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2006年07月 アーカイブ

2006年07月11日

映画バカ青春記 序章 映画とオレについて考える

『ニュー・シネマ・パラダイス』についての文章を書きながら、果たして読んだ人に言いたいことが伝わるかで悩んだ。
 文章力不足はさておくとして、何か脈略がなさげな論理展開だ。
 だが、これは様々なことを感じ、色々なことを考え、映画との関わりを深めて来た結果として、今の自分が持っている映画に対する考え方、評論なのだ。

 2007年に入ってから、映画バカ黙示録の更新頻度がめっきりと落ちて、月に2回それもわりとどうでもいい文章ばかりだ。
 実のところ、これからどのように展開していくか少々行き詰まっていた。これまでは大好きで書いていて楽しい作品が中心だった。しかしそれらの作品はこれまで観てきた内のせいぜい2~3割だろう。他には「こらつまらんわ」という書く気が起きないのもあるが、感銘を受けたがそれを旨く文章にまとめる自信がないものや、難解でそもそもどこから手をつけていいか分からない物もある。
 そして、それらが7割あって手をつけないままということは、半分以上をこのまま語らないことになってしまう。

 あれこれ煮詰まりながら考えた結果、自分と映画との出会い、そしてはまっていった時期のこと、具体的には中学一年生から大学卒業までの、映画館・ビデオ・テレビで何本もの映画を観た10年間について、『映画バカ青春記』としてこの場で連載形式で書いていこうと決めた。
 章ごとに区切るが、それぞれそれなりに長文になりそうだからブログというウェブシステムには向いていないとも思うが、過去の記事とのリンクも利用する予定なので無理を通す。
 構想は大雑把にだがまとまったので、後は書き始めるだけ。基本的には時系列順に進めるが、オレのことなのであちこち話が飛ぶかも知れない。

 次回から連載スタート。更新頻度は少なくなるだろうが、昔のことを思い出しながら書いていく。ただ、オレは人一倍どころか人十倍ぐらい記憶力に難があるので、脳みそ内のサルベージで苦労しそうだ。

映画バカ青春記 第1章 学級文庫にあった星新一の『ようこそ地球さん』

 映画とオレについての文章がいきなり小説から始まるとは疑問に思う人も多いかも知れないが、根っこへ根っこへと遡っていくと、これは重要な出来事だったのだ。
 1981年、オレは愛知県は知多半島にある市立中学校に入学した。担任はまだ若い男性で、眼鏡をかけた数学教師だった。そのO先生が、クラスに学級文庫を開設してご自身の蔵書などを持ってきてくださった。
 母親が家庭文庫をやっていた関係で、オレは小さな頃から本に囲まれた生活をしていた。最近ではほとんど聞かなくなった家庭文庫という存在だが、1970年代あたりにちょっと流行った、個人が自宅で開く子供向け私設図書館である。
 家に本が山ほどあればやはり読んでしまう物で、保育園時代に小学校低学年向きの本を読み、小学校低学年には小学校高学年向けの本を読んでいた。小学3年生で『ナルニア物語』を読み、4~5年生あたりで『モモ』や『はてしなき物語』などを読み、6年生でなんとか『指輪物語』を読破した。
 このように、児童文学やファンタジーに関しては年齢の割に読んでいた方だと思うが、SFにそれほど深い関心はなかった。自宅にしろ小学校の図書館にしろ、SFというとジュール・ベルヌなどを子供向けに手直しされたものばかりで、「面白いけど、ちょっと子供向けだな」などと思っていた。自分だって子供のくせに。
 そして中学に入り、学級文庫からあまり何も考えずに選んで読んだのが星新一著『ようこそ地球さん』だった。

 簡潔な文章、S氏など記号化された登場人物、少ないページ数でアイディアを徹底的に活かした実にスマートな小説、ショートショートとの出会いに、オレはあっという間に星新一氏の大ファンになってしまった。
 続いて、横にあった『ボッコちゃん』を読み、その他学級文庫にあった数冊の星新一作品を読んでしまった。中学校の図書館には星新一の著作がなかったし(あったかも知れないがかなり少なかった)、地元の市立図書館は1981年4月に火災が発生して半焼してしまい、半年ちょっとの間休館中だったため利用できず、借りることができなかった。ならば買うしかないと、中学生の乏しい小遣いを星新一の著作購入に充てた。
 そして、星新一から筒井康隆や小松左京、ハインラインやアイザック・アシモフ、エドモント・ハミルトンの『キャプテン・フューチャー』シリーズや、E.E. スミスの『レンズマン』シリーズなどSF小説にのめり込んでいく。フレドリック・ブラウンにコバルト文庫の新井素子、平井和正の『ウルフガイ』も好きだったなぁ。
 もちろん『SFマガジン』と『SFアドベンチャー』は毎月購読していた。
 当時、愛知県では深夜に『宇宙大作戦(スタートレック)』の再放送がやっていた。まだウチにはビデオがなかったので、親にばれないようにこっそりとベッドから抜け出すと、イヤホンを使ってこそこそと観ていた。ちなみに何度か見つかって怒られた。

 時まさにSF映画、SFX映画の全盛期だった。
 1980年には『スター・ウォーズ帝国の逆襲』が公開され、1982年には『E.T.』、『レイダース 失われたアーク』が1981年。3G決戦といわれた『グレムリン』『ゴーストバスターズ』『ゴジラ(1984年版)』が同時期に公開になったのが1984年。
 そして賛否両論というか否否片論は多いだろうが、日本SF映画の枠を超えようとした『さよならジュピター』も1984年。
 『ターミネーター』も1984年だし、『死霊のはらわた』は1983年。
 この3,4年のSF映画の充実ぶりは今になって振り返ってみると驚くべき物だ。
 そして、SF映画に魅了されてきたオレは、SF映画専門誌の『スターログ』も買い始める。SF映画に関する様々な情報とともに、広告欄には『ブレードランナー』でデッカードが所持していたブラスターのガレージキットや、『ウルトラセブン』のウルトラアイ、そして『宇宙大作戦(スタートレック)』のワッペンなどがあり、実に心そそられた物だ。

 SF小説からSF映画。ここまではありがちな流れだろう。それが数を観ている内にSF映画から映画へと興味が広がっていった。これが中学3年から高校1,2年で起こったことである。

 それはまた次回に。

2006年07月12日

映画バカ青春記 第2章 シャープのマイコンMZ-80Kとの出会い

 SFが大好きになったのはそもそも理科・科学や電気関係が好きだったせいもある。
 マンガでテストを返却するときに「○○さんは100点です」なんてシーンがあったりするが、オレはこれを実際に体験した。小学4年生の時のことで、採点後の理科のテストが戻されたときに、「東森君はまた100点です」と担任の先生に言われたのだ。確かに理科はほぼ毎回100点。だがうれしいよりも級友のからかいの声にむしろ焦った。
 といっても、優等生だったわけではない。理科はずば抜けていたものの、他は国語が得意なぐらいで、残りの教科はどうってことはなかった。暗記系は苦手で、九九を全部憶えるのはクラスでもかなり遅い方だったし。
 小学1年生の時に、保護者面談でウチの母親は担任の先生から、「この子は“理科に関しては”高学年になってから教えることを理解しているので困ります」と言われたそうだ。
 まずは理解しやすくするために簡便化して教えることをテストに出したときに、より詳細な答えを書いてくる。もちろん間違っているわけではないが、決められた回答と違っているので、正解にしていいやら不正解にすべきかで困るとのこと。
 そういえば、もう少し学年が進んでからだが、授業で「光は波です」と教えられたときに、「いや、光は波ですが、物質でもあります」と口答えしていらぬ混乱を引き起こした記憶がある。イヤなガキだ。
 小学校6年生の時にアマチュア無線に興味を持ち、入門書と解説書を読んでいたら「なんか、あんがい簡単じゃないか。試験受けたら受かるんじゃないかな」と受験しに行ったら一発合格。
 しかし、今となっては「オームの法則?なんか電気抵抗が関係してるんだっけ。無線の勉強で買った中にオーム出版社の本もあったが、そのオームはこのオームなんだよな。オウム真理教事件の時は教団と関係があると勘違いした人から苦情や嫌がらせの電話がかかってきたそうだが、いい迷惑だったろうな。それが逆に宣伝になって本が売れると言った発行物じゃないし」といった有様。あの頃の方が絶対頭良かったよな。
 免許を取った時点ですでに飽きていたので実際の無線通信は結局やらなかった。今でも手元には昭和55年(1980年)10月6日日本政府交付の『無線従事者免許証』がある。まだ電話級アマチュア無線技師となっている時代の物だ。確か、取り消しにならなければ終身資格だったはずなので、今でも有効なのだろうか。でも、貼られているのはセーターを着たガキの写真なんだよなぁ。今じゃ電話級・電信級という区別じゃないそうだし。

 過去の栄光話はそこら辺にして、そんなオレが1970年代末頃から一般にも登場し始めたマイコンに興味を持たなかったはずがない。
 近所の1つ下の友達がNECのPC-8001(1979年発売)を買ってもらったので、オレはさっそく押しかけて触らせてもらった。
 あまりにも面白いので欲しくてたまらなかったのだが、20万円ほどする機械をそうそう買ってもらえるはずもない。友人宅に毎日行くわけにもいかず、かわりにカトー無線という大型電気店に毎日のように行って、展示品のマイコンで遊んでいた。店員も特に文句を言ってくることもなかった。というよりも、小学生ですら楽しそうに使っている様子は良い宣伝効果だったのかもしれない。オレと同じようにマイコンを使いに来る子も何人かいて、友達になって情報交換などしていた。そのうちの一人とは別の小学校だったが、中学に入学して再会することとなる。
 そんなある日、借り物ではあるが自分専用のマイコンを手に入れることができた。歯の矯正治療のために通っていた近くのS歯科医の受付に沖電気のif-800というマイコンが置かれていて、先生が患者管理などに使っていた。このif-800はホビー用ではなく実務用途に開発された物で、デザインも優れていて格好良かった。治療が終わっても居残って先生が操作しているのを見物していた。if-800も格好良かったが、それを手足のように扱う先生に憧れ、あれこれ質問したものだ。
 あまりしつこいので呆れたのか、その熱意に打たれたのか、先生が実に嬉しい提案をしてくれた。
「今は使ってないマイコンがあるんだけど貸してあげようか?」
 もちろん、ブンブンブンッと音を立てて首を縦に振った。あこがれのマイコンを自宅でゆっくり思う存分触って使いまくれる!

 貸してもらったのはシャープのMZ-80K(1978年発売)だった。80KのKはキットだそうで、未完成の組み立てキットとして発売された物だ。ディスプレーと記憶装置のカセットデッキが一体型になった洗練されたデザインで、ディスプレイカバー部分が鮮やかなオレンジ色で実にイカしてした。思い入れもあってオレにとってパソコン(マイコン)のベストデザインはこのシリーズである。
 ディスプレーはカラーではなく緑一色のグリーンディスプレイだが、その輝きがなんというかサイバーだった。80Kはキーボードが縦一直線にまるで電卓のように配置されていて、それまでに触っていたPC-8001や中学1年時の担任のO先生が持っていたコモドールのVIC-1001よりも打鍵がしにくかったが、そんなことは気にもとめなかった。
 80Kはシャープがクリーンコンピュータと呼ぶ当時としては独自の設計思想の機体で、BASICを内蔵ROMで持つのではなく、起動時にカセットテープから読み込むという物だった。別言語のCOBOLやフォートランを読み込ませればそちらも使えることができたが、これからBASICを学ぼうというオレにとっては、ある意味単に電源を入れてから操作ができるまで時間がかかるマイコンであった。
 では、クリーンコンピュータの思想が間違っているかというと、現在のパソコンはWindowsにしろMacOSにしろ、電源を入れた後にOSを読み込む仕様になっている。だからOSの新バージョンが出たら簡単にアップグレードできるのだ。問題はカセットテープという記録媒体が低速すぎたことだろう。でも、当時はプログラムをカセットテープに記録していたので、なにかプログラムを使おうとしたら「load」と入力して読み込み、保存は「save」と入力。みんなピーガー言わせながらカセットテープが回るのを眺めていたが、それでもさして不満はなかった。。それが今となっては「Windows2000は起動が遅いよなぁ」とか「5200回転だと読み込み遅いよなぁ」と言っている始末。まぁ、テープ時代のことは思い出だから懐かしいので、今さらあの時代に戻りたいとは思わないが。

 ここまでだと、「映画関係ないじゃん。つか単なる思い出話じゃんか」だが、後からマイコンから映画へと繋がる。んー、自分の中では繋がっている話に続く。

2006年07月14日

映画バカ青春記 第3章 富士通のマイコンFM-7を購入

 1980年代前半、一般にもホビー用マイコンが普及しつつあった。
 現代ではソフトを購入するなどして使うのが普通だ。だが、当時は市販ソフトもあったが、マイコンを使う=プログラムを作るに近かった。
 多くの人は、BASICで「10 GOTO 20、20 GOTO 10」などと自分でプログラムを組んでいたのだ。ちなみに上に書いたプログラムだと無限ループに陥って楽しい(?)
 だが、そう簡単にBASICが身につくはずもなく、やっとこさ組んでも簡単なプログラムでしかもエラーに頭を悩まされる。
 だったら、上手な人が作ったプログラムを使おう。今だったらネットでダウンロードしてくればいいが、それはまだまだ遠い未来の技術。ではどうしていたかというと、雑誌に掲載されたプログラムをせっせと手入力していたのだ。
 マイコン愛好者のおそらく多くが購読したいたのが、マイコンBASICマガジン(1982年7月創刊)という雑誌だった。
 そこには全国のプログラマから投稿されたプログラムが掲載されていた。PC-8001用、MZ-80用など機種別のプログラムが、比較的簡単な物から本格的なゲームまで数が多く魅力的だった。
 自分の機種用に興味が惹かれたプログラムを見つけたら、オレの場合ほとんどがゲームだった、誌面に印刷された命令文を「10 GOTO 20、20 GOTO 10」とポチポチと入力していく。(だからそれ無限ループだってば)
 何本もプログラムを入力しているうちに、「なるほど、この命令はこういう意味なんだ。こういう使い方をするのか」といった具合にだんだんとBASICを憶えていった。
 そして、改めて自分でプログラムを組んでみると、以前よりも上達しているのに気がついた。習うより慣れろということか。
 BASICマガジンはその後長く発行され続けたが、2003年5月号を持って休刊、事実上の廃刊となったそうだ。

 その頃オレは屋根裏を改造した屋根裏部屋に住んでいた。二階廊下の天井に入り口があって、梯子を上って部屋に入る。
 天井が屋根の形に三角に傾斜がついていて、『アルプスの少女ハイジ』が暮らしていた部屋をイメージさせた。
 窓はトイレについているような小さな窓が一つあるきりで、換気は悪く断熱材も少なかったので、夏は暑く冬は寒かった。床面積は10畳ほどだが、隅に行くと天井が低くなりかがんでいても頭を打つので、実際に使えるのは6畳ほどのスペースだ。そこに机やベッドなどを持ち込んで城としていた。
 中学1年で同じクラスだったMというヤツと友達になり、Mはよくウチに遊びに来ては二人でMZ-80Kを使って遊んだ。どことなく秘密基地みたいでその部屋が大好きだった。
『スタンド・バイ・ミー』などに木の上に造った小屋が登場するが、あれにちょっと似た感じだ。
 Mとは同じ高校に進み、そこでも一緒に遊んだり、生徒会や文化祭の活動での仲間だったが、それはまた後の話。

 数ヶ月後にS医師にMZ-80Kを返してしまったため、手元からマイコンがなくなってしまった。
 一度「自宅にマイコンがある」という生活をしてしまうと、なかなか元の生活に戻るのは難しい。
 中学入学と同時に水泳部に入部したオレだが、運動部や体育会系の体質に馴染めずに秋で退部し、替わって科学部に入った。
 科学部の物ではなく学校の備品だったが、放送準備室に富士通のマイコンFM-8(1981年発売)があった。まともに使える先生が数人しかいなかったので、ほとんど放置状態だったため、科学部員が好きなように使っていた。
 そして1982年に富士通からFM-8の廉価版的存在のFM-7が発売になった。定価で126,000円という安さで、オレは小さな頃から貯金していたお年玉をはたいて購入した。
 FM-8とある程度の互換性も持っているので、FM-8に慣れていたオレにはBASICプログラムの面で有利だったのも購入理由の一つだ。ここでFM-7ではなくNECのPC-8001か後継上位機種のPC-8801を購入していたらまた違った人生になっていたのかもしれないが、それもまた後述。
 こうして学校ではFM-8、家に帰ればFM-7を使い、SF小説を読んだり、ながらでラジオの深夜放送を聞いたりする生活を満喫した。
 ハシゴで上らなければならない屋根裏部屋は親の監視も薄くて、普段は見事なまでに勉強をしなかった。
 中学入学後最初のテストでは学年10番台だったが、テスト前に一夜漬けをするのがせいぜいな生活のため、1学年10クラス合計400人を超える中で、成績は50~80番をうろちょろする程度になった。
 ひと思いにもっと落ちてしまえば本人も危機感を持ったのだろうが、それなりの成績ではあったためにヘラヘラ呑気な生活だった。もちろん、中学時代はまだしも、それがいつまでも通用するはずはなかったのだが。

2006年07月15日

映画バカ青春記 第4章 水泳部を退部

 オレは半田小学校から半田中学校に進学した。
 半田小学校までは片道4kmと遠かったが、これは新興住宅地に住んでいて近くに小学校がなかったからだ。
 そして中学校進学時には、道一本の差でN中学校という中学が校区だった。
 だが、N中学校は校則で男子生徒は丸刈りの坊主頭にしなければならなかった。今ではさすがにそんな前近代な学校はほとんど絶滅しただろうが、当時の田舎では珍しくなかった。
 そして、道一本先から校区になる半田中学校は髪型は比較的自由。そこで強引に半田中学校に入学した。
 後に大学時代のバイトで坊主頭にしなければならなかったり(これについてはいずれ書く)、金がないときには電気バリカンを買ってきて自分で頭を坊主にしていたから、坊主頭がイヤだったのとはちょっと違う。強制的にというところが気にくわなかったのだ。なんで学校側に髪型まで規制されなければならないのか。それが許せなかった。
 そして、半田中学校を選んだことは高校進学でも有利に働くが、それはまた後の話。
 3歳下な弟は、5年生の時に新設されたK小学校に転入していたため、半田小学校だからという強引技が使えずにN中学校に進学して坊主頭にされていた。哀れである。
 もしもオレがN中学校に進んでいたとしたら、唯々諾々と従わずに、丸刈り校則廃止の運動をしていたことだろう。これでなかなか反骨精神は強いのだ。

 中学校では必ず部活をしなければならないことになっていた。
 泳ぐことが好きだったオレは、あまり深いことを考えずに水泳部に入部した。
 そして、そこで待っていたのは悪夢の日々だった。

 まず、午前7時からの朝練で一日が始まる。
 放課後ももちろん部活。土曜日も日曜日も部活。休みは祝日だけ。
 さらに理不尽な上下関係。一年先に生まれたことがなんでそんなに偉いんだろうか。尊敬されたければまずはそれだけの人間性を身につけるべきだろうに。
 それでもまだ我慢をしていたが、夏休みに入って限界が来た。
 毎日毎日、朝から日が暮れるまで練習。夏なので日が暮れるのが遅く、家に帰っても晩飯を食べて風呂に入って寝るだけの生活。本もまともに読めやしない。
 お盆だけはさすがに部活は休みだったが、自主練習と称して市民プールに来るように上級生からの通達があった。自主練習というがもちろん強制。
 強制的という部分に頭に来たオレは、参加しなかった。市民プールから10分ほど離れていないところに住んでいたので、夕方になると練習を終えた上級生が家に押しかけてきて叱られた。
 その時点で、ごめんなさいと謝って翌日から練習に参加するとこにすればまだ無難にすんだのだろう。だが、こちらも頭に来ていたオレは
「自主練ということはやりたい人間が自主的に参加するってことでしょ。強制ではないものに必ず参加しなければいけないというのは間違っているんじゃないですか。わたしは他にもやりたいことがあるので、自主練には出ません」
と言ってしまった。
 お盆明けから部活の練習に戻ったオレを待っていたのは、当然のごとく上級生からのイジメだった。

「練習が不真面目だ」と難癖をつけられては、更衣室に連れ込まれて数人がかりに殴られる。
「先輩に口答えをした」と難癖をつけられては、更衣室に連れ込まれて数人がかりに殴られる。
「目つきが反抗的だ」と難癖をつけられては、更衣室に連れ込まれて数人がかりに殴られる。
「なんか今日は機嫌が悪いから」と難癖をつけられては、更衣室に連れ込まれて数人がかりに殴られる。

 上級生のことはすでに「こいつらはアホだ」と思っていたが、最初は気の毒そうな目をするだけで関わらない様にしていた同級生が、次第にその殴る側に参加していくのがショックだった。人間の心にある闇を感じて怖ろしくもあった。

 顧問の先生に事を訴えても、「そうか」というだけで何もしてくれなかった。
 そして黙認されたイジメは続き、耐えかねたオレは秋になって先生に退部したいと申し出た。
 当時、その中学校では、というか多くの地方の中学校でもそうだったろうが、一度入部した運動部を辞めることは非常に難しく、ある意味無理だった。だが、先生は一言「そうか」と言うだけですんなりと退部できた。
 その時はありがたく思ったが、すぐに「オレのことを思ってではなく、結局は自分が顧問をしている部活で大きな問題が起こる前に、その原因をなくしたかっただけだ」と考えるようになった。
 このことが一つのきっかけとなって、オレは学校の教師というものを、授業はともかくそれ以外の点では余り信用しなくなっていく。

 今になって改めて思うに、なぜ運動部・体育会系の部活というのは、ああもその身を捧げるようにやらなければならないのだろうか。
 オレは泳ぐのは好きだが、呑気に泳げればそれでいいのだ。社会人になってから仕事が早く終わったときは友人と都のプールに行ってのんびりと泳いだ。平泳ぎでひたすらプールを往復し、2時間で2000~3000メートルのペースで、実に楽しかった。
 なぜ部活となると楽しく泳いではいけないのだろうか。苦しく必死でなければならないのだろうか。
 なぜ、毎日毎日練習しなきゃいけないと一律に決まっているのだろうか。
 なぜ、全員が大会を目指したいとか記録を追求しなければならないのだろうか。
 人それぞれに水泳に求める物は違う。それが当たり前だろう。だったら、人それぞれのやり方とペースでやればいいではないか。部活も毎日やりたい人は毎日やればいいだろうが、週に2、3回でやりたい人もいるのだからそれをなぜ許せないのか。オレは水泳にすべてを捧げるつもりはなく、読書やマイコンと同格の一つの趣味として楽しみたかっただけなのに、なぜそれがいけないのか。
 一つの例外を認めると、そこからダラダラになってしまうから、規律で固めるということなのだろうが、なぜに中学校の部活でそこまでしなきゃならないのだ。
 そこでオレが感じたイヤな臭いは、後にファシズムという物だったと気づく。オレのファシズム嫌いは、実体験に基づく物だったのだ。

 上級生が家に押しかけてきた時点で、口答えをせずに賢くやり過ごせば良かったのにという人もいるだろう。
 オレも理性の部分ではそうかもしれないなとも思うが、どうもそれができない。
 自分が間違っていると思ったことは、間違っていると言わないといられない性分なのだ。強制されることが嫌いで、頭に来ると我慢ができなくなってしまう性分なのだ。
 水泳部の件だけではなく、その後も何度も似たような出来事はあった。大学を卒業し社会人になってからもある。というか、いまだにある。
 損なことの方が圧倒的に多いその性格だが、直そうという気はない。損なことになっても、言わずにそのまま不完全燃焼のまま心に抱えているよりは、言ってしまった方が良いと考えている。
 それにオレが頭に来るのは、個人的な好き嫌いではなく、明らかに理屈に合わない・理不尽だと思うことだからだ。

2006年07月16日

映画バカ青春記 第5章 我が心の師匠、横田順彌

 科学部に移ってから日が過ぎ、オレも中学2年生になった。
 マイコンを使ったり色々と化学の実験をしたり、無駄話をしたり遊んだりと楽しい毎日だった。
 そんなある日、後輩の1年生が「面白い本を読みましたよ」と一冊の本を貸してくれた。一学期だったと記憶しているから1982年の前半の出来事である。
 それは横田順彌の著作『銀河パトロール報告』だった。そしてオレはかつてないほどの衝撃を受けた。

『銀河パトロール報告』は私立探偵金大事包助を主人公とした推理物・SF物の短編の連作である。星新一によってハチャハチャ小説と名付けられた、ダジャレを主体としたギャグ小説だ。
 第一話の冒頭からひたすらダジャレの連打連打で、「何だこりゃ?」と取りあえず読み進めたオレは、文庫本19ページにある次の文章に頭を金本のスイングで吹っ飛ばされたかの感を覚えた。

「それじゃ、これから、心を入れかえて真人間になるか?」
「なる、なる」
「この事件解決に協力するか?」
「する、する」
「うなぎの身体は?」
「ぬる、ぬる」

 目の前に新しい世界が開けた。
 何なんだこの感覚は。面白面白面白すぎる~!こんな小説読んだことねぇ~!

 その後、ファンというよりも横田順彌氏を心の師匠とし、勝手に弟子になったオレは手に入る限りの著作を読んでいった。
 その一冊、短編集の『脱線!たいむましん奇譚』収録の『おたまじゃくしの叛乱』は次の文で始まる。

 朝だ。雨がふっている。朝だ雨だ。(アサダアメだ)

  完璧である。小説の出だしとしてこれを超える物をオレは知らぬ。「トンネルを抜けると、そこは雪国だった」など怖れるに足らん。洒落で言っているのではない、本気だ。
 オレはこんな小説を自分でも書いてみたいと思い、さっそく執筆に取りかかった。
金大事シリーズにならって、私立探偵を主人公としたハチャハチャ小説にしよう。
 主人公の名は「とりあえず漢字三文字は絶対だよな」と悩んだ結果、海底軍艦の神宮寺大佐から取って、神宮寺照彦とした。
 相棒は医者で、「ワットで電力を測ると損だ」という論文を書いたワットソン博士。
要約した話は以下の通り。

 ワットソンが友人の医師が殺された事件の解決を神宮寺に依頼する。
 その医者の死体は駅のホームで発見された。駅員が見回りの後、二本の列車がその駅に停車し、そのどちらかの列車から運び出されたらしい。
 片方の列車は、あまりの速さにみんな「こらまぁ」と感嘆の声を上げてしまう、新幹線こらまぁ号。ちなみに停車駅が少なくさらに速く、どんな遠くでも日帰りできてしまう、新幹線ひがえり号という姉妹列車がある。
 そしてもう一方は、その安全性は完璧で絶対に事故を起こさない寝台特急ぶじ。
 神宮寺照彦の推理が導き出した答えは、
「殺された人物は医者だったのだろう。ならば答えは簡単だ。死んだ医者、寝台車、よって殺害現場は寝台特急のぶじだよ」

 それまでにも簡単なお話は書いたことがあったが、人に読ませることを前提に本気で書いたのは、この『列車殺人事件』が初めての作品である。
 オレにとって物を書いたり作品を作ることの原点と言っていい。
 その後、神宮寺シリーズは中学、高校と何作か書かれ、後に映画化もされた。というか大学のシネマ研究会に入ったオレが、第一回監督作品として映画化した。
『ダイヤモンド・ゲーム』(1988)というタイトルで、世界最小のダイヤ『スパローの涙』を狙うアルセーヌ・ルパンを、神宮寺照彦と大林警部が迎え撃つというギャグ映画だ。

 面白いこそ重要。笑えることこそ至高。そのためならば何をやっても良い。そんなことをオレに教えてくれた横田順彌。
 その出会いをもたらしてくれた後輩には今でも感謝している。
 以降、その思想がオレの主たる部分を占め、現在にまで至っている。

2006年07月17日

映画バカ青春記 第6章 もう一人の我が心の師匠、つボイノリオ

 中学時代、オレは地元のCBCラジオで深夜番組の『小堀勝啓のWA!WIDE』を良く聞いていた。この番組は当時の人気番組で友人にも聞いている者が多かった。
 その一コーナーにつボイノリオの『ポップン10分』(“ぽっぷん”だったかも)があった。

 つボイノリオといえば『金太の大冒険』(1975年発表)やNHKの人形劇『プリンプリン物語』(1979年~1982年)で「アルトコ中央テレビ、略してアル中テレビのわたしは花のアナウンサーあ~あ~あ~」と登場する花のアナウンサー役ですでにその存在を知っていた。
 『金太の大冒険』について今さら説明する必要はないだろうが、金太という少年が大男と戦いになって「金太、負けるな。金太、負けるな。きんたま蹴るな」など、金太と「ま○○」の言葉を組み合わせた言葉遊びのダジャレソング。始めて聞いたのは小学時代で、とても好きだったが、歌うと親や先生に怒られた。
 『金太の大冒険』はつボイノリオが深夜ラジオのDJをしていて、その番組内で生まれた歌だが、さすがに小学時代は深夜ラジオは聞いていない。オレがつボイノリオのDJとしてのしゃべりを聞いたのは『ぽっぷん10分』からである。

 『ポップン10分』は後に『ポップン15分』になったり、また『ポップン10分』に戻ったりと、局の都合かスポンサーの都合かころころと長さが変わった。スポンサーは予備校の河合塾だったような記憶があるが確かではない。だが、比較的堅めなスポンサーで、番組との落差に笑った記憶がある。
 つボイノリオの怒濤のごときしゃべりにオレは魅了された。しかも、しゃべりの内容が基本的に無意味というか非常にしょーもない。その徹底したしょーもなさがオレの心を捕らえて放さなかった。
 さすがにそのほとんどは覚えていないが、未だにはっきりと覚えているギャグがある。
 この番組は月~金に毎日放送される短時間枠。もちろん録音なのだが、つボイノリオは「これは生放送です」と言い切って決して録音だと認めなかった。
 当時、つボイノリオはKBS京都だったか、京都のラジオ局を主な活動拠点としていた。そして、痔疾の治療のため京都の病院に入院したことがある。
 そこで、リスナーのハガキで「京都の病院に入院しているのに、名古屋のラジオで生放送できるわけないでしょ」とツッコミが入ったが、つボイノリオは
「いや、放送時間が近くなると病院のベッドを抜け出して、名神高速を走って名古屋まで駆けつけているのです。その証拠に、名神高速の道路に点々と私の血が付いています」と言い張った。
 ラジオの前で大笑いしたものだ。

 つボイノリオといえば、先ほどの『金太の大冒険』や『極付け!お万の方』、『吉田松陰物語』など、言葉遊びと下ネタを駆使した芸風で有名だ。
 だが、番組にリスナーから下ネタへと誘導する様なハガキが来ると、それを読みながらも
「下ネタやらないよ~、絶対やらないよ~」と歌い出す。
 その歌を聴いて以来、オレは下ネタは使わないことにした。実際、オレは実生活でもギャグを言うことが大好きだが、ほとんど下ネタは言ったことがない。
 もちろん、つボイノリオが下ネタを言わないはずがなく、「下ネタを言わない」発言自体がギャグな訳ではある。しかし、その下ネタの明るく爽やかでカラッとドライなこと。オレには自分が言うとどうやったって下品になることを自覚し、オレには下ネタの才能はないと自らの下ネタは封印した。同じ路線では師匠を超えることはできない。そこでダジャレなど言葉遊びの方を追求することにしたのだ。

 そう、師匠である。
 オレにとってつボイノリオはしゃべりに関する師匠となっていた。怒濤のごときしゃべりと、そこにまた無意味に含まれる様々な知識や情報。とぼけた口調を理想とした。
 そしてオレのしゃべりとそのギャグは、高校では「東森並のギャグ」と言われ、大学では「東森ギャグ」と言われるようになる。しょーもないギャグ=東森なのだ。
 高校では「並」から分かるように下に見られた言われ方だったが、大学では対等の位置になっていた、と個人的には思っている。「東森級のギャグ」と言われるようになりたいというのが目標だろうか。

 高校に進んで放送部に入ったオレは、そこでお昼休みのDJも週に一度担当することになり、つボイノリオに大きな影響を受けた(下ネタ抜き)番組をやり、ついにはDJから外されることになるのだが、それはまた後の話。

2006年07月18日

映画バカ青春記 第7章 さらなる我が心の師匠、ジョン・ランディス

 オレは劇場公開時に『ブルース・ブラザース』(1980)を観ている。1981年3月公開となっているから、小学校を卒業し、中学に入学するまでの春休みに観たのだろう。
 これまでに観てきた映画は何だったのだろうと思うほどに面白かった。もっとも、しょせん、小学生だから、それまでにさほどの作品数を観ていたわけではない。テレビの映画劇場を合わせてもせいぜい100本とか200本の話だ。
 その程度の映画に関する感性で「こんな映画観たことがない。最高だ」と言っても大した説得力ではない。
 だが、6000本を越える映画を観た今でも、オレにとって『ブルース・ブラザース』はベストテンに入る1本だ。その気分でベストワンが変わるが、もちろんそのベストワンの1本である。 出来や面白さだけではなく、オレにとって映画に目覚めさせてくれた作品だからだ。

 ジェームズ・ブラウンやレイ・チャールズが出演していたりと、音楽的要素の強い作品だが、田舎のガキがそのどちらも知っているはずがない。監督のジョン・ランディスについても名前すら知らなかった。
 観に行ったのは、前年の『1941』(1979)を劇場で観ていて、空軍パイロット役のジョン・ベルーシが大好きだったからだ。ひたすらにハチャメチャな行動と言動で笑わせてくれたジョン・ベルーシのファンだったオレは、また騒動をやらかしてくれるのかと期待して劇場に行った。
 『ブルース・ブラザース』のジェイク(ジョン・ベルーシ)のハチャメチャぶりは『1941』の比ではなかった。弟のエルウッド(ダン・エイクロイド)と共に、黒のスーツに黒のソフト帽、そして黒のサングラスの黒ずくめに身を包み、ほとんどのシーンを無表情のままひたすらに騒動を引き起こす。それでいて、サングラスを外して、キャリー・フィッシャーにつぶらな瞳で笑いかけるシーンの面白かったこと。
 なにより笑いそして燃えたのが終盤のカーチェイス。これまたひたすらメチャメチャで、パトカーがどんどんクラッシュしていく様に笑った。

 映画が終わった後、オレは思った。
「こんな面白い映画を作ったのはどんな人だろう?」
 これが映画監督という存在を初めて意識した瞬間だった。
 それまでは、映画に出演している俳優に関心はあったが、製作関係者のことなどほとんど考えたことがなかった。
 とりあえずパンフレットを買った。そこには監督・脚本としてジョン・ランディスの名前があった。ジョン・ランディス、いったいどんな人なのだろうか。どうやったらこんな面白い映画が撮れるのだろうか。
 当時は、今のようにインターネットで簡単に情報が手に入る時代ではない。近くに映画に詳しい人もいなかったので、書籍に頼るしかないのだが、第1章で書いたように、地元の図書館が映画を観たすぐ後の4月に火災で閉館していたため、そちらで調べることも出来ない。
 映画雑誌のロードショーを毎月買い始めたが、あれは映画スター中心であまり監督については書かれていなかった。立ち読みしていたキネマ旬報での知識もあって、ジョン・ランディスがジョン・ベルーシが出演した『アニマル・ハウス』という作品を撮っていることや、『1941』にはサイドカーの運転手役として出演していることを知った。もっとも、『1941』にそんなヤツ出てたっけな?とまるで記憶になく、確認できたのはTV放映かビデオ発売された後のこととなる。

『狼男アメリカン』(1981)を観に行き、コメディ以外の才能に驚き、『大逆転』(1983)に笑う。ジョン・ランディスにとって忘れられぬ悪夢となる『トワイライト・ゾーン』(1983)、そしてその悪夢における苦しみを描いたかのような『眠れぬ夜のために』(1984)。『眠れぬ夜のために』では殺し屋の一人をジョン・ランディス自身が演じ、ラストには見事に射殺されて死ぬ。ある意味では、そこで一度自分を殺したことで再出発への再生を試みたのかも知れない。
 『スパイ・ライク・アス』(1985)で調子を取り戻したジョン・ランディスは、『サボテン・ブラザース』(1986)で完全復活を果たす。

 大学時代から映画監督で作品を選ぶことが多かったオレだが、その最初の一人が『ブルース・ブラザース』以降、ずっと劇場で観続けているジョン・ランディスだ。
 映画監督という存在、その魅力を教えてくれたのが彼だ。その出会いがなければ映画に深い関心を持っていくことにもならなかっただろう。
 オレが大学に入って第一回監督作品の『ダイヤモンド・ゲーム』は、横田順彌に触発されて書き始めた小説を原作としているが、映画の脚本と演出はジョン・ランディスと『トップ・シークレット』のジム・エイブラハムズ、デヴィッド・ザッカー、ジェリー・ザッカー(ZAZ)から強い影響を受けた物だ。彼らは映画における師匠である。

 そして、中学卒業の時点では将来の夢は映画監督となっていた。いや、夢ではない、当時はそれが決定事項だった。自分は将来映画監督になるんだと思い込んでいた。
 『ブルース・ブラザース』を観ていなければ、まったく違った青春時代になっていたはずだ。その出会いで人生が変わったと言ってもいい。
 今のところ、自主映画を5本撮った元自主映画監督だが、まだ人生に先はある。さすがに青春期・青年期ほどの思いはないが、今も夢は映画監督だ。一応可能性がないわけでもない。

2006年07月19日

映画バカ青春記 第8章 コンピュータ・グラフィックス・ムービー(大げさ)を制作

 水泳部を退部し、科学部へと入部したオレは、サイエンスライフを満喫していた。
 理科実験室の機材、薬品はそのほとんどを自由に使うことができた。顧問の教師もいたがほとんど顔を出すこともないのでかなり好きにやっていた。
 中学の理科実験室だからそれなりに危険な薬品もあったので、今ならばもっと管理も厳しいのだろう。
 黒色火薬や綿火薬まで作ったのだから、考えてみればずいぶん無茶をした。

 放送準備室にある富士通のマイコンFM-8も自由に使うことができた。
 オレもいくつかBASICでプログラムを組んだ。初期に作ったのはじゃんけんゲームだった。
1.グー 2.チョキ 3.パー のどれかを入力すると、マイコン側はランダムコマンドでグー、チョキ、パーのどれかを返してくる。そして勝ち負けが表示される。それだけ。
 これではあまりに程度が低いので、改良してあっち向いてホイゲームを作成した。
1.グー 2.チョキ 3.パー のどれかを入力すると、マイコン側はランダムコマンドでグー、チョキ、パーのどれかを返してくる。
次に1.上 2.下 3.右 4.左を入力すると、またマイコン側がランダムコマンドで4つの内どれかを返してくる。じゃんけんで勝っていた場合は、その数値が一致すれば勝ち、負けていた場合は一致したら負け。それだけ。
 改良というか、結局ランダムコマンドしか使っていない。基本的に進歩はないのであった。
 次に作ったのはすごろくゲーム。またゲームである。
 キーを押すとサイコロが振られ、ランダムコマンドで1~6の数字が出る。その数だけコマが進む。二番手でマイコン側がサイコロを振る。こうして、お互いのコマが進み、止まった場所の指示に従いながら、最初にゴールに着いた方が勝ち。
 またもやランダムコマンド。そればっかかオレはといった具合で、これまた基本的に進歩がないのであった。

 小学校時代にカトー無線のマイコンコーナーで知り合ったIと中学校で再会し、同じく科学部に所属していた。
 このIはオレから見たら雲の上のようなマイコンの使い手だった。
 まず、当時既にブラインド・タイプ、今で言うタッチタイプを習得していた。痩せ形だったIは身体と同じくすらりとした左右の指10本で、タタタタタタッとキーボードを打鍵していく。それだけでもマイコン好きが揃った部員の中でも群を抜いていた。
 オレがタッチタイプを会得するのは大学に入ってからで、当時はキーボードを見ながらの人差し指打鍵だった。すげぇなぁとその入力ぶりに感心していた。
 タッチタイプはIの才能のほんの一部でしかない。オレはプログラムを組む際に、まずはあれこれ悩みながら紙に書いていって、それを入力してエラーが出ては修正し、またエラーが出ては修正しながら簡単なプログラムをようやくと完成させていた。
 だがIは、えーとじゃあこうでこうでこうだねとマイコンに向かったままどんどん画面上でプログラムを作っていく。ほとんど迷いもなく完成させると、そのプログラムがエラーもなく走る。これまた、すげぇなぁと感心するしかなかった。
 そのプログラムはオレのような「とりあえずランダムコマンド」ではなく、ちゃんとルーチン、アルゴリズムが盛り込まれていた。これはかなわないなと、これまた感心するしかなかった。

 自分よりも圧倒的に才能のある人間を前に、人はどうすればいいだろうか?

1.それに近づき、追い越すべく努力する
2.あきらめる
3.同じ道ではかなわないのならば、別の道を進む

 オレが選んだのは3番だった。
 ルーチンやアルゴリズムといったプログラムの技術でかなわないのならば、それらが重視されないプログラムを作ろう。
 そして取りかかったのが、動く紙芝居だった。
 ゲームにはオープニングが付いている物があったのでそれを参考に作業に取りかかった。作ったのはこんな作品だ。

 文字やキャラクター、今で言うアスキーアートで画面は作られている。
 ファーストシーンは美術館。中央の展示台にダイヤモンド(文字の◆をそのまま使用)が飾られている。
 画面右端から怪人二十面相が登場。
「ダイヤモンドはこの二十面相がいただいた」
ダイヤを奪ってそのまま画面右へと逃走。
 画面左端から私立探偵明智小五郎が登場。
「待てー、二十面相」
 そして二十面相を追って画面右端から走り出る。
 夜の街に画面が変わり、二十面相とそれを追う明智小五郎が走っている。
 ゴミバケツの上に猫が寝ていて、驚いて飛び上がる。
 ラストシーン、といってもシーンは三つしかないのだが、ある空き地に明智小五郎は二十面相を追い詰める。
「二十面相、あきらめてダイヤを返せ」
「フッフッフッ、こっちには奥の手があるのだよ」
 上空にヘリコプターが登場し、ロープを下ろす。
 二十面相はそのロープに掴まりそのまま上に引き上げられる。
「ハッハッハッ、わたしの勝ちだよ、明智君」
 画面の外へ出て行くヘリコプターを明智小五郎は見上げる。
「これで勝ったと思うなよ、二十面相」
 ヘリを追って明智小五郎は画面の外に走り去る。
 そして、「続く」

 こうして時間にして1分程度だっただろうか、動く紙芝居は完成した。
 さっそく部員を集めて披露した。

「へー、凝ったオープニングじゃない。で、どんなゲームなの?」
「いや、オープニングというか、これで終わりなんだけど」
「何だ、ゲームじゃないのか」

 ・・・・・・
 苦労して作り上げた作品だったのだが、あまり評判は良くなかった。
 続くで終わっているように、続編を予定していたのだが取りやめた。
 同じ頃にはかなり映画に関心を持つようになっていたので、興味はさらに映画へと移り、次第にマイコン熱は冷めていき、高校に進学した頃には自宅のFM-7もあまり使わなくなっていた。
 だが、今になって思うと、あの動く紙芝居『二十面相対明智小五郎』はマイコンで作り上げた映画だった。大げさに言えばコンピューター・グラフィックス・ムービーだったのではないだろうか。
 アスキーアートで構成された原始的な画面だったが、『二十面相対明智小五郎』はオレが初めて作り上げた映像作品だったのだ。志は『ファイナルファンタジー劇場版』にも負けていない、いやむしろ個人的には勝っていたと思う。
 この文章を書きながらようやく気づいたのだが、オレが大学に入って撮った最初の自主映画『ダイヤモンドゲーム』は、世界一のダイヤモンド『スパローの涙』を狙うアルセーヌ・ルパンと私立探偵神宮寺照彦の戦いを描くギャグ映画だった。
 ダイヤを狙う怪盗とそれに挑む私立探偵。基本ストーリーはまったく同じだ。なんというか、一つのテーマを追求していたと見るべきか。あるいはこれまた単に進歩がないだけかも知れない

2006年07月20日

映画バカ青春記 第9章 高校受験と担任との戦い

 中学3年の秋にもなると、高校受験が現実味を増してくる。
 進学は当然の物と思っていたので、受験する高校について検討を始めなければならない。
 小学校・中学校共に公立の市立学校に通っていたので、高校受験が初めての受験となる。
 新興住宅地に住んでいたため当時は近くに学校がなく、小学校は片道4kmとかなり遠くの学校に通っていた。そして中学校は3km。
 せっかく通学距離が短くなったのに、また遠くになってはかなわない。市内には二つの公立普通高校があったが、そんな単純な理由で自宅から2kmにある愛知県立半田高校(リンク先はWikipedia)に決めた。
 問題は、その半田高校が知多半島で一番難易度の高い進学校ということであった。

 明治43年設立の愛知県知多郡立高等女学校と大正7年設立の愛知県立第七中学校が原形となる歴史の長い学校である。『ごんぎつね』などで知られる作家新美南吉が教師として勤務していたこともある。
 灘高やラサール高校などは遥かに上になるが、当時は年に数人が東大に進む地方の一公立高校としては割とレベルが高い学校だ。

 今はどうなっているのか知らないが、当時はオレの中学校から半田高校を受験するには学年で成績が50番以内でないと担任から許可が下りなかった。
 オレの成績は調子が良いときで50番台、悪いと80番台。この成績では条件をクリアしていない。当然、担任の教師は「半田高校受験はダメだ。半田東高校を受けろ」と言ってきた。助言ではなくほぼ命令だった。
 だが、半田東高校は自宅から見て市のほぼ反対側。距離にして10kmちょっととかなり遠い。通学方法は自転車しかなく面倒だ。
 しかも、半田東高校は新設校で厳しい管理教育で知られていた。なにか問題を起こすと廊下に正座をさせられるとか、弁当のおかずにまで抜き打ちでチェックが入るとかの噂を聞いていた。
 あれこれ管理されることが嫌いなオレが、そんな学校を受験したいと思うはずがない。断固として半田高校の受験を希望するオレと担任との衝突が始まった。
「どの高校を受験しようと、それは本人の自由じゃないですか」
「お前じゃ合格しない。落ちて後悔するのは自分だ」
「納得済みなら後悔するにしても自分の責任でしょう。公立高校は難易度高い学校を受験するなら、私立高校はその分確実に合格するレベルのところを受けるから、半田高校を落ちても私立に行くだけなのでかまいません」
「とにかくダメだと言ったらダメだ」
 まともに話し合いにならない。
 いや、担任としてはそもそも話し合いをする気はなかったのだろう。なにしろ土地柄が田舎だ。学校の教師は教師と言うだけで何故だか地位が高かった。不良になるなどして教師に反抗する生徒はいても、理詰めで言葉を持ってして教師に反論する者などほとんどいなかったのだ。ほとんどの生徒は単に教師の命令に従っていたような時代だ。
 担任は体育教師だった。教師という存在をあまり信用していなかった上に、よりにもよって体育教師だ。この教師に話しても無駄だなと思ったオレは、個人的に信用している教師に相談しにいった。
 その教師、いやこの人のことは先生と呼ぼう。先生によると、半田高校の倍率は毎年1.数倍。落ちる人間は少ないので受験さえできればオレの成績でもなんとか潜り込める可能性はある。ただ、落ちる可能性も大きいのでやはり私立は確実なところを受けろ。
 得意科目はそれなりの成績だから、そちらを伸ばすよりも苦手科目を克服した方が総合点は取れる。成績の悪い英語を重点的に勉強しろ。
 担任と揉めている以上、内申点にはひびくだろう。その不利は覚悟しろ。
 そんな助言をしてくれた。
 その話の中で、先生がポロッと漏らしたのは、「一クラスから何人半田高校を受験させるかは決まってるんだ。それに教師にも人事評価があるからな。不合格者を出すと成績に影響するんだよ」ということだった。
 なるほどと納得した。担任が頑なに半田高校受験に反対するのは、オレのことを心配しているのではなく、自分の成績にマイナスとなるからなのか。
 今考えるとさすがにオレのことを考えていないわけではなかったろうが、当時はそうとしか思えなかった。これがオレの心に拍車をかけ、絶対に半田高校を受験すると固く決心した。

 進学について、三者面談が行われた。
 担任はオレの成績では無理だからと、半田東高校を受験するように母親を説得しようとした。
「仮に合格したとしても、この成績では落ちこぼれになりますよ」とまで言ってきた。
 だが母親は、本人は高卒で就職したが東京の小山台高校という進学校に通っていた経験から
「高校時代にどんな学校に通って、そこでどんな友人を得るかはとても重要です。鶏口ではなく牛後になったとしても、大きな牛を知っていることはこの子にとって貴重な経験となるはずです。本人が決めた以上、親として反対する理由は何もありません」
 と、断固半田高校受験を支持してくれた。
 先ほども言ったように、その土地では教師が妙に威張っている時代だった。親にこうこうだと言えば、はいはいと従っていたのだろう。だが、東京出身の母親は教師の権威などほとんど気にせず、はっきりと反論してくれた。
 親という本丸を落とせなかった担任は、渋々ながら受験を認めた。

 これは友人から聞いた話で事実かは分からないのだが、
「お前を半田高校を受験するから、代わりにNが担任に説得されて半田東高校に志望を変更したんだぞ」
 そのNはオレよりも成績が良くて50番以内だったのだが、確かに半田東を受験した。
 もしこれが事実だとしたら、ひどい話である。誰がどの高校を受験しようと本人の自由と責任ではないか。
 だが、こうも思う。担任にどういわれようと、Nも自分の意志を通すべきではなかったかと。
 勉強以外で教師の言うことなど、その教師の人間性が認められないならさして信用するな。そして、自分がこうだと思ったら、他人からどう言われようと自分の意志を最も大事にしろ。権利は与えられる物ではなく勝ち取る物だ。そして、論争では感情ではなく論理で話せ。それが、高校受験の志望校決定で得た物だった。

2006年07月21日

映画バカ青春記 第10章 それは雪の降った夜の翌朝だった

 半田高校受験が決まってから、かなり勉強に身を入れるようになった。
 がんばればそれなりに手応えは感じてくるわけで、「こりゃいけるかな」と思うようになった。
 だが、うかれていると罠が待ちかまえているものだ。
 その罠はある朝、オレを襲った。

 夜の内に雪が降り、街を白く彩っていた。
 愛知県は雪がほとんど降らない地方で、特に温暖な知多半島は雪が降ったとしても名古屋市内の半分程度の積雪量だ。雪が降っても積もるのは年に1,2回。そんな街だから当然雪になれていない。雪国の人から見れば、まったく大したことがない積雪でも、街はちょっとしたパニックになる。
 その日の雪は数年に一度という降雪だった。

 朝になり、オレは学校へと向かった。
 中学校への通学路途中に、受験する半田高校がある。
 半田高校は通りからちょっと引っ込んだところにあり、正門へと通じる表通りを歩いていた。雪だまりがあったので、歩道から道路に降りてそれを避けた。そして、道路から歩道へとひょいと上ったときに、雪で足を取られた。グルッと世界が回り、オレは地面に叩き付けられていた。
 おー、痛てて、転んじゃったよ。と立ち上がろうとしたが、左足下肢に力が入らず立ち上がることができない。
 しばらくジタバタしているうちに、同じ通学路を使う知り合いが通りがかり、手を貸してくれたがやはり立てない。
 ちょうど食堂の前だったので、お店の人に頼んで電話を借りることにした。ありがたいことに電話を貸してくれるだけではなく、店の中で休ませてくれた。
 知り合いが救急車を呼んでくれたのだが、オレと同じように雪で怪我をした人が多く、すぐには来られないとのこと。遅刻をしてはいけないので知り合いは先に学校に行ってもらい、オレは自宅に電話をかけた。
 その時は専業主婦だった母親が家にいたので、車を出してもらえないかと頼んだが、家は坂の途中にあるため、この雪では車を走らせる自信がない。知り合いを当たってみるからしばらく待っていろとのこと。
 10分か15分後だろうか、近所に住むMさんが母親を乗せて駆けつけてくれた。
 Mさんの車で近くの整形外科へと行った。早朝だというのに、もう何人か患者がいた。やはり雪で怪我をした人だった。

 その頃になると、左足首がジンジンと痛み出していた。
 左足首を見た医師は、レントゲンを撮るまでもなく「ああ、こりゃ折れてるね」と言った。
 レントゲン写真で確認したところ、やはり折れているとのこと。写真は見たが、オレには細い筋が斜めに走っていることしか分からなかった。
「しばらくすると腫れてくるからね。今晩はかなり痛むよ。腫れが引いてからじゃないとギプスは出来ないからまた明日来るように。今日は痛み止めを出しておくから痛みがひどくなったら飲むように」
 ひどくなったらと言ってもすでに痛いのだが。とも思ったが、確かにそれはまだ始まりでしかなかった。

 学校は欠席し、Mさんはすでに仕事へ行っていたので、タクシーを呼んでそのまま家に帰った。
 屋根裏にある自分の部屋に行くのは当然無理だったので、1階の座敷に布団を引いてそこで横になった。
 もう充分に痛いと思っていた左足首だが、その痛みはさらにひどくなってきた。寝てしまおうとしてもズキズキがズキンズキンになっていてとても眠れた物ではなかった。
 足首は赤くパンパンに腫れ上がり、夜になるとさらに痛みは増した。痛み止めも効いているんだか効いていないんだかといった具合で、うめいたり時には「痛ーよー」と叫んだりしながら最悪な夜を過ごした。
 翌日、再び整形外科を訪れ、具合を見た上でギプスを付けてもらった。
 最近はギプスも樹脂製などになって、軽くかさばらない物となっているようだが、1984年頃のギプスは包帯と石膏でガチガチに固めた物で、やたら重いし大きな物だった。
 一週間幾らで松葉杖を借りると、その日はそのまま家に帰った。

 事故から2日目、その日から学校に戻った。
 片道3kmの距離を松葉杖で通うわけにも行かず、怪我が治るまで母親に車で送り迎えしてもらうこととなった。
 集まってきたクラスメイトは心配半分、そして予期していたことではあるがからかい半分だった。
 そりゃそうだろう。雪で転ぶ自体がお笑いだが、よりによって滑って転んだ場所がこれから受験する高校の目の前だ。受験生に滑る落ちるは禁句だが、実際に滑っていたらギャグにしかならない。
「まあ、あれだ」
 クラスでも特に仲の良かったTは言った。
「あらかじめ滑っておけば、試験本番は滑らないんじゃないか」
 なるほど、そういう考えもあるか。前向き、ポジティブシンキングである。

 とは言うものの、すでに試験まで1ヶ月ほどだった。
 ここで受験勉強の追い込みをしなくていつやるな時期だが、足の骨折はかなりその足を引っ張ってくれた。
 しばらくは痛みが続いたし、普段の生活でも一苦労。自宅は和式便所だったので、小便はともかく大便をするのにしゃがむことができない。とりあえず、便器が一段上がった作りだったので、後ろ向きになって便器に腰掛けて用を足した。和式便器にかぶせるタイプの簡易洋式便器が手に入ったので、それでかなり助かった。
 左下肢がギプスで固められているので風呂にはいることも出来ない。水が入らないように左下肢をゴミ袋でびっちりと覆ってシャワーを浴びるしかなかった。
 ギプスの中が次第に痒くなり、これがまた悩みとなった。
 もともと集中力がないのに、骨折でさらに気が散って勉強はあまりはかどらなかった。
「これはさすがにまずいかなぁ」とちらほら考えないでもなかったが、
「まぁ、なんとかなるだろ。だって、オレだし」
 この「なんとかなる」にも「オレだし」にも何の根拠もない。だが、妙な自信があった。この根拠のない自信こそ現在に至るまでのオレの大きな特性の一つだ。その後もその根拠のない自信で困難を乗り越えたり、乗り越えられずにひどい目にあったりしている。

 まずは私立高校の受験があり、次に半田高校の受験が実施された。
 まだギプスが取れなかったので、両方とも松葉杖で受けに行った。
 いかにも頭の良さそうな連中に混ざっての試験だったが、
「まぁ、なんとかなるだろ」
 とすっかり開き直っていた。

 合否の発表日。
 すでにギプスの取れていたオレは、自分の足で歩いて半田高校にやってきた。
 掲示板に合格者の受験番号が張り出されていた。
 根拠のない自信で、オレは自分の番号がそこにあると確信していた。
 そして、その番号は確かにあった。
 なるほど、なんとかなるものだ。

2006年07月22日

映画バカ青春記 第11章 アフリカ紀行その1 アフリカ象が好き!

 さて中学編もそろそろ終わりだなと読み返してみて、何かを書き忘れているのに気がついた。
 何だったかな~と頭を捻ってようやくと思い出した。そうだ、海外旅行に行ったんだ。
 それもハワイや香港などではない。アフリカだ。人生で初めての海外旅行がいきなりアフリカ。我ながらかなり無茶。それ故に今になってみると現実感が乏しくリアリティがない。そのせいで記憶からすっぽりと抜けていたのだろう。

 詳しい日程は忘れたが、時期は1983年の3月。確か14日間の旅行だった。中学2年から3年になる時の春休みだった。
「アフリカが好きで好きでどうしても行きたい。あふりか象が好きっ!」だったわけではない。
 父方の祖母が祖父が亡くなって月日も過ぎ、身の回りも落ち着いてきたので一度海外旅行に行ってみたいとアフリカ行きを決めたのだ。祖母にとっても初めての海外旅行というのに、いきなりアフリカを選んだのだから驚きだ。
 父を始めとした子供たちは反対したのだが、祖母はどうしても行くと聞かなかった。そこで、孫の中で男の子では一番年長のオレが(孫の中ではオレの姉が一番上になる)、「念のためにお前も一緒に行ってこい」ということになったのだ。
 パスポートを取るところから始まって、旅行の間近になるとマラリアなどの予防接種を受けた。これは念のためではなく、ケニアなどに行く場合は義務だった。
 アフリカ行きにわくわくしながらも、無事に済むんだろうなと少々不安でもあった。

 上に旅行先についての経路図を掲載してあるが、成田を出発した飛行機は、直接アフリカ行きの便はないのでまずはアラスカ経由でイギリスに到着。大英博物館などを見物した後に、休憩無しで再び飛行機に乗り一路ケニアへ。ケニアの国立公園でサファリを楽しんだ後、南アフリカ共和国へ。どうやら有名という話の寝台列車に乗り、アフリカ大陸最南端の喜望峰へ行った後、ジンバブエに行きビクトリア滝を見物。再び南アフリカへ戻るとそこから飛行機で日本に帰る。飛行機からは降りないが、インドと香港に飛行機は着陸。そしてようやくと日本に戻ってくる。
 アメリカ-イギリス-ケニア-南アフリカ-ジンバブエ-インド-香港、アメリカとインド、香港は飛行機が着陸しただけだが、7カ国の旅となる。
 東回りの飛行機なので地球をぐるっと一周する。『80日間世界一周』ではタイトル通り80日かけてだったが、こちらは14日間。もうお腹いっぱいな旅だ。
 正直、あまり覚えていないのでざっと流していく。

 飛行機がアラスカのアンカレッジ空港に到着。そこで一旦飛行機から降りて小休憩。有名なうどん屋があったんでもちろん食べる。ロビーにシロクマの剥製があった記憶がある。
 次いで、イギリスに到着。大英博物館に行くが見学時間は1時間ほど。入り口付近をちょっと回るだけで終了。
 イギリスの空港で飛行機を待つ間に、ロビーにあったビデオゲームで遊ぶ。確か、ナムコのギャラガだった記憶があるが間違いかも知れない。中学時代のオレは学校帰りに友人と地元のデパートユニーの屋上でスガキヤのラーメンを食べてはゲームコーナーのビデオゲームで遊ぶことが多かった。東洋人の子供がビデオゲームをプレイするのが珍しかったのだろう、現地の子供たちが見物に集まってきた。ハイスコアは軽くクリヤし、さらに点をかせいだ。見物客の間から驚きの声が上がった。
 彼らはナムコが日本の企業であることも知らなかったかもしれない。ゲーム先進国日本の少年をなめんじゃねぇぜ。

 そしてケニアに到着。オレが初めて踏んだアフリカの地はアスファルトだった。まあ空港だから当たり前だが。
 さぞや暑いだろうと思っていたケニアだが、意外と快適だった。暑いことは暑いが空気がカラッと乾燥しているのだ。
 そして車で国立公園へ。ホテルのロッジを目指す。ホテルに着く前には日が暮れていた。突然車が止まったので何事かと驚いた。まさか故障したんじゃないだろうな。このまま救援が来るまでじっと待つのか?ライオンが襲ってきたらどうするんだ。と思って窓の外を見たら、そこにライオンがいた。
 車が故障したわけではなかった。ライオンを見つけた運転手が気を利かせて停めてくれたのだ。ライオンまでの距離は数メートル。10メートルはなかっただろう。
まさに「ほんとにほんとにライオンだ~」な光景だが、ここはサファリパークではない。いや、真の意味でのサファリパークか。どうも混乱してしまったが、心の準備もないのにいきなりライオンに登場されてはそれも無理がない。
 百獣の王ライオンといえばサファリの目玉だろうに、前座はトムソンガゼールやヌーに任せろよ。
 しかし、翌日になって正式にサファリに出かけると、ライオンは案外目にした。どうもあまり珍しくないそうだ。
 なんと言っても珍しいのはサイだそうで、これは広大な国立公園の中にもごく少数しか生息しておらず、観光客を乗せて毎日サファリに行っている運転手でも稀にしか出くわさないとのこと。

 持っていった二眼レフのカメラで写真を撮りまくった。その中でも一番気に入っているのが上に掲載したアフリカ象の写真だ。
 ズームなど望遠機能がないカメラで撮ったのにこの迫力。右下に写っているのが車の一部なのでその距離も分かってもらえるだろう。本当に目の前だ。しかも、どうやらご機嫌斜めな様子。
 車は6人乗りだったかの大きめのバンだが、こいつにぶつかってこられたらひとたまりもないだろうな、と思ったのを覚えている。
 この経験のおかげでスピルバーグの『ジェラシック・パーク』はずいぶんと怖かった。こちらはアフリカ象どころかティラノザウルス。しかもこちらもご機嫌斜めだ。
 覚えている範囲だと見た動物は、ライオン、アフリカ象、キリン、シマウマ、トムソンガーゼル、ヌー、ホテルの庭の木にいたサルなどなどである。
 だが、一番記憶に残っているのは真っ平らな平原と地平線だ。その地平線に夕日が沈んでいく様は綺麗だったし、畏怖すら感じた。

2006年07月25日

映画バカ青春記 第12章 アフリカ紀行その2 落ちたら死ぬぜ、ビクトリア滝

 写真の一枚に旅行日程が記載されていた。1983年の3月22日から4月3日となっていた。
 ハワード・ホークス監督、ジョン・ウェイン主演の『ハタリ!』に登場するようなサファリを満喫。もっとも動物のハンティングはやってないが。
 最終日にマサイ族の集落を見物し、その後ケニアを出発して南アフリカ共和国経由でジンバブエに入国。ここでの目的はビクトリア滝の観光だ。
 ビクトリア滝はひたすらでかい。途中に岩があって4本ぐらいに分かれているが、幅は全体で約1700メートル。そして落差は約110メートル。
 繰り返しになるがひたすらでかい。アメリカのナイアガラ滝、ブラジルのイグアス滝とならんで世界三大瀑布の一つだとか。
  幅の1700メートルは普通に歩いて20分ちょとの長さ。そして高さの110メートルは霞ヶ関ビルが147メートルだそうだからそれよりは低いが、30階建てのビルぐらいはある。
 ちなみにナイアガラの滝は幅が1200メートル、高さ50メートル、イグアス滝は幅2700メートルで高さは70メートル。
 これまでに見た滝というと白糸の滝ぐらいになるがスケールがまるで違う。ただ、迫力はビクトリア滝の圧勝だが、美しさなら白糸の滝だよなと思うのはなんだかんだ言ってオレが日本人だからだろうか。

 そして、写真では決して伝わらないのがその音。これはテレビ放送でも伝わらない。
 ドドドドッというかゴゴゴゴゴッというか、隣の人と話すにも怒鳴らなければならない轟音で、重低音がビリビリと伝わってくる。
 滝の上部横側から見物したのだが、写真でも分かるとおりこれといって柵とかがない。うっかり前に行きすぎて足を滑らせたら110メートルしたまで真っ逆さま。これは死ねる。オレの場合はロイス・レーンと違ってスーパーマンは助けに来てくれないだろう。しかもあっちはナイアガラの滝だし。アメリカからアフリカじゃ遠いよな。
 日本生まれで日本育ちのオレには、その光景を目の当たりにしても「これ、特撮じゃねーの?」といった現実感の無さだ。
 まったくアフリカは広く、なんでも大きい。サバンナは広いし、ビクトリア滝はでかい、キリマンジャロも高かったし、アフリカ象は大きい。晩飯のステーキもジャイアント馬場の足のようなサイズだった。日本の常識が通用しない土地だ。いや、ステーキは関係ないか。
 ちなみに右の写真は第11章で書いた、いきなり道ばたにいたライオン。

 再び南アフリカに戻ると、今度はアフリカ大陸最南端だと思い込んでいたら実は違った喜望峰へ。
 ここはあまり面白くなかった。最南端と言われなければ単に目の前に海が広がっているだけだ。
 アフリカの海というので鮮やかな青を期待していたが、どんよりと重苦しい色だった。まるで津軽海峡のような雰囲気、といっても津軽海峡に行ったことはないのでイメージだけだが。

 ケープタウンまでは寝台特急列車ブルートレインで行った。豪華なことでオリエント急行と並び称されてるそうだ。だが、ほとんど覚えていない。『007 ロシアから愛をこめて』に登場したオリエント急行の個室と似ていたような気もするが、映画の印象で記憶が上書きされている可能性もある。すまん、鉄道に興味はないのだ。

 ダイヤモンドの研磨工場などを見学したが、ケニアやジンバブエと比べると南アフリカにはこれといって見るところは少ない。都会の部分しか回らなかったからだろう。

 4月3日に成田空港に飛行機が到着。日本へと帰ってきた。
 税関はトランクを空けることもなくほとんどノーチェックで通過。せっかく緊張していたのに、拍子抜けだ。
 まぁ、団体ツアーのしかも中学生を細かく調べる必要も感じなかったのだろう。
 だが、そういった一見怪しくない人物こそ密輸組織にとってはうってつけなのではないだろうか。
 もしもオレが、ワシントン条約に違反して生きたライオンをトランクに入れてたらどうする気だ。・・・って入らん入らん。

 駆け足でアフリカ紀行を紹介したが、正直言ってあまり詳しく覚えていない。やはりオレの記憶装置には若干難があるようだ。
 あまり経験できない貴重な旅をさせてもらったんだなと思うが、もったいない話だ。
 もう一度行ってみたいかと言われると、「うーん、その金でDVDソフトや本を買うかな」というのが個人的結論。我ながら出不精だ。

2006年07月26日

映画バカ青春記 第13章 今日までは中学生、あっしたから~高校生

 中学時代のことなんかほとんど覚えてないし、書いたにしても5、6章だろうと思っていたら、なんだかんだで12章。書きたいことで言えば高校、大学時代はさらに増えるので、映画バカ青春期の今後の展開が読めなくなってきた。
 このままだと50章ぐらいになるのかも知れない。いや、もっとかも。いっそのことライフワークにするか。しないしない。

 水泳部でのイジメや、当時は校内暴力が吹き荒れていたのでクラスの不良に2、3回カツアゲされたりした中学1年。
 科学部に移り、映画が面白くなってきた2年生。
 田舎の中学生としてはかなりの映画好きになり、クラスの女の子とちょっと良い雰囲気になったり(勝手な思いこみかもしれないが)した3年生。
 学年が進むごとにバカにそして能天気になっていった。
 中学生というと反抗期を迎えることが多いだろうが、オレの場合特にそれらしい時期があったという記憶はない。親や教師から見たらまた別の答えが返ってくるかも知れないが、クレイジー・キャッツを聴き始めたりしてスチャラカスチャラカしていた。あれ?クレージー・キャッツは高校に入ってからだったか?
 ともあれ卒業式を終えたオレは高校入学までの春休みに入った。
 小学校卒業の時には九州まで一人で旅行をしたが、今回の休みは旅行に行でもなく、のんびりと過ごした。映画も観に行ったはずだが、何を観たのかは覚えていない。

 高校入学の準備といっても、中学校と同じく黒の詰め襟学生服だったので制服は新調せずにそのまま。白の布カバンが黒い革のカバンに替わるぐらいなので、さして必要な物もない。
 これからの高校生活への期待と、若干の不安。思春期的心境だった。

 初めてスティーヴン・キングを読んだのはこの頃だ。最初に手にしたのは映画にもなった『ファイアスターター』で、これは今でも手元にあるが昭和59年(1984年)8月25日七刷となっている。
 あー、それだと高校1年になってるか。まぁ、おおよそこの頃って事で。
 以来、キング作品はずっと読み続けている。今読んでいるのはダーク・タワーシリーズの『カーラの狼』。近々完結巻が出るはずなので楽しみだ。
 一作目の『ガンスリンガー』が角川書店のハードカバーとして発売された1992年から読み続けているが、正直完結するのかな~と思っていたが、その旅も終わりとなる。

 映画バカ青春期と言いながら、ほとんど映画が登場しなかった中学時代だが、高校ではもうちょっと映画寄りになる予定。とはいえ、映画日記を付け始めたのが大学に入ってからだから、いつ何を観たのかという詳細が分からない。
 さすがにその作品を劇場で観たか観ていないかは分かるので、一つ一つ確認しながら書いていく。
 中学時代に輪をかけてバカで能天気でスチャラカな高校時代。次回、第14章からスタートだ。

映画バカ青春記 第14章 今日からは~高校生。さてクラブはどうしようか?

 1984年4月に愛知県立半田高校に入学。
 自宅からおよそ2km。小学校は4km、中学が3kmの距離だったので通学が楽。普通は進学する毎に距離が遠くなるんだろうがその逆だ。

 オレがいつから映画監督を志すようになったのかははっきりしないが、高校入学の時点ではすでにそうだった。ということは中学の後半からなのだろう。
 何故そう言いきれるかというと、高校でクラブを決める際に、映画を基準に探したからだ。。
 残念なことに映画研究会はなかった。あれば速攻で入部したのに。
 しかたなく、なるべく映画に近いところを当たってみた。
 演劇部もまぁ関係なくもないかと見学に行ったが、部員は女生徒ばかり。それもちょっときついし、考えてみれば映画監督が目標であって、演ずることにはほとんど興味がない。そもそも演劇に興味がない。今でもない。
 そこで、ラジオドラマなども作っているということで放送部をのぞきに行く。昨年の文化祭向けに作ったという『人魚姫』のテープを聴く。ビデオカメラなどの映像関係の機材がないので、音声のみのラジオ作品しか作っていないが、演劇部よりかは映画に近い、ような気がしないでもない。高校生が『人魚姫』かよとも思ったが、放送部に入部届を出した。
 映画研究会がないのならば自分で作ってやろうとも思ったが、新しいクラブを作るのはかなり面倒で、新入生がいきなり出来ることではなかった。
 2年生になったら作ってやろうと胸に野望を抱いていたが、進級した頃には部活よりも面白いことが出来ていたのでそのままうやむやに。面白いことが何かはまたそのうちに書く予定。

 入学早々に実力テストが行われた。
 オレの成績は約350人中250番ぐらい。うわっ、自分よりも上に250人もいるのかではなく、下に100人もいるのかと無駄にポジティブシンキング。
 「落ちるから受験を止めろ」と言われた高校で、この成績ならば割と良いではないか。300番台を覚悟していたのに、やるじゃんオレ。
 だが、この順位が最高で、後は落ちる一方だったのだが、それはまたいずれ。

 配属されたクラスは、なかなかに居心地が良かった。
 もっとも近くにあるオレの中学校では学年50位以内が受験の条件だったが、他の中学校から来た人に聞くと、30位以内や20位以内などより厳しかった。
 その難関をくぐってきただけに優秀な人間が多かったし、性質的にも優等生だった。
 今は学校側も厳しくなって、校則や私生活への干渉などがあるようだが、当時はほとんどうるさくなかった。そもそも、校則で縛ったりしなくても、そこからはみ出すような生徒はごく少数。やかましく言う必要などなかったのだ。
 だからといって退屈な連中だったわけではない。勉強が出来ると言った意味だけではなく、頭の良い人間が多くて、話していても面白かったし楽しかった。
 母親が「良い高校に行けばそこで優秀な人と出会うことが出来る。それはとても重要だ」と言ったのが分かった気がする。
 その中でオレは、ちょっと外れた規格外品的存在であった。素行が悪いとか校則違反をするとかではないが、粒ぞろいの中になんか妙なヤツがいるといった地位を固めていくことになる。

 中学時代よりも抑圧が少なく、自由な校風の高校生活。
 細かいことに悩まずに好きに生きた。一言で言えばバカだった。二言で言えばエキセントリックなバカだ。三言で言えばスチャラカでエキセントリックなバカ。四言で言えば・・・えっ、いい加減にしろ?

2006年07月28日

映画バカ青春記 第15章 放送部と発声と日本一の先輩

 高校に入って放送部に入部した。
 これまでも放送にまるで縁がなかったわけではない。小学校の5年か6年の時にも放送委員をやっていたことがある。
 全校朝礼で音楽やマイクによる放送をやったり、給食の時間にお昼の放送を担当していた。
 同じクラスから男女二人が放送委員をやっており、その女の子に恋していた。記憶にある限りだとこれが初恋である。
 だが、告白やらラブレターを出したりという具体的な行動には出なかった。せいぜい、放送の合間を見て自分たちも給食を食べるので、「オレが続けとくから、先に食べちゃえよ」とか「片付けはオレがやっとくから、先に食器を返しておけよ」とジェントルマンな振る舞いをするだけだった。それも、内心かなり照れていたので、ぶっきらぼうに言うだけ。乱暴なヤツに思われただけかも知れない。うーむ、シャイボーイだな