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『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦』 オレだってたまには泣く、その28

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『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦』 (2002) 95分 日本 2002/05/03鑑賞

監督:原恵一 演出:水島努 チーフプロデューサー:茂木仁史、太田賢司、生田英隆 プロデューサー:山川順一、和田泰、福吉健 原作:臼井儀人 脚本:原恵一 音楽:荒川敏行、浜口史郎 絵コンテ:原恵一、水島努
出演:矢島晶子、ならはしみき、藤原啓治、こおろぎさとみ、屋良有作、小林愛、羽佐間道夫

 傑作であるのは認める。しかし『クレヨンしんちゃん』として作る意味があるのだろうか。キャラクター設定はきっちり活かしてあるし、『クレヨンしんちゃん』という場を利用して自分の撮りたい物を撮ってしまうというスタイルは好きだ。だが、やはりこれはもはや『クレヨンしんちゃん』じゃないよなぁというのがまず最初の感想だ。
 『ブタのヒヅメ大作戦』や『温泉わくわく大決戦』で人は死なないがリアルな銃撃戦が繰り広げられる。この部分についてどうにも違和感をぬぐいきれなかった。両作とも面白いのは間違いないのだが、『アクション仮面VSハイグレ魔王』から始まる初期の作品群こそ“子供たちが大好きな『クレヨンしんちゃん』”の映画として優れているのではないか。その意味ではシリーズ最高傑作は4作目の『クレヨンしんちゃん ヘンダーランドの大冒険』だろう。
 9作目の『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』は傑作として大人からの評価が高いが、果たして子供にとってはどうだったのだろうか。ガキってのは大人が思っている以上に理解力があったりするので、意外とちゃんと理解して楽しんでいるのかもしれないが、同時にガキってのは時に大人が思っている以上に理解力がない。核の部分は分かってねぇだろうなぁ。
 10作目の『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦』(それにしても長いタイトルだ)は『オトナ帝国の逆襲』以上に観客対象を大人へとシフトしている。戦国時代での本気の合戦。槍や鉄砲で人が殺されるシーンは巧みに画面外に押しやられているが、劇中で多くの侍や足軽が死んでいる。『影武者』(1980)や『天と地と』(1990)の合戦シーン以上の迫力に驚いた。
 野原家の自家用車が合戦場を走り回って敵軍を蹴散らすシーンは実にうれしい。ひろしの給料から考えるとカローラクラスだろうが、その大衆車が『戦国自衛隊』(1979)における戦車やヘリコプター以上に有効に使われている。
 だが、果たして『クレヨンしんちゃん』に数多くのリアルな「人の死」が必要なのだろうかと、どこかで違和感を感じていた。その違和感も含めて傑作ではあるわけだが。

 時を超える手段はいくつもある。有名なのはタイムマシンを使った方法だ。H・G・ウェルズが生み出したタイムマシンは映画化され『タイムマシン』(1959)や再映画化の『タイムマシン』(2002)、『タイム・アフター・タイム』(1979)などで何度か時間の旅を行った。
 日本で一番有名なのはやはり『ドラえもん』のタイムマシンだろう。学習机の引き出しが入り口になっているそのタイムマシンは過去や未来へと旅していくつもの物語を生み出した。
 他には『バック・トゥ・ザ・フューチャー』シリーズのデロリアン(自動車)型タイムマシン、『ビルとテッドの大冒険』シリーズの電話ボックス型タイムマシン、『オースティン・パワーズ』シリーズの壁で渦巻きがグルグルしている渦巻き型タイムマシン(これは1960年代のTVシリーズ『タイムトンネル』のパロディだろう)、『ターミネーター』シリーズでのマシン自体は画面に登場しないが生身の物体だけを時空転送する転送型タイムマシンなどが有名だ。
 機械を使わない方法では時空転移の超能力を持つ人物が登場する作品や、薬品によって時間跳躍能力を得る『時をかける少女』、頭を殴られた事故で過去に跳ぶマーク・トウェインの『アーサー王宮廷のヤンキー』などがある。
 そして超能力など持たない普通の人間が意志の力だけで時を超える作品もある。クリストファー・リーヴ主演の『ある日どこかで』(1980)がそうだ。主人公は古くからあるホテルの展示室で肖像画に描かれた女性に恋をする。その肖像画が描かれたのはおよそ70年前だった。
 会いたいけれども会うことは出来ない。その女性への想いは強まるばかりで、ついにその想いが主人公に時を跳ばせ70年前の世界に送り込む。
 強い想いは時間の旅すら可能にする。悲しい映画だが美しくなかなかの佳作だ。

 『戦国大合戦』でしんのすけを始めとする野原一家が天正2年(1574年)へと送り込むのも「強い想い」である。
 夢に見た綺麗なお姫様に会いたいというしんのすけの想い、過去に行ってしまったしんのすけを連れ返しに行きたいという両親の想い、そしてなにより春日の国のお姫様の強く美しくそして悲しくつらい恋への想い。
 時を超えるシーンでは異次元をくぐる抜ける描写やだんだんと身体が透けて消えていくなどの演出、現れる前に稲妻や炎が生じるなどの描写はない。ただカットが変わると消えていて違う時代の同じ場所、現代の野原家であり天正2年の美しい池の畔に現れる。あえてシンプルに描いたその理由は、映画のラストで野原一家を乗せた車が現代に帰って行くシーンではっきりする。カメラが切り返すと草原の上に車はなく、お姫様である廉の後ろ姿だけが画面に映っている。しんのすけは「帰ってもおらたちはここにいるよ」と言ったが、それでもやはり想い人を失った廉はもはや一人きりなのだ。

 本来は死ぬはずだった青空侍こと井尻又兵衛は時を超えてきたしんのすけによって命を救われる。だが運命は変えることは出来なかった。又兵衛の死は先送りにされただけで避け得ぬものだったのだ。しんのすけによって与えられた猶予期間によって又兵衛は自分にとって大切な国、大切な人々、そして大切な女性を守った。そのことをしんのすけに語って又兵衛は心安らかに死んでいく。
 だが、死んでいく人間はそれで良いだろうが、生きて残された相手はたまったもんじゃない。その相手とは春日城主の娘である廉だ。又兵衛とは幼なじみで、互いに恋心を抱きながらも、「身分が違うから」と又兵衛がある意味で逃げていたために言葉で確認しあったことはない。
 又兵衛は死んだがその想いは残る。その想いを廉は逃げずに背負うことを選ぶ。
「一生誰のもとへも嫁がぬ」という廉のセリフは美しいが、オレはどこかで又兵衛に腹が立ってしまう。死んだことに腹が立つのではない、それはしょうがない。だが、想いだけを残してその想いによって廉の心と人生を縛ってしまったことに腹が立つ。
 もちろん、『めぞん一刻』でもう誰も愛することがないと思い込んでいた響子さんが延々と色々あった後に五代君の愛を受け入れた様に、廉もいずれはまた誰かを愛するかもしれない。だが響子さんは惣一郎さんと互いに愛し合い、短い間とはいえ結婚生活も送った。言葉で確かめ合ったことも二人だけの生活もなかった分だけ響子さんよりも廉の心にかけられた枷の方が強いのではないだろうか。
 だがそんな考えも青空に浮かんだ小さな雲を見上げながら廉が呟く
「おい、青空侍」
 というセリフとラストカットで「もうどうでもいいや。とりあえず泣こ」と吹き飛んでしまう。

 ちなみに一番好きなシーンは殿様や家老がカレーを食っているシーンだ。このあとに戦が春日に襲いかかることを予感させる、いわゆる嵐の前の静けさが描かれた名シーンだ。

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コメント (2)

ネスカフェ:

私も殿様の描写は好きですね。特にその後の歴史を知ってしまった殿様が、自由にいることを決めるシーンは好きですね。あと、戦になったときに老武将が自分が晴れ舞台で死ねる
ことに喜ぶシーンとか。こういう描写は日本の
独自のものですよね。よく、この作品をアメリカ
でリメイクしたらとか考えるですが、やはり置き換えるものが西洋にはないように思えます。やはり向こうの世界は殺伐としすぎていますね。
まあ、騎士道とかそういう部分もあることはあるんですが・・・

東森時音:

ネスカフェさんへ

この作品は脇役がまた良いですね。殿様役に羽佐間道夫をキャスティングするところがまた絶妙で、開き直った時のしゃべりは『特攻野郎Aチーム』のハンニバルや『俺がハマーだ!』のスレッジ・ハマーのブッ飛びぶりを思い出してしまいました。

戦国時代で幾多の国が戦っていたといっても、日本の場合は同じ言葉・同じ文化の人間同士ですから敵対する者の間でも相互理解が存在しているんですよね。
西洋の場合は文化も違えば宗教も違う、肌の色や言葉も違ったりする場合が多いので、思いやりを持たないというか、敵を皆殺しにして民族ごと抹殺しようかという激しさですから容赦がない感じです。
イラクに対するアメリカの非情ぶりも、相手が有色人種のイスラム教徒で英語を話さないからなんでしょう。
もちろん、異民族・異文化・異宗教間での対立はより激しくなるという点は西洋白人圏だけではなく日本にとっても大きな問題なわけですが。
で、その国を理解するにはその国に行ってみる手もありますが、単なる1週間程度の観光旅行よりもその国の映画を何本か観た方が良いのかも知れません。
私なんか『マッハ!』1本だけでかなりタイに関する認識が変わりました。
「うむ、さすがタイは熱心な仏教国だ。それと頭には魂が宿るという考えだから子供の頭を撫でちゃいけないそうだが、なるほど頭を非常に重要視してるな。でもって、やっぱムエタイやってトゥクトゥク(三輪タクシー)で唐辛子か」てな具合で。
ああっ、まだ偏ってる?

そうそう、クリント・イーストウッドの次回監督作は硫黄島の決戦を題材にした物で、アメリカ側の視点から描いたので1本、日本側の視点で描いた1本の合計二本構成になる予定だとか。
ジョン・ウェインの『硫黄島の砂』のようなアメリカ側の視点だけでは戦争の実体を描けないという考えなのでしょう。(硫黄島の砂は好きな映画ですが)
日本側作品の脚本は日系アメリカ人が担当するとのこと。本当は日本人の脚本家にやらせて欲しかったとも思いますが、出来る脚本家がいるかは大いに疑問なのでしょうがないか。
二作で一つの映画となるこの作品群がどのように異文化・異宗教・異民族の戦争を描いてくれるか楽しみです。どうしたってアメリカよりになってはしまうのでしょうが、イーストウッドはこれまでにない戦争映画
を作り上げてくれるのでしょう。

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