« 『ティアーズ・オブ・ザ・サン』 in the Jungle | メイン | 『オズ』 ドロシー、オズへと帰る »

『ブラックホーク・ダウン』 実は『エイリアン2』

B00018GYC4.jpg『ブラックホーク・ダウン』(2001) BLACK HAWK DOWN 145分 2002/04/12鑑賞

監督:リドリー・スコット 製作:ジェリー・ブラッカイマー、リドリー・スコット 製作総指揮:ブランコ・ラスティグ、チャド・オマン、マイク・ステンソン、サイモン・ウェスト 原作:マーク・ボウデン 脚本:ケン・ノーラン、スティーヴン・ザイリアン 撮影:スラヴォミール・イジャック 編集:ピエトロ・スカリア 音楽:リサ・ジェラード、ハンス・ジマー
出演:ジョシュ・ハートネット、ユアン・マクレガー、トム・サイズモア、サム・シェパード、エリック・バナ、オーランド・ブルーム

 ブラックホークが落っこちた、落っこちた、落っこちた。ブラックホークが落っこちた、さぁどうしよう?
というわけであれやこれやあったあげく、金と銀でできたブラックホークが作られパイプを加えた番人が見張ることになりましたとさ。だったら平和だったんだけどねぇ。

 内乱が続くソマリアの市内へアイディード将軍襲撃のために、アメリカ軍特殊部隊を載せた多目的ヘリ“ブラックホーク”が送り込まれる。軍用のヘリで“ブラックホーク”なんて名前だから“ヒューイコブラ”みたいな精悍な戦闘用ヘリかと思ったら寸胴な多目的ヘリだった。あれじゃ鷹(ホーク)というよりガチョウだな。そして、ソマリア民兵の放ったロシア製対戦車ロケット砲“RPG”のロケット弾によって乗員を乗せたまま墜落してしまう。対戦車用兵器でヘリコプターを墜とすとは、ソマリア民兵はなかなか応用が利くな。
敵地の取り残されたアメリカ兵を救出するためアメリカ軍はヘリの使用は諦めて軍用車両ハンビー(ジープの後継車。こいつの民生版がハマーだが、んな化けモンを街中で乗り回すんじゃねぇ)部隊などを送り出す。こうして、少数のアメリカ軍特殊部隊対雲霞のごときソマリア民兵との戦いが始まった。
 ここから始まる市街戦は確かに迫力抜群で、5.1ch音響システムで観ると部屋の中をピュンシューンと銃弾が飛び交っているかのようだ。市街戦メインの映画というのは意外に少ない。セットが大がかりになるためだろうか。ベトナム戦争を題材にしながらジャングル戦を描かなかった『フルメタル・ジャケット』後半のサイゴン(だったけ?)市街戦やスピルバーグの『プライベート・ライアン』辺りが記憶に残るが、近代装備での市街戦となるとこの『ブラックホーク・ダウン』の戦闘シーンが突出している。中盤からラストまで延々と続くこの戦闘シーンは観て損なし、というか観ないと損。

 だが、戦闘シーンからちょっと目を離すと、果てさてどんなもんだろと首をかしげたくなることが多い。
敵陣に取り残された味方を救出するために決死の作戦に出るというのは戦争物ではお馴染みのシチュエーションだ。そして数的に絶対有利な相手に対して最後まで諦めずに戦うというのもお馴染みだ。そしてこれらは、味方だけではなく敵側もプロの軍隊、プロの軍人だからこそ血湧き肉躍る戦争映画になるのではないだろうか。
『ブラックホーク・ダウン』の敵はソマリアの民兵だ。民兵というのは時折訓練はあるものの平時には民間人として一般の仕事に就き、一朝ことあらば銃を持って兵士として戦うというものだ。『ブラボー小隊 恐怖の脱出』(1981)に登場したアメリカの州兵や古くは日本の屯田兵なんかも多分そうだ。
だが、この映画のソマリア民兵はそういった所謂民兵ではなく“民間人の服装をした兵士”のようだ。大した訓練も受けていないようで兵士としての熟練度は低く、ひょっとしたら“武器を持った民間人”がその正体ではないだろうか。もちろん、アメリカ軍が民間人を殺したとあってはさすがに問題になるから「あれは軍人だ。民兵だ」という主張をくつがえさないだろう。
ラストのクレジットによるとアメリカ側に19人の死者が出てソマリア側の死者は千人を超えるとある。何人かのアメリカ兵を助けるためにどれだけのソマリア民兵を殺してんだよ、殺しすぎだろって感じだ。命の換算レートで言うと「わしらアメリカ兵1人の命は、お前らソマリア民兵500人分じゃけんのぉ」ぐらいの印象だ。

 戦争映画には敵がいる。その敵側の描写が少し入るだけでかなり違ってくるのではないだろうか。この映画ではソマリア民兵は人間というより『エイリアン2』のエイリアンみたいなものだ。殺すか殺されるかだけで、話し合いによる意思の疎通など不可能ということらしい。それどころか、ラスト近くのエリック・バナによると自国の民間人とすら心を通じ合わず信頼するのはアメリカ軍人同士のみ。戦う理由も、世界平和のためではなく、アメリカの平和のためですらなく、同じアメリカ軍の軍人仲間のために戦っているそうだ。
『ティアーズ・オブ・サン』にあった現地人への感情移入や仲間以外の命への配慮などは欠片もない。ここまで、アメリカ至上主義を通しているとそれはそれで見事だ。
もっとも、そういった感想は映画の見方として意味がないというか一番つまらない見方だと思うので反省。

 わたしは戦争映画が好きだが、それはプロの軍人同士が知力・体力・時の運の限りを尽くしてアメリカ横断・・・いやいやいや、尽くして戦い合う姿が格好いいのだ。その格好良さが『ブラックホーク・ダウン』にはなかったのが残念だ。

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.jion-net.com/mt/mt-tb.cgi/4142

コメント (4)

@:

>殺すか殺されるかだけで、話し合いによる意思の疎通など不可能ということらしい。それどころか、ラスト近くのエリック・バナによると自国の民間人とすら心を通じ合わず信頼するのはアメリカ軍人同士のみ。戦う理由も、世界平和のためではなく、アメリカの平和のためですらなく、同じアメリカ軍の軍人仲間のために戦っているそうだ。

これはまさにそうです。戦場を想像してみてください。「殺すか殺されるかだけ」です。米兵はソマリアの言葉も文化も分からない。逆にソマリア人も米兵の言葉も文化も分からない。それが「話し合いによる意思の疎通など不可能」という事です。実際の戦場で銃を向き合わせて殺しあいしてるときに何を考えてる暇がありますか?仲間以外に自分を助けてくれる人間はいません。まさに「世界平和のためではなく、アメリカの平和のためですらなく、同じアメリカ軍の軍人仲間のために戦っている」という状態です。東森さんは、それを妙に勘ぐって悪い方に解釈してますが、悪く思おうが良く思おうが、それが実際の戦場の"現実"でしょう。これはアメリカ至上主義ではなく、兵士の視点で、非常に現実的に戦場を見たときに導きだされた冷酷な現実です。
もし東森さんがあの戦場で兵士の立場になったとき、どうしますか?銃を向けてくる言葉も通じない敵に意思疎通をはかる暇はありますか?戦ってる時に、自国のためだの世界平和だの考えてられますか?自分の命と仲間の事で精一杯でしょう。ブラックホークダウンはお約束の戦争映画ではなく、戦場とはどういうものなのかという事に迫ろうとしています。
あと命のレートだとか言ってますが、あの数字はそんな事が言いたいのではなく、残酷な結果をただ伝えているだけです。「アメリカ兵がソマリア民兵を殺した」と同時に「ソマリア民兵がアメリカ兵を殺した」んです。都合が悪い数字ならいくらでも隠せます。隠さずに字幕にして死者数を観客に伝える意味を考えましょう。
長々と失礼しました。

東森時音:

@さん

実際のソマリア事件がどうであったかはわたしにとっては関係ありません。『ブラックホーク・ダウン』という映画を観ているだけでして。
で、『ブラックホーク・ダウン』という戦争映画ではプロの軍人対プロの軍人の戦いが繰り広げられるのではなく、プロの軍人対武装した民間人の戦いだったと。『民兵』とは言ってますが、あれは正規の軍事訓練を受けた兵士ではなく単に武装した民間人でしょう。
そこら辺はいろいろ事情があるのでしょうが、わたしが戦争映画に求めているのはプロとプロの戦いでそこが違っていたのであまり面白くなかったなと。
で、言葉も通じないソマリア人はアメリカ兵士にとって突き詰めてしまえばエイリアンと同じでしかない。まあそんなことを書いたわけです。
命の換算レートですが、この作戦はもともと民兵との実戦が目的ではなかったわけで、ブラックホークの墜落によって敵陣に取り残されたアメリカ兵を救出するための軍事行動になってしまった。
戦闘の目的はアメリカ兵士を助けるためでなのだから
「アメリカ側に19人の死者が出てソマリア側の死者は千人を超える」
ということはアメリカ人19人=ソマリア人1000人という価値比率は、詭弁ではありますが一つの答えではあるかと思います。

もちろん、実際の戦場では自分が生き残ること、そして自分の仲間を生き残らせることだけが最も重要であって、そのために敵の兵士がどれだけ死のうが問題ではない。ということこそ最終的な1番目の真実だと思います。
そして、そのためであっても非武装の民間人は傷つけないというのが2番目の真実でしょう。
で、3番目に命令には従う。
なんか、「ロボットの三原則」みたいですね。本当の戦争や軍隊については全く知りませんが、それなりの数の戦争映画を観てきての結論が下の言葉です。
「自軍の勝敗はともかく、自分が死んだら負け、生き残ったら勝ち。」

現場で戦う兵士にとって自分に向かって発砲してくる相手が誰でどんな政治的理由があるかなんてのは確かに考えている場合じゃありません。
しかし、映画としては常にアメリカ側の視点である必要はないわけで、アイディード派やソマリアという国について多少は描くことも可能なはずなのに、監督のリドリー・スコットや脚本家はほとんどそれを描きませんでした。そこに政治的スタンスがあったのか無かったのかはわたしが知ったこっちゃないですが、なんらかの意図は感じられるのは気のせいでしょうか?
いっそのこともっと思い切って前線兵士の視点でのみ語られていればそいうものかと納得しますが。

「お約束の戦争映画」と言われてますので戦争映画はいろいろとご覧になっているのでしょう。
すると当然、戦争映画の傑作である『戦争のはらわた』や『最前線物語』、岡本喜八の『独立愚連隊、西へ』などは常識として観ていることと思います。それらと比べると『ブラックホーク・ダウン』は戦争も戦場も兵士も現実もまるで描けていなかったなというのが結論です。

それと、わたしが戦場で敵と対峙して銃を持つハメになったら、上官の目を盗んでとっとと逃げ出します。戦争をやるのは軍人。でもって、わたしは軍人にはなりたくない職業No.1です。戦争になったら戦場で死ぬってのつまるところ軍人の仕事内容ですから。

name:

「二番目の真実」なんていってるけど、それは単なる「机上の空論」。
「非武装の民間人」と「正規の軍事訓練を受けた兵士ではなく単に武装した民間人」が混在してるからこうなるんでしょうが。民兵がそういう民間人たちに紛れて攻撃してくるんだよ。
民兵は、「軍人」じゃなくてそういう「武器を持った民間人」なの。だからよりタチが悪い。
自分で勝手に「民兵」の定義を州兵だの屯田兵だのと狭めて、そこから主張がどうのこうのと言ってるけど、なにを勝手に一人で歪曲して勘違いしているのかと。
映画では民兵とは「正規の軍事訓練を受けた兵士ではなく単に武装した民間人」だし、これを軍人だと主張することもない。そんな民兵だからより大変なわけ。
「民間人が一人も存在しないようなプロ対プロだけの戦場」とは程遠い戦場なの。「民間人と、民間人と区別付かないような民兵vsプロの戦場」。
あんたの脳内にある机上の空論が通じないような戦場を描いているんだと分からないの?
そんな絵に描いたような戦場だったら逆に苦労しないし、こんなに死者もふくれあがらない。順番が逆。なぜこんなに死者がふくれあがったかといえば、「民間人が一人も存在しないようなプロ対プロだけの戦場」じゃなかったから。
アイディード派やソマリアについてもきちんと描かれている。敵の描き方にもきちんと注意を払われている。敵をどう描くかも監督・脚本家はきちんと考えている。歴史や背景をきちんとふまえてる。逆に、他の戦争映画がそういう部分を描いているかを自問してみたら?
『戦争のはらわた』や『最前線物語』、岡本喜八の『独立愚連隊、西へ』が戦争も戦場も兵士も現実も描けているってどこが?具体的にどの戦場のどの兵士のどの現実が描けているのか??さすがに滑稽に聞こえる。戦争映画見て分かったつもりになってないで、歴史や政治の勉強したほうがいいよ。
「アメリカ至上主義」という帰結も意味不明。「アメリカの平和のため」だとか「国益のため」だとか言ってるならそうなるだろうけど。そういう理由を否定してるのだからアメリカ至上主義とは真逆。国のためなんかには戦ってないという宣言。国のために戦っている兵士がいたか?アメリカ至上な兵士なんていたか?
「戦争をやるのは軍人」も間違い。こういう下らない認識してるから映画を読み誤る。戦争をやるのは国(政治)であり、その国が軍隊を送り込み、
その軍隊に命令されて、現場の兵士が「戦場で死ぬ」をやらされる。映画でもそういう指揮の系統を丁寧に描いているんだけど。国と兵士を混同しないように。
あんたの「戦争になったら戦場で死ぬってのつまるところ軍人の仕事内容ですから」みたいな考えこそ「自国の民間人とすら心を通じ合わず」に通じるんだけど分かる?兵士は色んな意味で「孤立」してる。現場に一緒にいる「仲間」だけしかいない。

結局の所、政治的スタンス、妙な意図を持って見てるのが 東森時音自身でしょ?
自覚ある?色んな変な定義(語句や戦争映画というジャンルに対して)も脳内でできあがってるし。「戦争映画を見て戦争を戦場を兵士を現実を知ってる」なんていくらなんでも恥ずかしすぎるよ。
そういうのを捨て去って、もう一度きちんと映画を見る必要があるのでは?

nameさん

民兵の意味の取り違えなどご指摘いただきありがとうございます。勉強不足を痛感しました。
私は実際の戦争について書いているわけではなく“戦争映画”としての『ブラックホーク・ダウン』について書いているわけで、歴史から観てこの作品がどうであるについては興味がありません。実際の戦争がどうだろと、それと戦争映画は別ですから。史実を元にしていようがいまいが、映画は映画、現実は現実ですから関係ありません。
米軍兵士にもいろいろ登場しますが、そこでのリドリー・スコット作品にありがちなドラマ(エピソードの意味ではありません)のなさがつまらない。
自分が特定の政治的スタンスや意図を持って映画を観ているとは思いませんが、仮にそうだったとしても何が悪いのでしょうか。そういうnameさんが自分の意図とは違う映画の見方をしている人が気にくわないだけでは?人それぞれに個性があるわけですし、その個性の分だけ映画の見方も存在する。それでいいんじゃないでしょうか。

コメントを投稿 携帯電話からは投稿出来ません