
『バニシング・ポイント』 (1971) VANISHING POINT 106分 アメリカ
監督:リチャード・C・サラフィアン 製作:ノーマン・スペンサー 製作総指揮:マイケル・ピアソン 原案:マルコム・ハート 脚本:ギレルモ・ケイン 撮影:ジョン・A・アロンゾ 音楽監修:ジミー・ボーウェン
出演:バリー・ニューマン、クリーヴォン・リトル、ディーン・ジャガー、ポール・コスロ、ボブ・ドナー、ティモシー・スコット
その昔、テレビの洋画劇場、それもゴールデンタイムではなく平日の昼間や深夜枠で年に一度は放映されていた定番作品。
主人公コワルスキーは車の運び屋を職業にしている。ダッヂチャレンジャーをデンバーからサンフランシスコまで届ける仕事を受けた時に、15時間でサンフランシスコまで走りきれるかというちょっとした賭けを麻薬のディーラー相手にする。デンバーといえばアメリカ中西部にあるコロラド州の街。地図で調べてみると直線距離でおよそ1500km。こんなシチュエーションの映画を『キャノンボール1、2』や『激走!5000キロ』が大好きなガキだったオレが観ないはずがない。で、観終わった後は「?」マークが頭の上に浮かんでいた。『バニシング・ポイント』を面白く感じるようになったのは大学生になってからだった。
オープニングの荒野の中を真っ直ぐに道路が伸びていて、そこですれ違った2台の車がストップモーションになり片方がゆっくりを消えていく。このシーンですでに泣きが入る。
ダッヂを操って西部の道をひたすら走る内にスピード違反などで警察に追われ、ラジオ番組やテレビで取り上げられ、コワルスキーはちょっとした有名人になる。だがコワルスキーは何も語らない。ただ走るだけ。
走り続けるコワルスキーの過去が回想シーンとして画面に登場する。その昔、車やバイクのプロレーサーだったこと、警官だった時期もあること、愛し合った恋人がいたこと、そしてベトナム戦争の勇士だったこと。そう、この作品はなによりもベトナム帰還兵映画なのだ。
人生を失い行き場を失った男が目指すのはバニシング・ポイント、消失点だった。それは自殺に似ているが厳密には自殺とは違う。コワルスキーは死んでしまいたいとうよりも自分の人生と自分という存在を消したいのだろう。生きていることに意味が感じられないのならばそのまま消えてしまおう。そんな思いではないだろうか。
いや。いやそれも違う。コワルスキーは単に走り続けたかっただけだろう。もしも道路が封鎖されずにサンフランシスコまで到達して、さらに太平洋を突っ切って道が伸び続けていれば、そしてどれだけ走っても燃料切れにならない魔法のガソリンタンクが搭載されていたら、コワルスキーとドッヂはどこまでも走り続けたに違いない。
ブルドーザーなどで封鎖された道路とそれを目にしてもスピードを弛めないドッヂ。前を真っ直ぐに見つめるコワルスキー。もはや行き場のなくなった男が己に対しての決着の付け方にオレは泣く。
砂漠で毒蛇を捕まえている老人、アメリカンバイク乗りとヌードのバイク娘などコワルスキーと関わる脇役たちがまた良い。登場シーンは少ないがその言動などが印象に残る。中でも盲目の黒人ラジオDJスーパーソウルは素晴らしいキャラクターだ。コワルスキーとは一度たりとも顔を合わせず、ラジオ放送を通じてスーパーソウルがコワルスキーに語りかけているだけなのだがそこに明らかな心の通じ合いが感じられる。
批評や分類ではニューシネマとなっていることが多いが、1971年という製作年度や粗筋だけしか見ていないのではないだろうか。
ニューシネマについてはいずれ書くこともあるだろうが、基本的にニューシネマとはハリウッド映画が迎えた反抗期にすぎない。それも金持ちで社会的地位もある名家のボンボンがいたとする。小学校の頃からいつも学級委員をやっていて勉強も出来る、そんなボンボンが中学校の上級学年か高校に入った辺りで社会や人生に疑問を感じてロックを聴いたり妙に小難しい本を読み始める。それでいてご飯はちゃんと家に帰って母親に作ってもらった物を食べ、CDや本を買うお金は親からもらったお小遣い。そんな居心地の良い場所を手放さずに安全圏に身を置いたままという虫の良い反抗期だ。
ニューシネマといいながらハリウッド映画に保護された範疇で映画の革命を起こそうとしているのだから甘ったれにも程がある。だからこそ本当の意味でのアメリカン・ニューシネマは、ジョン・カサヴェテスがハリウッドという土地と資本を飛び出してニューヨークで撮った「ニューヨーク・インディペンデンス映画」が始まりとなるだろう。
回想シーンの中でもコワルスキーは決して恨み言や不平不満、グチを口にしない。
その点からも、この作品が「アメリカン・ニューシネマ」などではないことが分かる。
アメリカン・ニューシネマとは『俺たちに明日はない』(1967)や『卒業』(1967)などの「うだうだぐだぐだとグチばっかり」な一連の玉なし映画のことであって、『ワイルド・バンチ』(1968)がアメリカン・ニューシネマではないのと同じく『バニシング・ポイント』も断じてアメリカン・ニューシネマなどではない。
あえて言うなら男の映画だ。