2005年10月アーカイブ

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『エスケープ・フロム・L.A.』 (1996) JOHN CARPENTER'S ESCAPE FROM L.A. 101分 アメリカ 1996/11鑑賞

監督:ジョン・カーペンター 製作:デブラ・ヒル、カート・ラッセル 脚本:ジョン・カーペンター、デブラ・ヒル、カート・ラッセル 撮影:ゲイリー・B・キッブ 音楽:シャーリー・ウォーカー、ジョン・カーペンター
出演:カート・ラッセル、ステイシー・キーチ、スティーヴ・ブシェミ、ピーター・フォンダ、ジョージ・コラフェイス、ブルース・キャンベル、パム・グリア、アル・レオン、ロバート・キャラダイン

?オレはいつでも燃えている その9?
 海の大嵐の映像や津波の映像を映画で観る度に、「あの大波でサーフィンをやったら面白い絵になるだろうな」というふざけたことを考えていたのだが、まさかそれを本当に映画館のスクリーンで観ることができるとは思わなかった。どう考えてもバカなアイディアを真面目に映像化するとは、やはりジョン・カーペンターは愛すべき大バカ野郎だ。昨年のスマトラ島沖地震津波で多数の死者が出てしまったので不謹慎と捉える人もいるかもしれないが、映画は映画、現実は現実だしなぁ。

『ニューヨーク1997』(1981)で巨大な監獄と化したマンハッタンから大統領を救出したあの“最悪の悪党”スネーク・プリスケンが帰ってきた。
 軍に捕らえたれたスネークは10時間で死亡する致死性ウイルスを注射され、ワクチンを餌に任務を負わされる。地震によって本土から切り離され監獄となったロサンゼルスに侵入して、大統領の娘が奪い去った衛星兵器の起動装置を取り戻さねばならないのだ。
 前作のニューヨークにしろ今作のロサンゼルスにしろ強固な壁で囲って監視が見張りについて脱獄不可能ではあるが、内部に看守などはおらず囚人たちが好き放題に暮らしている。刑務所というより島流しみたいなものだろうか。
 凶悪な犯罪者が山ほど登場するが、怖ろしいと言うよりもむしろちょっと笑える奴らばかりだ。サーフィン野郎のピーター・フォンダにオカマ役のパム・グリア(あんた女だろ)、観光地図を売り歩いている“スターマップ・エディ”のスティーヴ・ブシェミ。
 クレジットにブルース・キャンベルの名前があるが「はて?どこに出ているんだろう」とてんで分からなかったが、整形手術に整形手術を重ねてフランケンシュタインの怪物のような顔になってしまった整形外科医の役だった。そら分からんわ。
 『ゴースト・ハンターズ』(1986)にも出演していた中国系俳優アル・レオンがパム・グリアの手下として顔を出しているのがファンには嬉しい。
 この面子のせいもあってか、ハードな近未来SFアクションだった『ニューヨーク1997』と比べるとかなりなバカ映画になっている。ジョン・カーペンターは年を取れば取るほどバカになってないか?この場合のバカはもちろん褒め言葉だ。
 カーペンターは例によって音楽も担当していて、例によってベンベンな曲だ。
 この映画は派手なシーンがある割に、意外と低予算なんじゃないだろうか。

 スネーク・プリスケンは強くてそして頭が切れる卑怯者。4人組の敵を前にして、「バンコク式決闘で行こうぜ」と空き缶を拾い、「落ちた瞬間に銃を抜きな」と言って上に放り投げる。そして、空き缶がまだ宙にあるうちに銃を連射して連中を撃ち殺す。アメリカ犯罪史上最悪の犯罪者だけのことはある。もしも誰かと決闘することになったらこの手でいこう。卑怯でも死ぬよりかはマシだ。

 危機また危機の連続にあまり緊張感がないし、途中で出会った黒髪の女性がヒロイン役になるのかなと思ったらあっさり死ぬ。そもそも命を形に取られた意に染まぬ任務とはいえ、スネーク・プリスケンが何をしたいのかがあまり見えないため方向性がはっきりしない。だが多少の無理もあるストーリー展開を勢いで乗り切っている。
 またもや地震が発生したロサンゼルス島を津波が襲い、その津波でスネーク・プリスケンとピーター・フォンダがサーフィンをするシーンは『パイプライン』っぽい曲も合っていて最高!

 アメリカの大統領は終身制となり独裁者として君臨している。大統領に逆らった者はロサンゼルス島に送られたり処刑されてしまう。監獄には犯罪者だけではなくイスラム教徒や大統領に異を唱える者も多数収容されているのだ。
 そしてスネーク・プリスケンは衛星兵器を利用して独裁者が作り出した秩序を破壊し、世界中から近代文明を消し去る。スネークは犯罪者にして究極のアナーキストだったのだ。
 世界から電灯の明かりが消え闇に包まれた中、スネークがつぶやく。

「Welcome to the human race.」

 スネーク・プリスケンといえば左目のアイパッチがトレードマークだが、実はものもらいの眼帯じゃないのかという説を唱えている。今のところ賛同者はいない。

『突破口!』(1973) CHARLEY VARRICK 111分 アメリカ

監督:ドン・シーゲル 製作:ドン・シーゲル 原作:ジョン・リーズ 脚本:ハワード・ロッドマン、ディーン・リーズナー 撮影:マイケル・C・バトラー 音楽:ラロ・シフリン
出演:ウォルター・マッソー、ジョン・ヴァーノン、アンディ・ロビンソン、シェリー・ノース、フェリシア・ファー、ジョー・ドン・ベイカー

?オレはいつでも燃えている その8?
 ニューメキシコ州の田舎町にある銀行を4人組の強盗が襲う。パトロール中の保安官と銃撃戦になり2人が死ぬ。小さな銀行だけにさほど大きな金額を狙っていたわけではないが、アジトに戻って現金袋の中味を調べたところなんと76万5180ドルもの大金が入っていた。
 ハーマン(アンディ・ロビンソン)は大喜びするが、主人公のチャーリー・バーリック(ウォルター・マッソー)は浮かぬ顔。田舎銀行にそんな大金があるはずがないのだ。しかもラジオのニュースで被害額は2000ドル以下だと銀行側が発表したと伝える。実はマフィアがマネー・ロンダリングのために一時的に隠しておいた金だったのだ。
 マフィア幹部が差し向けた殺し屋(ジョー・ドン・ベイカー)が執拗に2人を追跡してくる。

『CHARLEY VARRICK』と刺繍が入った布が燃えている印象的なタイトルから、田舎町の平凡で平和な日常が映し出され、そこから一転して銀行での銃撃戦へと展開するオープニングから作品に引き込まれる。
 いかにもタフガイな俳優ではなく、ウォルター・マッソーをハードボイルドな役柄に起用したキャスティングも絶妙だ。カトゥーンのドルーピーにそっくりなウォルター・マッソーが映画を観終えた後には実に格好良く感じられる。
 スーツ姿にカウボーイハット、笑顔が不気味なジョー・ドン・ベイカーは最近よりも痩せていてどことなくアーノルド・シュワルツェエネッガーに似ている。
 同じくドン・シーゲル監督作の『ダーティハリー』で“さそり(スコーピオン)”を演じていたアンディ・ロビンソンは例によってサイコ気味な悪党を演じている。同じような役ばかり回ってくるのに嫌気がさして、一時は俳優を引退し大工をやっていたそうだが、どうしたって異常者に見えるので善人役や普通の役にキャスティングするのはなかなか難しいだろう。
 出番は少しだが売春宿の女将や車椅子に乗った銃砲店のオヤジ、モーテルの老女主人、身分証の偽造屋の女性などの脇役も良い味を出している。
 偽造屋に特急仕上げ料金などで散々巻き上げられたあげく、店から出るときにチャーリーがキャンディを一つもらおうとして、「500ドルよ」と言われうんざりした表情でキャンディーを器に戻すシーンが良い。

 登場人物のほとんどが悪党で、それぞれの思惑がラストに向かって収束していく。廃車置き場での車と複葉機の対決が燃える。チャーリーが敵を罠にかけ知恵で乗り切る終わり方も面白い。そして、タイトル映像の意味が最後になって分かる。
 全体的に抑えられた演出で、最近の派手なアクション映画に慣れていると少し退屈に感じるかもしれないが、ぜひとも腰をどっしり落ち着けて観て欲しい。とはいえ日本ではDVDになっておらずレンタルビデオは大型店でないとなかなか置いていない。とっとと発売して欲しい一本だ。

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『プロジェクトA』 (1984) A計劃 105分 香港 1984/02鑑賞

監督:ジャッキー・チェン 製作:レナード・K・C・ホー 製作総指揮:レイモンド・チョウ 脚本:ジャッキー・チェン、エドワード・タン 撮影:チャン・ユイジョウ 音楽:マイケル・ライ
出演:ジャッキー・チェン、ユン・ピョウ、サモ・ハン・キンポー、ディック・ウェイ

?オレはいつでも燃えている その7?
 先に観に行った友人が「すげー、すげーんだよ。ジャッキーが20メートルぐらいの高さから飛び降りるんだよ」と興奮した様子で話していた。
「ふーん、でも20メートルぐらい珍しくないんじゃないの。真田広之だってやるだろ」とのオレの言葉に
「違うって、下にマットがなくて地面にそのまま落ちるんだって」と力説した。
 20メートルの高さからマットなしで飛び降りる?いくらなんでもそりゃ死ぬだろう。てっきり大袈裟に言ってるんだなと思って観に行ったら本当に飛び降りてた。
 そしてその瞬間からジャッキー・チェンはオレのヒーローになった。それ以前の『蛇拳』も映画館で観ていたが、『プロジェクトA』以降のジャッキー作品は必ず映画館に観に行った。残念ながら『メダリオン』(2003)や『シャンハイ・ナイト』(2003)はレンタルDVDで観たので記録は『タキシード』(2002)で終わってしまった。

 もはや伝説となっている時計台からの落下は、二枚の布製の庇を突き破ることで落下速度を落としているとはいうもののかなり危険なスタントだ。よく見ると地面を掘って薄いマットを埋め込んである感じもするが、これは気休め程度だろう。しかもエンドクレジットのNGシーンまで観るとどうやら3回は飛び降りているようだ。
 なんでも、この撮影に取りかかってジャッキーは時計台の針にぶらさがったが、さすがに怖ろしくてなかなか飛び降りることが出来ず、ようやく手を離したのは3日目になってからだったとか。庇で速度を落とすと言っても、ハリウッドのスタントのように綿密な計算やテストを繰り返したのではなく、「まぁこれならいけるんじゃないか」程度だったのではないだろうか。無茶にもほどがあるよ、ほんと。
 時計台の針からぶらさがるのはハロルド・ロイドの『ロイドの要心無用』(1923)のオマージュだと言われている。『要心無用』のハロルド・ロイドはぶら下がるだけだったが、ジャッキーは落ちる。あの落下スタントをやれる映画スターは他にいるのだろうか?ちなみに、宣伝のためにビルの屋上までよじ登るという『要心無用』では、シーンによってはベテランの高所作業員がスタントマンを務めているそうだが、多くのシーンはロイド自身がスタントをこなしている。他の作品の撮影中に火薬の事故で手の指を何本か吹き飛ばしており、ハロルド・ロイドもかなり無茶な人だったそうだ。もっとも、当時のパイロテクニック(火薬による特殊効果)がかなり雑な管理の下で行われていて、ロイドの事故をきっかけに制度などが整備されていったとのこと。今のハリウッドでパイロテクニシャン(火薬特殊効果担当者)になるためには、厳しい試験と身辺調査が必要だとか。そりゃ、テロリストや過激派と繋がりのある人物に爆発物を管理させるわけにはいかないよな。

 オマージュは『要心無用』だけではない。酒場で水上警察と陸上警察が乱闘のケンカを繰り広げるシーンがあるが、これがジョン・フォードの『荒鷲の翼』(1956)でジョン・ウェインが所属する海軍の兵隊と陸軍の兵隊がケンカをするシーンとそっくり。実際、『プロジェクトA』の酒場の乱闘はジョン・フォード的雰囲気を醸し出して、ジャッキーの監督としての力量も感じさせる。蓄音機が鳴り出して、にらみ合ったまま双方とも一瞬動きを止め、そこから殴り合いにつながっていくところなど最高だ。

 派手な格闘などではないが、自転車でのチェイスが面白い。扉をノックしたりサドルが取れたりの細かなギャグも含まれていて、これまたジャッキーらしい。やはりオレは戦うジャッキーよりも逃げるジャッキーの方が好きなようだ。

 サモ・ハン・キン・ポーやユン・ピョウ、130Rのホンコンに似た男(名前は火星・マースだったけかなぁ)、ホウ・シャオシェンの『悲情城市』(1989)に出てた痩せた男など、お馴染みの面子が勢揃い。
 悪役の海賊のボスはジャッキー映画史上最強の敵ではないだろうか。ジャッキー、サモ・ハン、ユン・ピョウが3人がかりで戦っても苦戦してどうにか動きを止めるので精一杯。倒し方も正直いって卑怯な方法だ。
 最後はめでたしめでたしなのだが、唐突にぶった切られた「どひゃー」なラストの余韻のなさがいかにも昔の香港映画。

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『エグゼクティブ・デシジョン』 (1996) EXECUTIVE DECISION 132分 アメリカ

監督:スチュアート・ベアード 製作:ジョエル・シルヴァー 製作総指揮:スティーヴ・ペリー 脚本:ジム・トーマス、ジョン・C・トーマス 撮影:アレックス・トムソン 美術:テレンス・マーシュ 音楽:ジェリー・ゴールドスミス
出演:カート・ラッセル、スティーヴン・セガール、ハリー・ベリー、ジョン・レグイザモ、オリヴァー・プラット、デヴィッド・スーシェ、J・T・ウォルシュ

?オレはいつでも燃えている その5?
 もしも出演依頼が来た段階でセガール演ずる特殊部隊隊長があんな形で途中退場することが決まっていて、それでなおオファーを受けたのならば、スティーヴン・セガールという人物は人々が思っている以上に分かっているナイスな男だ。
 映画館にあったポスターやDVDのパッケージではセガールとカート・ラッセルの二枚看板になっているが、実際にはセガールの見せ場は冒頭のテロリストアジトの襲撃シーンぐらいで、基本的にはカート・ラッセルの引き立て役。でも、その退場の仕方がDVDを何度もスロー再生させて確認したくなるある種の格好良さ。ていうかスロー再生しないと分からない。

 ワシントンへと向かうジャンボジェット機がイスラム系テロリストにハイジャックされる。テロリストの要求は先だって逮捕された指導者の解放だったが、それは一次的なもので本来の狙いはさらに大きな物だった。なんと、荷物に紛れ込ませて搭載してある猛毒のDZ-5ガスを抱えて旅客機ごとワシントンに突っ込んで自爆テロを行い、アメリカの首都ワシントンを壊滅させるという大胆不敵な計画だ。
 この作品が公開された当時、ある映画評論家は「いくらアクション映画でも荒唐無稽である」とか言っていた。リアリティとは映画の説得力を強める役目を持つが、それは手段であって目的ではない。荒唐無稽だろうが面白ければいいのだ。それに9.11テロが発生したときはどんな顔をしたのだろう。毒ガスこそ積んでいなかったが、善しにつけ悪しにつけ時に現実は映画のストーリーを超えるのだ。
 それにしても9.11テロの犯人たちが『エグゼクティブ・デシジョン』を観ていた可能性はないだろうか。トム・クランシーの小説『日米開戦』でも確か日本人パイロットがジャンボジェット機でアメリカの要所に自爆テロをしてたし。

 カート・ラッセルは情報部の分析官(アナリスト)というインテリな役柄。カート・ラッセルはタフガイ的なイメージが強いが、『テニス靴をはいたコンピューター』(1969)などディズニー実写映画で世に出た人物。その気になればタフガイも知的な役もこなせる演技派だ。

 テロリストの乗っ取られたジャンボジェット機に特殊部隊がステルス輸送機を使って飛行中に乗り込むというのは確かに荒唐無稽ではある。でもまあ、空中給油の延長線上だと思えばどうってことない。かなり長い延長線が必要だが。
 カート・ラッセルに協力する女性フライトアテンダントがハリー・ベリー。単なるヒロインではなくテロリストの情報を得る上で必要になり、ストーリー上で重要な役柄となっている。
 たまたま乗り合わせていた拳銃で武装した連邦保安官のオヤジがなかなか良い味を出している。ラストのテロリストとの戦いではもうちょっと活躍させても良かったのでは?
 機長らパイロットたちのこともそれなりに気に入っていたが、あの最後はないよな。
 テロリスト実行犯のリーダーはTVドラマの『名探偵ポワロ』でポワロを演じていたデヴィッド・スーシェだ。ポワロのイメージをまるで感じさせない冷酷で狂信的な男になっている。
 策を弄する議員役の故J・T・ウォルシュははまり役。惜しい人を亡くしたものだ。

 ジャンボジェット内という限られた空間で、しかもテロリストに見つからないように作戦を進め、さらには爆弾の解体までしなければならないという盛りだくさんな内容。次から次へと発生する問題と危機に、下手な脚本家や監督だとあっというまに破綻させてしまうだろうが、それを上手に手堅くまとめている。特徴のある登場人物の魅力がそれを支える一因となっているだろう。
 ステルス輸送機に関する技術者で爆弾を解体する羽目になるケイヒルも面白い人物だ。口にくわえているスティック(キャンディーのスティックかストローのようだ)も単なるキャラクター付けだけではなく意外な活用をされる。

 客室内に突入してテロリストを一掃し機内を制圧するシーンは、派手な撃ち合いではなく短時間で片が付く。隊員たちが使うサブマシンガンやショットガン、暗視装置などの道具も印象的。うむ、リアリティ。
 ただ、これで終わっては少々物足りないと思ったのか、さらなる危機が待ち受けている。これはちょっと蛇足気味で余分だったかも。

 スクリーン試写の段階では、エンドクレジット終了後にどこかの海岸が映り、海からザバザバと上がってきたスティーヴン・セガールが

「まったく、ひどい目にあったぜ」

と言って終わるという噂を聞いた。だが、観客へのアンケートで結果が悪くて削除されたのだとか。
 まあ、聞いた噂というよりたった今作った噂だが。

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『ジャガーノート』 (1974) JUGGERNAUT 111分 イギリス

監督:リチャード・レスター 製作:デヴィッド・V・ピッカー、リチャード・アラン・シモンズ 脚本:リチャード・デコッカー 撮影:ジェリー・フィッシャー 美術:テレンス・マーシュ 音楽:ケン・ソーン
出演:リチャード・ハリス、オマー・シャリフ、シャーリー・ナイト、アンソニー・ホプキンス、イアン・ホルム

?オレはいつでも燃えている その4?
 1200人の乗客・乗員を乗せイギリスからニューヨークへと向かう客船ブリタニック号。名前が不吉な感じな船だが、荒波に揺られ多少ペースを落としながらもそれなりに順調な航海だった。
 しかし、ブリタニック号を所有する運輸会社に一本の電話がかかってくる。ジャガーノートと名乗るその男は、ブリタニック号に7つの爆弾を仕掛けたと告げ、爆発を防ぐためには50万ポンドを払えと脅迫してくる。そして船内にいくつものドラム缶爆弾が発見され、デモンストレーションとして小さな爆発が起こる。ブリタニック号の航海はすでに安全でも快適でもなくなっていた。

 荒れる海の中、ファロン少佐(リチャード・ハリス)率いる爆発物処理班は犠牲者を出しながらもなんとか船に乗船し爆発物の解体に取りかかる。
 船長(オマー・シャリフ)はパニックが起きないよう乗員に冷静な指示を下し、乗客には途中まで爆弾の事実を伝えず平常通りを装ってパニックを防ぐ。
 その間に、妻と子供が偶然ブリタニック号に乗っていたスコットランドヤードの刑事はわずかな手がかりからジャガーノートを探し出そうと懸命な捜査を続ける。
 プロフェッショナルな男たちとジャガーノートによる静かな戦いが始まった。

 ストーリーだけ聞くとサスペンスアクションっぽいが、ハリウッド映画ではなくイギリス映画だけにかなり様子が違う。派手な盛り上がりはあまりなくて、アクションよりも登場人物の描写に力が入れられている。
 監督のリチャード・レスターはオフビートなギャグを得意とする人だが、この作品ではさすがにギャグは抑えている。それでもきっちりリチャード・レスター色が出ているのはさすが。実力がある人は何を撮ってもちゃんと仕上げてくれる。ビートルズ主演でアイドル映画の皮をかぶったハチャメチャギャグコメディ『HELP!四人はアイドル』から『スーパーマン III/電子の要塞』まで幅広い。そしてどれもきっちりリチャード・レスターだ。
 リチャード・レスター作品常連の小太りな男が乗員役でちゃんと出演しているのが嬉しい。船が揺れて船酔いになった人ばかりでろくに食事ものどを通らずに席を立っていく食堂で、ただ1人ニコニコしながら料理を平らげているシーンが笑える。

 一番のアクションシーンは爆発物処理班が航空機からパラシュート降下して海に着水し、が風や波が荒れ狂う中を船まで泳ぎ着くシーン。地味だが犠牲者も出て緊張感がある。 そして一番の見せ場はドラム缶爆弾の解体シーンだろう。細かい作業を一つ一つクリアしていくリアルさだ。アクション映画の解体シーンではいきなり爆弾の蓋を開けて赤と青のどちらのコードを切るかだけというのが多いが、この作品では神経を張りつめた時間のかかる息のつまる作業だ。だからこそファロンたちは時に軽口を叩くことで緊張をほぐしているのだろう。
 小さなミスで命を落とす作業はまさにプロの仕事。オレなんかだととても緊張に耐えられなくなって逃げ出すかパニックを起こしてしまいそうだ。就きたくない仕事度はかなり高い。

 爆弾のことが乗客に知らされ、しかも解体中の事故で船のボーイが死んだ後で、乗客の気を紛らわせるために予定通りに開催される仮装パーティーが良い。人々は日常を演じながらもその奥には無常感が立ちこめている。希望と諦めの狭間で揺れるシニカルな視点がイギリス風。そこでのダンスシーンと爆弾の解体がカットバックも冴えてる。
 解体中の事故で部下を失い自暴自棄になったファロンと再び作業に取りかかるよう説得する船長のやり取りは、リチャード・ハリスとオマー・シャリフという名優だけあって深みがある。でも、オマー・シャリフというとオレには『トップ・シークレット』(1984)がまず頭に浮かぶ。車ごとプレス機にかけられ金属の塊になるが、それでも無事に生きていてチョコチョコと現れるオマー・シャリフ。

 解体されることを見越してジャガーノートはいくつもの罠やトリックを仕掛けている。爆弾魔というのはかなり性格が悪いのだろう。
 この作品でも最後には「赤の線を切るか、青の線を切るか」という状況になる。もしかしたらこの作品から広まったのだろうか。オレが爆弾の設計者ならば50%の確率で解体されてしまわぬように、赤と青に加えて白・黒・抹茶・小豆・コーヒー・ゆず・桜ぐらいに増やしておく。これならおそよ11%まで下がる。
 だが、ただ二者択一のシーンではなく、無線越しにジャガーノートと会話しながらの駆け引きになっていて観ていて息詰まる。
そして結果は、

「ファロンはチャンピオン♪バンバンバン」

 ここでアップを使わないのがまた良いねぇ。

『天山回廊』 (1987) 海市塵廊 90分 中国/香港 1988/01/22鑑賞

監督:ツイ・シャオミン 原案:ツイ・シャオミン 脚本:イップ・ナン、チャン・キット、ツイ・シャオミン 音楽:ジョセフ・クー
出演:ユー・ヤンクャン、パサ・ロマーニ、コニー・クアン、ツイ・シャオミン

?オレはいつでも燃えている その2?
 無茶。はっきりいって無茶。『○○』のスタントでは死人が出ているといった噂を昔はたまに聞いたが、この作品では絶対に死んでる気がする。中国製作なので撮影中の事故で1人や2人ぐらい死んでもうやむやのまま闇に葬られているんじゃないだろうか?

 舞台は数昔前の中国。ロシア革命の余波で国境近辺が不穏当な状況である。第二次大戦直前か?
 主人公タンは冒険家にしてカメラマン。捨て子だったのを拾われて育ち、自らのルーツを求めて中国大陸を旅している。
 タンがシルクロードを渡るキャラバン隊と一緒に旅をしていると、断崖絶壁からロープを伝わって大量の盗賊たちが襲っている。なんでもこの盗賊たちを演じたのが人民解放軍の特殊部隊だそうだ。爆発がある度にドッカーンと派手に吹っ飛んでくれる。
 爆発で人間が吹き飛ぶシーンは、普通の映画だと見た目は派手だがほとんど威力のない爆薬を使い、トランポリンなどでジャンプしたりワイヤーで引っ張ったりしているのだが、この作品ではまんま火薬の爆発力で吹き飛んでいるようにしか見えない。撮影が巧妙なのか、マジ火薬なのか?答えを知りたいような知りたくないような。
 盗賊を退けた後、唐突に大空に蜃気楼が映し出される。そこに映っていたのは民族衣装を着た美しい女性だった。
 そしてその女性に一目惚れしたタンは情報を集めるために一度上海に戻る。
 上海でサモ・ハン・キンポーを二回り細くしたような相棒マオと、砂漠地方に詳しい若い女性と合流し、天山へと向かう。
 苦労の末ようやく蜃気楼の美女と巡り会うが、彼女は極悪な盗賊団の首領でその美しさからは信じられないほど残虐非道だった。主人公の戦いを挑み、ほぼ互角の腕前だし、砂漠をさ迷うシーンでは、倒れた馬の首に歯を立てると動脈を引きちぎり、血を飲んでのどの渇きを癒やす。外面似菩薩内面如夜叉とはまさにこのこと。
 そんな彼女が主人公の愛で生まれ変わるのが定番だが、この作品ではちょっと心が動くものの最後まで悪女のまま。いっそあっぱれ。

 といった具合にそんなこんながあって、盗賊の砦が襲撃されるラストに突入。
 タンや首領を差し置いて脇役のマオが大活躍。それもそのはず、マオ役のツイ・シャオミンは監督にして原案と脚本も担当する映画の中心人物だったのだ。銃弾の中を駆け回って、小さな爆発で吹っ飛び、中ぐらいの爆発でも吹っ飛び、もちろん大爆発でも吹っ飛ぶ。
 二階の窓から飛び出した瞬間に建物が爆発して炎に包まれるシーンは実にきわどいタイミングでまさに命がけ。しかも地面に5メートルほど下の地面に叩き付けられる。すごいなぁ。でも、お前脇役じゃん。
 結局、美味しいところはほとんど持って行ってラストシーンでは実質的に主役の座におさまっている。監督の職権乱用じゃないのか、これは。

 終盤ではほとんど見せ場がないタンだが、渋めの二枚目でかなりクンフーが達者だ。ほとんど情報がないのではっきりしたことは分からないのだが、京劇出身の役者らしい。レオン・カーフェイにちょっと似てるかな。

 冒頭の空撮から渓谷を進むキャラバン隊までのカットはなかなか素晴らしい。中国政府が全面協力しただけあって、普段では見ることのできない中国奥地の風景が全編を彩っている。これも見所の一つ。
 騎馬民族の踊りや、『ランボー3』にも登場していた馬に乗って羊の死体をボール代わりに使うポロも登場する。ちょっとした観光映画でもある。
 主人公の出生の秘密などは解き明かされないまま映画は終わる。全体的な完成度では「うーん・・・」な点もあるが、とにかく熱く燃えさせてくれる作品なのは間違いない。

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『ダイ・ハード』 (1988) DIE HARD 131分 アメリカ 1989/02鑑賞

監督:ジョン・マクティアナン 製作:ローレンス・ゴードン、ジョエル・シルヴァー 製作総指揮:チャールズ・ゴードン 原作:ロデリック・ソープ 脚本:ジェブ・スチュアート、スティーヴン・E・デ・スーザ 撮影:ヤン・デ・ボン 特撮:リチャード・エドランド 音楽:マイケル・ケイメン
出演:ブルース・ウィリス、アラン・リックマン、ボニー・ベデリア、アレクサンダー・ゴドノフ、レジナルド・ヴェルジョンソン、ポール・グリーソン、ウィリアム・アザートン、ハート・ボックナー、ジェームズ繁田、アル・レオン

?オレはいつでも燃えている その1?
「オレだってたまには泣く」シリーズが終わったので、今回からは「オレはいつでも燃えている」シリーズをやることにした。
 アメリカの観客は映画の最中で大声で笑ったり歓声を上げたりするのが一般的らしい。もっとも、社会的階層の存在が私たちが思う以上にあり、映画館のランクや建っている地区によって差があるのかもしれないが、ともかくにぎやかではあるそうだ。
 大人しいと言われる日本の観客だが、場内全体から拍手が飛ぶこともある。小劇場でマニア向け作品をやる場合はさほど珍しくもないが、大劇場で娯楽大作をやっている場合はまれだ。そんなまれな1本がこの『ダイ・ハード』である。

『ダイ・ハード』というと派手なアクションに目が行ってしまうが、オレはそれ以上に伏線が張り巡らされているきっちりと書き込まれた脚本が素晴らしいと感じる。
 大型ジェット機でロサンゼルスにジョン・マクレーン(ブルース・ウィリス)が降り立ったシーンでの隣の席に座った男とのちょっとした会話の中に、マクレーンの職業や拳銃を持っていること、そして劇中で裸足になってビルの中を駆けずり回ることになる理由まで盛り込まれている。
 そして訪問相手の名前をタッチパネルで指定するシーンでは妻のホリーが職場で旧姓を用いていることが判明するが、「旧姓を使っている」=「ジョンとは姓が違い、名簿を見ただけでは家族だと分からない」というのが大きなポイントとなり、その後の展開で実に有効利用されている。
 ホリーがジョンと口げんかをして、自分のオフィスにある家族4人の集合写真が飾られた写真立てをパタンと倒すことすら重要な伏線なのだ。
 あからさまな物もあれば、後になって伏線だったと分かる巧妙な物もあり、伏線好きなオレにはとても嬉しい。

 脇役も魅力的で、パトカーで見回りに来たばかりに巻き込まれる黒人警官パウエルはジョンと無線で話す窓口になり、その会話の中で互いに理解を深める。二人とも相手の顔を知らないのにビルを出たところで始めて対面して「ああ、こいつだ」と口をきかずともすぐに気付く。その後にある見せ場の格好いいこと。そこでも拍手が上がったのを憶えている。
 ジョンを乗せてきたリムジンの黒人運転手も良い。ビルがテロリストに占拠されて大騒ぎになっているのに、地下駐車場に停めたリムジンの中で途中まで全然気付かずに女に電話してたりする。こちらもラストに見せ場あり。
 ウィリアム・アザートン演ずるソーンバーグというTVレポーターは、徹底して傲慢で嫌なヤツ。徹底しすぎたせいでキャラクターが戯画化されて薄っぺらくなっているのが残念。ラストに見せ場?あり。
 製作された1988年というとバブル経済まっさかり。日本企業がアメリカの企業や建物を買収してはひんしゅくを買っていた頃。日本企業のナカトミがターゲットになったのはそういう背景もあるのだろうが、社長のタカギはテロリストに屈することなく最後まで誇りを貫く人物として描かれている。
「社員のことがどうでもいいから、私だけは助けてくれ」と土下座してテロリストに懇願させることも出来ただろうから、割と好意的な描かれ方ではないだろうか。とにかくロス市警の本部長やFBIよりもよほど好感が持てる。
 テロリスト側にはボスのハンス(アラン・リックマン)や、ステアーAUGをメインウエポンとするアレクサンダー・ゴドノフと共に、我らが長髪ハゲヒゲ東洋人アル・レオンが出演しているのが嬉しい。SWAT突入を待ち受けるシーンでは、売店コーナーに潜んでいてこっそり辺りをうかがいながらチョコバーを盗み食いする見せ場がある。

 ナカトミビルの金庫がついに開くシーンではベートーベンの第九こと「ベートーベン第九交響曲」のフレーズが流れる。
 知人は「なるほど、年末だから第九か」と納得していたが、年末に第九の公演をやるってのは日本の習慣じゃなかったか?確か、日本では一番客が入る第九のコンサートを年末にやって、その興行収入で餅を買って年越しが出来るとか。小松左京監修の雑学本で昔読んだ知識なんだが。

 銃器の描写も『プレデター』のジョン・マクティアナンらしく凝っている。扱い方や、誰がどんな銃を使っているかも設定がちゃんとしている。撃ち合いのシーンではないが、換気ダクトに潜んだジョンを探すために、アレクサンダー・ゴドノフがステアーの銃口でダクトを1ブロックずつベコンベコンと押し上げていくシーンが秀逸だ。
『ダイ・ハード2』はリアリティの無視っぷりや設定の無茶さがレニー・ハーリンらしくてむしろナイス。

 撮影担当はフランス人のヤン・デ・ボン。その腕を買われて後に監督に昇格し、『スピード』などを撮ったが、一部の作品を除くとそのまま名撮影監督のままでいた方が良かった気がする。

 その日その日に思いついた事を書いていた『映画バカ黙示録』だが、刑事映画特集や軍用航空機映画特集をやってみたところ、こちらの方が書くのが楽だった。おそらく人間というのは全く自由であるよりも多少の制約があった方が動きやすいのかもしれない。
「オレだってたまには泣く」はコミックで3作品、小説で5作品、映画で6作品ぐらい、まあ2週間ほどネタに困らなければいいかなと軽い気持ちで始めたのだが、これが意外に伸びて合計で33作品と1ヶ月ほど書くことが出来た。各エントリの文章量も多目だ。
 なんというか、泣いてない泣いてないと言いながら結構泣いてんじゃんか、オレ。ひょっとして泣き虫君か?

 作品と内容を振り返ってみると、そこにはある傾向が見て取れる。
 登場人物がやるべき事をやる、片を付けるべきことやる、筋を通す。そのことによって自分の命を落とすかも知れないがそれ以上に重要だ。
 ただし、命がけで何かをやるとか、人のために命を投げ出すと言った「自己犠牲」は大嫌い。似たようなものだと思われるかも知れないが、そこら辺がこだわりなのだろう。
 あとは、泣かそう泣かそうという演出やストーリーには鼻白んでしまい、むしろ淡々とした語り口に弱い。
 それから白泉社の少女コミックで後日談系に弱いとか。

『ONE ?輝く季節へ?』 Tactics Windows用成人向けPCゲーム CD-ROM

 言い忘れていたが昨日の『ToHeart』から「オレだってたまには泣く ゲーム編』に入っている。
 モノポリーやオセロなどのボードゲームで泣く人はあまりいないだろう。絶対にいないとは言い切れないが、まああまりいない。「桂馬?、なぜやられたんだ桂馬?」とか泣き叫んでる人がいるなら会ってみたい。会ってはみたいが友だちとかにはなりたくないタイプではある。泣くには物語性があった方がいいので、その点コンピューターゲーム向きだ。
 コンピューターゲームといってもシューティングやアクションではあまり泣かないだろう。オレが一番やりこんだシューティングは『R-TYPE』だ。ゲームセンターで少なからぬ出費を強いられながらようやくクリアしたときは嬉しかったが、さすがに泣けはしなかった。世の中は広いので『テトリス』で「4段消し?」と泣く人もいるかもしれないが、そういった少数派を除くと泣けるゲームはやはり物語性の強いアドベンチャーゲームかロールプレイングゲームだろう。
『テトリス』は無理でも『ぷよぷよ』ですさまじいまでの連鎖が成功したらひょっとして泣くかな?泣かないか。

 RPGで泣いたことはない。初代Wizardlyをこつこつとマッピングしながら地下10階まで解き進めて、ワードナーを倒してアミュレットを手に入れた時はかなり興奮したがかといって泣いてはいない。どちらかというとテレポートした先の指定を間違えて壁の中に転移してしまい、育て上げたパーティーをロストしてしまった時の方が泣きに近かった。容赦ないゲームだったよなぁ。
 ドラゴン・クエストシリーズは面白いが泣くまではいかない。ファイナル・ファンタジーシリーズは4だったかで、「お前ら感動しろ」とばかりにどんどん人を殺していく終盤のストーリーと演出が大っ嫌いでエンディング寸前で投げ出した。もうねなんか腹立ちました。7か8以降はやってない。要するに趣味に合わんのだ。
 『天外魔境2 卍丸』PCエンジン版はかなり盛り上げてくれたが、こちらも人死にに走ってしまってゲンナリしたままエンディング。しかもみんな復活してるし。
 ではアドベンチャーはどうかというと、こちらでは本当に泣いたタイトルが2本ある。昨日の『ToHeart』と『ONE ?輝く季節へ?』だ。ああっ、今日もベタなタイトルだ。しかも両方とも甘っ。
「お餅も入ってベタベタと。甘くてどうもすいません」

 コンシューマーのアドベンチャーが謎解き中心だった中、ドラマを重視したアドベンチャーは18禁ゲームというジャンルが先行した。・・・のだかは知らない。ゲーム関係のサイトでもっと詳しいデータや分析があるだろう。
 ただ、個人的には制約が多い場所の方が、時として自由な作品を生み出す土壌となるのではないだろうか。一時期のにっかつロマンポルノは新進気鋭な新人監督たちが、全体の内に何分以上の濡れ場を入れること以外はそれほど制約がないのを利用して、実に好き勝手放題な作品を作っていた。
 予算はふざけんとんのかっ、ホームビデオでも撮れってのかというぐらいの低予算だったらしいが、黒沢清の『神田川淫乱戦争』、周防正行が全編小津オマージュで撮った『変態家族 兄貴の嫁さん』、あえてロマンポルノに乗り込んで撮った森田芳光の『(本)噂のストリッパー』などが有名だ。先ごろ亡くなった『デビルマン』の那須監督もロマンポルノ出身だったはず。
 黒沢清の『ドレミファ娘の血が騒ぐ』はにっかつロマンポルノとして撮影されたのだが、日活幹部から「こんなワケ分からんもの駄目じゃ」と駄目だしされ、再編集して一般作として公開された。もはや自社の作品に対して興味を持っていなかったにっかつ側からお蔵入りにされるとは、やはり黒沢清とは無茶な人だ。

 18禁ゲームでは予算や納期、性描写に関する規制などはかなりシビアでも、製作しているほとんどが小規模会社ないし個人企業だそうだ。比較的自由度が高くて作り手の意志や表現を盛り込みやすく、ドラマ性と演出がより高められたのかもしれない。
 果たして本当に自由度が実際に高かったのかという点からしてすでに検証していないが、調べ始めるときりがなさそうなのでやらない。1995?2000年における18禁ゲームの展開と推移なんてのはちょっとした文化論になりそうだ。探せばそんなサイトもあるのだろう。

 アメリカの18禁ソフトというかポルノソフトの画面を見たことがあるが、マウスカーソルで女性の乳首をクリックしたら「あはーん。うふーん」と反応するとかそんなレベルだった。最近のことではないので最近の作品では多少マシになっているのかもしれないが、おそらくあまり変わっていない気がする。アメリカでのポルノソフトの市場自体が非常に狭そうだし、作り手も真剣には作っていなさそうだ。きっとアメリカ人ってのはFPSゲームかスポーツゲームばかりやっているに違いない。(偏見?)
 韓国や台湾ではPCゲームと言えばMMORPGらしい。(知識不足?)そもそも他国でのアドベンチャーゲーム市場というのはどれぐらいの大きさなのだろうか。アメリカのアドベンチャーゲームというと『MIST』が思い出される。あれは物語というよりパズルっぽいイメージが強い。ひょっとするとアドベンチャーゲームがここまで発展しているのは日本ぐらいなのかもしれない。ここら辺も調べてみると面白そうだが面倒なのでやらない。
『泣きゲー』という単語があるが、こんな単語が成立するのは日本だからだろう。『ToHeart』や『ONE?輝く季節へ?』の全年齢版を翻訳して発売したとして、果たして海外で受け入れられるのだろうか。外国人は果たして泣くか?
 まあ、市場があるとしても狭い市場だろうな。

 さて今日のお題『ONE ?輝く季節へ?』だが、泣ける。はっきりいって泣ける。
 オレが泣いたのはヒロインの一人である茜ルートでのエンディングだ。
 主人公は幼い頃の約束により、ある日を境に次第にその存在が薄れていってついには本当に消えてしまう。友人知人の記憶からも消え去り、主人公のとこを憶えているのはヒロインただ一人。
 そして主人公の記憶を抱えながら暮らしていたある日、茜は友人の口から聞くはずのない言葉を聞く。
「そういえば“あいつ”とずいぶん会ってないけど元気にしてるの」
 そんなセリフだったと思うが、そのセリフの中にある“あいつ”という単語。
 主人公が帰ってくることを理解した茜の前に登場する一人の少年の姿。
 うむむ。

『ONE ?輝く季節へ?』のどこが良いかといったらラストにある主人公が帰ってくるシーンだろう。各ヒロイン毎のエピソードで少しずつ違うが、消えてしまった主人公が帰ってくるのは同じ。極論を言えば「このシーンのために作品が存在している」。
 過去の約束(だっけか?)とやらで次第に日常から消え去っていく辺りは正直オレにとってはどうでもいい。そりゃ、若い時分には己の存在が希薄に感じられたとかはあった。うん、オレも若かったなぁ。しかし、今となってはその手のストーリーは青くさい昔を思い出して恥ずかしさが先に立つ。あと、「いたる絵」と呼ばれる絵が独特で好き嫌いがかなり分かれるだろう。そもそも受け付けないっていう人がいてもおかしくない強烈な独特さだ。
 この作品を手がけたスタッフは後にTacticsから独立してkeyというブランドを設立して『kanon』や『AIR』、『CLANNAD』といった作品を発表している。これらは『ONE』が持っていた要素を継承しているが、あのラストシーンよりもむしろ青くさい部分をさらに強調した感じで、汚れちまったオレにはプレイするのがちとつらい。いたる絵だしな。
 11月25日には新作『智代アフター』というのが発売になるらしい。たぶん買わないが、絵は変わっているそうだ。

 最近ではパソコンゲームにしろPS2などのコンシューマー機のゲームにしろほとんどやらなくなってしまったが、以前はそれなりに遊んでいた。そんな中で、泣いた作品が2本あってそれが2本とも18禁PCゲームのアドベンチャーというのはやはり何らかの意味があるのだろう。
 ちなみに『ONE ?輝く季節へ?』には初回特典として置き時計が付いていたのだが、これがピクチャーレーベルとなっているゲームのCD-ROMを時計の盤面に使うという代物だった。時計として使う間はゲームが出来ず、ゲームをやっている間は時計が使えない。というか、CD-ROMがホコリまみれになりそうでヤな特典だった。一時、初回特典付きの中古がとんでもない相場になった時にとっとと売っぱらった。
 現在持っているのは中古で買った通常版。「for Windows95」と大書きされている。そうか、WIN98以前のソフトだったか。ちなみにWindowsXPproで試してみたら、インストールおよび起動が確認できた。インストールに必要なハードディスク容量が50MBというのに時代を感じる。CD-ROMのプロパティでは60数メガバイトの容量だから、根性さえあればフロッピーディスク版でも出せるよな。昔はWindows95のフロッピー版があったよな、そういえば。フロッピー20枚組のゲームとかもあった記憶が・・・オレも年だな。

 というわけでオレだってたまには泣くゲーム編』あっというまに終了。

『ToHeart』 リーフ(Leaf) Windows用成人向けPCゲーム CD-ROM

 『雫』『痕』に続くリーフのVisual Novel Series 第3弾。
 1997年頃の18禁PCゲーム界は陵辱系のゲームなどが中心で、屈折し殺伐とした雰囲気が多くを占めていたそうだ。
 そんな中で発売された『ToHeart』は、割と普通の高校生っぽくみえる大学生ないし専門学生(だって18歳以上だからな)を主人公に、楽しく明るめな日常を中心としたストーリーが展開される。これがエポックメイキング的作品になったようで、18禁PCゲーム界のその後には大きな影響を与えたようだ。多彩なヒロインたちはギャルゲーへと発展していったのだろうし、ストーリー以上にマルチなどのキャラクターに萌える行為が萌えゲーを生み出していったのかもしれない。
 もちろん、すべてが『ToHeart』起源なわけではないだろうが、大きな影響を与えたのは確かなようだ。これ以上に詳しいことは他所のサイトでもっと詳細な情報が見つかると思う。

オレが持っている『ToHeart』はJANコードが4996802970404なので1997/05/23に発売された初回版。あかりたちヒロインが集合したマウスパッドと修正ファイルが入ったFDが付属している。
 その後、WindowsXPにも対応したリニューアル版や、PS版をPCに移植した非18禁の『ToHeart PSE』というのまで出ていて、案外ラインナップがややこしい。
 大きく分けるとPCの18禁版とPlayStationの音声付き非18禁版に二分できる。

 ゲーム自体の内容は、朝に起きて学校へ登校し、学校の中をうろついてヒロインと会って会話し、学校帰りには寄り道をしてまたヒロインと会って交流を深める。こうして好感度を上げ、フラグを立てていくことでクリアを目指すゲーム自体は基本的内容だ。
 特色としては、一般のアドベンチャーゲームならウインドウ内に2?3行で表示される文章が画面全体を原稿用紙のように使って表示されること。この手のゲームでは売りであるはずのグラフィックを覆い被すように文字が表示され、これはあくまでもテキスト主体のゲームだと訴えかけてくる。
 今でも読み応えがあるが、1997年当時にはここまでしっかり読ませる文章は少なかった。リーフが『雫』、そしてこれが頂点だと思うのだが『痕』でやってきたことが広くゲームファンに受け入れられたのがこの作品になる。
 ただ、システムには疑問が残る点もある。校内や街を移動するシーンでは、移動する先に誰が待っているのかが分からず、まったく偶然に頼るしかなく攻略が無駄に難しかった。PS版では移動先にデフォルメキャラが表示されて誰に会うことが出来るのか分かるようになったのでプレイがすごく楽になった。PC版もあらかじめセーブしてメモをつけていけば良いのだが・・・。その昔、WizardryのMAPをせこせこと方眼紙に書き込んでいった我々も思えばものぐさになってしまったものだ。

 泣いたのはマルチのシナリオ。ああっ、ベタだ。懐中汁粉に入ったおモチ並にベタベタだ。でもね、エンディングで失意にくれる主人公の元に一台のメイドロボが送られてくる。マルチそっくりなそれは・・・ああっ、泣ける。というか泣いてるぞオレ。まだ泣くことが出来たんだ。
 PC版、PS版、アニメ版、コミック版で設定がちょっとごっちゃになっている部分があるが、マルチたちメイドロボを開発している開発室の室長が良かった。ちょっとしか出てこないが、無精ヒゲに眼鏡のさえない中年。『機動警察パトレイバー』の後藤隊長をどことなく思わせる食えないキャラだ。こういった脇役の使い方も上手い。

 泣いたのはマルチだが、一番好きなのは委員長こと「保科智子」だっ。次が来栖川芹香お嬢様。
 一番どうでもいいのが志保かなぁ。志保のキャラクター自体は嫌いじゃないけど、あのエンディングはないだろ。

 今度PC版で『ToHeart 2 XRATED』というのが出る。元はPS2で発売された全年齢版だったが、PC版は18禁ソフトになっている。
2といっても主人公などは『ToHeart』と異なっていて舞台設定が同じなだけ。PS2版は結構面白かったが、18禁化されることが吉と出るか凶と出るか。

『ビルとテッドの地獄旅行』(1991) BILL & TED'S BOGUS JOURNEY 1991/10/8鑑賞

監督:ピーター・ヒューイット 製作:スコット・クルーフ 製作総指揮:テッド・フィールド/ロバート・W・コート/バリー・スパイキングス/リック・フィンケルスタイン/スティーヴン・ドイッチ 脚本:クリス・マシスン/エド・ソロモン 撮影:オリヴァー・ウッド 音楽:デヴィッド・ニューマン
出演:アレックス・ウィンター/キアヌ・リーヴス/ウィリアム・サドラー/ジョス・アックランド/パム・グリア/ジョージ・カーリン/エイミー・ストック=ポイントン

映画で泣くなんてアホだ。
『真ん中が叫んでホイ(仮名)』などいわゆる“感動作”を見て、ハンカチで涙を拭きながら赤い目で劇場から出てくる人は「ああ“感動”した。思わず泣いちゃった」などと言うが、実のところ「“感動”したから泣いた」のではなく、「泣いたから“感動”した」と錯覚しているだけに過ぎない。最初から“泣く”を目的に見に行っているので、予想通りのストーリーが予想通りに展開され、「はい、ここで泣いてね」と指示されたところでその号令通りに涙腺を開く。作り手の思惑に乗ることが悪いわけではないが、あまりに観客として素直すぎるのもどうかと個人的には思う。
かなりのひねくれ者であるわたしは、「そう簡単にやられるかよ」とファイティングポーズを取って、映画の繰り出してくる技を捌きながら観ているような気がする。そのためいかにもな見え透いたパンチは食らわず、これはある意味不幸なのだがそういった作品を見下している嫌いがある。だが、まれに思わぬ死角から飛び込んできたパンチを食らう。予想していなかっただけに強烈なそのパンチで、普段は固く閉まっている涙腺がふっとゆるみつい泣いてしまう。
『ビルとテッドの地獄旅行』はそんな数少ない作品の一つだ。

前作『ビルとテッドの大冒険』で歴史の論文発表テストをパスするために、電話ボックス型タイムマシンを操ってソクラテスやジンギス・ハンなど過去の偉人たちを集めたビルとテッドの二人組。未来人ルーファスが彼らにタイムマシンを貸したのは、二人のバンドであるワイルド・スタリオンズが将来作り出す音楽によって、その後の世界を変わり平和へと導くことになるからだった。
しかし、どんな時代でもイヤな奴はいるわけで、ラブ&ピースな未来社会が気に入らない悪党デ・ノロモスがそもそもの張本人であるビルとテッド抹殺のため二人そっくりのアンドロイドを過去(わたしたちにとっての現在)に送り込む。アンドロイドをタイムマシンでやって来た別の時間の自分たちだと信じ込んだビルとテッドは、崖の上に誘き出されそこから突き落とされてしまう。ピーンチッ!さぁ、どう切り抜けるのか?ヒュー、ドスン!・・・んっ?いまドスンっていった?そう、開始早々いきなり主人公たちは死んでしまうのだ。
そしてビルとテッドは死神を打ち負かして仲間にし、地獄や天国を含めた死後の世界をかけずりまわることとなる。

そして、場所はロックコンクールの会場。ワイルド・スタリオンズが人々の前に初お目見えする歴史的瞬間になるはずだった。だが代わりに出場したアンドロイドのビル(偽)とテッド(偽)がコンクールをぶち壊そうとする。そこへ死神と共にビルとテッドが地獄から生還し、天才宇宙人が作った善玉アンドロイドが偽物をやっつける。万事めでたしと思ったところへ、デ・ノロモスがタイムマシンで登場。会場のテレビ中継システムを乗っ取り、通信衛星を通じて自らの声明を世界中に放送し始める。アメリカの一般家庭や雪の降るロシアの街角、中国の中華食堂などのテレビので人々恐怖に震えた。しかし、ビルとテッドがタイムマシンによる時間操作を利用してデノロモスを倒す。そして16ヶ月ほど時間旅行してテクニック不足だったギターの腕前を磨いて(ついでに結婚と子作りをして)会場に戻ってくると、エレキギターをかき鳴らし掻き鳴らすと歌い始める。

God gave rock and roll to you, gave rock and roll to you
Put it in the soul of everyone...

ワイルド・スタリオンズが歌う『GOD GAVE ROCK 'N' ROLL TO YOU II』はデ・ノロモスが乗っ取ったままだったテレビネットワークに流れ、人々はこのロックンロールを聴きリズムに乗り踊り歌い、そしてその瞬間確かに世界中の人の心が一つになったのだ。デ・ノロモスは図らずもワイルド・スタリオンズの音楽を世界中に伝える手助けをしたことになる。
このテレビ中継から一気に世界が素晴らしい物になったわけではないが、そのまま突入したエンディングクレジットのバックにその後のワイルド・スタリオンズの活躍が新聞や雑誌が映し出され、中東ツアーで和平をもたらしたりエアギターでスモッグ公害を無くしたり死神の口パク疑惑が飛び交ったりと、少しずつ少しずつ世界は良くなっていくとこが語られる。そして、ついには火星公演のためワイルド・スタリオンズの乗ったスペースシップが宇宙に飛び出していく。

いやもう、気がついたら泣いていた。『GOD GAVE ROCK 'N' ROLL TO YOU II』はKISSの曲なので、あのデーモン小暮閣下のようなメイク(逆ですが)を思い浮かべると微妙なところがあるが名曲だ。音楽と映像が見事に同調し感動を呼び起こす。
ハチャメチャ大バカ映画の『ビルとテッドの大冒険』(1989)と共に、この二作品はロックンロールバカ映画として長く語り継がれていくべきだろう。

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『わが谷は緑なりき』 (1941) HOW GREEN WAS MY VALLEY 118分 アメリカ

監督:ジョン・フォード 製作:ダリル・F・ザナック 原作:リチャード・リュウエリン 脚本:フィリップ・ダン 撮影:アーサー・C・ミラー 作曲:アルフレッド・ニューマン
出演:ウォルター・ピジョン、モーリン・オハラ、ドナルド・クリスプ、ロディ・マクドウォール、バリー・フィッツジェラルド、サラ・オールグッド、ジョン・ローダー、アンナ・リー、メエ・マーシュ、アン・E・トッド

・・・「私の名はジョン・フォード。西部劇を作っている」

 ここで利用しているblogシステム「Movable Type 3.2」がRelease-2になったのでさっそくアップグレード作業を行った。まずは既存データのバックアップから始めるのが基本。メニューからデータを書き出したらテキストデータだけで3.4MBほどがあった。うむむ、フロッピーディスクには入らない。まぁ、もう何年もFDなんて使ってないが。
 なんだかんだで1047エントリ。一行40文字表示にしたら65000行ほどあった。エントリごとの間に空白行や日付、タイトルなどで25行があるから、単純計算で65000-25×1027=39325行。一行40文字だから1,573,000文字。400字詰め原稿用紙で3932枚。なかなかな分量だ。

 だが、これと同じだけの分量を使っても『わが谷は緑なりき』の魅力を伝えることはできない。オレに文章力がないせいもあるが、そもそも映画を言葉で表現しきることは本当に可能なのだろうか?
 って、こんなことを言っているとリュミエール派みたいだが、オレはジョン・フォードの名は知っていても大学にはいるまではその名に大した意味は持っていなかった。
 そんなオレや同期たちに、シネマ研究会のU谷先輩は学習会と称して視聴覚室に新入部員を連れ込んではあれこれと古い映画を観せた。
 出席したオレたちの目の前に数週に一度のペースでプロジェクターで映し出されたのは
ニコラス・レイの『夜の人々』(1949)、アルフレッド・ヒッチコックの『見知らぬ乗客』(1951)、サミュエル・フラーの『最前線物語』(1980)、ロバート・アルドリッチの『特攻大作戦』(1967)、ラオール・ウォルシュの『ハイ・シェラ』(1941)、ジャン=リュック・ゴダールの『カルメンという名の女』(1983)、ハワード・ホークスの『赤ちゃん教育』(1938)、そしてジョン・フォードの『ドノヴァン珊瑚礁』などという今にして思えば錚々たる顔ぶれ。
 当時は「なんでこんな古い映画を観されられなきゃいかんのだ」と思っていたが、3回目辺りから楽しくなっていって、そして、二年生になる頃には、古い映画も洋画も邦画も関係なく、興味を持ったら即観に行く映画野郎にバージョンアップしていた。

 オレたちが入学してすぐにU谷先輩が撮った映画では、河原に座り込んだ主人公の横に謎の男O原氏が現れ「情報度が、情報度が」と繰り替え言う。最初は「ジョン・フォードが、ジョン・フォードが」だと言っているのに気付かなかった。映画について偉そうにあれこれ語ってはいるが、U谷先輩の学習会がなかったら「古い映画にも面白いのがあるんだ」「映画もちゃんと系統立てて数を観なきゃ駄目だな」ということに気付かないままだったろう。
 
 学生時代にジョン・フォード作品もいくつか観たが、当時まだレンタルビデオが本格的に普及しだしたとはいえ、現在と比べてタイトル数は圧倒的に少なかった。これがまだ東京の学生だったらまだ残っていたはずの名画座で出会うこともあったかもしれないが、名古屋では事実上名画座は壊滅状態。
『わが谷は緑なりき』を観たいな?、観たいな?と熱望すること数年、就職で上京した東京の名画座で『わが谷は緑なりき』と『静かなる男』の二本立てで上映されているのを見つけてマッハ3.17で駆けつけた。ジョン・フォードのアイルランド作品特集といった企画なのだろう。
『静かなる男』はすでにビデオで観ていたが、スクリーンで観るとさらに面白かった。
 そして『わが谷は緑なりき』は美しいアイルランドの風景の中(もっとも第二次世界大戦中のためロケではなくカリフォルニアに大セットを作って多くのシーンはそこで撮影されたそうだ)、ウェールズの貧しい大家族を主人公に、炭坑での仕事や労働争議、少年の成長などが描かれる。少年役を演じたロディ・マクドウォールは後に『フライトナイト』(1985?1988)シリーズで元B級恐怖映画のスターで現在は恐怖映画番組のホストを務める老人を演じていた。オレが観た順番が『フライトナイト』→『わが谷は緑なりき』だったので、えっあの爺さんはこんな可愛らしい少年だったのか、と驚いてしまった。
 結局、就職で東京に2年間いた間に映画館で500本以上の作品を観ているんだよな。ああっ観たかったあの映画がなんてことはなしにやっていると週末どころか仕事をとっとと片付けて映画館に通っていたら、そりゃ人生も間違うわ。

 オレが学生時代にあれほど切望した『わが谷は緑なりき』。こいつを学生時代に観ておくことが出来なかったのは今だに残念だと思っている。
 その映画が今ではなんとDVDとして発売されていて気楽に買うことが出来るではないか。
 売値は税込みで2,079円。映画館に映画を観に行った時よりもほんのちょっと高いが、映画館だとジュースが「なめとんのかぁ」と割高だったりするのでその分を差し引くと同じぐらいだろう。
 オレがあれだけ観たくて「ぴあ」などを毎回隅々まで目を通してタイトルが載っていないか探した『わが谷は緑なりき』がたったの2,079円。
 DVDは光学メディアだから丁寧に扱えば1万回ぐらいは観られるだろう。そうすると1回につき0.2円。くわっ、安すぎ。チロルチョコの欠片しか買えないぞ、そんな金額。
 もしかすると10万回ぐらい大丈夫かもしれない。すると0.02円。もうデフレっすよデフレ。まぁ、メディアはもってもプレイヤーを何台か買い換えることになりそうだが。

 とにかく『わが谷は緑なりき』は観とけ。依頼ではなく命令。
 高校時代や大学に入ったばかりの頃はこんなことは思わなかった。「観たい作品を観ればいいじゃん」
 うん、そうだ。オレもそう思う。それでもやっぱり、これは観ておくべきだというのはあるのだ。そういうのを経験することでより映画の階段を上がれるのかもしれない。

「西部劇の神様、ジョン・フォード」と呼ばれることがあるが、それは厳密ではない。
 ジョン・フォードは「西部劇の神様」ではなく「映画の神様」だ。神様の作品をまったく観ていないのはやはり寂しい。

 なんだかんだで『わが谷は緑なりき』の内容にはほとんど触れないまま終了。逃げたんじゃない、敵うはずもない相手からの戦略的撤退だ。

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『そして人生はつづく』 (1992) ZENDEGI EDAME DARAD(AND LIFE GOES ON) 91分 イラン

監督:アッバス・キアロスタミ 製作:アリ・レザ・ザリン 脚本:アッバス・キアロスタミ 撮影:ホマユン・パイヴァール 
出演:ファルハッド・ケラドマンド、プーヤ・パイヴァール

 パキスタンを襲った大地震に関する映像がテレビのニュースなどに映し出される。近隣国ということもあってかその光景は以前『そして人生はつづく』(1992)で観た物とどこか似ている。
 1990年、イラン北部で大地震が発生した。1987年に製作された『友だちのうちはどこ?』のロケ地も大きな被害を受けたと聞き、心配した監督やスタッフはオンボロ車でコケール村へと向かう。
 カメラは悲惨としか言いようのない光景を納めていく。倒壊した日焼きレンガの家、寸断された道路、崩壊した山肌。食料や水も乏しく人々は苦しんでいる。苦難の道のりを乗り越えてようやく村へと登場するが、主人公を演じた人々はなかなか見つからない。そして様々な人にその消息を尋ねる内に、それぞれの人々が肉体的にも精神的にも負った傷が浮き彫りになってくる。
 ようやく主人公たちがどちらに向かったかという情報を得た監督はオンボロ車の進路をそちらに向けて走り出す。

 被災地に機材を持ち込んで、被害の実態を撮影したり実際に被害にあった人々も登場してドキュメンタリー風味になっているが、脚本もあるし決められたセリフを演技で話す登場人物が中心で基本は劇映画である。いわゆるメタ映画ってやつだろうか。
 ドキュメンタリー映画はドキュメントで真実を描いたとか言いながら、実際には作り手の意見や思想が如実に表れているのでうさんくさくて好きではないが、『そして人生はつづく』は演出が行われているというのが前提で、その開き直りが良い。
 もしもこれが本物の「ドキュメンタリー映画」で、イラン北部地震の被害や人々の悲惨な光景を捉えただけの作品だったら正直オレは最後まで観れなかっただろう。つらい現実から目を逸らすというよりも、他人の不幸を楽しむ趣味はないからだと思う。
 この作品ではいくつもの不幸が描かれる。そんななかで身内の人間を何十人も失いながら、明日結婚式を行うというという男が登場する。これは不幸の中においても幸せは存在するということよりも、どんなつらい事態に陥っても苦しくて絶望しかなくても、それで人生が終わるわけではなく、震災という非日常からいずれはまた日常へと戻っていくということだろう。
 だが、絶望の後には希望が待っているといった安易な楽観論ではない。絶望の後には大絶望があるのかもしれないし、希望が見えてきたと思ったらそのまま通り過ぎてしまうのかもしれない。ともあれ、これで終わりだと思っても生きている限り時間は止まらない。どんなにつらく苦しくてもそれで終わるわけじゃない。苦しさや悲しさは薄れていずれ忘れるかもしれないが、そのままずっと苦しくて悲しいままだったり、ひょっとしたらさらに苦しく悲しくなるかもしれない。だが人生はつづく。時に慈悲深く時に容赦なく、生きている限り人間は立ち止まることを許されず、そして人生はつづいていくのだ。

 ラスト、監督たちを運んできたオンボロ車についてのエピソードが映画そのものの象徴となりタイトルの『そして人生はつづく』の意味が真に理解できる。
 描く対象に対して不必要に入れ込まずに客観的に突き放した視点。震災の風景や被災者に対しても、「うわっひどい。可哀想だ」ではなくどこか冷静な視点。昨日の『大人は判ってくれない』から視点という単語を連発しているが、作中の「視点」こそ映画の肝かもしれない。もっとも、「脚本こそ映画の命だ」とか「編集こそ映画製作におけるもっとも映画的な作業だ」とか言ってるときもあるので、今日は何となくそんな気分ってこと。

『そして人生はつづく』というタイトルは映画を一言で表した素晴らしいタイトルだ。タイトルは映画の看板なのでその善し悪しは重要である。
 だが、原題の『ZENDEGI EDAME DARAD』は『そして人生はつづく』という意味なのだろうか?邦題は原題とはまったく関係ないことがある。ひょっとしたら『ZENDEGI・・・』は『被災地取材』とかいった意味の可能性もある。そもそもなんて発音するんだ?ゼンディギ・・・、はっ?!ゼンジー北京?
 英語や中国語だったらまだなんとかなるし、ドイツ語は大学時代に第二外国語でちょっとやった。もっとも成績は底辺でダメ。ダメだがとりあえず独日辞典はあるので単語の意味を調べていくことは出来る。でもイランの言葉はなぁ。イランってペルシャ語圏だっけか?英語タイトルの『AND LIFE GOES ON』はそのまま『そして人生はつづく』だが、英語タイトルが原題とは違ってるかも知れないし。
 もし原題の意味が分かる人がいたら教えてください。何か気になりだすと落ち着かない。っていうか、本当の原題はアルファベットじゃなくてアラビア文字だっけか?

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『大人は判ってくれない』 (1959) LES QUATRE CENTS COUPS 97分 フランス

監督:フランソワ・トリュフォー 製作:フランソワ・トリュフォー 脚本:フランソワ・トリュフォー、マルセル・ムーシー 撮影:アンリ・ドカエ 音楽:ジャン・コンスタンタン
出演:ジャン=ピエール・レオ、クレール・モーリエ、アルベール・レミー、ジャン=クロード・ブリアリ、ギイ・ドゥコンブル

 親や学校などと衝突し悩み苦しむ少年が主人公だが、そこに登場するのはバイクを盗んだり校舎の窓ガラスを割るようなアホでも出来る凡庸な反逆ではない。時に冷淡でそれでいて常に少年の側に立って描かれる、つらくそして美しい物語だ。
 監督・脚本のフランソワ・トリュフォー自身の少年期がモデルだというが、作中の視点は少年ではなく、かといって理解者面をした大人からの視点でもなければ神の視点ともまた違う。作品を貫くその微妙な距離の視点がこの作品の大きなポイントだ。

 ヌーヴェル・ヴァーグの旗手の一人であるフランソワ・トリュフォーのデビュー作である。ヌーヴェル・ヴァーグ(新しい波)というと難解で小難しいイメージが強いが、トリュフォーの作品は観て頭を抱えるようなことはない。ゴダールのようにデタラメではなく、“普通”の映画っぽいのだ。
 ゴダールがヌーヴェル・ヴァーグ連の過激派だとしたら、トリュフォーは穏健派だ。ヌーヴェル・ヴァーグ自体が過激派の塊だから、そういった意味ではトリュフォーはヌーヴェル・ヴァーグの異端児なのかもしれない。
 もちろん『大人は判ってくれない』は随所に斬新な点があり充分に新しい映画であるのは確かだが。
 それからゴダールも別にデタラメをやっているのではなく、既存の映画文法を解体し再構築することによって“新しい映画”を作っているわけで、観客側に新しい観解力を求めてくるので難解な作品に感じられるだけだ。
 オレもゴダール作品には「ワケわかんねー」とさんざん苦しめられたが、今は難しいことは考えずに気楽に観るという方法で対処している。そうやって観ると案外楽しい。というかゴダールもバカだぞ、きっと。

 『大人は判ってくれない』を大きく支えているのが、主人公の少年アントワーヌを演ずるジャン=ピエール・レオの存在だ。
 当時13歳だったというジャン=ピエール・レオは演技も上手いのだろうが、ただ立っているだけ、ただ歩いているだけのシーンでも実に絵になっている。
 特徴的なのが何者も信用していない睨みつけるような醒めた目だ。この目を気に入ってトリュフォーはジャン=ピエール・レオを選んだのではないだろうか。
 ニヒルさを感じさせる美少年だったが、成長して大人になると割と普通のオッサンになってしまった。アキ・カウリスマキの『コントラクト・キラー』(1990)では徹底してついてない不運な男を演じていたが、これが実にハマっていた。

 とっさに付いた小さな嘘がきっかけとなって周りとの衝突がさらに激しくなり、小さな犯罪は大きな犯罪へと広がる。
 家庭からも学校からもはじき出されたアントワーヌは、ついにタイプライターを盗んだ罪で逮捕され少年鑑別所に入れられる。だが用意されているのは反省や改心といった安易な結末ではない。ぶった切られたような唐突な終わりは観客への問いかけでもあるだろう。
 観客からの同情を拒否するようなそのラストが泣ける。

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『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦』 (2002) 95分 日本 2002/05/03鑑賞

監督:原恵一 演出:水島努 チーフプロデューサー:茂木仁史、太田賢司、生田英隆 プロデューサー:山川順一、和田泰、福吉健 原作:臼井儀人 脚本:原恵一 音楽:荒川敏行、浜口史郎 絵コンテ:原恵一、水島努
出演:矢島晶子、ならはしみき、藤原啓治、こおろぎさとみ、屋良有作、小林愛、羽佐間道夫

 傑作であるのは認める。しかし『クレヨンしんちゃん』として作る意味があるのだろうか。キャラクター設定はきっちり活かしてあるし、『クレヨンしんちゃん』という場を利用して自分の撮りたい物を撮ってしまうというスタイルは好きだ。だが、やはりこれはもはや『クレヨンしんちゃん』じゃないよなぁというのがまず最初の感想だ。
 『ブタのヒヅメ大作戦』や『温泉わくわく大決戦』で人は死なないがリアルな銃撃戦が繰り広げられる。この部分についてどうにも違和感をぬぐいきれなかった。両作とも面白いのは間違いないのだが、『アクション仮面VSハイグレ魔王』から始まる初期の作品群こそ“子供たちが大好きな『クレヨンしんちゃん』”の映画として優れているのではないか。その意味ではシリーズ最高傑作は4作目の『クレヨンしんちゃん ヘンダーランドの大冒険』だろう。
 9作目の『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』は傑作として大人からの評価が高いが、果たして子供にとってはどうだったのだろうか。ガキってのは大人が思っている以上に理解力があったりするので、意外とちゃんと理解して楽しんでいるのかもしれないが、同時にガキってのは時に大人が思っている以上に理解力がない。核の部分は分かってねぇだろうなぁ。
 10作目の『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦』(それにしても長いタイトルだ)は『オトナ帝国の逆襲』以上に観客対象を大人へとシフトしている。戦国時代での本気の合戦。槍や鉄砲で人が殺されるシーンは巧みに画面外に押しやられているが、劇中で多くの侍や足軽が死んでいる。『影武者』(1980)や『天と地と』(1990)の合戦シーン以上の迫力に驚いた。
 野原家の自家用車が合戦場を走り回って敵軍を蹴散らすシーンは実にうれしい。ひろしの給料から考えるとカローラクラスだろうが、その大衆車が『戦国自衛隊』(1979)における戦車やヘリコプター以上に有効に使われている。
 だが、果たして『クレヨンしんちゃん』に数多くのリアルな「人の死」が必要なのだろうかと、どこかで違和感を感じていた。その違和感も含めて傑作ではあるわけだが。

 時を超える手段はいくつもある。有名なのはタイムマシンを使った方法だ。H・G・ウェルズが生み出したタイムマシンは映画化され『タイムマシン』(1959)や再映画化の『タイムマシン』(2002)、『タイム・アフター・タイム』(1979)などで何度か時間の旅を行った。
 日本で一番有名なのはやはり『ドラえもん』のタイムマシンだろう。学習机の引き出しが入り口になっているそのタイムマシンは過去や未来へと旅していくつもの物語を生み出した。
 他には『バック・トゥ・ザ・フューチャー』シリーズのデロリアン(自動車)型タイムマシン、『ビルとテッドの大冒険』シリーズの電話ボックス型タイムマシン、『オースティン・パワーズ』シリーズの壁で渦巻きがグルグルしている渦巻き型タイムマシン(これは1960年代のTVシリーズ『タイムトンネル』のパロディだろう)、『ターミネーター』シリーズでのマシン自体は画面に登場しないが生身の物体だけを時空転送する転送型タイムマシンなどが有名だ。
 機械を使わない方法では時空転移の超能力を持つ人物が登場する作品や、薬品によって時間跳躍能力を得る『時をかける少女』、頭を殴られた事故で過去に跳ぶマーク・トウェインの『アーサー王宮廷のヤンキー』などがある。
 そして超能力など持たない普通の人間が意志の力だけで時を超える作品もある。クリストファー・リーヴ主演の『ある日どこかで』(1980)がそうだ。主人公は古くからあるホテルの展示室で肖像画に描かれた女性に恋をする。その肖像画が描かれたのはおよそ70年前だった。
 会いたいけれども会うことは出来ない。その女性への想いは強まるばかりで、ついにその想いが主人公に時を跳ばせ70年前の世界に送り込む。
 強い想いは時間の旅すら可能にする。悲しい映画だが美しくなかなかの佳作だ。

 『戦国大合戦』でしんのすけを始めとする野原一家が天正2年(1574年)へと送り込むのも「強い想い」である。
 夢に見た綺麗なお姫様に会いたいというしんのすけの想い、過去に行ってしまったしんのすけを連れ返しに行きたいという両親の想い、そしてなにより春日の国のお姫様の強く美しくそして悲しくつらい恋への想い。
 時を超えるシーンでは異次元をくぐる抜ける描写やだんだんと身体が透けて消えていくなどの演出、現れる前に稲妻や炎が生じるなどの描写はない。ただカットが変わると消えていて違う時代の同じ場所、現代の野原家であり天正2年の美しい池の畔に現れる。あえてシンプルに描いたその理由は、映画のラストで野原一家を乗せた車が現代に帰って行くシーンではっきりする。カメラが切り返すと草原の上に車はなく、お姫様である廉の後ろ姿だけが画面に映っている。しんのすけは「帰ってもおらたちはここにいるよ」と言ったが、それでもやはり想い人を失った廉はもはや一人きりなのだ。

 本来は死ぬはずだった青空侍こと井尻又兵衛は時を超えてきたしんのすけによって命を救われる。だが運命は変えることは出来なかった。又兵衛の死は先送りにされただけで避け得ぬものだったのだ。しんのすけによって与えられた猶予期間によって又兵衛は自分にとって大切な国、大切な人々、そして大切な女性を守った。そのことをしんのすけに語って又兵衛は心安らかに死んでいく。
 だが、死んでいく人間はそれで良いだろうが、生きて残された相手はたまったもんじゃない。その相手とは春日城主の娘である廉だ。又兵衛とは幼なじみで、互いに恋心を抱きながらも、「身分が違うから」と又兵衛がある意味で逃げていたために言葉で確認しあったことはない。
 又兵衛は死んだがその想いは残る。その想いを廉は逃げずに背負うことを選ぶ。
「一生誰のもとへも嫁がぬ」という廉のセリフは美しいが、オレはどこかで又兵衛に腹が立ってしまう。死んだことに腹が立つのではない、それはしょうがない。だが、想いだけを残してその想いによって廉の心と人生を縛ってしまったことに腹が立つ。
 もちろん、『めぞん一刻』でもう誰も愛することがないと思い込んでいた響子さんが延々と色々あった後に五代君の愛を受け入れた様に、廉もいずれはまた誰かを愛するかもしれない。だが響子さんは惣一郎さんと互いに愛し合い、短い間とはいえ結婚生活も送った。言葉で確かめ合ったことも二人だけの生活もなかった分だけ響子さんよりも廉の心にかけられた枷の方が強いのではないだろうか。
 だがそんな考えも青空に浮かんだ小さな雲を見上げながら廉が呟く
「おい、青空侍」
 というセリフとラストカットで「もうどうでもいいや。とりあえず泣こ」と吹き飛んでしまう。

 ちなみに一番好きなシーンは殿様や家老がカレーを食っているシーンだ。このあとに戦が春日に襲いかかることを予感させる、いわゆる嵐の前の静けさが描かれた名シーンだ。

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『ワイルドバンチ』 (1969) 137分(オリジナル版)・146分(ディレクターズカット版) アメリカ

監督:サム・ペキンパー 製作:フィル・フェルドマン 原作:ウォロン・グリーン、ロイ・N・シックナー 脚本:サム・ペキンパー、ウォロン・グリーン 撮影:ルシアン・バラード 音楽:ソニー・バーク
出演:ウィリアム・ホールデン、アーネスト・ボーグナイン、ロバート・ライアン、ウォーレン・オーツ、ベン・ジョンソン

 時は1913年。20世紀になってすでに10年以上が過ぎ、アメリカが前近代から近代に移っていった、そんな時代の変わり目の物語だ。
 『明日に向って撃て!』の主人公ブッチ・キャシディとサンダンス・キッドが率いていた無法者の集団が「ワイルドバンチ」である。またの名を「壁の穴強盗団」といい、スパゲティが美味しいことでも有名だ。いや、それは「壁の穴」か。
 「壁の穴強盗団」とはワイオミング州にあるHoll in the Wallと呼ばれる岩の渓谷を根城としていたから付いた名だそうだ。スパゲティ屋の「壁の穴」はウィリアム・シェークスピアの『真夏の夜の夢』に登場する言葉から取ったそうなので両者には関係がない。最初に店名を聞いたときには明太子スパゲティを食っていると突然店内で銃撃戦でも始まるのかと期待したのだが、そういうハプニングないしアトラクションはないとのこと。残念である。

 ラストの銃撃戦の派手さは有名だが、この作品で最高のシーンはその直前にある。
 ワイルドバンチの残党であるパイク(ウィリアム・ホールデン)たちはアメリカ国内で銀行強盗を行い、賞金稼ぎなどに追われてメキシコまで流れ着く。メキシコでは『戦うパンチョビラ』(1968)のパンチョ・ビラなど革命軍が政府軍と戦っている。思想などに興味のないパイクたちは米軍から武器を奪いそれを政府軍、といっても実体は将軍の私立軍隊のようだがそちらに売り渡す。だが仲間の一人であるメキシコ人のエンジェルが、16箱あった武器のうち1箱をこっそり革命軍に渡していたのがばれエンジェルは将軍らに捕らえられリンチにあう。
 パイクたちは将軍からもらった金を持ってそのまま立ち去ることもできた。しかし、女郎屋でパイクはウォーレン・オーツらに言う。
「Let's go.」
 それに対してウォーレン・オーツの返答もたった一言。
「Why not.」
 女郎屋を出た三人。女に興味がないのか外で待っていたアーネスト・ボーグナインがすべて承知とばかりにニカッと笑う。四人は無言のまま馬から拳銃やショットガンなどの武器を取り出し、横一列になって将軍のところに向かって歩き出す。

 これは「命を捨ててでも仲間を救いに行った」という悪い意味での男の美学的なシーンではない。そんな神風特攻隊のような理由ではなく、ただやらなければならないことをやりに行っただけでのことだ。
 そもそも、パイクたちは自分たちの死期が近いことを悟っていた。将軍たちに殺されるからではなく、いわば生き方の末期ガン状態に陥っていたのだ。病気の末期ガンを患った『生きる』の志村喬は自分が存在した証として公園を作った。パイクたちはどうせ死ぬのならば仲間は見捨てないという、無法者なりの筋を通すことを選んだのだろう。

 西部劇に分類されていることがあるこの作品だが、断じて西部劇ではない。それはコルトオートマチック拳銃やブローニング機関銃が登場するからではなく舞台が近代であるからだ。
 西部劇の時代は同時に無法者の時代でもあった。駅馬車襲撃や銀行強盗をして金を奪い、その金で酒を飲んだり女を買い、保安官や賞金稼ぎに撃ち殺されたり捕らえられて縛り首になったりする。そんな牧歌的な(どこが牧歌的って気はするが)前近代の自由さが近代という新しい社会では許されず、パイクたちはアメリカから逃げ出した。だが、逃げ出した先のメキシコでも革命という近代の波が吹き荒れていた。新しい時代に合わせて生き方を変えるか、それとも無法者のままでいるか。だが無法者を選んだ場合には未来はなく、もはや死ぬ運命だったのだ。
 登場人物のほとんどが死んでしまった後で、ちゃっかり生き残った老人が「これまでの様にはいかないがな」と無法者から犯罪者へと生き方を変えることで近代に適応する。これを狡いと見る向きもあるかもしれないが、滅びの美学だなんだと言っても死んでしまっては意味がない。生き方を変えられるならば変えた方が賢くはある。映画のドラマ作りとしては前者の方が盛り上がるのだろうが。

 ちなみにワーナーから発売されているDVDは両面一層。映画の途中でA面からB面へとひっくり返さねばならない「お前はレーザーディスクかっ!」的仕様になっている。手間は大したことじゃないが、映画がそこで中断されるのはかなりイヤな感じだ。値段が変わったりキャンペーンなどで型番は何度か変わっているが同一マスターのままらしくおそらく現行のも両面一層だろう。片面二層で出してくれ。次世代メディアの登場も近いので今さらDVDに変更はないだろうがなぁ。
 と思ってたら片面二層が出たので買い直し。

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『シコふんじゃった。』 (1991) 103分 日本 1992/2/14鑑賞

監督:周防正行 製作:平明暘、山本洋 プロデューサー:桝井省志 脚本:周防正行 撮影:栢野直樹 美術:部谷京子 編集:菊池純一 音楽:周防義和
出演:本木雅弘、清水美砂、竹中直人、水島かおり、田口浩正、宝井誠明、梅本律子、柄本明

 三部リーグのビリッケツ。教立大学の相撲部は部員一人の貧弱で激弱な学生相撲最底辺のチームだ。
 部員不足で試合に出られないところを、相撲部の顧問で元学生相撲の学生横綱だった穴山教授(柄本明)が、卒業に必要な単位を餌にして主人公・秋平(本木雅弘)を「一試合限り」の約束で相撲部に入部させる。春秋テニス、夏サーフィン、冬はスキーの遊びサークル「シーズンスポーツ愛好会」所属の秋平にとって、ふんどし(ま・わ・し)を締めて人前に出るなど恥以外の何物でもないが、一流企業に内定も決まっており卒業のためにと我慢する。
 そして秋平の弟で貧弱な体付きの美少年春雄、肥満児で緊張すると右手と右足が一緒に出る田中、イギリスから来たラガーマン留学生スマイリー、そして唯一の正式部員で根っからの相撲好きだが極度の上がり症のため一度も勝ったことのない青木を合わせた5人の部員が取りあえず揃い、慣れないふんどし(ま・わ・し)を締めて土俵に上がる。しかし、見るからに弱そうなチームと対戦してもボロ負け。残念会の席でOBにボロクソにけなされてカッとなった秋平は
「勝ちゃいいんだ ろ!勝ちゃ!勝ってやろうじゃねぇか!勝ってやるよ!絶対に勝ってやる! なぁみんな!」
 と啖呵を切ってしまい、珍相撲部の珍スポ根が始まるのであった。

 というのが『シコふんじゃった。』について一般的に語られる物語だが、少し角度を変えてみると春雄に憧れてマネージャーとして入部した恋する肥満少女の正子と、穴山の助手で相撲部名誉マネージャー(自称)の夏子の二人が主役をつとめるもう一つの物語が見えてくる。

 大相撲の大阪場所で女性大阪知事が表彰式のためなのに土俵に上がらせてもらえないという出来事が続いている。
「女性は土俵に上がっちゃいけない。神聖なる土俵が汚れる」とかいったしきたりが理由らしい。
 大相撲協会側の言い分も理解できる。うん、しきたりじゃしょうがないよね。断固として拒み続けるわな。だって、一度でも土俵に女性を上がらせてしまったら、「しきたりなんて何の意味もない」というのがばれてしまうものな。
 しきたりに意味がないのがばれたら、ふんどし姿(まわしなんだけど・・・)に意味がないのも、ちょんまげに意味がないのもばれてしまい、大相撲そのものが崩壊するおそれがある。
 他の伝統芸能において一つのしきたりを破ることを許したために、結果ボロボロになって地に落ちてしまった例は幾つもあるから、それを知っている大相撲は決して女性が土俵に上がることは許さないだろう。
 でもね、女性本人にその気があったら実は土俵に上がるぐらいのことはひょいっとやってしまうのだ。その気っていうのは恋する想いと言い換えても良い。
 『シコふんじゃった。』とはそんなしきたりとかを平気で破ってしまう、実はパンクでアナーキーで過激な映画なのだ。

 正子を演ずる梅本律子は、明星かなにかの誌上で募集した「極度の肥満」が条件という異例なオーディションで、見事選ばれた素人だそうだ。当然セリフ回しも上手くない。選考基準通りの極度の肥満で愛嬌のある顔つきだがはっきりいってブスだ。そして、この正子こそ『シコふんじゃった。』のもう一人の主役である。
 春雄に心の底から惚れている正子は春雄のことしか見えていない。春雄のためならなんでもするぐらい一途でまっすぐな想いだ。
 春雄が強豪校相手の試合で負傷したときに、正子は「女性は土俵に上がってはいけない」という「しきたり」などまったく気にもせずドスドスと春雄の元に駆け寄る。口うるさい審判や関係者が文句を言ってくる暇も隙も与えないほどの本当にまっすぐな想い。
 そしてその翌日に待っていたのは二部リーグへの昇格を決める試合だった。春雄が腕を骨折して出場できないために人数不足で出場は辞退するしかないかと思われた。だが、正子は強い意志を秘めた眼で皆にこう告げる。

「あたし、出ます。春雄の代わりにあたしが戦う」

 部員たちの制止もふんどし姿になる(まわしだっつってんだろ!)ということも、正子の決意をくつがえすことは出来なかった。
 そして正子は土俵に上がった。長い髪はちょんまげに結ってごまかし、胸は肩を痛めたということにしてさらしで隠してはいるが、まわし姿の正子が土俵に立っている。
 このシーンの美しさに泣いた。
 単に絵だけを見ればブクブクに太った女の子がまわしを締めて土俵の上にいるだけだ。だがそのシーンに存在する正子の思いが圧倒的なまでに美しいではないか。恋する乙女という称号は美少女だけに与えられる物ではない。不細工な女の子だって恋する乙女になるのだ。でもって、恋する人間は普通なら無理だろということを、時に躊躇もなく軽々とやってしまうのだ。
 そして周防正行という監督の残酷さにも驚いてしまう。「太った」「醜い」「素人」の「女の子」をまわし姿でスクリーンに映し出す。よくもこんなシーンを思いついた。よくもこんなシーンを実際に撮った。いくら本人が納得しているとはいえ、鬼だこの人は。NHKBS2の小津安二郎特集で作品案内に登場して白髪混じりの頭で人の良さそうな口調で話していたが、本当はきっと嫌なヤツだ。そして嫌なヤツで鬼だからこんな美しいシーンが撮れるのだろう。そもそも良い映画を撮る監督ってのはたいがいひねくれ者で嫌なヤツなのだ、多分。
 映画のラストで正子と春雄はつきあい始めて一緒にロンドンに留学するべく旅立つが、脚本と同じく周防正行自身が書いた小説版のラストは大きく違う。春雄は正子の想いに心は打たれるものの、「正子もボクには向いていないと思うんだ」とその正子を受け入れることなくあっさり振ってしまうのだ。
 おそらく周防は映画では観客が望み歓迎するハッピーエンドを選んだが、本当にやりたかったのは小説版のラストだったに違いない。美しいまでに一途な想い、だがそれが相手に通じるか、通じたから結ばれるかは分からない。すごく残酷だよな。
 しかも小説版だと最後の試合で秋平負けてるし。

 そして、正子と対照的な存在の夏子。細身で美しく、おそらくは穴山に憧れており、ひょっとしたら男女の関係であるのかもしれない。だが、その点はあまり描写されないし、そもそも夏子自身の意見というか感情があまり表現されていない。ひたすら一途な想いが描かれていた正子と違い、どうにも何を考えているのか分からない。
 相撲部の名誉マネージャー的立場ではあるが、相撲に愛着がある様子でもなく、穴山が顧問を務めているという理由だけで消極的に相撲部と関わっている。
 自らの強い意志で土俵に上がった正子が対戦相手に負けて打ち倒されたときに、夏子は思わず土俵に駆け上がりそうになるが寸前で気付いて立ち止まる。そしてきちんと土俵を迂回して正子の元へと行く。やはり対照的だ。
 そんな相撲と距離を取っていた夏子が映画のラストでようやく土俵に上がる。土俵の手前で足を揃えて、一瞬止まった後で土俵に上がる。そして、たった一人の相撲部員となってしまった秋平と一緒にシコをふむのだ。
そして一言。
「ついにわたしも、シコふんじゃった。」

 穴山には妻がいて、夏子とは愛人関係。夏子はそれでもかまわないと思っていて、いわゆる日陰の女としてひっそりと暮らしてきた。それが正子や秋平たちの影響を受けて、自分の意志で動き始めた、と考えることも出来るが、そこら辺の描写は映画にないのでオレの憶測。

 とりあえず周防正行にはとっとと次回作を撮ってほしい。『Shall we ダンス?』のアメリカ公開やハリウッドリメイクなどで忙しかったようだがそちらの仕事ももう終わったはず。待たせすぎだぞ。体を悪くしたとかじゃないかと心配したんだから。何で親戚でもない人の健康を気遣わなきゃならんのだ。
 親戚といえば音楽を担当した周防義和とは従兄弟だそうだ。ちなみにオレは最初この「周防(すおう)」という苗字が読めませんでした。「しゅうぼう?すぼう?」てな感じで。

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『天国は待ってくれる』 (1943) HEAVEN CAN WAIT 112分 アメリカ 1992/3/29鑑賞

監督:エルンスト・ルビッチ 製作:エルンスト・ルビッチ 原作:ラズロ・ブッス=フェテケ 脚本:サムソン・ラファエルソン 撮影:エドワード・クロンジャガー 音楽:アルフレッド・ニューマン
出演:ドン・アメチー、ジーン・ティアニー、チャールズ・コバーン、マージョリー・メイン、レアード・クリーガー

 1943年の作品だが日本初公開は遅れに遅れて1990年8月だったようだ。オレが観たのはさらにそれから2年が過ぎた1992年3月29日のこと。池袋にあった名画座というかいわゆる二番館での鑑賞で、同時上映が同じルビッチ監督作品『生きるべきか死ぬべきか』(1942)という豪華二本立てだった。『生きるべきか死ぬべきか』がメインで観に行き、もちろん『生きるべきか死ぬべきか』は「映画を観続ける人生を選んで良かった」と強く思わせる傑作だったが、『天国は待ってくれる』もなかなかに素晴らしかった。入れ替え制ではなかったので結局それぞれ2回ずつ観てそれだけで一日が終わったが、実に有意義な一日の過ごし方だった。

『天国は待ってくれる』でまず一番に語られるべきは、名匠エルンスト・ルビッチ初のカラー作品だということだろう。時代的に考えてテクニカラーで撮影されたのは間違いないと思うがこの色彩の美しさは初めてカラーに挑戦したとは思えず、さすがルビッチとうならせる。
 テクニカラーとは撮影時に一本のフィルムにカラー映像を記録するのではなく、カメラのレンズ後部にセットされたプリズムで同じ映像が三つに分けられ、特殊なフィルターによってそれぞれR(RED:赤)、G(GREEN:緑)、B(BLUE:青)の光線だけが別々に3本のフィルムに記憶される。そして現像したフィルムを処理・加工してカラーのポジフィルムを作成する方法だ。同人誌なので印刷物を作ったことがある人なら、4色印刷の版下作成をイメージしてもらえば近いかも知れない。あれは光の三原色RGBじゃなくて色の三原色+黒のCMYKそれぞれで4枚の版下を作り、それぞれの版下を一枚の紙にそれぞれの色で都合4回印刷することでカラーの図版になる、んだったはず。
 現在のカラー映画フィルムはスチールカメラと同じように1本のフィルムでカラーが撮影できるようになっている。フィルムの使用量は1/3で済むしカメラの構造もより単純になって小型化も容易だ。テクニカラーだとレンズから入った光を三等分するのでどうしても光量不足という問題がついて回るがその点のシビアさも減る。
 では、現在のカラー撮影の方がテクニカラーよりも絶対的に優れているかというと、これがそうでもないから難しい。RGBそれぞれに分けて撮影されたテクニカラーはその色の鮮やかさ、特に原色系の鮮やかさと色の深みでは現行のカラーフィルム以上と言っていいのだ。
 もちろん、テクニカラーというのは技術でしかないからテクニカラー=美しいではなくて、美しい作品もあるし、さして美しくもないのもあるが、極論を言ってしまえばテクニカラーの方がゴージャスで鮮やかな奥行きのある映像になっている。それと比べると現在の映画の映像はやはりくすんでいる。
 テクニカラーの美しさを知りたければ、ビデオレンタル屋に置いてある率が比較的高い『オズの魔法使』(1939)を観てみると良い。魔法の国「オズ」のシーンはテクニカラーで撮影されているが、その美しさには息をのむはずだ。黄色いレンガの道(イエロー・ブリック・ロード)の鮮やかなこと。ジュディ・ガーランドの頬の肌色が瑞々しい若々しさを感じさせてくれる。
『天国は待ってくれる』はその『オズの魔法使』以上の、カラー映画最高の美しさだとオレは思っている。あまり画面の構図だとか光線の具合、そして色の美しさという画像・映像的な部分はまだまだピンとこないオレだが、そんなオレが映画が始まってすぐにその映像の美しさだけでゾゾゾッと来てしまった。二番館での上映だからフィルムの状態もそれなりに劣化していただろがまるで関係なかった。極端なことを言えば映像の美しさだけで感動したのは『天国は待ってくれる』を映画館のスクリーンで観たこの時だけ。
 後にNHKBSかWOWOWで放映されたのを観たが、映写機からの投射と画面自体が発光する映像の表示方法からして違うためかブラウン管で観た『天国は待ってくれる』ではそれほど感動しなかった。だが、東京ですら名画座が壊滅状態で、さらに田舎在住ときては過去の作品をスクリーンで観る機会などほとんどないから、テレビ放映にしろDVDにしろ「観れるだけでもありがたや」なわけだが。

 死後の世界の入り口で死者を天国行きか地獄行きかを決める担当者(閻魔大王みたいなものだ)の元に一人の老人がやってくる。主人公であるその老人を演ずるのはドン・アメチーだ。ジョン・ランディス監督、ダン・エイクロイド、エディ・マーフィー主演の『大逆転』(1983)でダン・エイクロイドたちの立場を入れ替えて賭けをする二人の老富豪のうち丸顔な方がドン・アメチーだ。1908年生まれのドン・アメチーはまだ35歳のため登場時点ではメイクで老人に扮しているのだが、これが見事に後のドン・アメチーそっくりなので笑える。
 担当者からどんな人生だったか話しなさいと言われて主人公は自らの生涯を語り始める。これが清廉潔白とは言えない女好きな好色一代記的な人生だった。しかし、男には妻がいて浮気などで色々と苦労をかけたが、最後には妻に対する愛と妻が自分を愛していることを気付き幸せな時を過ごした。その妻に先立たれた後はまたもや女性遍歴を続けた主人公もついに死んでこうして死後の世界の入り口に立っていた。だから主人公はすでに自分は地獄行きだと覚悟を決めている。
 だが担当者は主人公に意外な言葉をかける。
 ここでようやくタイトルの『天国は待ってくれる(HEAVEN CAN WAIT)』の意味が分かる。

 このラストで感極まって涙がこぼれてしまった。
 たしかに『天国は待ってくれる』はルビッチにとってベストの作品ではない。ルビッチタッチと言われる語り口にも多少精彩を欠いたところがある。
 だがそれがどうしたというのだ。なんと言われようとルビッチだぞ。DVDソフトにすらなっていないのに無理な注文だが、せめてスクリーンで観てから文句を言え。あのテクニカラーの美しさだけで充分おつりがくるぞ。

2006/10/19 追記
2007/02公開で『天国は待ってくれる』という日本映画が公開になるらしい。
「この世で2人が過ごせるのは30日」だとかいうコピーが付いているので、リメイクではないようだ。

人間としてやっていいことと悪いことはある。
そしてこれはやってはいけないことだ。

原作が岡田惠和(幻冬舎刊)という人になっている。調べてみると映画やTVドラマの脚本家なようだ。
amazonで検索したら作品としてはヒットしなかったんで、小説なのかはちょっと不明だがおそらくこれから発売されるのだろう。
ということは原作段階でこのタイトルなのか?小説専門の人ならまだしも、映画の脚本をやってる人間がやっちゃ駄目だろ。恥を知れ、恥を。
映画関係者が『天国は待ってくれる』やルビッチを知らないはずがない。知っててやってるんだからたちが悪い。
マンガ家が未来からネコ型ロボットが来るわけでもない『ドラえもん』というマンガを描いたり、ミュージシャンが落ち込むなよでもなんでもない『ヘイ、ジュード』って曲を作ったりしないだろ。
パロディにもオマージュにもなっていない、単なるパクリなんだろ、こらっ。
それでも、出来た映画が面白ければ許されるのが映画の世界。オレも許す。
監督の土岐善將は新人のようだから判断がつかないが、でもつまんねーんだろうなぁ。馬鹿野郎、あの日のオレは上野の映画館で泣いたんだよ。めったに泣かないオレのその涙を踏みにじって後足で砂をかけやがるんだろうなぁ・・・
 ちなみに『天国から来たチャンピオン』(1978)の原題は同じく『HEAVEN CAN WAIT』なんだが、内容はまったく関係なく、『幽霊紐育を歩く』HERE COMES MR. JORDAN(1941)のリメイク。タイトルもそのままにしとけよ。まっ、しょせんウォーレン・ビーティだしな。嫌いなんだあいつ。

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『生きる』 (1952) 143分 日本
監督:黒澤明 製作:本木荘二郎 脚本:黒澤明、橋本忍、小国英雄 撮影:中井朝一 美術:松山崇 編集:岩下広一 音楽:早坂文雄
出演:志村喬、日守新一、田中春男、千秋実、小田切みき、左卜全、山田巳之助、藤原釜足

 中学時代に学校の講堂で『影武者』(1980)を観せられたオレにとって黒澤明とは予算や人は多く使っているが単に退屈な映画を撮る監督でしかなかった。
 高校時代にテレビで『生きる』が放映されているのをなんとなく観ていた。夜9時から映画劇場ではなく昼間の放映だった記憶がある。その日は家にいたのがオレ一人だったはず。でもって泣いた。

 志村喬演ずる市役所の課長が胃ガンに冒され余命わずかと宣告される。妻はすでに亡くしており同居している息子夫婦からも軽んじられている。色々あったあげくに課長は自らが生きた証として街の子供たちのために公園を作るべく尽力し、そして死ぬ。
 こういうことを言うと怒られるかも知れないが陳腐なストーリーだ。個人的には「だから?」という印象がぬぐえない。
 課長が雪の降る夜の公園でブランコに座りながら「いのち短し恋せよ乙女」を歌っているシーンは名シーンとして知られているが、なんというかオレとしてはシラけた。

 じゃあどこで泣いたのかというと、喫茶店の二階で課長が自分にはまだ出来ることがある、やるべきことがあると悟るシーンだ。席を立って駆け足気味で階段を下りていく課長と入れ違いで若い女性が入ってくる。彼女の誕生会なのだろう、先に席にいた友人たちが「ハッピーバースデー」の歌を歌い出す。この歌が死を間際にして課長が新しく生まれ変わったことを象徴していてつい泣いてしまった。
 このシーンの存在だけでオレは『生きる』を認める。というか、このシーンぐらいしか認めていない。いっそのことそのまま終わって欲しかったぐらいだ。続いて課長の通夜に場面は移って、訪れた弔問客の会話から課長が公園建設のために一心不乱に働いたことが語られるが、そんなことは喫茶店を出て行った時点で観客には分かっているはずだから蛇足と言ってしまってもいいだろう。
 もっとも、この時観たっきりで10数年前の記憶だから間違いもあるかも知れない。
 この「オレだってたまには泣く」シリーズでは各作品とも観返しや読み返しをしているが、『生きる』は観返してみたら泣けなかったになりそうな予感がちょっとしたのであえてしなかった。このまま高校時代の思い出のままとしておくことにする。

 その後、大学に入ってから『用心棒』(1961)や『椿三十郎』(1962)、『七人の侍』(1954)、『隠し砦の三悪人』(1958)などをリバイバルで観て面白がったり楽しんだりして、『夢』(1990)や『八月の狂詩曲』(1991)、『まあだだよ』(1993)を観て怒ったりした。
 『影武者』や『乱』(1985)も観直したが、やはり退屈なだけだった。
 前にもちょっと書いたが、黒澤明はB級映画監督として非凡な才能を持ちながら、A級映画監督になってしまったのが悲劇なのだろう。

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『センチメンタル・アドベンチャー』 (1982) HONKYTONK MAN 123分 アメリカ

監督:クリント・イーストウッド 製作:クリント・イーストウッド 原作:クランシー・カーライル 脚本:クランシー・カーライル 撮影:ブルース・サーティース 音楽:スティーヴ・ドーフ
出演:クリント・イーストウッド、カイル・イーストウッド、ジョン・マッキンタイア、ヴァーナ・ブルーム、マット・クラーク

 この文章を書くために『センチメンタル・アドベンチャー』を観直して気持ちがへこんだ。そこから復活するまで3日を要した。
 つらいよね、切ないよね、心の奥底を打ちのめされるよね。美しい映画だが鬱が入ってるときに観る作品ではないな。

 時は大恐慌時代のアメリカ。とある西部の農家に砂埃を巻き上げる強風が吹いてくる。そしてその風とともに自動車に乗って現れるのが各地を転々としながら流しのカントリー歌手(HONKYTONK MAN)として生きているレッドだ。このオープニングですでに背筋がゾクゾクしてくる。
 テネシー州にあるカントリー&ウエスタンの聖地ナッシュビルで開催される音楽の祭典「グランド・オールド・オープリー」のオーディションから声がかかったレッドは旅費を無心するために姉夫婦の元を訪れたのだ。
 肺を病んで調子の悪そうなレッドを心配した姉は息子の少年ホスを運転手も兼ねて同行させることにする。さらに姉夫婦の夫側の父親、つまりホスの祖父が「テネシーに戻って向こうで死にたい」と言い出したため3人を乗せた車はナッシュビルに向かって走り出す。

『センチメンタル・アドベンチャー』という甘甘なタイトルが付いているが、原題は『HONKYTONK MAN』だ。作中の歌詞では「しがない流し」と翻訳されている。Rolling Stonesに『HONKYTONK WOMEN』という1969年のヒット曲がある。タイトルを決める際にまったく無関係だったということもないだろう。何らかの影響はあったに違いない。『センチメンタル・アドベンチャー』には脚本も手がけたクランシー・カーライルの原作があるが、こちらもタイトルは『HONKYTONK MAN』なんだろうか?
 HONKYは黒人から白人に対する蔑称で、あえて訳すならば「白んぼ」だろうか。HONKYTONKで白人向けの安酒場の意味になり、そこから転じて安酒場で演奏されるような安っぽいジャズやカントリー音楽のことを指すそうだ。
 作品自体も「センチメンタル」という言葉から一般的に連想されるような甘ったるさはほとんどなく、むしろシビアでつらい。

 主人公はクリント・イーストウッド演ずるレッドではなく、実の息子カイル・イーストウッドが演ずるホスだ。西部の貧乏農家で生まれ育ったホスが荷物を下ろすためにレッドの自動車に乗り込み運転席に座って実に嬉しそうにハンドルを握ってみる。そして助手席に落ちていたレッドのカウボーイハットを頭に乗せ、後部座席にあるギターケースを開けて砂埃だらけの車の中で唯一きらきらと磨きがかかったギターの弦をつま弾く。この短いシーンの中に、少年が綿花詰みという地味な仕事をしている父親と比べて自由かつ華やかに生きている叔父のレッドに憧れていること、まだ見ぬ広い世界への思い、そして自らも貧乏農家を飛び出して歌手になりたいという夢が描かれている。それらの夢や思いがナッシュビルへの旅の中で現実とぶつかり、少年が男へと成長していく様子が描かれるのだ。

「テネシー州で死にたい」と言ったのはホスの祖父だが、これは根深い結核を病んだレッド自身のセリフでもあるだろう。
 オーディションに出てオープリーに出場するためにナッシュビルに来た。そのオーディションを聴いたレコード会社の人間から申し出があって念願のレコード録音を行った。しかし、何よりも死に場所を求めてレッドはナッシュビルに来たのではないか。
 レコーディングの最中にレッドが咳き込んで苦しむが、すかさずバックバンドのミュージシャンがヴォーカルを引き継いでレコーディングは途切れずに進められる。スタジオの隅で汗を流しながら苦しむレッドの姿と回り続ける録音用レコードの対比がなんとも怖ろしく、それゆえに素晴らしい。
 レッドの最後は何を格好いい事を言うでもなく、ありがちなメロドラマでもない。レッドたちにつきまとってきた娘マリーンに昔愛した女性メリーの幻を見て「メリー、愛してる」と告げそのままあっけなく息を引き取る。これがなんともドラマチック。
 金がないためにレッドの墓石も建てられずただ墓穴を掘って棺桶を埋めるだけ。この埋葬のシーンでホスがギターを弾いて追悼の歌を歌うところでオレは泣く。黒人の墓掘りが帽子を胸に当て、そしてホスと一緒に歌う。これで余計と泣く。墓掘りはこのシーンにしか登場しない通りすがり的人物だが、この墓掘りを始めとして端役の使い方が実に上手い。

 あちこちが故障してヘッドライトも一つしかなかった自動車はレッドの埋葬とともについに動かなくなった。
 レッドのギターだけを形見に、ホスは両親の待つカリフォルニアへと自分の足で歩き出す。
 その旅に付いてくることになったマリーンは酔っぱらったレッドと一夜を共にしているが、ひょっとしたらレッドの忘れ形見をお腹に宿しているのかもしれない。
 そして、若い男女が乗った車のカーラジオからレッドの歌が流れてくる。

 留置所からの脱獄シーンや警官とのやり取りなど中盤までは笑わせてくれるシーンもあるが、全体的に抑揚を抑えたイーストウッドの演出が逆に観客の心に強く訴えてくる。
 8?10日の3連休にオレの母親がやってきていて、DVDで韓国のドラマを見ているのが目に入った。頭から韓国ドラマを否定する気はないが(というかそもそもまったく興味がない)、ああいう「これでもかぁぁ。お前ら泣けぇぇ」という暑苦しいドラマ作りでは決して到達し得ない地点にイーストウッドはいるのだろう。
『センチメンタル・アドベンチャー』はイーストウッドが死ぬという珍しい作品でもある。他にはたしかもう一作あっただけ。そちらの死に方は『センチメンタル・アドベンチャー』以上に情けない。
 カイル・イーストウッドは俳優としては芽が出なかったがジャズ・プレイヤーとして活躍中だそうだ。ジャズファンとして有名なクリント・イーストウッドの趣味を受け継いだのだろう。『シークレットサービス』ではピアノを披露し、ジャズサックスプレイヤー、チャーリー・パーカー最後の数日間を描いた『バード』(1988)を撮った。ドキュメンタリー映画のの『ピアノ・ブルース』(2003)に至ってはイーストウッドが趣味全開で撮ったほぼ自主映画的作品だ。レイ・チャールズなどの有名プレイヤーに会ってはしゃいでいるイーストウッドジジイがかわいい。

 この作品には酒場やラジオ局で歌っている人々が何人も登場するが、なんでも有名ミュージシャンが顔を揃えていてファンにはそこも楽しみの一つらしい。墓掘りの黒人もそうなのだろうか?オレはそちらの方は全然分からないので残念といえば残念。

 この作品は「ロード・ムービー」としてジャンル分けされていることが多いが、個人的には「ロード・ムービー」ではないと思っている。そもそも旅映画や道中物ではなくロード・ムービーという呼び名が付いてしまうとどうもそこに叙情的というか感傷的というか一定の意味合いというか映画の存在が固定されてしまう。そこが嫌いだ。感傷的=センチメンタルだが、センチメンタルとタイトルに付いている物の感傷どころかすごくシビアな視点だぞこの映画は。
 少年が叔父と一緒にナッシュビルを目指して旅をするという粗筋だけを見て単純にロード・ムービーに分類されているようだが、だったら『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズもロード・ムービーか?フロドたちが滅びの山目指して旅するぞ、あれ。

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『狼/男たちの挽歌・最終章』 (1989) 喋地雙雄/THE KILLER 111分 香港
監督:ジョン・ウー 製作:ツイ・ハーク 脚本:ジョン・ウー 撮影:ウォン・ウィンハン、ピーター・パオ 音楽:ローウェル・ロー
出演:チョウ・ユンファ、ダニー・リー、サリー・イップ、ケネス・タン、チュウ・コン

 一流の殺し屋が殺しの現場に居合わせた女性歌手をかばいながら拳銃を発砲するが、彼女の顔が銃口近くにあったために目を傷つけて視力をほとんど失い失明状態になってしまう。
 彼女を影から見守っていた殺し屋は、チンピラがバッグを引ったくろうとしたところを助けたことで彼女と会話を交わすようになり、二人は次第に近づいていく。
 そんな殺し屋と歌姫の美しく悲しい愛の物語だ。

 港でボートレースが開催され、来賓として出席した要人を殺し屋が狙う。要人といっても裏ではあくどいことをしている影のボスだ。その要人を警護するのが腕利きだが独自先行とやり過ぎで警察上層部からの受けが悪い刑事だ。要人を狙撃して逃走した殺し屋を刑事は追いかけ、一度は追いつめる物の取り逃がしてしまう。刑事は執念で殺し屋を追い続ける。
 そんな殺し屋と刑事の奇妙で熱い絆の物語だ。

 殺し屋と刑事はそれぞれ相手のことを認め合ったプロ同士だ。
刑事「一緒に戦ったが君の名字も知らん」
殺し屋「友達に名前が必要か?」
の会話が泣ける(予告編がたしかこうだった)。
 ただし、現行のGeneon版DVDだと字幕が違っていて今一つ。英語なら繰り返し再生してなんとかヒヤリングもできるが広東語では手も足も出ない。どちらが正解なのだろうか。

 脚本段階では刑事も歌姫のことを好きになって三角関係の物語だったそうだ。しかし、歌姫役のサリー・イップのスケジュールが充分に取れなかったために映画のストーリーになったらしい。サリー・イップの都合が付かなかったのは偶然だが、そのアクシデントを活かしてより素晴らしいストーリーにしてしまうところにジョン・ウーのすごさと当時の香港映画の柔軟性を感じる。
 殺し屋と歌姫の愛、そして殺し屋と刑事の絆。これだけでかなりお腹一杯なのにさらに三角関係まであったとしたら映画としても観客も消化しきれない。

 犯罪組織のボスに歌姫を人質に取られてのにらみ合い。
 刑事が殺し屋に「忘れるな、友達はいつも後ろにいる」と告げる辺りで泣いてしまう。
 ラストの銃撃戦が改修中の教会で繰り広げられるという舞台設定、砕け散るマリア像、飛び交う白い鳩。その後ジョン・ウーのトレードマークとして記号化されてしまった白い鳩だがこの作品では演出上有用な意味を持っている。
 暑苦しいのは嫌いだがジョン・ウーの暑苦しさは何故か好きだ。チョウ・ユンファやダニー・リーがうぉぉぉと叫ぶのも好きだ。

 ジョン・ウー作品ではこの『狼/男たちの挽歌・最終章』がオレとしてはベストだ。ちなみに『ハードボイルド/新・男たちの挽歌』もベスト。ベストなのに2本あるが気にするな。

 最初のDVDはカルチャー・パブリッシャーから発売されていたがこれが画質がかなり悪い。後にGeneonから発売されて画質はかなり改善されたのだが、かわりにカルチャー・パブリッシャー版に収録されていた日本語吹替音声がなくなってしまった。広東語音声もこもったようなすっきりしない音になっている。画質でプラス、音質でマイナス。
 現状で一番良い鑑賞方法はDVDプレイヤーを2台用意して、Geneon版の画面を再生しながらもう一台でカルチャー・パブリッシャー版の音声を流すことだろうか。
 そういえば國村隼が『ハードボイルド/新・男たちの挽歌』に出演したときにもらったんだっていってジョン・ウーのサイン入り『狼/男たちの挽歌・最終章』のレーザーディスクを薬丸に見せびらかしてたな。マスター次第だろうけどLDの画質・音質はどうなんだろうか。ラストの銃撃戦はやっぱ迫力のある良い音で観たいよなぁ。まあ今さらLDのハードやソフトに手を出す気はないんで、DVDはもう現行のままだろうから、ブルーレイディスクなりHDDVDでソフト化されるのを待つか。

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『バニシング・ポイント』 (1971) VANISHING POINT 106分 アメリカ
監督:リチャード・C・サラフィアン 製作:ノーマン・スペンサー 製作総指揮:マイケル・ピアソン 原案:マルコム・ハート 脚本:ギレルモ・ケイン 撮影:ジョン・A・アロンゾ 音楽監修:ジミー・ボーウェン
出演:バリー・ニューマン、クリーヴォン・リトル、ディーン・ジャガー、ポール・コスロ、ボブ・ドナー、ティモシー・スコット

 その昔、テレビの洋画劇場、それもゴールデンタイムではなく平日の昼間や深夜枠で年に一度は放映されていた定番作品。
 主人公コワルスキーは車の運び屋を職業にしている。ダッヂチャレンジャーをデンバーからサンフランシスコまで届ける仕事を受けた時に、15時間でサンフランシスコまで走りきれるかというちょっとした賭けを麻薬のディーラー相手にする。デンバーといえばアメリカ中西部にあるコロラド州の街。地図で調べてみると直線距離でおよそ1500km。こんなシチュエーションの映画を『キャノンボール1、2』や『激走!5000キロ』が大好きなガキだったオレが観ないはずがない。で、観終わった後は「?」マークが頭の上に浮かんでいた。『バニシング・ポイント』を面白く感じるようになったのは大学生になってからだった。

 オープニングの荒野の中を真っ直ぐに道路が伸びていて、そこですれ違った2台の車がストップモーションになり片方がゆっくりを消えていく。このシーンですでに泣きが入る。
 ダッヂを操って西部の道をひたすら走る内にスピード違反などで警察に追われ、ラジオ番組やテレビで取り上げられ、コワルスキーはちょっとした有名人になる。だがコワルスキーは何も語らない。ただ走るだけ。
 走り続けるコワルスキーの過去が回想シーンとして画面に登場する。その昔、車やバイクのプロレーサーだったこと、警官だった時期もあること、愛し合った恋人がいたこと、そしてベトナム戦争の勇士だったこと。そう、この作品はなによりもベトナム帰還兵映画なのだ。
 人生を失い行き場を失った男が目指すのはバニシング・ポイント、消失点だった。それは自殺に似ているが厳密には自殺とは違う。コワルスキーは死んでしまいたいとうよりも自分の人生と自分という存在を消したいのだろう。生きていることに意味が感じられないのならばそのまま消えてしまおう。そんな思いではないだろうか。
 いや。いやそれも違う。コワルスキーは単に走り続けたかっただけだろう。もしも道路が封鎖されずにサンフランシスコまで到達して、さらに太平洋を突っ切って道が伸び続けていれば、そしてどれだけ走っても燃料切れにならない魔法のガソリンタンクが搭載されていたら、コワルスキーとドッヂはどこまでも走り続けたに違いない。

 ブルドーザーなどで封鎖された道路とそれを目にしてもスピードを弛めないドッヂ。前を真っ直ぐに見つめるコワルスキー。もはや行き場のなくなった男が己に対しての決着の付け方にオレは泣く。

 砂漠で毒蛇を捕まえている老人、アメリカンバイク乗りとヌードのバイク娘などコワルスキーと関わる脇役たちがまた良い。登場シーンは少ないがその言動などが印象に残る。中でも盲目の黒人ラジオDJスーパーソウルは素晴らしいキャラクターだ。コワルスキーとは一度たりとも顔を合わせず、ラジオ放送を通じてスーパーソウルがコワルスキーに語りかけているだけなのだがそこに明らかな心の通じ合いが感じられる。

 批評や分類ではニューシネマとなっていることが多いが、1971年という製作年度や粗筋だけしか見ていないのではないだろうか。
 ニューシネマについてはいずれ書くこともあるだろうが、基本的にニューシネマとはハリウッド映画が迎えた反抗期にすぎない。それも金持ちで社会的地位もある名家のボンボンがいたとする。小学校の頃からいつも学級委員をやっていて勉強も出来る、そんなボンボンが中学校の上級学年か高校に入った辺りで社会や人生に疑問を感じてロックを聴いたり妙に小難しい本を読み始める。それでいてご飯はちゃんと家に帰って母親に作ってもらった物を食べ、CDや本を買うお金は親からもらったお小遣い。そんな居心地の良い場所を手放さずに安全圏に身を置いたままという虫の良い反抗期だ。
 ニューシネマといいながらハリウッド映画に保護された範疇で映画の革命を起こそうとしているのだから甘ったれにも程がある。だからこそ本当の意味でのアメリカン・ニューシネマは、ジョン・カサヴェテスがハリウッドという土地と資本を飛び出してニューヨークで撮った「ニューヨーク・インディペンデンス映画」が始まりとなるだろう。

 回想シーンの中でもコワルスキーは決して恨み言や不平不満、グチを口にしない。
 その点からも、この作品が「アメリカン・ニューシネマ」などではないことが分かる。
 アメリカン・ニューシネマとは『俺たちに明日はない』(1967)や『卒業』(1967)などの「うだうだぐだぐだとグチばっかり」な一連の玉なし映画のことであって、『ワイルド・バンチ』(1968)がアメリカン・ニューシネマではないのと同じく『バニシング・ポイント』も断じてアメリカン・ニューシネマなどではない。
 あえて言うなら男の映画だ。

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『浮き雲』 (1996)  DRIFTING CLOUDS/KAUAS PILVET KARKAAVAT 96分 フィンランド
監督:アキ・カウリスマキ 製作:アキ・カウリスマキ 脚本:アキ・カウリスマキ 撮影:ティモ・サルミネン、エリヤ・ダンメリ 音楽:シェリー・フィッシャー
出演:カティ・オウティネン、カリ・ヴァーナネン、エリナ・サロ、サカリ・クオスマネン

 アキ・カウリスマキらしい淡々とした静かな作品。カウリスマキであってカルメン・マキではない。なんのこっちゃ。

 つつましやかに暮らすフィンランドの夫婦が、長年の夢であったレストラン開店に向けて様々な苦労をするといったお話。ハリウッド映画や日本映画(*)だとその苦労話が「これでもかぁぁ。これでもよぉぉ」とばかりに暑っ苦しく語られるのだろうが、カウリスマキの語り口はあくまでも静かだ。
 だからといって登場人物の感情が表現されていないわけではない。じっくり味わえば主人公だけではなく脇役までも心の中に秘めた熱い感情が見て取れるはずだ。
 そして常に登場人物を突き放している監督の視線が心地よい。それゆえにどんな不幸のどん底も一種のギャグになる。登場人物に入れ込まずに客観的に突き放して描くのはアキ・カウリスマキの作風において最も重要な点だろう。カウリスマキにとって、主人公が不幸の底の底まで落ちた『マッチ工場の少女』(1990)と、運に見放された主人公が自殺を計っても失敗続きでなかなか死ねないブラック・コメディ『コントラクト・キラー』(1990)は本質的に同じなのだ。
 だから、やっとのことでレストランをオープンしたのに閑古鳥が鳴いていて、それが何か特別な宣伝をしたわけでもないのに次第にお客が増えてきて最後は満員の盛況になる。夫婦は店の外へ出て、幸せを感じながら青い空を見上げているラストシーンは見た目ほど単純じゃない。まったく客が入らないまま閉店を余儀なくされて夫婦揃って首を吊るというラストが用意されていたとしてもカウリスマキの場合少しも不思議じゃないのだ。
 だからこそオレはこの作品のラストで泣いてしまうのだろう。感動とは少し違う、情感とでも言えばいいのであろうか、物語に役者の演技に、そしてなによりもカウリスマキの語り口に泣いているのだ。

*:これは「最近の日本映画」と言った方が正解に近いだろう。『浮き雲(DRIFTING CLOUDS)』というタイトルは成瀬巳喜男の『浮雲(英語タイトルはFLOATING CLOUDSだそうだ)』(1955)から取ったらしいし、アキ・カウリスマキ作品からは小津安二郎からの多大な影響が明らかに感じられる。成瀬の『浮雲』も話はベタなんだが圧倒的に美しい。それらの美しさや魅力はなぜ今の日本映画は作り出せないのだろうか?
 おそらく、昔の日本映画が優れていたのではなくて、小津や成瀬、溝口などの優れた映画監督がたまたま日本映画界にいただけなのだろう。ひょっとしたら「日本映画」という物は便宜上の言葉としてしか存在しないのかもしれない。

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『デッドゾーン』 (1983) THE DEAD ZONE 103分 カナダ
監督:デヴィッド・クローネンバーグ 製作:デブラ・ヒル 製作総指揮:ディノ・デ・ラウレンティス 原作:スティーヴン・キング 脚本:ジェフリー・ボーム 撮影:マーク・アーウィン 音楽:マイケル・ケイメン
出演:クリストファー・ウォーケン、ブルック・アダムス、マーティン・シーン、ニコラス・キャンベル、トム・スケリット

 スティーヴン・キングの同名原作ももちろん面白いが、キング作品の映像化としてはこのクローネンバーグ監督による『デッドゾーン』がベストだと考えて映画の方を取り上げた。ちなみにキング映像化作品のオレ的次点は『地獄のデビルトラック』だ。

 交通事故により昏睡状態に陥り、医者にも家族にも回復は不可能と思われていた男(クリストファー・ウォーケン)が5年の月日を経て目を覚ます。目覚めた彼は以前は持っていなかったある不思議な力を身につけていた。それは他人や物に触れることによって相手の過去や現在、そして未来が見える千里眼だった。
 彼は事件を解決したり予知で人の命を救うが、その力は人々を感謝させるよりも彼を怖れさせることとなった。
 そして男は家に閉じこもって外出もせず、世捨て人となってしまった。そんな彼がある野心的な政治家と握手したことで、その政治家が将来引き起こす災厄について知ってしまう。だが、そのことが分かるのは彼一人。人に言っても信用されるはずもない。そして男はある決断をするのだった。

 原作では他のキング小説と密接に関わる事件があり、他の小説の主人公が端役で登場したりその事件が語られるいわゆるキングワールドが展開されるが(キングが生み出した最大のキャラクターとも言える架空の街キャッスル・ロックが登場する)、映画ではその辺りをばっさりとカットしている。文庫本で上下巻計700ページ以上を103分の映画にしているのだから使うシーンとカットするシーン、そして使いたいのだが様々な事情によりカットするシーンがあるのが当然だ。原作から映画にふさわしいシーンを選び出す点においてこの映画の脚本は実に優れている。
 映画にとって原案は存在するが原作は存在しないというのが個人的考えだ。どれだけ忠実に映像化しても原作小説とは違う物になってしまうのだから、最初から原作は原作、映画は映画という考えで別物として作った方が良いだろう。

 平凡な国語教師(アメリカが舞台なのでこの場合の国語とは英語のこと。アメリカ文学の古典『スリーピー・ホロウ』について授業で教えているシーンが冒頭にある)が交通事故によって5年という歳月を失ってしまう。男にとってそれ以上に大きいショックは、愛し合っていた恋人が自分の元を離れて他の男と結婚して子供まで産んでいたということ。
 だが、それだけならばまた改めて人生の再スタートを切ることも出来ただろう。しかし、彼が身につけた千里眼の能力はその助けどころかむしろ妨げになってしまう。人を助ければ助けるほど人々から怖れられ疎まれる。そんな彼が、「自分にこの能力があるのは、近い将来に起こるこの災厄を防いで世界を救うためだったのだ」と気付くシーンで泣いてしまった。(『1+1=0 いちたすいちはれい』で主人公の石綿が心霊能力を持って生まれてきたことの意味を悟るシーンと少々似ている)勇壮な音楽が流れて盛り上がるシーンではなく、苦渋を噛みしめるクリストファー・ウォーケンのつらい表情が印象的だ。もしも他の人物が演じていたとしたら泣くほど心は打たれなかっただろう。キャスティングも見事だ。政治家役のマーティン・シーンも誠実そうな顔の裏に強い権力志向がにじみ出る好演をしている。マーティン・シーンはいくつものテレビシリーズで政治家役を演じているそうだ。『ホワイトハウス』(1999?)というシリーズでは大統領を演じて好評だとか。『デッドゾーン』を観た後だとなんかボタンを押しそうでちょっとイヤだ。

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『アメリカの友人』 (1977) DER AMERIKANISCHE FREUND 126分 西ドイツ・フランス
監督:ヴィム・ヴェンダース、製作:ミヒャエル・ヴィーデルマン、原作:パトリシア・ハイスミス 脚本:ヴィム・ヴェンダース 撮影:ロビー・ミューラー 音楽:ユルゲン・クニーパー
出演:デニス・ホッパー、ブルーノ・ガンツ、ジェラール・ブラン、ダニエル・シュミット、ニコラス・レイ、サミュエル・フラー

 制作されたのは1977年の作品だが、1987年の中頃にリバイバル公開された。当時、大学のシネマ研究会の1年生だったオレは、先輩たちが「『アメリカの友人』は面白いな」「すごいな、あれは」という話を耳にはさんで取りあえず映画館に向かった。ヴェンダースって誰?デニス・ホッパーは知ってるけど、ブルーノ・ガンツって誰?ロボコンの先生?それはガンツ先生か。
 今みたいにネットでちょちょちょいのちょいと調べることが出来ない時代だったので、先輩たちが話していた評価だけを材料に観に行った。オレもその頃はフットワークが軽かったのだ。
 さして下調べをしていなかったので、10年前の作品だとは知らず、映画が終わるまで最近の作品だとばかり思っていた。実際、古さを感じさせない画面だ。今にして思えば、「ブルーノ・ガンツ若いっ!」なのだがブルーノ・ガンツを知らなければ意味がない。デニス・ホッパーはあまり老けない人なので製作年度の参考にはならないし。
 冒頭でいきなり贋作画家として登場するのが傑作『夜の人々』や『大砂塵』のニコラ・レイで、結構セリフもあるのだがそれもちゃんとこなしていて味のある老人役を演じている。
 名監督の特別出演としては、主人公たちが狙う犯罪組織のボスを演ずるのがサミュエル・フラー。セリフはまったくなく(確か一言もしゃべらなかった記憶があるが間違いかも)、ただその存在感で画面を圧倒してくれる。白髪がカッコいい。他にはダニエル・シュミットも出ているようだが、どこでどの役かは不明。というより顔を知らん。

 映画はパトリシア・ハイスミス原作の映画化で、『太陽がいっぱい』や再映画化の『リプリー』の主人公トム・リプリーシリーズの一作になる。パトリシア・ハイスミスは同じ主人公によるシリーズ物が好きではなく、ただ一つの例外がこのトム・リプリーシリーズだそうだ。
『アメリカの友人』でトム・リプリーを演ずるのはカウボーイ・ハットをかぶったデニス・ホッパー。原作も 翻訳版で出版されているが、こちらだとあくまでもトム・リプリーが主人公。
 映画は原作通りではなく原案レベルに止めて、リプリーがオークションに出した贋作を偽物だと見抜いた額縁職人のヨナタンに焦点を当て、彼を主人公にしている。
 人を殺したことなど無い、それどころか前科もない殺し屋を捜していたリプリーは、白血病を患っているヨナタンに、このままでは死期が近いので高度な医療を受ける必要がある。そのためには大金が必要だが、ある男を殺してくれたら大金と与えさらに最高の医者を紹介しようと持ちかける。
 悩んだ末に(悪党側いわく)簡単な仕事を片付けたヨナタンは泥沼にはまっていく。リプリーとヨナタンはお互いに奇妙な友情を感じあっていたため、リプリーは彼を救おうとするが、すでに動き出した歯車は簡単には止まらなかった。

 ハリウッド映画ともフランス映画とも違うこの西ドイツ映画は淡々と、ひたすら淡々と進んでいく。列車での殺害シーンがスリリングではあるが、それもこの映画の静けさを乱すほどではない。

 終盤近くの、走行中の赤いフォルックスワーゲンビートル(旧型)の中でヨナタンとその妻が会話するシーンでなく。ヨナタンは間近に迫った死から逃れられないことを感じつつも嘆き悲しむでもなく喚き叫ぶでもなく、ただひたすらに静かだ。ヨナタンが殺しという仕事に手を染めたのも、自らを延命するよりも妻と子供のためだった。
 実に美しく、そして悲しい。

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『インデペンデンス・デイ』(1996) INDEPENDENCE DAY(ID4)145分 アメリカ
監督:ローランド・エメリッヒ 製作:ディーン・デヴリン 製作総指揮:ローランド・エメリッヒ、ウテ・エメリッヒ、ウィリアム・フェイ 脚本:ディーン・デヴリン、ローランド・エメリッヒ 撮影:カール・ウォルター・リンデンローブ 視覚効果:ヴォルカー・エンジェル、ダグラス・スミス 編集:デヴィッド・ブレナー 音楽:デヴィッド・アーノルド
出演:ジェフ・ゴールドブラム、ウィル・スミス、ビル・プルマン、メアリー・マクドネル、ジャド・ハーシュ、ロバート・ロジア、ランディ・クエイド

『オレだってたまには泣く 映画編』をどの作品でスタートするかはさんざん迷った。オレにとってのホームグラウンドはやはり映画なので、コミックや小説について書くときよりも肩に力が入ろうと言うものだ。いかにもな名作というのも芸がないし、かといって変化球過ぎるのも狙っているようで嫌だ。
 で、考えたあげくが『インデペンデンス・デイ』だ。
 何故?何故に?とは自分でも思うが、映画館で『インデペンデンス・デイ』を観たときに本当に泣いたのは事実。その後も観る度に泣いているのは事実。いつかは書かなければならないのならば、いっそのこと面倒くさいことは最初に片付けてしまう。おそらくはそんな理由だ。

『インデペンデンス・デイ』自体はところどころにバカ映画を感じさせつつもアホ映画にしかなっていない。まあ、不真面目に観ると楽しいが作品としての評価は高くないだろう。
 オレにとって基本的にどうでもいい作品なのだが、DVDまで買ってしまったのはある登場人物が様々なことにケリをつけるシーンのためだ。
 その人物とはベトナム戦争帰りの元空軍パイロットのラッセル・ケイス(ランディ・クエイド)だ。連れ子を持つ女性と結婚したがどうやら死別したらしく、義理の息子と娘、そして実の息子1人の父親である。現在は赤いレプシロ機で農薬散布の仕事などをやっているがアルコール依存症(アル中)を患っているようだ。
 ラッセル・ケイスは「宇宙人に誘拐(アブダクション)された」と主張している。周りの人間やマスコミは頭のおかしくなった男の妄言としか思っていなかったが、ある日地球に飛来した何隻もの巨大な宇宙船が人類に攻撃を仕掛けた。こうして宇宙からの侵略者と人類の絶望的とも思える戦いが始まったのである。

 ラスト近く、人類はある手段で宇宙人が船体に張り巡らせたバリヤーを短時間の間だけ無効にすることに成功し、ミサイルなどの物理攻撃が通用するようになる。円形をした巨大な宇宙船の底部にある破壊光線発射口が開く。ラッセル・ケイスはそこにミサイルを撃ち込もうとするが故障のためミサイルが不発。コックピットに挟んだ子供たちの写真を見たケイスはある決心をし、管制官へ子供たちに愛していたとの伝言を頼む。
 ここまでは「ああ、またかぁ」とオレはシラケきっていた。またぞろ安易な「自己犠牲」の出番ですか。ちょっとは工夫しろよ、とっくの昔に厭きてるっつーの。
 ところが、ケイスがヘルメットからエアマスクをもぎ取ったところから状況は一変する。マスクを外すと同時にケイスにとって子供たちのこともアメリカのことも人類のこともどこかに行ってしまう。ただ存在するのは自分の人生をメチャメチャにした宇宙人と自分だけ。
 宇宙人から借りを返してもらうため(paybackとのセリフがある)、ケイスは宇宙船へと乗り込んでいく。それは「命がけの特攻」などではなく、以前連れ去られた場所へと戻っていくだけ。(「Hello,boys! I'm back!」とのセリフあり)
 命を捨てるとかはもうどっかへ飛んでいってしまって、単に片を付けることしかもう頭にない。このアル中飛行機オヤジの自分勝手さに毎回泣いてしまうのだ。
 賭けても良いが、ケイスの頭の中には最後には自分のことだけで、子供のことも人類のこともないだろう。

 宇宙人はロズウェル事件などで以前から地球に目を付けて偵察隊を送り込んでいたということになっている。しかし、ラッセル・ケイスはその偵察隊にアブダクションされてはいないのかもしれない。
 ベトナム戦争で傷つき、負けた戦争ゆえに故郷に帰っても英雄どころかランボー(1作目)のような扱いを受け、愛し合って結婚した女性も死んでしまった。そんな彼が「俺の人生はこんなんじゃない。本当はもっと素晴らしいはずだ」というジレンマから逃避する手段として、宇宙人に誘拐されたという妄想を頭の中に作り出したのではないだろうか。その逆恨みの矛先にされたのでは宇宙人もたまったものではないだろうが、連中の狙いは人類滅亡・地球搾取だったので別に同情の必要はないだろう。
 本当のところはエメリッヒにでも聞かないと分からないが、映画を観てオレが感じた意見はそれだ。そしてその考えの方がオレとしては燃える。
 とにかく、ラッセル・ケイスの行動は特攻などではないし、ましてや自己犠牲ではないというのが個人的結論だ。

『星の王子さま』 サン=テグジュペリ 岩波書店

 小説編のために引っ張り出した資料本を本棚に戻している最中に、並んでいる本の中で明らかに浮いている一冊があった。それがこの『星の王子さま』だ。よりによってコリン・ウィルソンと並べとくことはないだろうに。あっ、そういう配置にしたのはオレか。
 別に深い意味があるわけではなく、この本はハードカバーなのでサイズが同じ本同士で揃えただけ。

 2,3年前のことですら大まかにしか憶えていないオレにとって、『星の王子さま』を始めて読んだ小学校3年生かひょっとしたら2年生の時分の出来事など、ティラノサウルスが大地を闊歩していた白亜紀とさして違いがない。
 だが、話の語り手である「ぼく」と「王子さま」の別れが近づいたシーンでその別れを予感して泣いてしまったことはかろうじて憶えている。さすがに今読み返してみても泣けなかったが大昔のオレは泣いた。そんな時代もあったのだ。

 最近では版権が終了したとかで他の出版社から新訳版も出ているがそちらは読んでいない。岩波書店の内藤濯翻訳版では1ページ目からいきなり「ウワバミ」という単語が出てきて、これに「大きなヘビ」とも何とも注釈がないために意味が分からなくて面食らってしまった。「ウワバミ?・・・校舎の中で履くヤツか。それはウワバキだな」と当時思ったのを憶えている。うむむ、基本的にオレってヤツは進歩してないな。
 山猫か何かを飲み込もうとしているウワバミの挿絵があるのだが、ヘビというよりも謎の怪奇生命体にしか見えない。新訳版での表記はどうなっているのだろうか。内藤訳版で満足しているので今さら他の翻訳で読む気はないがそれだけはいずれ確認しておきたい。

 子供の頃、母親が家の一室を利用して家庭文庫を開いていた。近所の子供を対象とした小型の私設図書館だと思ってもらえばさほど間違いはないだろう。
 そのおかげで、小学校に入る前から読む本がまわりに溢れかえっていた。『星の王子さま』もその中の一冊。小学校高学年ぐらいの子供に人気があって、何度もページが開かれたため痛んできたのを図書用テープで補修してあった。
 今手元にあるのは大学時代になんとなく買ったもの。何で買う気になったのは2,3年前のことですら大まかにしか憶えていないオレにとって、もはや思い出そうとしても思い出せやしない。

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