『ハウルの動く城』(2004) HOWL'S MOVING CASTLE 日本 119分 2005/01/23鑑賞
監督:宮崎駿 プロデューサー:鈴木敏夫 原作:ダイアナ・ウィン・ジョーンズ 脚本:宮崎駿 美術監督:武重洋二、吉田昇 音楽:久石譲
声の出演:倍賞千恵子、木村拓哉、美輪明宏、我修院達也、神木隆之介、大泉洋、大塚明夫、原田大二郎
宮崎アニメの集大成的側面を持っているが、その割には心底のめり込んで作ったという感じはしない。なんか微妙な映画だ。
もうね、多分宮崎駿自身はいい加減引退したいのではないかと。前に「もう監督はやらない」発言をしていたし。宮崎のように自分でキャラクターデザインから世界観などの美術までやってしまう人は、映画の隅々の細かい点に至るまで自分で把握・管理し支配下に於かないと我慢がならないのだろう。実写の監督ならば美術・衣装・撮影の各担当者に監督によって程度は変わるがお任せして負担を減らせるだろうが、宮崎はかなりの部分が自分の背中に背負ったまま。そりゃ年も年だしいい加減疲れるわ。
だからってスタジオ・ジブリという所帯を持ってしまったからには、そこの人間を遊ばせているわけにもいかない。ジブリ自体は金銭的に余裕があるだろうが、映画作りをしないと現場の才能が育たないどころか枯れていくから、1~2年に1作程度のペースで新作を作らなければならない。本当はそこでそろそろ若手に監督をバトンタッチしてもいいのだが、それなりに才能を開花させていた『耳をすませば』(1995)は病死してしまうし、では他の奴はどうかと撮らせてみると『猫の恩返し』(2002)や『ギブリーズepisode2』(2002)などという駄作を出してくる。こりゃ、後を託そうにも頼りなくて引退できんわ。
そんなわけで、しょうがなく撮ったのではないかなと思われる『ハウルの動く城』には『もののけ姫』や『千と千尋の神隠し』が持っていた張りつめるような緊張感は存在しない。はっきりしたメッセージを打ち出しているわけでもない。ここしばらく精神的に追いつめるように撮っていた宮崎駿が、久々に肩の力を抜いて撮っている感じで観ていて少し嬉しかった。
主人公は地味な娘のソフィー。彼女は呪いで老婆にされてしまう。その声を演ずるのは倍賞千恵子で、最初は「老婆の時はともかく、若いときも倍賞なのかよ。若い役者がやったほうが良かったんじゃないの」と思ったが、観ている内にそれはまったく気にならなくなる。いや、映画を観れば分かるが、老婆のソフィーと娘のソフィーははっきり線引きされた異なる存在ではなく、彼女の心がときめくことによってボーダレスにその間を揺れ動く、突き詰めれば同一の存在なのだ。
ソフィーは今は亡き父親から譲り受けた帽子屋で働く地味な娘だ。母親は遺産で遊び暮らしているようだし、妹は社交的な性格でソフィーとは正反対だ。しかし、ソフィーはそんな母や妹を羨むことなくやはり地味に暮らしている。おそらく友達も多くはないだろうし、恋人はいない。これまであまり恋もしてきたことがないのだろう。だからひょっとすると、ソフィーは荒れ地の魔女呪いで若さを奪ったのではなく、その心の年齢にふさわしい姿に変身させたのかも知れない。
老婆になることによって初めて自分とはなにかという自我に目覚めたソフィーは、自身を模索するうちに心の中に固く縮こまっていた「ときめき」とでも呼ぶ物の存在に気付き、ときめくソフィーの心に合わせて時には姿が若い娘のそれに変わる。冒頭のソフィーは他人を寄せ付けず自分の殻にこもった娘だったが、問題なのは地味であることではなく他人への心の開き方なのだろう。
恋するとは自分以外に他人の存在を意識すること。つまり恋には自我の目覚めが不可欠である。城が動くとか飛行機械からの爆撃などが登場するが、突き詰めるところ一人の女性が自我に目覚めていく過程を描いた映画なのだ。
重要なのは外見ではなく心である、女はいくつになってもときめけば恋してもいいのだ、というこの映画の主張は、2004年に日本を席巻した『春のソナタ』へのオバサンの想いと同じ物なのかも知れない。だからハウルを演ずるのが木村拓哉なのだろう。どこか現実離れした生活感を感じない木村拓哉”という存在とその声は、才能溢れる魔法使いハウルにぴったりだ。もちろん、ハウルは同時にヨン様ことペ・ヨンジュンでもある。汗の匂いも男臭さも感じさせないハウルは、男の側から見ると現実味のない薄っぺらな存在にも思えるのだが、だからこそ理想的な初恋の対象になりうるわけで、遠い日の初恋を再体験もさせてくれるのだろう。
『ハウルの動く城』はもちろん韓国でも公開されるだろう。そのときのハウル吹替担当はペ・ヨンジュンでどうだろうか。