« 2005年08月 | メイン | 2005年10月 »

2005年09月 アーカイブ

2005年09月09日

『マックQ』 重心を保ったままジョン・ウェインはゆっくりと歩く

B00092QSAK.jpg
『マックQ』(1973) McQ 112分 アメリカ

監督:ジョン・スタージェス 製作:ジュールス・レヴィ、アーサー・ガードナー、ローレンス・ロマン 脚本:ローレンス・ロマン 撮影:ハリー・ストラドリング・Jr 音楽:エルマー・バーンスタイン
出演:ジョン・ウェイン、エディ・アルバート、ダイアナ・マルドア、コリーン・デューハースト、クルー・ギャラガー

『ダーティハリー』(1971)の世界的大ヒットをにある意味では便乗して製作された刑事映画。主演のジョン・ウェインは『静かなる男』(1952)や『ドノバン珊瑚礁』(1963)など現代劇でも活躍しているが、それらと同じくジョン・フォードが監督した映画史に散々と輝く至宝『駅馬車』(1939)など西部劇における保安官やカウボーイ、そしてガンマンを演じている。
 他には『硫黄島の砂』(1949)や『史上最大の作戦』(1962)など戦争物で兵士役もあり決して西部劇専門ではなかったのだが、私たちの印象はやはり『西部劇のジョン・ウェイン』である。
 西部劇が全盛であったことは良かったが、1960年代が終わりに近づき私が嫌いなニューシネマが台頭してくる頃からマカロニウエスタンの登場もあってハリウッドの西部劇は急激に失速していく。
1969年の『ワイルドバンチ』や同じく69年の『明日に向って撃て!』は、西部劇に分類されているものの実際には西部劇ではない。従来の西部劇よりも後になる1900年頃を舞台にしていることもあるが、映画の作り自体が違うのだ。
 自分のルーツである西部劇が消え去っていこうとする中、ジョン・ウェインは「魅力的な正統的西部劇を作る」ということと「自分を現代劇でも活躍させる」という二つの試みを同時に進めた。後者の試みの一つがこの『マックQ』となる。
 だが、刑事を演ずるジョン・ウェインがウインチェスターライフルやコルトS.A.A.の代わりに小型サブマシンガンMAC10(MAC11だったかな?)を乱射しても刑事物定番のカーチェイスをやってもどうにも様にならない。開拓者の服はあれほど似合っていたのに、ジャケット姿は様にならない。
 監督のジョン・スタージェスは『荒野の七人』(1960)など、どちらかというと西部劇を得意にした人であり、演出が牧歌的というか『ダーティハリー』のドン・シーゲルの様なざらついた荒々しさがないのもまた違和感を強めている原因ではある。

 誰がなんと言おうとジョン・ウェインがハリウッドを代表する映画スターであることは間違いがない。右翼のタカ派であるとか本人の思想や政治的スタンスは本来どうでも良いのだ。そのハリウッドの映画スタージョン・ウェインがハリウッド映画を代表するジャンル「西部劇」から抜け出せずにあがき苦しんでいるのが見て取れて、実は観ていてつらい作品なのだ。

 ジョン・ウェインの遺作『ラスト・シューティスト』(1976)は皮肉にもドン・シーゲル監督作でもある。
 伝説的英雄である腕利きのガンマンがガンに冒され余命幾ばくもないことを知る。そしてそんな彼を倒して名を売ろうという連中と決闘を挑んでくる。決闘に勝とうが負けようがどのみち死はすぐ目の前にある。その主人公を演じたジョン・ウェイン自身がガンに冒されていて病気と闘いながらの撮影だった。

 西部劇スタージョン・ウェインは西部劇と共に死んでいった。
 いや、実はジョン・ウェインが死んだから西部劇は死んだのかも知れない。
 しかしすでに寿命を迎えていた彼はそれでも良かったとしても、まだまだ若くてこれから脂がのってくるという西部劇スターはどうすればいいのか。しかもハリウッドの西部劇ではなくてもともとが一時的なブームにすぎないマカロニウエスタンのスターだ。
 それについては次回の刑事物特集最終回で語ることになる。

 念のために言っておくが、このエントリはジョン・ウェインを貶めるのが目的では断じてない。
『リオ・ブラボー』(1959)で愛用のウインチェスターレバーアクションライフルを手に持ちながら、保安官として守っている街をブラブラと見回っているその歩く姿だけで観客の目を引きつけて放さない。その理由は演技力がどうとか容姿がどうとかいったレベルを超越した“最高の映画スター”が持つ存在感だ。
 ジョン・ウェインの重心を保ったままゆっくりと歩くその歩き方は独特だ。ゆっくりといっても愚鈍さではなく強者が持つ重みを感じされる。まるで最強の肉食獣といわれる虎が歩いているような、下手に手を出したら痛い目に遭うどころじゃすまないだろうという迫力だ。
『レオン』(1994)でマチルダがレオンの心に近づきたくて物真似遊びに誘うシーンがある。マドンナやマリリン・モンロー、それにチャップリンの真似をして見せても、レオンは誰の真似なのかさっぱり分からない。ようやくジーン・ケリーの真似を当てたレオンは、今度はあなたの番よとマチルダに物真似をせがまれる。そして隣の部屋からレオンが物真似をしながら入ってくるシーンで大爆笑してしまった。
 のそっとしたその歩き方、首元に巻いたスカーフと腰のガンベルト。どこをどう見たってジョン・ウェインだ。しかも一言放つセリフが「OK、ピルグリム」ときてる。
 まだ12歳のしかも女の子であるマチルダには誰の真似か分からないが、これが交流を深めていくきっかけとなる。
 他人にの距離を持って極力関わりを持つのを避け、仕事(殺し屋)とトレーニングと一鉢の観葉植物だけの世界で孤独に生きてきたレオン。そんな彼ですら知っている、いやそんな彼だからジョン・ウェインの物真似だったのかもしれない。このシーンはジョン・ウェインでなければ成立しなかったといってもいいだろう。リック・ベッソンの映画への愛も感じられる良いシーンだ。

2005年09月10日

『マンハッタン無宿』 西部(アリゾナ)から来た男

B0006M17P4.jpg
『マンハッタン無宿』(1968) COOGAN'S BLUFF 94分 アメリカ

監督:ドン・シーゲル 製作:ドン・シーゲル 共同製作:ジェニングス・ラング 製作総指揮:リチャード・E・ライオンズ 原作:ハーマン・ミラー 脚本:ハーマン・ミラー、ディーン・リーズナー、ハワード・ロッドマン 撮影:バッド・サッカリー 音楽:ラロ・シフリン
出演:クリント・イーストウッド、リー・J・コッブ、スーザン・クラーク、ドン・ストラウド、ベティ・フィールド

 単に『ダーティーハリー』(1971)の原型だと思われているだけのことがある『マンハッタン無宿』だが、それで終わらせてしまうのはとんでもない間違いだ。この作品単品ではなくマカロニウエスタンのスターだったクリント・イーストウッドをハリウッド映画で活躍させるための綿密なプロジェクトによって生み出された一連の作品の一つである。

 1960年代半ばから1970年頃にかけて世界中でイタリア産の西部劇“マカロニウエスタン”が大ヒットした。
 その口火を切った『荒野の用心棒』(1964)のクリント・イーストウッドを始めとしてジュリアーノ・ジェンマやフランコ・ネロ、リー・ヴァン・クリーフなどがスターとして人気を集める。しかし、1970年代に入ってマカロニウエスタンが下火になっていくと、彼らはスターの座から消え去っていた。(念のために言っておくと「スターの座から消え去った」が映画界から消え去ったわけではなく、出演作もあり活躍はしている)
『ミリオンダラー・ベイビー』で監督として2度目のオスカーを受賞し、映画スターとしてもいまだ活躍中のクリント・イーストウッドもひょっとしたら彼らと一緒に消え去っていたのかも知れない。
 実際、イーストウッドはハリウッド映画では芽が出ず、TVシリーズの西部劇『ローハイド』で人気が出たものの、TVシリーズと映画とではっきりランクに境界が引かれていたため逆に足かせになりかねなかった。そこでかなり悩み考えたことだと思う。そして「イタリア産西部劇」というキワ物にチャレンジすることになる。出演するのは『荒野の用心棒』。すでにマカロニウエスタンが人気を集めていたのならともかくそれが誕生する時期だったことを考えるとかなりの賭けだ。おそらく、監督のセルジオ・レオーネと話をするなどして「彼ならば」という思いを持ったのではないかと考える。
 そして映画が公開されると大ヒット。その後、『夕陽のガンマン』などマカロニウエスタン続けて出演してさらに人気を高める。
 だが、ブームは長く続かないことを悟っていたのか、イーストウッドはそこに安住せずに再びハリウッドに挑む。そして出演したのがやはり西部劇の『奴らを高く吊るせ!』(1968)だが、本家西部劇としての誇りが感じられず、それどころかマカロニウエスタンにすり寄った作品だった。
 製作年度を考えるとそれと同時並行して進められたのだろうが、西部劇のスターを、それもマカロニウエスタンのスターをハリウッドの現代劇にいかに持ち込んで成功させるかというプロジェクトが進行していた。

 日本では第二次大戦後GHQの指導によってチャンバラ物などの時代劇を製作することが禁止された時期があった。
 そのため、チャンバラ映画のスターたちは現代劇への転向を余儀なくされた。
 片岡千恵蔵もその1人で、「ある時は片目の運転手・・・」のセリフで有名な『多羅尾伴内』シリーズに出演した。人気を集めヒットした作品だが、片岡千恵蔵の演技やセリフ回しがチャンバラ物の時そのままで強い違和感を持った人もいたらしい。
 西部劇のスターが現代劇に出演する場合にも同じような違和感が生じてしまうだろう。テンガロンハットにガンベルトが似合う男がスーツを着て車を乗り回してもどうにもしっくりこない。そんな印象を観客に与えてしまうのではないだろうか。
「ならば、西部劇の男を西部劇の服装や言動のままで現代のニューヨークに登場させてしまえばいいのではないか。そして、次回作では同じような役柄で西部劇色を薄めてみる。そうやって段階を踏んで移行させたらどうだろうか」
 こうして作られたと思われるのが『マンハッタン無宿』だ。

 時代は現代だがいまだ西部であり続けるアリゾナで、人々は現代様式を取り入れながら誇りを持っているその土地アリゾナの西部の心を捨てようとはしない。主人公の保安官補クーガンもその1人で、服こそ黒いスーツを着ているがテンガロンハットとカウボーイブーツは決して手放さない。
 そんなクーガンがニューヨークで逮捕された犯罪者を引きしてもらって連れ帰るためにニューヨークに向かう。近代的な高層ビルが立ち並ぶマンハッタンでは、クーガンの外見も内面も街にとけ込まず浮いていて物笑いの対象にすらなる。だが、自らのライフスタイルと故郷に誇りを持つクーガンはアリゾナにいる時と同じ言動のまま行動する。
 それはニューヨーク市警の面々やニューヨークの人々と対立することになりながらも、クーガンは己を貫いたままミスで取り逃がしてしまった犯人を単身追い続ける。その捜査方法は警官ではなくむしろ西部劇の賞金稼ぎかのようだ。
 ニューヨーク市警の警部だかが何度も「ここはテキサスとは違うんだ」といった具合にテキサスとアリゾナを取り違えるのだが、その度に「アリゾナだ」とクーガンは答える。このやり取りの中にクーガンの西部アリゾナに対する思いが見て取れる。
 ラスト近くで、警部はようやくテキサスではなくアリゾナと言う。これはしつこく訂正されたから覚えたのではなく、テキサスだろうがアリゾナだろうがそんなど田舎とそこから来たカウボーイ野郎のことなどどうでもいいと考えていたが、クーガンの誇りを持った行動などからついには西部と西部の男を認めたのだろう。

 そしてプロジェクト第2弾の『ダーティハリー』ではクーガンからテンガロンハットとカウボーイブーツを取り上げ、しかし行動や考え方自体は西部の男を感じさせるハリー・キャラハンというキャラクターに修正した。
 こうして“マカロニウエスタンのスター、クリント・イーストウッド”は“ハリウッド映画のスター、クリント・イーストウッド”となったのだ。
 このプロジェクトの中心となったのが両作品で監督・製作を務めるドン・シーゲル。『許されざる者』(1992)でセルジオ・レオーネと共にイーストウッドが賛辞を捧げた人物だ。彼なくしては、そして『マンハッタン無宿』なくしてはクリント・イーストウッドもジュリアーノ・ジェンマらと一緒に消え去っていたのかも知れない。イーストウッドがその後のハリウッド映画に与えた影響、それは同時に世界中の映画に与えた影響にもなるが、それがもしも存在しなかったと考えると悲しいどころか怖ろしくすらある。
 だからこう言い切ってしまおう、今のクリント・イーストウッドが存在しているのは『マンハッタン無宿』があったからこそであり、今のイーストウッドがいるからこそ今の映画がある。つまり『マンハッタン無宿』がなければ今の映画はなかった。『マンハッタン無宿』とはそういう意味を持つ映画である。
 ちなみに、このプロジェクトの名は「マンハッタン無宿計画」だったという。

 マンハッタン無宿計画というのは私の推測、ないしは妄想だ。
 2003年5月24日のエントリですでに少し触れている。思いついたのは学生時代なのですでに10数年前になる。
 この説の最大の欠点は『ダーティハリー』がスタート時点ではポール・ニューマン主演だったことだろう。しかし、リベラル派として有名なポール・ニューマン主演はその暴力的かつ法律ではなく力を持った個人が自らを正義としてしまう内容にファシズム的要素を感じ取って降りてしまう。それでは他の誰かをと言うことでクリント・イーストウッドになったのだ。
 イーストウッドが選ばれた理由にはもちろんドン・シーゲルの意見が大きかったとは思うが、最初から『マンハッタン無宿』と『ダーティハリー』が連携して作られたわけではないのだ。
 つまり、西部の男から現代の刑事への流れは偶然である。だがしかし、これはきっとプロジェクトを企画立案および実行したのが映画の神様とその部下たちということなのだろう。

 今回を持って刑事映画特集は一応の終了とする。
 『マンハッタン無宿』は厳密に言うと刑事ではなく保安官補なのだが、人間細かいことはあまり気にしないように。

2005年09月14日

『銀のロマンティック・・・わはは』 オレだってたまには泣く、その1

『銀のロマンティック・・・わはは』川原泉 白泉社文庫『甲子園の空に笑え!』収録

 なにかしらの作品で泣くということはほとんどないオレだが、たまには泣くこともある。
 そんな、オレを泣かせた作品をしばらくの間紹介していくことにしよう。
 普段の一人称は私だが、「泣く」関係では日常で使っているオレで通すことにする。

 まず一作品目が白泉社文庫『甲子園の空に笑え!』に収録された川原泉の長編『銀のロマンティック・・・わはは』である。
 お世辞にも上手いとは言えない絵、怒濤のごときセリフや解説の多さ。時に難解で哲学的なシーンとそれに溺れず照れ隠す客観性。川原作品は実に独自独特である。
 始めて『銀のロマンティック・・・わはは』を読んだのはコミックスで出ていた頃、まだ10代の高校生時代のはずだ。さすがに自分で買って読んだのではなく、3歳上の姉が持っていたのを借りて読んだ。
 でもって、泣いた。

 世界的バレエダンサーの娘である由良(聖ミカエル学園の高校生。お嬢様学校として有名だが由良はとてもじゃないがお嬢様的性格ではない)と、怪我でスピードスケート選手として活躍することができなくなった男子大学生の忍がスケート場で偶然に出会う。遊びで3回転ジャンプに挑戦したところ二人ともやすやすと3回転半のトリプルアクセルジャンプを跳ぶ。そしてそれをたまたま居合わせたフィギュアスケートのコーチに見いだされ、二人はフィギュアスケートの世界に入っていくことになる。
 これだけ書くとあまりにも偶然続きでいかにもな少女マンガに思えるが、なにしろ川原泉なので脱力感に満ちあふれていて好みは分かれるだろうがオレとしてはそこが良い。
 フィギュアスケートを始めた二人は日本のトップとなり世界に挑んでいき、そして世界の壁の厚さに圧倒される。技の冴えは申し分ないのだが、フィギュアにおいて重要な表現力に欠けているのだ。
 そして悩んだ二人は決め技として4回転ジャンプ・クワドラプルを習得しようと試み、犬のポチの協力もあってついには成功率50%程度だがクワドラプルができるようになる。しかし、忍がスピードスケート時代に負った怪我が再発し・・・

 終盤、もうこれが最後のペアスケートと知りつつスケートリンクの上に登場する二人。
 これまであった力みも消え、ただ楽しく滑る。ある意味悟りに達した二人はリンクで銀のロマンティックを織る。

アナウンサーと解説の
「それに何よりも表情がいいです。実にいい顔で滑ってます」
「なるほど・・・」
「え・・・も・・・もしかして本当に笑ってません?」
「・・・・・」
からクワドラプルへ、結果は分からないまま後日談になり最後のコマの
「テクニカル・メリット 6.0 6.0 6.0 6.0 ・・・」
「アーティスティック・インプレッション 6.0 6.0 6.0 ・・・」
「-夢見たものは 夢見たものは銀のロマンティック」
「・・・そしてまぶしくて まぶしくて もう何も 見えない・・・・・・」

に至る8ページの間、もう涙がだだ漏れ。
最初に読んだときから、この文章を書くために読み直した今日まで、読む度に毎回泣いている。よほどオレの心の奥にある涙の元栓に触れると見える。

2005年09月15日

『1+1=0 いちたすいちはれい』 オレだってたまには泣く、その2

『1+1=0 いちたすいちはれい』 桑田乃梨子 花とゆめCOMICS

『おそろしくて言えない』が新刊コミックとして出た頃から桑田乃梨子のファンになって、その後もずっと買い続けている。引っ越しやらで古いコミックスを手放したこともあったが、後に古本や回りをして買いそろえた。オレが全作品(多分)を持っているマンガ家は桑田乃梨子と竹本泉ぐらいだ。

『1+1=0』の主人公である石綿(この所、大きくマイナスイメージな苗字だな)は幽霊などを日常的に見てしまう優れた心霊能力を持っている。しかし、その能力が役に立ったこともなく、平凡に暮らしたい石綿にとってはむしろ邪魔に感じている。
 そこへ転校生として苑田という少年が転校生として現れる。ハッタリ屋だがカリスマ性を持つ苑田は「世界を支配する」という壮大な夢を持っている。世界のトップを占星術師や預言者として影から操るつもりなのだが、肝心の霊能力はまったくもっていない。
 心霊研究会唯一の部員で見た目は心霊少女だがこれまた霊能力の欠片もない少女、御簾津みずほが苑田を心霊研に誘い、石綿は霊能力を持っていることが二人にバレてしまい、そのままうやむやのうちに心霊研入り。
 みずほには姉がいたが事故で死んでしまい今ではみずほの守護霊になっている。その“みずえ”に石綿は惚れてしまう。現世の人間と幽霊との恋愛は成立するのか?
 山での合宿や学園祭での降霊術などの定番?なイベントが続く中、石綿とみずえは愛を深めていく。しかし、みずえの守護霊としての役目が終わり再び生まれ変わる準備のため成仏する日がやってくるのだった・・・

 ちょっと意外なみずえの転生先や、自らの能力はみずえと出会うためにあったのだと気付く石綿(陶酔しきったそのセリフを聞いて「ざー」と呆れかえっている苑田とみずほの二人がまた良い)になかなかジーンときながら物語は終わる。
 ここまでだと「ジーン・・・」だけだったのだが、巻末にあるおまけまんが『12years after』のラスト1ページで泣いた。もうこれでもかってぐらい泣いた。
 物語の終盤、石綿とみずえの別れのシーンを再現させて、でもって泣いている石綿の姿は見せない。上手い。少女マンガだがオレの涙は男泣きだった。
 あくまでもおまけまんがで本編なくしてはなりたたないし、たったの4ページだ。だがこのおまけまんがの存在によって『1+1=0』はオレを泣かせた数少ない作品となり、オレ的傑作としてこれから先もずっと本棚に置かれることとなった。

 もしも『1+1=0』を映画化したら、エンディングクレジット後にこの『12years after』を入れたい。でもって観客は泣く。ただ、エンディングクレジットが始まると帰りやがる客が多いので冒頭に「最後まで座ってろ」とアナウンスしておかなけりゃダメか。

2005年09月16日

『オトナになる方法 10巻(最終巻)』 オレだってたまには泣く、その3

『オトナになる方法 10巻(最終巻)』 山田南平 花とゆめCOMICS

 2002年の3月から3ヶ月ほど入院していたのだが、その時に病院の図書室でシリーズ第1巻の『130センチのダンディ』を手に取った。
 女子高生の久美子が小学生の真吾を好きになってしまう「おいおい、それは無茶だろう」な設定だが、全15巻と冊数が多めで時間をもてあましているオレはそのまま読み続けた。

 年齢設定はちょっと変わっているが、基本的にはそれなりに普通な恋愛物、青春物だ。それなりに楽しみながら読み進んだ。
 途中で真吾がカート(ゴーカートでやるレース)に手を出したり、パリに旅行に行ったりと「何でだよ」とツッコミながら読む。
 パリの夜道で久美子がハンドバックを引ったくられた時、真吾が犯人を追いかけていって捕まえようとするシーンがあるが、こいつは真似しちゃダメだ。パリは意外と治安が悪い。そんな街の夜道をタクシーも使わずに歩くのが悪い。引ったくられたらあきらめろ。追いかけていってナイフで刺されたり、銃で撃たれたり、足の裏をくすぐられたり、まるで似ていない似顔絵を描かれて「オゥ、とっても似ているデース」と言い張られても知らんぞ。なんてったって相手はパリジャンだから油断はできん。

 まあ全体的には「ふーん少女マンガだなぁ」だったのだが、ラストのオトナになって教師になった久美子と大学生になった真吾のエピソードでぐっときた。これまで登場したキャラクターたちがどうなっていったかというドラマとそしてこれから先の人生まで感じさせる。
そしてラスト4ページでの久美子のモノローグ
「2人ですごした10年間が あっという間にすぎたような とても遠まわりをしたような」
から
「わたしたちは 歩いてゆけるのだと思います」
で泣いた。
1ページを全部使った最後のコマで泣いた。

 この作品に関しては入院していた時に読んだからその時の精神状態もあって泣いたというのもある。
『銀のロマンティック・・・わはは』や『1+1=0』は今読み返しても泣くが、『オトナになる方法』で泣いたのは最初に読んだ1回だけだ。それ以降は読んでもじーんとくるぐらい。でも、オレをじーんと来させる作品ってのも少ない。結局、退院後にコミックスは全巻揃えてしまった。

 こうしてまずは3作品を並べてみると、オレは
「花とゆめ系列」の「後日談」に弱いのではないかという推測ができる。
 少女マンガはほとんど読まないのだが、その数少ない作品が当たりというのは偶然なのか必然なのか。
 山田南平の『紅茶王子』も途中まで読んでみたが、7~8巻目辺りで挫折した。やっぱ丸々っと少女マンガはちときついわ。

2005年09月17日

『パタリロ! 第38話 FLY ME TO THE MOON』 オレだってたまには泣く、その4

『パタリロ! 第38話 FLY ME TO THE MOON』第10巻収録 魔夜峰央 花とゆめCOMICS

 8月26日のエントリに書いてあるが、中期出張で自宅を離れていたオレはプライベートなネット関係の作業をするためインターネットマンガ喫茶を利用していた。
 そして、ネット以外に何作かコミックを読んで過ごした。数日に分けてパタリロシリーズを一気読みしてしまった。
 そして第10巻収録の第38話『FLY ME TO THE MOON』で泣いた。
 パーティションで囲まれた個人スペースの狭苦しさにはうんざりしていたが、この時ばかりはその壁がありがたかった。ボロボロ涙を流している姿を人前にさらしたくはない。

「また白泉社かよ」
「また花とゆめコミックスかよ」
「しかもパタリロ!かよ」
という声もあるだろう。
 だが、この文章を書くためにサブタイトルや収録巻を調べると、この『FLY ME TO THE MOON』は名作・傑作・感動作として評価が高い。泣いた人も数多いようだ。

 マリネラの少年ロビーは宇宙飛行士になる夢を持ってマリネラの植物園で働いている。
 そんな彼が他の生き物の傷や病気を治す力を持っていることを発見したパタリロは「マリネラでロケットを作ってお前を宇宙飛行士にしてやるから」と言いくるめてその力で不治の病に冒された人などをを治療しては多額の謝礼を得て金儲けをする。
 しかし、ロビーが体調を崩して倒れたため治療作業は中止。だが、治療を待つ長い行列の先頭にいたのがバンコランだった。バンコランの依頼は死にかけている枢機卿を救うこと。この枢機卿は戦いを続ける敵国同士を和平に導き、近いうちに休戦となるはずだった。この人物が亡くなっては再び戦いが始まり多くの人が命を落とすことになる。
 枢機卿のもとへと治療に向かうが、ロビーの力は相手を単に治すのではなくロビー自身の生命力を分け与えているだけだったのが判明する。ロビーの生命力をこれ以上分け与えると彼自身の命が尽きてしまう。

 ここでパタリロはロビーを救いたいという人間としての感情と(もっとも、人間としてのまともな感情がパタリロにあるのかはちょっとばかり疑問だが)、マリネラの国王としてそして一国の元首が世界に対して取るべき責任と、どちらを選ぶかの選択を迫られる。
 自国民にして友人でもあったロビーと、見も知らぬ他国の数多くの人々。
 そしてパタリロは苦渋の、まさしく苦渋の決断を下す。

 最後、パタリロに謝罪か慰めか、あるいはその両方の言葉を伝えようとしたバンコランの手を「さわるな」と拒絶してパタリロは去る。
 そして

「その日パタリロは生まれてはじめて心の底から泣きました」

とナレーションが伝え、パタリロは1人っきりで泣いている。
 王というのは特権階級である。贅沢で優雅な暮らしもできる。そしてその特権を持つ者は重く大きな義務も背負わなければならない。パタリロはその義務を背負うことを選んだ。
 バンコランを拒絶したのはロビーに関する義務と責任は国王であるパタリロ1人で背負わなければならなかったからだ。王とは民の頂点でそして孤独である。臣下や国民の前で王は泣くことを許されない。だからパタリロは1人で泣くのだ。

 でもってオレも涙がダーッ。涙ぐむだけではなく、これでもかってぐらいダーッ。
 クリント・イーストウッドの『スペース・カウボーイ』(2000)で『FLY ME TO THE MOON』が冒頭とラストに2回流れるが、それとほぼ同じ意味で使われているサブタイトル『FLY ME TO THE MOON』にダーッ。

 それにしても、第10巻収録で“初期”の『パタリロ!』ってのもすごい話だ。どれだけ続いてんだよ。21世紀になってもパタリロが続いているとは思わなかったぞ。
 スカイパーフェクTV!のAT-Xでアニメ『パタリロ!』(1982~83)の放映が始まった。スターチャンネルなど映画のチャンネルはいくつか加入しいてたが思わずAT-Xも契約してしまった。
 まぁ月-金の週5話放映で全49話だから受信するにしても3ヶ月ぐらい。放映が終了したら即解約になるだろう。

2005年09月18日

『かってに改蔵 最終話:ずっと、いっしょだよ。』 オレだってたまには泣く、その5

『かってに改蔵 最終話:ずっと、いっしょだよ。』最終巻第26巻収録 久米田康治 少年サンデーコミックス

 サンデーを立ち読みしていて連載中の『かってに改蔵』を見つけ、毎週水曜日になるとコンビニで立ち読みしていた。そしてしばらくして、『かってに改蔵』目当てで少年サンデーを買うようになり、コミックスも新刊が出る度に買って揃えていった。
 そして作品は問題作とも言われる最終回を迎えた。

「妄想オチかよ」
「精神病院ネタかよ」
 といった具合で、サンデー掲載時の最終回はいかにもだなという感じで特に評価しなかった。
 そして少々日は流れ、最終巻26巻が発売された。さっそく買って帰ったオレは26巻だけではなく、第1巻から順に全26冊を読んでいった。
 そして、最終話『ずっと、いっしょだよ。』で泣いた。

 最終話までに語られてきたこと全てが妄想で、それによって改蔵と羽美は精神の安定を取り戻し社会復帰を遂げた。
 入院中にずっと自分が着たい服のイラストを描き続けていた羽美に、作中ではクラスメイトなどを演じていた看護婦がイラストに似た服を探してきて羽美にプレゼントする。
「今度こそ 本当に着れたね 羽美ちゃん。」
辺りから涙腺が刺激され始める。
部長の「2人に幸あれ」からウルウルし始め、ラストの砂浜を歩く改蔵と羽美。
「この海の向こうには
もっともっと大きな世界が広がっているんだ」
で泣く。

 最終話『ずっと、いっしょだよ。』だけ読んでもオレは泣けない。第1話からの積み重ねがあって始めて最終話で泣けるのだ。そのためには全26冊を読まねばいけないわけだが、これは本来のあり方だろう。どの時点でこの最終回にすると決定したのかはわからないが、ある一点を目指して積み上げていってそのように物語を構築した、絶対そうだとは言い切れないが緻密な計算に基づく『ずっと、いっしょだよ。』なのだ。

 単行本だとその後ろに『大蛇足』というおまけの1話が収録されていて、それが『ずっと、いっしょだよ。』の感動をぶち壊しにしていてそれがうれしい。おそらく、感動したままで終わらせてしまうことが久米田氏にとってこっ恥ずかしくてしょうがなく、照れ隠しの意味もあって書かれたのだろう。

2005年09月19日

『BATTLEフィールド Code.4楽園のあちら側』 オレだってたまには泣く、その6

『BATTLEフィールド Code.4楽園のあちら側』 『BATTLEフィールド』収録 島本和彦 ビッグコミックス

『BATTLEフィールド』は島本和彦の戦記短編集。第二次大戦のヨーロッパ戦線が舞台で陸軍物がほとんどだ。
 短編が9話収録されていてどれも力作揃い。『Code.2愛しのティディーベア』もぐっとくるが、4話目の『Code.4楽園のあちら側』でオレは泣いた。

 ノルマンディー上陸作戦から1ヶ月後、ドイツ軍の反撃により撤退中の連合軍兵士が主人公。背後には冷酷なレジスタンス狩りで名を馳せた「白い狼」と呼ばれるドイツ軍将校の部隊が迫っている。
 連合軍兵士たちは廃墟と化した街に逃げ込む。人っ子1人いないと思われた街に破壊されないままの公園があり、バラ園で作られた迷路の中央には遊具が置かれた小さな遊園地があった。そして、そこには老人たちだけがいつか帰ってくる家族を待ちながら平和に暮らしていた。
 食事などを振る舞われた連合軍兵士たちは、撤退中にもかかわらず壊れた遊具を修理する。メリーゴーラウンドだけは修理できなかったが、とても喜んだ老人たちは「永遠の友人、偉大なるアメリカ兵万歳!」の立て札を立てる。
 そして再び撤退を始める連合軍兵士は老人たちにも一緒に来るようにすすめる。このまま街にとどまっては、すぐそこに迫っている「白い狼」が攻め入ってきて皆殺しにされるのは間違いない。
 しかし、老人たちは実は子供や孫たちなどの家族はすでに戦争で死んで、生き残っているのは自分たちだけだと告げ、街に残ることになる。
 都合してもらったトラックで街から遠ざかりながら、兵士たちは幻の街『リップ=バン=ウィンクルの村』の伝説を思い出す。

 さらに1ヶ月後、勢いを取り戻した連合軍はドイツ軍を圧倒しながら再び前進を始める。
 白い狼によって徹底的に破壊された街。だが、その白い狼もレジスタンスの仕掛けた爆弾ですでに命を落としている。街へと戻った兵士たちは悲惨な光景を予想しながら遊園地へと向かうが、そこで奇跡を目にする。

「永遠の友人・・・我らのメリーゴーラウンドを修理した・・・・・・偉大・・・なるドイツ人へ・・・か。」

 冷酷にレジスタンスを処刑していった白い狼にも人間の心があった。いや、戦争によって彼は「白い狼」になってしまったので、もしも戦争がなければ1人の人間、一市民として生涯を全うしたことだろう。
 ドイツ軍人だから、あるいは日本軍人だから悪なのではない。戦争が悪なのだ、戦争が人を邪悪にするのだ。などと感じさせる作品だった。
 ただ立ち尽くすだけの主人公たちにオレは涙した。
 島本和彦は男を描かせたら、「漢と書いてオトコと読む」とか「本気と書いてマジと読む」といったオレに言わせればインチキなオトコではなく真の男を書かせたらまさしく一流である。

 今回で「オレだってたまには泣く」コミック編は終了。次回から音楽編に入る。

2005年09月20日

『山本正之'89 少年の夢は生きている』 オレだってたまには泣く、その7

『山本正之'89 少年の夢は生きている』 山本正之 ワーナー・ミュージック・ジャパン

『燃えよドラゴンズ』や『タイムボカンシリーズ』などで知られるミュージシャン山本正之のアルバム第2弾。
 前作『'88』は当時所属していた大学のシネマ研究会の一部のメンバーの間で一瞬歌『まる木船探検隊』などが流行った。ついついオレも買ってはまった。
 翌年にリリースされた『山本正之'89 少年の夢は生きている』も当然購入し、クレイジーキャッツを思わせる『宇宙一のスチャラカ男』などを笑いながら聴いた。一瞬歌シリーズの『大きくなったら』なども笑った。
『CHICAGO』や『天の浮舟』などシリアスな曲もあり、山本正之のまた違った一面もかいま見せながらアルバムは進み、そして14曲目のアルバムタイトルにもなっている『少年の夢は生きている』が始まった。
 山本正之自身が少年時代に体験したというちょっとしたエピソードがいくつも語られ、そしてその頃の夢、少年の夢は色々あって大人になった自分の中で今でも生きている。そんな内容だ。
 初めて聞いたときのオレはまだ20歳ぐらいで、良い曲だなとは思ったがそれ以上の物は感じなかった。

 それから10年少々が過ぎてオレも30歳代になってから、なんとなくCDを引っ張り出してきて聴いた。別にその10年間の間まったく聴かなかったわけではないが、せいぜい数年に一度の頻度だったのであまり細かいところまでは覚えていなかった。
 笑える曲やシリアスな曲を楽しんでいるうちに『少年の夢は生きている』が流れ始めた。
 そして泣いた。

「少年の夢はあれから長い年月が過ぎて大人になっても自分の中で生きているんだ」

 といったようなフレーズが泣けてしょうがなかった。(歌詞の引用なしで歌の感想・批評や説明をするってのはしかし難しいな)
 年を取るごとに感性は鈍化し純粋さは失われていく。確かにそういう部分もあるだろう。だが、20歳の時には分からなくて30歳代になって分かるようになった物もある。『少年の夢は生きている』はそんな物の一つだ。
 ある意味では惰性で生きている毎日。だがそんなオレの中にも『少年の頃の夢』がまだ生きているのだろう。だから泣いたのだ。

『少年の夢は生きている』一曲だけを聴いても泣けない。アルバムの1曲目から聴いていって全15曲の14曲目、しかもその前が短い上になんじゃそりゃの『フラフープ』。その流れで聴くと『少年の夢は生きている』の威力は何倍にもなる。
 音楽のことはほとんど分からないオレだが、やはりアルバムの構成というのはただ曲を集めてまとめただけではなく、一つのアルバムで一つの作品になるようにどの曲を何番目に入れるかなど色々考えられて作られているのだろう。などと思ったりする。

2005年09月21日

『I STAND HERE FOR YOU-大槻ケンヂ』 オレだってたまには泣く、その8

『I STAND HERE FOR YOU』 大槻ケンヂ MCA VICTOR

『ONLY YOU』に続く大槻ケンヂの2枚目のソロアルバム。
 最初は『モンブランケーキ』や『猫のリンナ』などどちらかというと筋肉少女帯っぽい曲が続く(『猫のリンナ』は歌詞だけ大槻ケンヂで曲は洋楽だそうだが)。前作『ONLY YOU』はカヴァーアルバムだったためかこれまでとは少し違う大槻ケンヂだった。「今回もせっかくのソロアルバムだというのにちょっと残念だな」などと考えてしまった。
 しかし、そのときすでにオレは大槻ケンヂの仕掛けた罠にはまっていたのである。

 懐かしの『また会えたらいいね』のセルフカヴァーである『それでも、また会えたらいいね』、死んで灰になっても塵になっても、いや素粒子のクォークになってもまたいつか恋人と巡り会うといった『青春の蹉跌のテーマPART3』。(『青春の蹉跌』というタイトルにうぇっとなったが、やはり同タイトルのATG映画から取ったらしい。あの映画は大っ嫌いなんだが、まあそれはそれだ)
 大学を卒業するか何かで街を去っていく若者が、たばこ屋のおばあちゃんやおそば屋のおじさんに「お世話になりました」と明るくそしてどこか寂しく別れを歌う『お世話になりました』が9曲目。これは井上順が歌っていた曲のカヴァーだそうで、オレは原曲を知らない。街の人々やそこであった出来事を思い出にしていく寂しさ、将来への明るい希望と一抹の不安。それらがオレ自身の体験と重なってしまい感情が揺さぶられていく。

 そして10曲目の『天使たちのシーン』が始まる。
 この曲は小沢健二のカヴァーで原曲は小沢健二のアルバム『犬は吠えるがキャラバンは進む』に収録されている。学生時代にフリッパーズ・ギターが多少流行っていたが、音楽にはさほど興味がなかったオレはまともに聴いたことがなかった。フリッパーズ・ギターが解散してソロになった小沢健二が出した『犬は吠えるがキャラバンは進む』を買ったのはそのアルバムタイトルと「このアルバムを『犬キャラ』と略すのだけは止めてくれ。略すなら『犬』にしろ」という小沢健二の発言が気に入ったからだった。
 オレとしてはわりと何度も繰り返し聴いたアルバムで、中でも『天使たちのシーン』はお気に入りだった。1997年の10月に「赤い風船」というエヴァンゲリオンの二次短編小説を書いているが、その中でシンジとアスカが駅のホームで風に流されていく風船を見つめるシーンがあるぐらいだ。ただ、オレ自身が車で走っているときに空を飛んでいく1個の風船を見た時にアイディアを思いついたので『天使たちのシーン』のパクリではない。オマージュ・・・オマージュとも違うな。そうそうインスパイアだインスパイア。タイヤが4つついてエンジンで走るヤツな。それはホンダの自動車インスパイアだろ。って脱線しすぎだ。しかも脱線なのに自動車とはこれいかに。

 小沢健二の『天使たちのシーン』もすごく良いのだが歌声がキレイすぎてそのままスルスルッとオレの中を通り過ぎてしまう。
 大槻ケンヂの『天使たちのシーン』は、誤解を恐れずに言えばちょっと下手な上に耳障りの悪い大槻ケンヂが歌うことによって、聴いているオレの心のあちこちに引っかかったりぶつかったりする。でもって、その分だけ余計と心が揺さぶられるのだ。寂しそうなしかし誰しも孤独ではないよと訴えかけてくる大槻ケンヂの歌声に静かに泣いた。

 『青春の蹉跌のテーマPART4』を挟んでラスト12曲目の『あのさぁ』へ。
 この曲は恋する大バカ野郎の歌で、大バカだけでも大したことなのにさらに恋してるとなるとひょっとしたら不可能はないぞという名曲。
『I STAND HERE FOR YOU』も構成が上手くて、この曲がこの順番で流れてくるからだんだんと感情が揺さぶられてその揺れが大きくなっていくというはある。

 以上で『オレだったたまには泣く 音楽編』は終了。
 音楽は熱心に聴いていないので泣いた記憶があるのは昨日分も含めた2作品だけ。
 QUEENの『RADIO GA GA』は英語がまともに分かれば泣いているかも知れないが、翻訳歌詞カードを見ながら聴いてるのではちょっと無理。王様に直訳ロックで歌ってもらえばいいのか?いや、QUEENは女王様が担当か。王様も女王様も今はどうしているんだろうな。

2005年09月22日

『俺たちには今日がある-トニー・ケンリック』 オレだってたまには泣く、その9

『俺たちには今日がある』 トニー・ケンリック 角川文庫

『俺たちには今日がある』という邦題はなにやらアメリカン・ニューシネマっぽくて嫌な感じだが原題は『TWO LUCKY PEOPLE』。『2人の幸運な人』のタイトル前半通り2人の男女が主人公なのだが出会った時点で2人とも不治の病に冒され余命はわずか1ヶ月。はてさてどこが幸運なのか?

『三人のイカれる男』など痛快犯罪ギャグ小説で知られるトニー・ケンリックの作品。中期以降はシリアス路線を書き始めて『上海サプライズ』などを手がけている。タイトルを聞いて思い当たる人もいるかもしれないが、当時結婚していたショーン・ペンとマドンナ主演の『上海サプライズ』(1986)の原作だ。せっかくトニー・ケンリック作品が映画化されたのによりによってあの映画ってのは世の中厳しいな。映画館まで観に行っちゃったよ。
 オレが持っているのは1986年1月30日発行の第3版。初版は1985年2月10日でおそらくすでに絶版。大量に売れたという小説ではないだろうから古書店に出回っている数もそれほど多くはないだろう。
 もしも「読んでみたい」と思ってくれた人がいたとしてもなかなか読む機会がないのが残念。『リリアンと悪党ども』など3冊が1998年に復刊されているが、角川書店には残りのトニー・ケンリック作品の復刊もお願いしたい。それから未訳作品の出版も頼む。

 主人公ハリーはある奇病に罹ってしまった。治療法はなくおよそ1ヶ月後には死ぬと医者の保証付きだ。
 医者は同じ境遇の相手と話せばお互いに少しは楽になるのではないかとグレースという女性を紹介する。そうして出会った2人はふとしたことから関わってしまったギャングのボスを倒すことで自分たちが生きた証を世の中に残すことにする。
 しかし、2人には銃や力があるわけではない。そこである特別な才能を持った人々を集めることにする。その人々とは世界最低の料理人に世界最低の運転手、世界最低の競走馬など世にも最低な面々ばかり。いったい2人が思いついた奇想天外な作戦とはいかに?

 ついにギャングのボスであるジョン・コリノスを追いつめた2人だが、このままコリノスを見逃すか、警察よりも数十秒ばかり早くエレベーターで上がってくるコリノスの手下に殺されるかという選択を迫られる。2人はためらわずに片方を選ぶ。
 そしてシーンは変わり、悲しげな顔の牧師が聖書を読んでいる。
「主はわが羊飼い、わが導き手。主によりてわれ-」
 だがその後ろで流れる曲は物語の冒頭近くでも使われたレゲエミュージック。
「おれは行くんだトリニダッドへ
 死ぬほど欲しい太陽あびに
 ヘイ、ブラウンシュガー、レゲエで踊ろう
 楽しまなけりゃ人生じゃない・・・・・・」

 このラスト1ページが泣ける。
 まさかトニー・ケンリックで泣くことになるとは思ってもみなかったが、今回読み直してみてやっぱり泣いた。
 うん、やっぱり復刊してよ角川書店さん。

2005年09月24日

『復活の日-小松左京』 オレだってたまには泣く、その10

『復活の日』 小松左京 ハルキ文庫

 深作欣二監督、草刈正雄主演で1980年に映画化もされた小松左京のディザスターSF小説。
 人類を滅亡の間際まで追い込むのは兵器として開発されたMM-88菌という細菌である。ある事件によって研究所から外部へと漏れてしまったMM-88は風邪やインフルエンザに似た症状を見せた後、短時間で急死する。養鶏場のニワトリが大量に死に、そのため卵の値段が上がったという昨年の鳥インフルエンザ騒動が思い出される描写がある。しかもワクチン開発に卵が欠かせないためMM-88への対応が遅れて手に負えなくなるという怖さ。
 そして人類のほとんどが死に絶え、わずかに残ったのはあまりの寒さのためさすがのMM-88も到達できなかった南極の各国基地にいた1万人ばかりの人々のみ。
 その彼らに人類が残した核兵器がさらなる危機として迫ってくる。このまま人類は自らが犯した過ちによって滅びてしまうのか・・・

 日本を沈めた小松左京が今度は世界人類を滅ぼそうとする。多大な資料を基にして緻密に作り込まれた設定が圧巻だ。
 主人公は昭和基地所属の吉住ら南極に残された人々だが、物語の大半は南極以外で進んでいく。MM-88で死に絶えていく世界についての描写は淡々と出来事が述べられていく静けさで、それが逆にて恐怖を感じさせる。

 物語のラスト近く、仲間に会うために吉住は丸6年をかけてワシントンから南米大陸の南端までたどり着く。
 ここが泣ける。心理描写などはなくただ気がふれた男が旅する様子が書かれているだけなのだが、だからこそ泣けるのかも知れない。その後に用意されている再会の場面よりもよほど胸を打つ。最初に読んだのが中学生の時でこの時すでに泣いた。今回読み返してみてもやっぱり泣いた。
 小説ではたったの2ページなのに、映画だと「これでもかぁ!」とばかりに延々と続くシーンになっていた。小説と映画では物語を語る文法自体が違うのは確かだし、映画に追加された教会での死者やキリスト像との語らいはそれなりに面白かったが、泣ける2ページを退屈な10分(ぐらいあったような気がするが実際にはもう少し短いかも)にしてしまっている部分だけを見てもやはり映画版『復活の日』は凡作なのだろう。南極ロケで撮ったシーンも「せっかく撮影したフィルムなんだからカットしたら損だ」とばかりに無駄に使われすぎていて冗長だった。あの映画は編集次第でもっと面白くなるだろう。やっぱり映画の肝はは編集だというのがオレの持論。
 映画を観て退屈だと小説の方は読んでいない人がいたら一読をお勧めする。昭和39年(1964年)の作品だが40年前という古さを感じさせない。それどころか細菌兵器がより現実的な危機として存在する現代においてはより衝撃的かもしれない。

2005年09月25日

『不眠症-スティーヴン・キング』 オレだってたまには泣く、その11

『不眠症』(上・下) スティーヴン・キング 文藝春秋

 メイン州の街デリーにまたもや悪魔の手が伸びる。デリーが危機にさらされるのはこれで何度目だろうか?登場するある意味では主役的存在だがあまり住みたくない街だ。
 そのデリーでキング作品でお馴染みの善と悪との戦いが繰り広げられる。『IT』では子供たち(後半では成長した大人として再登場する)が悪と戦ったが、今回の主役は老人たち。不眠症に悩まされる老人たちにデリーを狙う悪の姿が見え始める。普通の人たちはその存在すら気付いていない悪に老人は挑むことになる。

 主人公ラルフは妻の死をきっかけに始まった不眠症に苦しんでいる。その描写がひょっとしたらキング自身も不眠症なのではないかと感じさせるリアリティを持っている。オレ自身も不眠症で医者から睡眠薬を処方してもらっており、作中で描かれている不眠症患者の精神状態や思考に「そうそう、そうなんだよな」とうなずいてしまった。
 ラルフは不眠症という個人的な問題だけではなく、良き隣人であったはずの若い男が自分の妻や幼い娘を虐待する事件に出くわし、そこから次第に悪の存在に近づいていく。

 善と悪との戦いというのは幾度となくキング作品に登場するし、それがキングのテーマだと考える人もいるが、オレはキングは完全なる善(神)も信じていなければ完全なる悪(悪魔)も信じていないんじゃないかと思っている。コンピュータRPGゲームの古典『Wizardry』のプレイヤーキャラは善と悪そして中立という3つの属性のうちどれかに属することになっているが、キングのキャラクターは基本的に中立で、それが時に善に揺れ時に悪に動いているのだろう。完全なる善人がいないのと同じ理由で完全なる悪人もいないのではないだろうか。
 キングの信仰心についての知識はないが、神もいなければ悪魔もいないがそれに近いモノはいるというのが作品から受ける印象だ。
 キングと比較されることの多いディーン・クーンツも善と悪との戦いについて書くことが多い。クーンツは神を信じているしそれと同じ理由で悪魔も信じているのではないかと思う。
 ただ、それぞれまったく逆の印象を受ける時もあるので、まぁオレはそんなふうに考えているといった程度のことだ。

 ラスト近く、「成すべきことを成す」「片を付ける」、そのことが自分の命よりも重要という静かなシーンで泣いた。9月22日に紹介した『俺たちには今日がある』もそうだったが、どうやらオレはそのシチュエーションに弱いらしい。ただそのシチュエーションは「自己犠牲」とは断じて違う。

 上巻の帯には「キング近年の最高傑作、ここに開幕」とあるが、近年の最高傑作はちと言い過ぎだろう。面白いのは確かだが普通のキング作品だ。もちろんキング作品の普通という基準は他の作家の普通より高いところにはあるだろう。
 上巻297ページの「テレビの犯罪特集や、ジャン=クロード・ヴァンダムが主演する映画と同じくらい嘘っぽいものだ」という表現にはその的確さに納得すると共に大笑いしてしまった。これがシュワルツェネッガーやスティーヴン・セガール、あるいはチャック・ノリスだと「嘘っぽい」が薄れてしまう。映画の内容だけではなくヴァンダムのどこか戯画的な部分、それがこの表現にぴったりだ。
 でも、そこがヴァンダムの魅力でもあると付け加えておこう。

 お薦めしたい作品ではあるが、上下2巻のハードカバーでそれぞれ3150円という価格が大きなネックだ。上巻だけ、あるいは下巻だけを買う人はいないだろうから両巻とも買うとなると合計6300円の出費になる。それだけの価値はあるのだが、普通はちょっと迷ってしまうだろう。
 早いところ文庫本でも出して欲しいものだ。全4巻で合計3200円ぐらいにはなってくれるだろう。

2005年09月26日

『僕に踏まれた町と僕が踏まれた町-中島らも』 オレだってたまには泣く、その12

『僕に踏まれた町と僕が踏まれた町』 中島らも PHP研究所
(現在入手できるのは集英社から出ている文庫版。リンク先はその文庫本の方である)

 2004年7月26日、泥酔状態で酒場から帰る途中の階段から転げ落ちて頭を打ち、脳挫傷となっていた中島らもが死亡した。
 オレは追悼の意味で本棚に並ぶ中島らもの著作をエッセイ・小説を問わずに片っ端から読んでいき、この『僕に踏まれた町と僕が踏まれた町』でついに泣いてしまった。オレにとって中島らもは大好きな物書きだったのだ。

『僕に踏まれた町と僕が踏まれた町』は中島らも本人の高校時代から始まり大学時代の途中までを描いたエッセイである。少年期の終わりから青年期の始まりまでと言い換えても良いだろう。
 始まってすぐに『O先生のこと』という文章がある。高校で漢文を教えていたO先生はどうやらアル中(アルコール依存症)らしく、いつも熟柿くさいにおいを漂わせている。
 中島らもが「なんとなく好きだった」というこのO先生はその後「ガスのホースを踏んで火が消えたのに気づかず、亡くなられた。水に映った月をとろうとしておぼれた李白の死に、似ていなくもない。」そうだ。
 ここを読んで悲しみと同時に悔しさがこみ上げてきて泣いた。
 おい、中島らも。勝手に死んでんじゃねーよ。まだこれからもっと面白い物を書いてくれるはずだったんじゃないのか。オレに読ませてくれるはずだったんじゃないのか。
 無頼な死に方だ、中島らもらしい最後だといった感想をいくつも目にしたがオレはそんなセンチメンタリズムやロマンなんか感じない。どんな死に方だろうと死とはただ単に死んだだけだ。他人のために命を投げ出した自己犠牲の死も、通り魔に刺された死も、病死も事故死もどれもこれも単に死だ。
 中島らもの死も「李白に似ていなくもない」がそれがどうしたというのだ。

『O先生のこと』は中島らもの死がなければ泣かなかった文章だ。『007/ワールド・イズ・ノット・イナフ』でQ(デスモンド・リュウェリン)が床下に消えていくのを観て泣いてしまうのと一緒でその作品+その人物の死によって泣いているのだ。
 そもそも泣くことは好きではないが、こういう泣くは特に嫌いだ。

2005年09月27日

『ニワトリはいつもハダシ-火浦功』 オレだってたまには泣く、その13

51yk1tluuqL._AA240_.jpg『ニワトリはいつもハダシ』 火浦功 角川文庫

 主人公のいい加減で無責任で締め切り破りな遅筆SF作家壬生マコト(作者である火浦功自身がモデルと思われる)はついにホテルにカンヅメになって原稿を書いている。いや、正確には書いてはおらず、いかにして部屋の前に貼り付いて見張っている編集者沖田の目を盗んで逃げ出すかに頭を絞っている。すると7階にあるその部屋の窓から、黒ずくめのスーツを着込みリボルバー拳銃のコルト・パイソンを持った殺し屋ハジキのジョーこと木暮譲次が入ってくる。その肩には一羽のニワトリ(名前は知世)が乗っていた。
 そして物語は動きだす。ホテルで殺人事件が起こり、捜査一課の近藤警部(成田三樹夫似)が捜査にあたり、流しの女子大生探偵まで登場してくる。
 謎のメッセージ「金のよーかん 銀の耳」をめぐってハチャメチャギャグ+ハードボイルド+ミステリーが始まったのだ。

 角川書店の『野生時代』に連載された小説を加筆訂正の上でまとめられ、1988年2月25日に発行された文庫本である。連載時はかなりいきあたりばったりで進められたらしい。あとがきによるとラストは唐突に台風が襲ってきてうやむやのうちに終わってしまうのだとか。そちらも読んでみたい気もするが『野生時代』の1987年11月号を手に入れるのは古本屋巡りをしてもかなり難しいだろう。
 文庫版ではちゃんしたと決着がついて終わる。若い二人組の殺し屋が最期を遂げるシーンでぐっときて、ラスト近くのハジキのジョーと近藤警部の会話で泣く。一見なんでもなさそうなちょっとした言葉の交わし合いなのだが、片や殺し屋で片や警官と立っている側は違えども、お互いに認め合った古い馴染みのプロ同士の会話だ。泣けるぞ。
 ハジキのジョーはどう考えても日活映画で宍戸錠が演じた永遠のキャラクター「エースのジョー」がモデルだろう。ビリヤード場がプールバーになり、ブティックのハウスマヌカンが登場する(普通のブティックでも普通のハウスマヌカンでもないが)1987年というバブル全盛の時期をハジキのジョーは昭和30年代を背負ったままそれを貫く。ハードボイルドである。そのハードボイルドを成立させているのが肩に乗せたメンドリの知世だろう。おそらくはオレが『ロジャー・ラビット』についての文章で書いているのと同じ理由だ。

 火浦功は文体というか文章のリズムが性にあってかなり好きな作家なのだが遅筆のためか寡作だ。ハヤカワの『高飛びレイク』シリーズや角川の『ガルディーン』シリーズは永遠に続巻が出ないままなのだろうか?
 文章からはスラスラと書いているといった印象を受けるが、実際は一行一行一文字一文字を絞り出すように苦労して書いているのだろう。簡単そうに見える物ほど実は難しかったりするのだ。オレも難解な文章の方が書くのが楽だなと思うことがある。図書室に収録してあるエヴァンゲリオンの二次小説などを書くときには手元に火浦功の『ファイナル・セーラー・クエスト ひと夏の経験値』が置いてあった。文章につまってキーボードを打つ手が止まると『ひと夏の経験値』を読んでリズムを掴んではまた書き始める。そう考えるとオレは火浦功にお世話になっているのだ。

 ハードボイルドSF短編集『死に急ぐ奴らの街』も泣ける。『ニワトリはいつもハダシ』は絶版で古本屋でしか手に入らないが、『死に急ぐ奴らの街』は徳間デュアル文庫として2001年に復刊されたことがあるのでまだ入手が可能かも知れない。ただ、最初に徳間書店の新書版として発行されたときの表紙はハードボイルドしてて好きなのだが、デュアル文庫の方はアニメ風のイラストになっていてオレとしてはがっかり。本屋で見つけて「これは違うだろ!」と叫びたくなったものだ。でも結局は買ったのだが。

2007/10/21追記
 最近になってソノラマノベルズにて復刊された。なんと、雑誌掲載版と文庫化版の二作が丸々と収録されたいて、気になっていた台風ラストも読むことが出来る。
 元俳優で、今作の編集者だった高柳良一の解説も2007年版となっていて、そこではある驚くべき事実が記されている。まさか、そうだったとは!

2005年09月28日

『トラブル・バスター2 俺とボビー・マギー-景山民夫』 オレだってたまには泣く、その14

『トラブル・バスター2 俺とボビー・マギー』 景山民夫 角川文庫

 テレビの構成作家出身で、エッセイでユーモアの中に様々な真っ当ではないこと、不正義、不誠実さについての怒りを書きつづり、それらについての答えを求めたのだろうか、新興宗教の「幸福の科学」に入信してフライデー廃刊運動などにのめり込み、自宅でのボヤで焼死した景山民夫。
 オレ自身は宗教に興味がない、消極的にではなく積極的に興味がないが、景山民夫が答えを求めて宗教に進んだというのはまったく理解できないわけではない。ただ、宗教は生きていく上での指針、ガイドラインにはなるが答えは与えてくれないとは思っている。
 そして、景山民夫がどういう人物であったかとその作品がどうであったかは関係があるとも言えるし無いとも言える。
 傑作冒険小説『虎口からの脱出』やスティーヴン・キングの『シャイニング』を思わせるホラー小説『ボルネオホテル』など、景山民夫は何作もの面白い小説を書き残している。『トラブル・バスター』シリーズもその一つだ。

 主人公の宇賀神邦彦は根っからのテレビ屋だが、制作現場で幾度もトラブルを起こし、今では関東テレビの総務部総務課制作庶務係に籍を置いている。そこでの仕事は関東テレビで発生した様々なもめ事、つまりトラブルを解決すること。すなわち「トラブル・バスター」だ。
 離婚経験があり現在は一人暮らし(同居人として猫がいる)、そして額も徐々に後退しつつある宇賀神がテレビ局や芸能界の裏側で繰り広げる一人称ハードボイルド連作集だ。もはや私立探偵では嘘くさいし、刑事だと物語の制約が多すぎる。景山民夫は自らの古巣であるテレビ業界を舞台にハードボイルドを見事に成立させている。

 主人公以上に傑作なのが宇賀神の上司で制作局長の田所局長だ。「バカヤロー」を連発する口の悪さと服装の趣味の悪さ。だがこの田所が実に良いのだ。田所も根っからのテレビ屋でしゃべり方や外見はともかくまっとうな“男”である。宇賀神と田所のやり取りは過去の様々な作品でお馴染みなウェルメイドさを持っているが読んでいて楽しい。
 第2巻『俺とボビー・マギー』の終盤で、宇賀神の身を守って怪我をした犬ボビー・マギーについての片を付けるため宇賀神はヤクザが運営する芸能プロダクションへと殴り込みをかける。そしてその事件のため、宇賀神はトラブル・バスターの仕事から外されてしまう。新しく配属になった史料編纂室は定年間際の爺さんが3人いるだけの閑職に思われたが、その実体は意外なものだった。
 そして、ラストに田所から電話がかかってくる。例によって「宇賀神か、バカヤロー」で始まる会話の内容は宇賀神を再びトラブル・バスターに戻すというものだった。「聞いてんのか、バカヤロー!」で終わるこの会話、といっても田所が一方的にしゃべっているだけの文庫本で6行ちょっとで泣いた。男だねぇ、田所局長。

 1996年に『さすらいのトラブルバスター』というタイトルで松竹制作の映画にもなっているがこれは基本的な人物設定だけを流用したまったくの別物。コメディ仕立てになっているがこれといって面白くもなく、単なる駄作。
 監督は井筒和幸。テレビで他人の映画にケチをつけてる場合じゃないだろうに。

2005年09月30日

『ストレンジャーズ-ディーン・R・クーンツ』 オレだってたまには泣く、その15

『ストレンジャーズ』(上下) ディーン・R・クーンツ(現在はディーン・クーンツと改名) 文春文庫

 前回で終了したはずの「オレだってたまには泣く 小説編」だが、スティーヴン・キングの作品を紹介しておいて、ディーン・クーンツを紹介しないのはやはり片手落ち。そこでクーンツ作品の中でも面白く読み応えがあるこの『ストレンジャーズ』を紹介する。
 この『オレだってたまには泣く』シリーズは比喩としての泣けるではなく、実際にオレの瞳から涙がこぼれたということが条件なので、ぐっときはしたものの泣いてはない『ストレンジャーズ』を紹介するのは少々ルールに反するが、番外編とでも考えて欲しい。

 カリフォルニアに住む作家、ボストンの女医、シカゴの神父、そしてニューヨークの現在は盗賊になった元特殊部隊の隊員。彼らはそれぞれ突然の精神的発作で遁走状態になったり、夢遊病で家の中にバリケードを作り立てこもったり、さらには銃で撃たれた警官や先が長くない女の子の病気を不思議な力で治したりしている。
 それぞれまったく違う場所に住み、違う世界を生きる彼らが夢に見るのは「月」だった。
 そして彼らは自らの中にある何者かによって封印された記憶の謎を解くべく、個々独自にだが不思議なほど同時期に行動を開始しある場所へと集まっていく。
 謎を解く鍵はネヴァダ州のごくありふれたモーテル。そこで一体何があったのか?彼らの身に一体何が起こっているというのだろうか?

 序盤から読者をぐいぐいと引き込んでくるクーンツ節が炸裂している。描写される人物が多少薄っぺらに感じるが、これをクーンツの欠点と見るか個性と見るかは人それぞれだろう。
 オレがジーンと来るのはボストンの女医に過去催眠を依頼された81歳の元奇術師で催眠術のパブロ・ジャクソンが、パーティー会場で出会った旧知の元情報活動を行っていた上院議員と話をするシーンだ。上巻の343ページから353ページに当たる。このシーンは異常に思える出来事の裏側になんからの組織がいることを匂わせる最初のシーンでもある。
 上院議員は渋々伝えられる情報を伝えた後、「この件には手を出しちゃいけない。これはきわめて危険なんだ」ときつく忠告をする。
 だがパブロは「八十一歳にもなると、面白いことなんかめったに起こらなくなるんだよ。」と手を引く様子を見せない。
上院議員は「君は考え違いをしている。」と最後の忠告、いや正確には警告をする。
 それに対するパブロの答えはこうだった。「そうかもしれんね。だぶんそうだろう。でもね・・・だったら、なぜ私はこんなに気分がいいんだろう?」

 カッコいいじゃねぇか、ジジイ。このまま催眠治療を続ければどんな危険が襲ってくるか、そしてその危険は女医から手を引くことで解決する。その2つの事項がわかりながらも手を引くことを拒否し、自分の娘のように思えてきた女医を助けるために腹をくくるこのシーンがジーンと来る。もうちょっとで泣きそうなぐらいに感じる。
 その100ページほど後でパブロは・・・

 登場シーンもさほど多くはなく、脇役の一人に過ぎないのだが、パブロ・ピカソから名前をもらったというこの老人がオレにとって一番のひいき登場人物だ。