に戻るのは難しい。
中学入学と同時に水泳部に入部したオレだが、運動部や体育会系の体質に馴染めずに秋で退部し、替わって科学部に入った。
科学部の物ではなく学校の備品だったが、放送準備室に富士通のマイコンFM-8(1981年発売)があった。まともに使える先生が数人しかいなかったので、ほとんど放置状態だったため、科学部員が好きなように使っていた。
そして1982年に富士通からFM-8の廉価版的存在のFM-7が発売になった。定価で126,000円という安さで、オレは小さな頃から貯金していたお年玉をはたいて購入した。
FM-8とある程度の互換性も持っているので、FM-8に慣れていたオレにはBASICプログラムの面で有利だったのも購入理由の一つだ。ここでFM-7ではなくNECのPC-8001か後継上位機種のPC-8801を購入していたらまた違った人生になっていたのかもしれないが、それもまた後述。
こうして学校ではFM-8、家に帰ればFM-7を使い、SF小説を読んだり、ながらでラジオの深夜放送を聞いたりする生活を満喫した。
ハシゴで上らなければならない屋根裏部屋は親の監視も薄くて、普段は見事なまでに勉強をしなかった。
中学入学後最初のテストでは学年10番台だったが、テスト前に一夜漬けをするのがせいぜいな生活のため、1学年10クラス合計400人を超える中で、成績は50~80番をうろちょろする程度になった。
ひと思いにもっと落ちてしまえば本人も危機感を持ったのだろうが、それなりの成績ではあったためにヘラヘラ呑気な生活だった。もちろん、中学時代はまだしも、それがいつまでも通用するはずはなかったのだが。