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『大人は判ってくれない』 オレだってたまには泣く、その29

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『大人は判ってくれない』 (1959) LES QUATRE CENTS COUPS 97分 フランス

監督:フランソワ・トリュフォー 製作:フランソワ・トリュフォー 脚本:フランソワ・トリュフォー、マルセル・ムーシー 撮影:アンリ・ドカエ 音楽:ジャン・コンスタンタン
出演:ジャン=ピエール・レオ、クレール・モーリエ、アルベール・レミー、ジャン=クロード・ブリアリ、ギイ・ドゥコンブル

 親や学校などと衝突し悩み苦しむ少年が主人公だが、そこに登場するのはバイクを盗んだり校舎の窓ガラスを割るようなアホでも出来る凡庸な反逆ではない。時に冷淡でそれでいて常に少年の側に立って描かれる、つらくそして美しい物語だ。
 監督・脚本のフランソワ・トリュフォー自身の少年期がモデルだというが、作中の視点は少年ではなく、かといって理解者面をした大人からの視点でもなければ神の視点ともまた違う。作品を貫くその微妙な距離の視点がこの作品の大きなポイントだ。

 ヌーヴェル・ヴァーグの旗手の一人であるフランソワ・トリュフォーのデビュー作である。ヌーヴェル・ヴァーグ(新しい波)というと難解で小難しいイメージが強いが、トリュフォーの作品は観て頭を抱えるようなことはない。ゴダールのようにデタラメではなく、“普通”の映画っぽいのだ。
 ゴダールがヌーヴェル・ヴァーグ連の過激派だとしたら、トリュフォーは穏健派だ。ヌーヴェル・ヴァーグ自体が過激派の塊だから、そういった意味ではトリュフォーはヌーヴェル・ヴァーグの異端児なのかもしれない。
 もちろん『大人は判ってくれない』は随所に斬新な点があり充分に新しい映画であるのは確かだが。
 それからゴダールも別にデタラメをやっているのではなく、既存の映画文法を解体し再構築することによって“新しい映画”を作っているわけで、観客側に新しい観解力を求めてくるので難解な作品に感じられるだけだ。
 オレもゴダール作品には「ワケわかんねー」とさんざん苦しめられたが、今は難しいことは考えずに気楽に観るという方法で対処している。そうやって観ると案外楽しい。というかゴダールもバカだぞ、きっと。

 『大人は判ってくれない』を大きく支えているのが、主人公の少年アントワーヌを演ずるジャン=ピエール・レオの存在だ。
 当時13歳だったというジャン=ピエール・レオは演技も上手いのだろうが、ただ立っているだけ、ただ歩いているだけのシーンでも実に絵になっている。
 特徴的なのが何者も信用していない睨みつけるような醒めた目だ。この目を気に入ってトリュフォーはジャン=ピエール・レオを選んだのではないだろうか。
 ニヒルさを感じさせる美少年だったが、成長して大人になると割と普通のオッサンになってしまった。アキ・カウリスマキの『コントラクト・キラー』(1990)では徹底してついてない不運な男を演じていたが、これが実にハマっていた。

 とっさに付いた小さな嘘がきっかけとなって周りとの衝突がさらに激しくなり、小さな犯罪は大きな犯罪へと広がる。
 家庭からも学校からもはじき出されたアントワーヌは、ついにタイプライターを盗んだ罪で逮捕され少年鑑別所に入れられる。だが用意されているのは反省や改心といった安易な結末ではない。ぶった切られたような唐突な終わりは観客への問いかけでもあるだろう。
 観客からの同情を拒否するようなそのラストが泣ける。

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