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2005年01月 アーカイブ

2005年01月01日

『ストレンジ・デイズ』 新年の映画、あるいは田舎者のおせち料理

『ストレンジ・デイズ』
(1995) STRANGE DAYS 145分 1996/01鑑賞

監督:キャスリン・ビグロー 製作:ジェームズ・キャメロン、スティーヴン=チャールズ・ジャッフェ 製作総指揮:レイ・サンキーニ、ローレンス・カザノフ 原案:ジェームズ・キャメロン 脚本:ジェームズ・キャメロン、ジェイ・コックス 撮影:マシュー・F・レオネッティ デザイン:シド・ミード 音楽:グレーム・レヴェル
出演:レイフ・ファインズ、アンジェラ・バセット、ジュリエット・ルイス、トム・サイズモア、マイケル・ウィンコット

アメリカ映画に1月1日新年というのはあまり題材として登場しない。その直前のクリスマスがわっと大イベントだからだろうか。何かなかったかなあと記憶をひっくり返して出てきたのがこの『ストレンジ・デイズ』だ。
舞台は近未来1999年末のロサンゼルス(製作が1995年なので1999年は近未来なのだ)。他人の体験を記録しそれをそっくりそのまま体感できる機器が存在し、犯罪の現場などを記録した闇ディスクを扱う元刑事を主人公に物語は進む。
黒人ラッパーを白人警官が射殺した事件や、ディスクが絡む猟奇殺人などが主人公に襲いかかる。そして2000年へのカウントダウンが始まり、街は2000/01/01 0:00を待ち受ける人々で溢れかえる。
もうこれでもかとネタはてんこ盛り。てんこ盛りすぎて145分という長さにも関わらず消化不良のまま終わっている。たとえて言うならば田舎者のおせち料理みたいである。数の子、伊達巻き、田作り、栗きんとんなどなど、もうこれでもかっとばかりに豪勢な品々がお重に詰め込まれているが、「あのねそんなに食べきれないから。お重も三段や四段重ねで並べきれないっつーの。あんたらちょっと気合い入れすぎでしょ。あーもう太田胃散持ってきて」といったところ。
それでもなんとなく納得してしまうのは伊勢エビ的存在にあたるラストのカウントダウンイベントのおかげだろう。大規模なセットが組まれ、何でもそのシーンのために用意したエキストラは1万5000人にもなるという。日当だけでも大変だ、こりゃ。たしかに画面に登場する人の数は膨大で、しかも「10、9,8・・・」などと盛り上がっているので映像としての迫力はある。
逆にこのシーンがなければSFとしてもサスペンスとしても中途半端な仕上がりで、ラストの真犯人のあまりにもな唐突さやつながっていないストーリーなどとても人に薦められる映画ではない。しょせん、キャスリン・ビグローといったところか。そもそもおせち料理に伊勢エビを入れてくるってのが田舎っぽく、ごてごてしすぎていてスマートさに欠ける。やっぱシンプルでしょ。
この場合の“田舎者”とはその人の産まれた場所や住んでいる場所のことではなく、その人がどういう人かという意味での田舎者である。念のため。今、ネットで高級ホテルや料亭が販売しているおせち料理を見てみたが正直うんざり。確かに美味しそうではあるけど、これでもかぁ!という豪勢さがかえって貧乏くさいよな。

ホウ・シャオシェンの『悲情城市』(1989)にも正月のシーンがあった気がするが(間違ってたらすまん)、あれは台湾なので旧正月(太陰暦)だ。太陽暦だと2月の出来事になるのでちょっと違う。新年になると同時に爆竹をやたらと鳴らすそうだ。
うちの近所でも昨夜の0時過ぎに花火がなっていたが同じような物か。だが台湾のは一つの文化だが、近所の花火はちょっと勘違いしちゃってる人の仕業って気もするが。

なにはともあれ新年。だからどうした、どうってこたぁない。

2005年01月02日

『チキン・パーク』 酉年だからニワトリの映画。でも観るなよ。

『チキン・パーク』(1994) CHICKEN PARK 90分 

監督:ジェリー・カーラ 製作:ガリアーノ・ファソ 脚本:ジーノ・カポーネ 撮影:ブラスコ・ジュラート 特撮:アントニオ・マルゲリティ
出演:デメトラ・ハンプトン、ジェリー・カーラ、R・デ・パルマ

新年である。酉年である。
酉年を言うことで今日は鶏にちなんだ映画にしよう。
そうだ、ここはやはり『チキン・パーク 』(1994)がいいだろう。この映画は(ボカッ)・・・



はっ、今なにかあったか。後頭部がまるで殴られたかのように痛いのだが。
えーでは改めて、鶏にちなんだ映画『チキン・パーク』(1994)を(ドゲシッ)・・・



はっ?うー頭が割れるように痛い。どういうことだこれは。それになにやら記憶の欠落があるような。今日のお題にする映画は何だったっけ?
むーーーーむーーー、そうだ『チキン・パーク』(1994)だ。っと振り向きざまに襲いかかる金属バットを鍋の蓋で受け止める。ふはははは、この塚原ト伝まだまだうぬがごとき未熟者には遅れをとらんぞ。えっ、もう二回とられてるって。こりゃまた失礼致しましたっと。

ともあれ『チキン・パーク』である。
タイトルからもわかるように『ジュラシック・パーク』(1993)の大ヒットに当て込んで作られたパロディ映画で、孤島を買い取った大富豪がそこで秘密の実験を行い巨大化したニワトリが暴れ回る基本ストーリーに、あれやこれやの笑えないパロディが満載されている。満載せんでいいのに。かなりトホホ度が高くやはりイタリアC級映画は侮りがたし。
これは“おバカ映画”ではあるが“バカ映画”ではない。観た人の反応はへっっと冷笑するか怒りに駆られるかのどちらかだろう。
ビデオ化されてから年月が経っているのでもう置いていないビデオレンタル屋がほとんどだろうが、大型ビデオレンタル店だとごくたまに目撃することもある。あなたがレンタル料金と90分という時間を無駄にしてもかまわない人でなければパッケージに伸ばしたその手を引っ込めるのが吉だろう。

2005年01月03日

『チキンラン』 酉年だからニワトリの映画。チキンと、いやキチンと観ろよな。

『チキンラン』(2000) CHICKEN RUN 84分 2001/04鑑賞

監督: ピーター・ロード、ニック・パーク 製作:ピーター・ロード、ニック・パーク、デヴィッド・スプロクストン 製作総指揮:ジェイク・エバーツ、ジェフリー・カッツェンバーグ、マイケル・ローズ、スティーヴン・スピルバーグ 原案:ピーター・ロード、ニック・パーク 脚本:カレイ・カークパトリック 撮影:トリスタン・オリヴァー、フランク・パッシンガム 音楽:ハリー・グレッグソン=ウィリアムズ、ジョン・パウエル、ジェームズ・マッキー・スミス、ジェフ・ザネリ
声の出演:メル・ギブソン、ジュリア・サワラ、ジェーン・ホロックス、イメルダ・スタウントン、ベンジャミン・ホイットロー

『第十七捕虜収容所』(1953)や『大脱走』(1963)に関する記憶が随所に見られることについて今回は語らない。
『オズ(RETURN TO OZ)』(1985)でわたしが初めて観た粘土によるアニメーションであるクレイアニメーションについても語らない。

イギリスにあるその養鶏場は捕虜収容所そのものだった。ナチさながらの冷淡な女所長と愚鈍だが任務に忠実な看守が支配する中、雌鶏たちの中に一羽そこからの脱出を試みる者がいた。しかし、その度に捕まっては地下室に放り込まれる始末。諦めの漂う中、一羽の雄鳥が空から落ちてくる。彼こそ「空飛ぶニワトリ」としてサーカスに出演している人気者ロッキーで、彼は自由を求めてサーカスを抜け出してきたのだ。
ロッキーの指導の元、空を飛んで脱獄するため筋肉トレーニングに始まってリズム感やバランス感覚などの特訓に励む雌鶏たち。だが、その間に女所長が密かにチキンパイ製造機計画を進める。これまでは卵の生産が目的だったのをチキンパイ製造業に乗り出そうというのだ。もちろんその原料のチキンは養鶏場の雌鶏たち。危機はすぐそばまで迫る。果たして彼女たちは見事飛べるようになって無事に養鶏場を逃げ出すことが出来るのだろうか?

スポ根において努力こそ絶対である。産まれ持った才能が劣っていても、努力と根性で自分より恵まれた者を倒すことが出来る。汗と涙を振り絞ぼって困難に立ち向かえば必ず勝利が待っている。それがスポ根の基本的価値観だ。
では、雌鶏たちは努力の結果飛べるようになったのであろうか?いや、血と汗をどれだけ流してもニワトリはニワトリ。しょせん空を飛べるわけがないのだ。(実際の世の中にはまれに「飛ぶニワトリ」がいるが、それは無視する)
「空飛ぶニワトリ・ロッキー」だって、自分の羽ばたきで飛んでいたのではなく、千切れたポスターの下半分が示すように大砲の力で空に向かって打ち出されていただけなのだ。
ニワトリはどれだけがんばっても彼女たちがニワトリである以上決して飛べはしない。冷酷だけど当たり前の事実。努力や根性では乗り越えられない壁が立ちふさがる。

そこで諦めてしまってはただの挫折したニワトリだ。努力と根性で駄目でも、まだ知恵と勇気がある。自分の羽で飛んで逃げ出すことが出来なくても、別の方法で逃げ出せばいい。柔軟たる発想の転換と勢い任せで突き進み彼女らが取った方法は、おおこれぞバカだ。こうして壁はその横をそしらぬ顔で通り抜けることによってあっけなく無力化する。
世の中、努力と根性で乗り切れるとこばかりではない。出来ない物はどうやったって出来ないという状況は必ずやあるのだ。そんな時こそバカである。わたしたち人間だって空を飛ぶことは出来ないが、代わりに飛行機やヘリコプターで空を飛ぶ。それらを作り出したのは「努力と根性の人」や「知恵と勇気の人」よりもむしろ「バカ」だ。
レオナルド・ダ・ヴィンチは当時の製作技術では到底不可能だというのに、実際に飛行可能な飛行機械の設計図やスケッチをバカだから何枚も何枚も描いた。オットー・リリエンタールは木組みに布を張った不格好にも見えるグライダーでバカだから何度も何度も2000回以上も滑空してついには墜落して死んだ。ライト兄弟は「空飛ぶ乗り物なんてありえねぇよ」という世間の声に負けずに本業で稼いだ金をせっせとエンジンの改良や風洞実験につぎ込んだバカだった。1947年10月14日に人類で初めてベルX-1で音速の壁を越えたチャック・イェーガーはアメリカの有人宇宙飛行黎明期を描いた『ライト・スタッフ』(1983)を観れば分かる通りバカだ。
そして雌鶏たちもバカだった。後は本編を観ろっ!

2005年01月05日

『星くず兄弟の伝説』 伝説には良いのと悪いのがあるが

『星くず兄弟の伝説』(1985) 98分

監督:手塚眞 製作:近田春夫 製作総指揮:近田春夫 原案:近田春夫 脚本:手塚眞 撮影:大沢栄一、飯田哲也 特殊メイク:原口智生 音楽:近田春夫
出演:久保田しんご、高木完、戸川京子、尾崎紀世彦、ISSAY、景山民夫、戸川純、中島らも

昔、『宝島』という雑誌があった。いや、一応今でもあるにはあるが、ロックやポップカルチャーで満ちあふれていた1985年当時の『宝島』とはとっくに別物で、若者向けカルチャー雑誌からヘアヌード誌を経て今ではビジネス誌になっている。あれこれ雑誌の形を模索した結果、ビジネスマンになっている往年の読者層を頼ることにしたのだろうか。
ともあれ、1980年代の『宝島』は時代のムーブメントの一角を担っており、『宝島』系の勢力も強かった。そしてよせば良いのに映画製作に乗り出してしまった。ここから『宝島』の転落は始まっていたのかも知れない。

『星くず兄弟の伝説』は名古屋では上映館にかからず、会場を借りて一日だけの上映だったそうだ。
わたしの先輩達が数人で観に行き上映後のホールで感想を言い合っていた。その中の一人であるU氏が「もう全然っ駄目。なんだこれはよぉう」と大声で貶していた。(またこのU氏は普通に話していても声がでかいのだ)ふと辺りが静まりかえったので振り向くと、トイレに行こうと通りかかった監督の手塚眞が立っていた。その後、手塚眞の作品が名古屋で上映されても監督本人がその地を訪れることはなかったいう。
嘘か本当か知らないが、わたしの所属していた大学のシネマ研究会に伝わる伝説である。でもって、このしょうもない伝説の方がまだ『星くず兄弟の伝説』本編よりも面白いのだから困る。
『宝島』誌に掲載されたかねてつ(現カネテツデリカフーズ)の広告を担当していた縁で故・中島らもが数カット端役で登場しているが、根っからの“ひどい映画”や“B級映画”ファンだった氏ですらエッセイの中で「あれはひどい失敗作だった」と書き記していることからもひどさが分かる。
主役のある久保田しんご、高木完ともにその後ほとんど名前を聞かない。むしろその二人よりも、その追っかけ役で後にアイドルデビューする少女を演じた戸川京子の可愛らしさが印象に残っている。なんでこの人が戸川純の妹なの?と尋ねたくなるような似てない姉妹だったが、戸川京子は2002年7月に自ら命を絶ってしまった。内面では似ていたのだろう。
そう言えば中島らもと相方で景山民夫が出演していた。考えてみると製作年度や出演者の年齢にしては故人の多い映画だ。
音楽プロデューサーに見いだされたスターダスト・ブラザーズが大ヒットするシーンでは、『笑っていいとも』や『オレたちひょうきん族』の1コーナーだった『ひょうきん・ベストテン』に出演する二人が映し出される。これが映画の宣伝でテレビ出演した時の録画をそのまま使っており、予算もあまり多くはなかったことを感じさせる。
ラストで黒幕が登場するがその正体はクレイジーキャッツの『大冒険』へのオマージュないしパクリだったのだろうか?唐突でただもう破綻している。多分現場も破綻していたのではないだろうか。
そんな中、音楽プロデューサーを演ずる尾崎紀世彦がかろうじて映画が吹き飛ばされないよう重しになってくれている。始終サングラスをかけたこのプロデューサーは時に自らマイクを取ってスタンダードナンバーを歌う。もうサビの部分しか憶えていない『若者たちの心にしみる歌の数々』などの劇中歌は、さすが『また逢う日まで』などの大ヒット曲を歌った人だけの迫力がある。
何故に尾崎紀世彦がこの作品に出演しているのか不思議だったが、今回フィルモグラフィーを調べていてこの人は大林宣彦の『HOUSE』(1977)にも出ているのに気が付いた。大林と言えば『ねらわれた学園』(1981)で手塚眞を役者として起用するなど手塚眞との関係は深い。そのつてで紹介してもらったのだろうか。もちろん、わたしは大林宣彦嫌いなので、これは大林が手塚の才能に惚れ込んで後押ししたのではなく、手塚のバックにいる人物に媚びを売っただけではないかと推測している。
手塚眞という監督は東京で自主映画を撮っていた人で、これが一応のメジャーデビュー作になる。自主映画はそれほど悪くなくそこそこ面白い物を撮っていたらしい(未観)。アマチュアの世界でかなり上の位置にいて、「あいつはすごい」「超○○級だ」と鳴り物入りでプロデビューしたら全然通用しなくてそのまま鳴かず飛ばずというのはよくあることだ。だから『星くず兄弟の伝説』と“手塚眞”も単なるそういった事例の一つに過ぎないはずなのだが、それをそうさせない大きな要因が手塚眞が“日本を代表する大マンガ家の手塚治虫の息子”だったことにある。
かなりの失敗作だった『星くず兄弟の伝説』は手塚治虫という存在によって、それこそ伝説とも言える大失敗作になってしまった。
現在、手塚眞は監督ではなく“ヴィジュアリスト”なる肩書きを名乗っている。前向きに名乗っているのではなく“映画監督”など他に名乗れるような肩書きがないからだと推測する。

2005年01月06日

『シンガポール・スリング』 外国のガソリンスタンドでは窓を拭いてくれない

『シンガポール・スリング』(1993) 104分 1993/09/18鑑賞

監督:若松孝二 製作:山科誠 プロデューサー:鍋島壽夫、小嶋敏治、川越和実 企画・原案:徳永英明 脚本:丸山敏治、上野火山、若松孝二 撮影:鈴木達夫 美術:デビット・コッピィング 編集:鈴木歓 音楽:徳永英明
出演:加藤雅也、秋吉満ちる、白竜、原田芳雄、デビッド・ハドソン、レイフ・チャールトン

近所にセルフ式ガソリンスタンドがオープンしたとのチラシが入っていた。
愛車のFUELメーターも半分を切っていたので様子見がてらガソリンを入れに出かけた。
地図に書かれた所在地にはただだだっぴろい更地があるだけで、「いらっしゃいませ」と出迎えた店員がわたしにツルハシとヘルメットを渡してきた。
「スタンドを建てるところからセルフでやれってか」
むっとしたわたしの問いに店員は笑顔のまま応えた。
「いいえ、油田を掘り当てるところからですよ」

・・・セルフ式ガソリンスタンドも軒数が増えかなり普及してきたようである。
だが1993年頃にはセルフ式ガソリンスタンドはまだ日本にはなく外国映画の中などでしか見かけない馴染みの薄い物だった。
加藤雅也と秋吉満ちるが演ずる若い男女は新婚旅行でオーストラリアを旅行中で、二人もまたセルフ式ガソリンスタンドなど知らなかった。
レンタカーでドライブ中にガソリンスタンドに入った二人は店員に窓を拭いてくれるよう「ウィンドウ、クリーン、クリーン」などと片言の英語で話しかけ窓を拭くジェスチャーをするが、店員からは「自分でやれ」と雑巾を投げ渡されるだけだった。
「なんだよ」「サービス悪いね」などと文句を言い合う二人だが、外国では窓を拭く無料サービスは一般的ではない。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』における1955年のシーンでは、ガソリンスタンドに入ってきた車に店員が4~5人がかりでよってたかってボンネットを開けて点検したり窓を拭いたりのサービスづくしをしているが、あれも景気の良い時代の象徴であって1985年から訪れたマイケル・J・フォックスには時代のギャップを感じされる物の一つだ。
このガソリンスタンドのシーンに象徴されるように主人公の二人はごく普通の日本人だった。その危機感の無さからボディガードに囲まれリムジンに乗った男を「あれ、有名人かな?」などとカメラを向けパシャパシャと写真を撮ってしまう。ところがその男が有名人どころか犯罪組織の幹部でオーストラリア政府高官との密談中の光景だったために、二人は犯罪組織に目を付けられることになる。
犯罪組織は当然カメラを奪いに来るが、そのカメラがあるトラブルでオーストラリア暮らしをしている原田芳雄に持ち去られていたために、代わりにホテルの部屋にコカインを置いて警察に密告し、結果加藤雅也は刑務所に入れられてしまう。そして秋吉満ちるは夫を助けるため日本大使館や弁護士などへと奔走する・・・

とりあえず監督が若松孝二なので劇場に行ったが、なんで『壊れかけのRADIO』の徳永英明が原案・企画の映画なんか観なきゃいかんのよと思っていた。だが、外国の生活習慣などを知らない平和慣れした日本人がそれゆえに事件に巻き込まれているとく導入部はなかなか面白い。
若松孝二とは縁の深い原田芳雄が過去を背負い放浪の果て異国で暮らす男を演じていて、日本映画ではなかなか描きにくいタイプのキャラクターに説得力を感じさせるのはさすがだ。
オープニングでは片言の英語しかしゃべれなかった二人が、いざ刑務所に放り込まれ片やオーストラリアで一人暮らしをして事件に挑んでいくととたんに英語がペラペラになるというのは事件の発端から考えると違和感があるが、英語をしゃべれないままだと話が進まないし、日常会話レベルで英語を話せても外国での危険な行動を知っているいないはまた別なので、二人とも実地レベルでの英語の上達がものすごく早かったということで納得しておこう。
オーストラリア原住民アボリジニの男やその仲間が関わってくるがこれは取って付けたようで少々蛇足だった。もう少し突っ込んで描くか、いっそのことない方が良かった。
脱獄から終盤にいたるアクションシーンは想像される製作予算から考えると悪くはない。
しかし、なんでオーストラリアを舞台にした映画のタイトルが『シンガポール・スリング』なのかは未だに謎のままだが。

2005年01月07日

『エーミールと探偵たち』(2001) こりゃ別物か?いや、やっぱり同じだ

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『エーミールと探偵たち』(2001) 映画原作 EMIL UND DIE DETEKTIVE 90分 2005/01/05WOWOW放送録画で鑑賞

監督:フランツィスカ・ブッフ 製作:ウッシー・ライヒ、ペーター・ツェンク 原作:エーリッヒ・ケストナー 脚本:フランツィスカ・ブッフ 撮影:ハネス・フーバッハ 美術:アルブレヒト・コンラート 編集:パトリシア・ロンメル 音楽:ビーバー・ギュラッツ、エッケス・マルツ
出演:トビアス・レツラフ、アンニャ・ゾマヴィラ、ユーゲン・フォーゲル、マリア・シュラーダー、カイ・ヴィージンガー、ルドルフ・コヴァルスキー、タンド・ヴァルバウム

エーリヒ・ケストナーの『エーミールと探偵たち』(『エミールと探偵たち』と表記される場合もある)は1929年にドイツで出版された児童書である。
それまでの児童文学に登場する子供たちは「子供はこうであるべき」「良い子とはこういう子である」という大人から見ての良い子主義で描かれることが多かった。そんな中、『エーミールと探偵たち』は悪ガキだったり怠け者だったりと比較的等身大の子供の姿を登場させて、反面教師的役割ではなくその子たちを活躍させた点などで児童文学で大きな役割を果たした小説である。
子供たちの圧倒的な支持を受けた『エーミールと探偵たち』は1931年には『少年探偵団』のタイトルで本国ドイツで映画化され(脚本はなんと若き日のビリー・ワイルダーが担当した)、原作の解説によると1932年にはイギリスやスペインでも映画になったという。さらに第二次大戦後の1954年には『エミールと少年探偵団』として再度ドイツで映画化され、1964年には海を渡りアメリカで『エミールと探偵たち』のタイトルで映画になっている。この映画化の数からも『エーミールと探偵たち』の人気ぶりが分かるだろう。

2001年版は舞台をドイツに戻したが時代は原作の1920年代後半ではなく現在に変更されている。残念ではあるが街中を子供たちが飛び回るシーンが多くロケの困難さなどから考えると妥当な変更だろう。
それ以外にもかなりアレンジが加えてあり、途中では「こりゃ別物か」と思ったが最後まで観たら「いや、やっぱり同じだ」だった。
まずは主人公であるエーミールが、父親思い(原作の母子家庭から失業中の父子家庭へと変更されている)で頭は良い子ではあるけれど、父親の偽造免許証を手に入れようとしたり空腹に耐えかねて飲食店から食べ物を盗もうとしたりなど、少々素行が悪くなっている。いくら1929年当時には等身大に近い子供として描かれていたとしても、今となってエーミールは少々良い子すぎるのだ。
そして、女の子ポニーと男の子グスタフの役割が入れ替わっている。2001年版では女の子のポニーが仲間の悪ガキたちを集めて探偵となり、グスタフが眼鏡をかけた優等生として登場する。男の子のエーミールと女の子のポニーが中心となってストーリーが展開していくのは悪くはない。ただグスタフの警笛がなくなったのが残念か。
悪ガキの探偵たちは割と原作そのまま。エーミールのお金を盗んだ悪党を捕まえようという理由が、正義感と言うよりも映画やテレビみたいで格好いいとか単に騒ぎが好きだからといった具合だ。通りを歩くポニーの呼びかけで子供たちが段々と集まってくる様子が愉快で、ドイツ語ラップにちょっと「おいおい」と突っ込みたくなるが良いシーンだ。ホームレスの双子や様々な人種の子がいることから不況が続きEU市場統合で人々の入れ替わりがある現代のドイツの姿が見えたりもする。
原作ではいかにも紳士めいた男の正体が実は悪党だったが、そういう「人を見かけで判断してはいけない。油断大敵」といった教訓めいたことはきっぱり省かれ、いかのも悪そうなチンピラ風の男が実際に悪党なのは分かりやすいが「人は見かけで判断しろ」ってことだろうか。この日本の昨今は、「良さそうな外見の人だろうと悪そうな外見の人だろうと、とにかく知らない人には用心しろ。いや、知ってる人にも用心しろ。さらには親にだって用心しろ」という世の中だ。やれやれ、子供でいるのも大変だ。
ラストの山のような数の探偵たちによる大追跡は爆笑。チンピラもとんだ子から金を盗んでしまった。

「合い言葉は?」
「エーミール!」

2005年01月08日

『超能力だよ全員集合!!』 新人の志村けんは精彩に欠ける

『超能力だよ全員集合!!』(1974) 90分 2005/01/08WOWOW放送を録画にて鑑賞

監督:渡辺祐介 製作:沢村国男 原作:渡辺祐介 脚本:渡辺祐介、田坂啓 撮影:荒野諒一 美術:重田重盛 音楽:青山八郎
出演:いかりや長介、加藤茶、仲本工事、高木ブー、志村けん、長山藍子、伴淳三郎、由利徹、東八郎、たこ八郎、玉川良一、夏八木勲、フィンガー5

松竹『全員集合!!』シリーズの第13作目。主演のザ・ドリフターズから荒井注が脱退したため、付き人だった志村けんが今作からメンバーに加わった。
ユリ・ゲラーによる超能力ブームが世界中に吹き荒れる中、そのブームにちゃっかり乗って作られた作品である。ちなみに同年1974年にはユリ・ゲラーは初来日しており、実にどんぴりゃりなタイミングとなっている。
もっとも、“超能力”と映画のタイトルに付いてはいるものの、別段それらしい超能力者が登場するわけではない。記憶喪失の若者(加藤茶)が書いた詩がたまたま予言として的中するが、これは超能力というよりもむしろ前年1973年に発行されこちらも大ブームとなった五島勉の『ノストラダムスの大予言』からのいただきだ。
それにしても、超能力ブームに『ノストラダムスの大予言』とは、1970年代前半はいったいどんな時代だったのだろうか。わたしは幼かったので記憶にないが(もっとも最近のことだって憶えちゃいないが)、皆が心のどこかで不安を感じていたのだろうか。
この青年の予言に驚いたインチキ易者(いかりや長介)が青年のことを宇宙から来た宇宙人だと言い出し、青年を教祖に仕立てて新興宗教を興そうと企て始める。今度は宇宙人に新興宗教ときたものだ。もうあやしげな要素てんこ盛りで、果てさてどうなる物かと思っていたら、そんな話の筋道は途中でどこかへ行ってしまって、結局はいつもの通りのいかりやによる加藤茶イビリに行き着いて逆にホッとしてしまう。ふうっ、このまま『教祖誕生』(1993)になってしまうのかと思った。
不動産屋の社員役の志村けんは精彩に欠けセリフ回しも上手ではない。そしてこの映画はスター映画・アイドル映画の分類になると思うのだが、なによりその主演者としての輝きが焼鳥屋のオヤジ高木ブーよりも劣っている。ザ・ドリフターズの四人と脇役の一人といった具合である。ただ、不動産屋の社長(仲本工事)と一緒に有名易者の用心棒にこてんぱんに叩きのめされた上に玄関から放り出されたシーンでの、「社長、負けた時のポーズはこうするの」でのみょうちくりんな仕草がなかなか良く、その後の活躍の予感が見て取れる。
時折登場する伴淳三郎、由利徹、東八郎などの名人芸が画面をにぎわせる。中には「ハヤシもあるでよ」で有名な南利明の姿もある。比較的低予算な作品だろうが、出演シーンの少ない役を割り振ることで豪華キャストを実現している。特別出演として一大アイドルのフィンガー5まで登場している。今でこそ「あの人は今?」的な番組にしか取り上げられないフィンガー5だが当時の劇場ではさぞかし黄色い声援が飛び交ったことだろう。
やはり一番笑えるのがラストの大混乱と乱闘だ。手前側でメインに映っている役者だけではなく、画面の後ろの方にいる連中もなんとか目立とうと大暴れしながら細かなギャグをやっている。プロだ。
加藤茶の「イックション」のくしゃみで全員がひっくり返るギャグ、懐かしいなぁおい。
結局、予言や占いはインチキだったし、いかりや達は香港から来た奇術団に化けて敵のアジトであるキャバレーに乗り込んでいく。そういえば、ユリ・ゲラーの前職は奇術師だったよな。つまり、「超能力やノストラダムスの大予言なんざ全部嘘だからな」「でもってそれを笑い飛ばすからな」というスタンスで作られた映画なのである。つまり1970年代だろうがなんだろうが信じる奴は信じるし、信じない奴は信じないということらしい。
それとも、これが松竹映画ではなく東宝映画のクレイジーキャッツ主演シリーズ(1963~1970)で作られていたとしたら、円谷特撮で超能力が画面を飛び交ったりしたのかもしれない。

2005年01月09日

『春のソナタ』 冬じゃない、春だ。春なんだってば。

『春のソナタ』(1989) CONTE DE PRINTEMPS フランス 107分 1991/01/07鑑賞

監督:エリック・ロメール 製作: マルガレート・メネゴス 製作総指揮:フランソワーズ・エチュガレー 脚本:エリック・ロメール 撮影:リック・パジェス 音楽:ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン、シューマン、ジャン=ルイ・ヴァレロ
出演:アンヌ・ティセードル、フロランス・ダレル、ユーグ・ケステル、エロイーズ・ベネット

んーっ?なんか韓国ドラマみたいなタイトルだって?しかも他に『冬物語』『夏物語』『恋の秋』の四本で『四季の物語』シリーズとなってるがこれは明らかにパクリじゃないかって。

違うの、ちがーうつーの。『冬のソナタ』なるタイトルが韓国での原題でそうなのかNHKが勝手に付けたのかは知らないが、とにかく『春のソナタ』は1989年製作で1990年末公開だからこっちが本家。エリック・ロメールの『四季の物語』といえばフランス映画ファンなら必ず知っている有名作なんだってば。
もっとも、わたしは一番面白く感じた『緑の光線』(1985)でさえ感想は「つまんないよね」の一言になる程度にしかエリク・ロメールのことを評価していない。『春のソナタ』もとりあえず劇場に行ってみたけどやっぱ小さくまとまりすぎちゃってるなぐらいの感想しか持っていなかったりする。だから『冬のソナタ』だろうが『秋の童話』だろうが、どっちが元祖でも別に関係ない。

女の人で「エリック・ロメールが好き」という人がいるが、ロメールって主人公の若い女性、というか少女のことを偏執狂的かつねっとりとした視線でねちねちと描いているのだが、そこら辺は伝わっているのだろうか。「小さくまとまりすぎる」というよりも正確には「小さな箱庭に少女を閉じこめて、それをにったらにったら楽しそうに眺めている」といった感じで、少女好きな男性、つまりロリコンの人に受けるのはまだ分かるんだが、女性観客にとって気味悪くはないのだろうか。。偏執狂的な部分が案外女性には見えにくく、ロメールと同じ男性であるわたしにはそのリビドーがはっきり丸見えになっているのかも知れない。つまり、そこら辺がうっとおしいんだよな、ロメールって。

2005年01月10日

『アザー・ピープルズ・マネー』 この守銭奴は反省しない

『アザー・ピープルズ・マネー』(1991) OTHER PEOPLE'S MONEY アメリカ 102分 1992/02/21鑑賞

監督:ノーマン・ジュイソン 製作:ノーマン・ジュイソン、リック・キドニー 製作総指揮:エレン・M・クラス、ダヴィナ・ベリング 原作:ジェリー・スターナー 脚本:アルヴィン・サージェント 撮影:ハスケル・ウェクスラー 音楽:デヴィッド・ニューマン
出演:ダニー・デヴィート、グレゴリー・ペック、ペネロープ・アン・ミラー、パイパー・ローリー、ディーン・ジョーンズ

ダニー・デヴィートが守銭奴な企業乗っ取り屋を演じていて、嫌な奴だがどこか憎めないとドンピシャなハマリ役。
乗っ取りに狙われている企業の会長がグレゴリー・ペックで、撮影時には75歳になっておりさすがに老いは隠せないが、意志の強い妥協を許さない男の迫力を出していて、しかしその古い考え方では現代的な乗っ取り屋には太刀打ちできない悲しさ。映画出演としてはこれが遺作になる。
この手の主人公が強欲な映画は、チャールズ・ディケンズの小説『クリスマス・キャロル』のスクルージの様に最後には改心して善良な人になる場合が多いが、この作品のダニー・デヴィートは基本的に最後まで守銭奴なまま。コメディ的味付けがされていたりダニー・デヴィートとグレゴリー・ペックに雇われた美人弁護士との恋の駆け引きがあったりするが、ビジネス部分の描写に関しては徹底してシビアを貫いていて面白い。
乗っ取り屋を演ずるのがトム・クルーズなどの二枚目役者だったらかなり評価が変わってくるだろう。個人的にはダニー・デヴィートで正解。トム・クルーズ(別にトム君に恨みがある訳じゃないが)だったら駄作かな。

途中でダニー・デヴィートと美人弁護士が日本料理店で食事をするシーンがある。
会話の途中で弁護士は怒って出て行ってしまうが、ダニー・デヴィートは仲居さんというか芸者風の着物を着た女性店員に
「かーのじょはー、ぼーくをーすーきーなんだよおぅ」
と日本語で話しかける。この日本語がかなりインチキっぽくてよい。観てからすでに13年も経ち、それ以来ビデオやテレビでも観ていないのにこのセリフは何故かまだ覚えている。これに匹敵するのは『ウインド・トーカーズ』でのニコラス・ケイジのセリフ「べいこくはきらいでーす。にっぽんはだいすきでーす」などだろうか。

2005年01月11日

『アトランティス』(1991) 右も左も海の中

『アトランティス』(1991) ATLANTIS フランス 79分 1992/10/31鑑賞

監督:リュック・ベッソン 製作総指揮:クロード・ベッソン 撮影:クリスチャン・ペトロン、リュック・ベッソン 音楽:エリック・セラ

『グラン・ブルー(グレート・ブルー)』(1988)で海への想いを描いたリック・ベッソンが、今度は海の中で暮らす魚などの姿だけを捉えて人間を一切登場させずに撮った作品。
エリック・セラの音楽に合わせていくつかのテーマによるシーンが構成されている。ドキュメンタリーというよりは環境ビデオ・イメージビデオといった趣きで、製作にあたってはかなりの量のフィルムを回し、編集でもかなり苦労したことだろう。水中撮影で撮られた映像の美しさからして、病院の待合室などで流されているそこら辺の環境ビデオとは作りが違い、ちゃんとした作品として仕上がっている。
だが、スキューバ・ダイビングはおろかシュノーケル・ダイビングすらやったことがなく、今後もまずやる予定がないという“海の中”に対して別段これといった思い入れがないわたしにとってはどうしたって環境ビデオの枠を出ない。それにリック・ベッソンの「俺ってオシャレさんだろ」といった自意識が常に画面に張り付いているのがうっとしい。映画館の大スクリーンで見たから映像の力で79分を耐え切れたが、もし改めてテレビで見たら絶対に眠ってしまうだろう。
つまるところ、わたしにとって映画とは劇映画のことで、ドキュメンタリー映画やこの作品のような環境映画は映画ではないのだ。

人間が登場せず動物の姿だけを描いた作品だとディズニーの『砂漠は生きている』(1953)があるがこちらは好き。ナレーションによって動物の行動に人間的心理を持ち込みすぎているきらいはあるが、その分だけ分かりやすくて楽しい。
『アトランティス』もナレーションで魚たちの紹介や生態などをやってくれるとまだ見やすいのだが、それでは「オシャレ」ではないのだろうし、「オシャレな作品」が好きな人から不評を買ってしまうのだろう。

2005年01月12日

『勝利者たち』 戦え、ゲートボーラーズ!

『勝利者たち』(1992) 日本 105分 1992/10/17鑑賞

監督:松林宗恵 製作:円谷皐 プロデューサー:鈴木清 原作・脚本:長坂秀佳 撮影:加藤雄大 美術:岩崎憲彦 編集:黒岩義民 音楽:渡辺俊幸
出演:三國連太郎、大原麗子、ハナ肇、佐藤允、大滝秀治、長門勇、宍戸錠、司葉子、財津一郎、丹波哲郎、天本英世 、円谷浩

倒産寸前の造り酒屋の社長が食通の大富豪から融資を受けるために腕利きの仲間を集めてゲートボール大会に出るという、“ゲートボール”+『がんばれ!ベアーズ』+『七人の侍』的映画。
メジャー作品としてゲートボールが題材になったのはこれが初めてで、ついでに現在までの所これが最後となっている。しかも劇場公開はされた物の、ビデオ化もされておらずテレビで放映されたことがあるかも怪しいという、一種の『幻の映画』となっている。知り合いに映画好きは結構いるが、『勝利者たち』を観ているのはどうやらわたしだけらしい。喜んで良いのやら。

南伸坊が描いたイラストの登場人物がくるくる回転しながら入れ替わっていくオープニングクレジットは割と好き。
企画には円谷プロが関わっていて、ハナ肇が放つ名前は忘れたがクルクルッと円を描きながら進んで最後にジャンプをしてからゲートをくぐる秘打などゲートボーラーたちの技が特撮で描かれる。「なんやねん、それ」とスクリーンにツッコミをメチャメチャ入れたかったが周りの観客に迷惑をかけちゃいけないと我慢した。
公開2週目の土曜日にしては閑散とした人の入りなのだが、なにせ“ゲートボール協会協賛だか協力だか”作品でそちら経由にて前売り券が出回ったらしく観客席に座っている人の年齢がずいぶんと高い。四字熟語で言えば『老老男女』といったところで、20歳ぐらいの客と言えばわたしだけ。そんな状況下でツッコミを入れたら「おい大阪のお兄ちゃん、ゲーテベーレを馬鹿にするんじゃない!」と怒られかねん。東京の映画館(確か有楽町か銀座だった)なので江戸っ子ジイさんのお説教が怖い。「いや、大阪弁なのはツッコミという性質から便宜上そうしただけなんです」と言っても聞く耳も持ってくれなさそうだ。あ、ゲーテベーレはゲートボールの江戸訛りね。山下洋輔が『糸井重里の萬流コピー塾』(古いね)でそう呼んでた気がする。
出演者を見てもらえば分かるが豪華キャストで、造り酒屋の社長が三國連太郎で『美味しんぼ』の海原雄山を思わせる食通が丹波哲郎。ハナ肇や宍戸錠はゲートボーラーで、『独立愚連隊』(1959)などの佐藤允が久しぶりに元気な姿を見せてくれたのが嬉しかった。ラストにいる円谷浩は名字から分かる通り円谷一族で円谷英二の孫に当たる。『宇宙刑事シャイダー』で主人公を演じたほかに昼メロなどで見かけたことがある。
最初に小学生チームと対戦するが大敗を喫っし、それが逆に団結や踏ん張りに結びついていくというシチュエーションは前年の『シコふんじゃった。』(1991)にほぼ同じシチュエーションがあったり、ヘビメタがチームを組んで出場していたりと、何度もおいおいと出かかるツッコミを抑えている内に予定調和で勝利やある人物の死が描かれ映画は終了。ええーい、ジイさんバアさん泣くな、こっちまでなんだか泣けてくらぁ。

2005年01月13日

『追跡者』 銃はグロックにしろ。

『追跡者』(1998) U.S. MARSHALS アメリカ 131分 1998/06/18鑑賞

監督:スチュアート・ベアード 製作:アーノルド・コペルソン、アン・コペルソン 製作総指揮:キース・バリッシュ、ロイ・ハギンズ 脚本:ジョン・ポーグ 撮影:アンジェイ・バートコウィアク 編集:テリー・ローリングス 音楽:ジェリー・ゴールドスミス
出演:トミー・リー・ジョーンズ、ウェズリー・スナイプス、ロバート・ダウニー・Jr、ジョー・パントリアーノ、ダニエル・ローバック

『逃亡者』(1993)で主人公リチャード・キンブルを執拗に追いつめたサミュエル・ジェラード捜査官。そのジェラード捜査官とその部下たちを主人公にしたスピンオフ作品がこの『追跡者』だ。どうにも野暮ったい印象のぬぐえない『逃亡者』よりも『追跡者』の方がシャープで好みだ。
元CIA工作員のウェズリー・スナイプスが逃亡し姿を隠していた理由や黒幕の正体などストーリーの核となる部分に幾分の無理があるがそれは『逃亡者』も同じだし、何よりもウェズリー・スナイプス側のことは案外どうでも良くて重要なのはジェラード捜査官の格好良さだ。しぶとくタフで、食らいついたら逃がさない。しびれるねぇ。登場シーンはビッグバードもどきなチキンの着ぐるみだが。

アメリカの司法制度はとにかくややこしくて、ジェラード捜査官のことは最初FBIだと思っていたのだがそうではない。タイトルにもある“U.S. MARSHAL”とは連邦執行官のこと。所属は連邦裁判所になるそうだ。裁判所の職員に捜査権があるというのは日本人から見るとおかしな感じだが郡保安官と同じ権限があるんだそうな。それでシェリフ(Sheriff)もマーシャル(Marshal)も訳すと保安官なのか。地元警察にFBIにDEAにATFにNSAにMIB、さらには連邦執行官か。それぞれ微妙に管轄範囲が重なってるから縄張り争いが映画や小説のネタになるのもわかる。『イレイザー』(1996)のシュワルツェネッガーも連邦執行官だったな、そういえば。
ちなみにFBIが連邦捜査局、DEAは麻薬取締局、ATFがアルコール・たばこ・火器取締局、NSAが国家安全保障局。MIBはメン・イン・ブラックなので実在はしていない、多分。

ジェラード捜査官と共に主演を張っていると言って良いのが携帯している拳銃の“グロック”
オーストリアの新興銃器メーカーが発売したこのセミオートマチックピストルは、フレームなど主要部品に樹脂(ポリマー)を使用しており、またマニュアルセイフティを廃した画期的セイフティシステムなどで一躍人気モデルになったもの。
しかし、直線で構成された実用一点張りな角張ったデザインが、『ダイ・ハード』のジョン・マクレーンや『リーサル・ウェポン』のマーティン・リッグスが持つベレッタM92Fなどと比べて面白味に欠けるためか主人公の持つ銃としてはなかなかスクリーンに登場しなかった。わたしは常時携帯して必要になったらすぐ撃てる拳銃としてグロックはかなり良さそうだと思うんだが。確かに、壁に飾ってインテリア代わりにする銃ではないが、あの飾りっ気の無さが好きだ。
『追跡者』ではそのグロックが大活躍をする。
まずは、一緒に捜査をすることになったロバート・ダウニー・Jrが所持していたクロームメッキの拳銃(おそらくタウルス)を、「銀ピカは駄目だ。黒いのにしろ、グロックが良いぞ」とけなし、映画のラスト近くでは「グロックは良いぞ。水や砂まみれになっても使える」とベタ褒め。
宣伝のためにグロック社が金を出したという噂を聞いたことがあるが、『逃亡者』(1993)ですでにジェラード捜査官はグロックを使っておりちょっと勘ぐりすぎだろう。脚本家が大のグロックファンだった辺りが正解じゃないだろうか。
『ダイ・ハード2』ではワシントン空港に忍び込んだテロリストが所持しており、マクレーンが「この銃はX線にも映らないし、あんたの給料じゃ買えないぐらいの代物だ」とか言ってるが、スライドなど金属部分も多いのでX線にちゃんと映るし、15連発程度の同クラスの拳銃の中では安い方らしいので、あの映画で言ってることは信じちゃ駄目だ。もっとも“グロック7”と存在しない型番で呼んでいたのでグロックをモデルにした架空の銃という設定なのかも知れないが。
保安官ではあるが分類は刑事映画でいいだろう。

2005年01月14日

『ウェドロック』 死ぬ時は二人一緒

『ウェドロック』(1991) WEDLOCK アメリカ 101分 1992/03/07鑑賞

監督:ルイス・ティーグ 製作:ブランコ・ラスティグ 脚本:ブロデリック・ミラー 撮影:ディートリッヒ・ローマン 音楽:リチャード・ギブス
出演:ルトガー・ハウアー、ミミ・ロジャース、ジョアン・チェン、ジェームズ・レマー、スティーヴン・トボロウスキー

舞台は近未来の刑務所。そこでは脱獄防止のためある仕掛けをした首輪を囚人達に付けさせていた。その仕掛けとは首輪が二人一組で対になっており、それぞれの距離が100ヤード(約90メートル)以上離れるか首輪を無理に外そうとすると爆発して二人とも死ぬというもの。誰が自分のパートナーなのかは分からないので、脱獄しようと企む囚人が出た場合には周りの囚人が「自分が首輪でロックされた相手(WED+LOCK)なのかも知れない。巻き込まれてはかなわない」とその脱獄を阻止しようとするなど、中々優れ物のアイディアだ。『バトル・ロワイヤル』の首輪、特に『バトルロワイヤルII』)の首輪は絶対にこいつのパクリだと思うのだが、まぁどうでもいい。
せっかくのアイディアなのに「刑務所から離れた場合に爆発する」という設計が成されていなかったばかりに、自分のパートナーが女性囚人のミミ・ロジャースだと分かったルトガー・ハウアーは互いに協力して脱獄に成功してしまう。刑務所の外に出ても首輪は外せなかったので行動は共にしたまま。ミミ・ロジャースだけバスに乗り、乗り損なったルトガー・ハウアーが必死になってバスを追いかける辺りが見物か。二人が性格的にもっと反発しあっていた方が面白かったとも思うが。
恋人である金庫破りのルトガー・ハウアーを裏切って、その後も彼が隠した宝石の在処をを聞き出すために刑務所長と取引するなど手練手管を弄するジョアン・チェンの徹底した悪女振りが良い。

2005年01月15日

『フォートレス』 夢見ることさえ許されない

『フォートレス』(1992) FORTRESS アメリカ 95分

監督:スチュアート・ゴードン 製作:ジョン・デイヴィス、ジョン・フロック 製作総指揮:グレアム・バーク、グレッグ・クート 脚本:スティーヴン・フェインバーグ、トロイ・ネイバーズ、デヴィッド・ヴェナブル、テリー・カーティス・フォックス 撮影:デヴィッド・エグビー 音楽:フレデリック・タルゴーン
出演:クリストファー・ランバート、カートウッド・スミス、ローリン・ロックリン、クリフトン・ゴンザレス・ゴンザレス、リンカーン・キルパトリック

“分かってる”B級映画監督のスチュアート・ゴードンによる近未来刑務所映画。
護送車の中で刑務所のすぐ側まで来た告げられるが周りに広がるのは荒野だけで、「どこに刑務所があるんだ。三十階建てなのに見あたらないぞ」と囚人が不安を口にする。実は三十階建てと言っても地下三十階なので地表には車が入っていく出入り口があるだけ。吹き抜けにシャフトが伸びた地下刑務所のセットはSF色を高めているし、出入り口が一ヶ所というのは刑務所の警備面に関する設定にもかなっている。そしてなにより、屋外セットを最低限に抑え制作費や製作日数を節約につながっている。分かってるな、ゴードンは。
『ウェドロック』(1991)の囚人は爆弾搭載の首輪をかせられていたが、『フォートレス』ではあめ玉大の監視装置を飲み込まされる。監視装置は胃袋に定着し刑務所を管理しているマザーコンピューターに常時囚人の位置を知らせて管理するようになっている。規則違反者には制裁として激しい痛みを与えたり、例によって禁止区域に立ち入ったりすると爆発する仕組みだ。首輪だと腕の良い技術屋が何とかして解体も出来るが、胃袋の中では外科医でもいないことには取り出せない。
胃袋管理装置やマザーコンピュータの監視カメラで監視され、さらには脳波スキャンで寝ている間の夢さえ禁止される内に囚人たちは人間性を失い、自分させよければいいと野獣のようになっていく。そんな中、主人公のクリストファー・ランバートは同じ刑務所内に妻が収容されていることや老囚人の言葉によって理性を保ち、所長による脳波スキャンの精神攻撃で一時は廃人になりながらも復活し、ついには脱獄を企て始める。同房の4人が次第にクリストファー・ランバートに共感し始め仲間になっていく様が良い。だが、その4人の結末は・・・いや言うまい。
刑務所長(カートウッド・スミス)のことを単なる悪人にせず、スキャンし映像化されたクリストファー・ランバートの夢を見たことでその人生を疑似体験し、それによって自我に目覚め自分が刑務所システムの一部であることとある女性への愛情の境界で悩む存在としているのは面白い。表の主役がクリストファー・ランバートなら裏の主役がカートウッド・スミスだろう。
牢屋の格子がレーザー光線だったり、所長の椅子の肘掛け部分にに左右分割で付いたキーボード、データが収集された宝石型の結晶体や苦肉の策でのそのデータ呼び出し方法、終盤になって唐突にワラワラと登場するクローン兵士などちょっとしたアイディアがうれしい。

2005年01月16日

『ノー・エスケイプ』 近未来刑務所物かと思ったら孤島物だった

『ノー・エスケイプ』(1994) ESCAPE FROM ABSOLOM アメリカ 117分 2005/01/12レンタルDVDにて鑑賞

監督:マーティン・キャンベル 製作:ゲイル・アン・ハード 原作:リチャード・ハーレイ 脚本:マイケル・ゲイリン、ジョエル・グロス 撮影:フィル・メヒュー 編集:テリー・ローリングス 音楽:グレーム・レヴェル
出演:レイ・リオッタ、ランス・ヘンリクセン、スチュアート・ウィルソン、ケヴィン・ディロン、ケヴィン・J・オコナー

近未来刑務所物、と思ったら始まってものの10分ほどで主人公のレイ・リオッタは問題を起こし、近代的に管理された刑務所からとある孤島に追放されてしまう。そこから先はビルや道路など文明的な物は何もない木や草ばかりの孤島で物語は進む。
島にいるのは皆追放された囚人ばかりで、人を襲っては食ってしまう600人ほどの集団アウトサイダーと、改心して元医者のランス・ヘンリクセンを指導者とするインサイダーの二つのグループに分かれ小さな衝突を繰り返していた。レイ・リオッタは一度アウトサイダーに捕まる物の、元特殊部隊隊員の腕を生かして逃げ延びインサイダーに救われる。アウトサイダーたちの格好や二つのグループの対立する様子などは『マッドマックス2』(1981)を思わせる。
メインの俳優であるレイ・リオッタとランス・ヘンリクセン共に悪人面で(もっともそれぞれ罪を犯して刑務所に収容された犯罪者だが)、他の登場人物もごつい顔ばかりで女性はただの一人も登場しない。一人だけ幼さを感じさせる顔立ちの若者がいるが、これがなんとケヴィン・ディロン。傑作『ブロブ』(1988)でわたし個人としては兄のマット・ディロンを越えたと思ったのだが、その後あまり姿を見なかったがそうか元気にしてたか。といっても、『ノー・エスケイプ』はもう10年も前の作品だが。最近では『24 TWENTY FOUR』の2nd Seasonに出演しているそうだ。『24』は1st Seasonだけしか観ていないが、そのうち気が向いたら2nd Seasonも観てみよう。
インサイダーたちが小さなユートピアを作っていても、それは結局刑務所長の支配下でしかなく、しかも常にアウトサイダーの危機にさらされている。小さな所から綻びが生じかけたりする不安定な物で、これが内部崩壊を起こして殺し合いが始まるとウィリアム・ゴールディングの小説『蝿の王』大人版になったりするが、映画は分かりやすくインサイダーとアウトサイダーの全面戦争に突入する。
どこかの島の入り江に作ったインサイダー村のセットで撮影されたシーンが多く、割と低予算で作られているのだろう。

2005年01月20日

『ゾンビコップ』 不死身刑事、っつーかすでに死んでる

『ゾンビコップ』(1988) DEAD HEAT アメリカ 96分 1989/01鑑賞

監督:マーク・ゴールドブラット 製作:マイケル・メルツァー、デヴィッド・ハルパン 製作総指揮:ステファノ・フェラーリ 脚本:テリー・ブラック 撮影:ボブ・イエオマン 音楽:アーネスト・トルースト
出演:トリート・ウィリアムズ、ジョー・ピスコポ、リンゼイ・フロスト、ダーレン・マクギャヴィン、ヴィンセント・プライス

死人を生き返らせる装置を発明した悪の組織が、それを利用して悪事を働く。主人公である二人の刑事(トリート・ウィリアムズとジョー・ピスコポ)はそのアジトに乗り込むのだがジョー・ピスコポが真空室に閉じこめられて窒息死してしまう。そこでジョー・ピスコポを死体蘇生装置にかけて生き返らせて生きた死人・ゾンビコップとして復活させる。ゾンビと言っても頭の働きなどは生前のままで会話も出来るし動きも素早い。ただ、その効果が持続するのはわずかに12時間だけで、それが過ぎたら単なる死体になってしまう。
捜査を続ける内にトリート・ウィリアムズも殺されてしまうが、彼もゾンビコップとして復活。銃で撃たれても死なないゾンビ・コップは果たして12時間以内に悪の組織を倒せるのか?世にも珍しいゾンビ刑事映画である。

『1941』(1979)で嫌みったらしい伍長を演じていたトリート・ウィリアムズを久々にスクリーンで見かけた。その後、また見なくなったなと思っていたら快作『ザ・グリード』(1998)で主役をやっていた。どうもわたしとはほぼ10年周期でスクリーンで出会うようになっているらしい。となると、次は2008年か?まだちょっと先だな。
ゾンビになってしまった主人公たちは不死身というかすでに死んでいるので派手な銃撃戦や無茶なアクションがいくらでも可能なのだが、それほど予算がなかったせいか今一つ地味なのが残念。
ジョー・ピスコポは本業がコメディアンで、映画もコメディ色が強い。中華料理屋の厨房で死体再生装置が作動してしまい、天井からぶら下げられた羽も抜かれ内臓もさばかれた数十羽のニワトリがバタバタ動き出すギャグや、敵のゾンビ軍団とお互いに防御無視の銃撃戦には笑った。
ラストはからっと乾いているんだけど、その実寂しげでちょっと泣けるんだこれが。

2005年01月21日

『リーサル・ウェポン3』 恋人は内務監査官

『リーサル・ウェポン3』(1992) LETHAL WEAPON 3 アメリカ 1992/10/23鑑賞

監督:リチャード・ドナー 製作:ジョエル・シルヴァー、リチャード・ドナー 原案:ジェフリー・ボーム 脚本:ジェフリー・ボーム、ロバート・マーク・ケイメン 撮影:ヤン・デ・ボン 音楽:マイケル・ケイメン、エリック・クラプトン、デヴィッド・サンボーン
出演:メル・ギブソン、ダニー・グローヴァー、ジョー・ペシ、レネ・ルッソ、スチュアート・ウィルソン


警察内部の不正や警官による犯罪を監視調査するための内務監査局というものがある。『交渉人』(1988)でサミュエル・L・ジャクソンの相棒殺し・年金基金を捜査したり、『NYPD15分署』(1999)で中国系刑事チョウ・ユンファによる不正捜査を疑ったりなどときおり警察映画に登場する。『インソムニア』(2002)ではアル・パチーノが不眠症(インソムニア)で苦しんでいるが、その理由の一つが自らに迫る内務監査の網だった。
警官・刑事が主役の映画が多いためどちらかというと内務監査局は嫌な連中として描かれがちだが、外部から干渉されることが少なく結束し独立した集団である警察を、第三者的な立場からクリーンな組織にするために内務監査局の存在は重要なのだろう。どのような組織でもそうだが、外部からどのように見られているかを意識していないと、倫理観がねじ曲げられ不正行為がまかり通ったり、組織を守ることが優先され公共の利益が無視されかねない。しかもその組織の権力が強ければ問題はより重要になる。

『リーサル・ウェポン3』にも内務監査官が登場するが、珍しく主人公側の人間として登場する。しかも美人で気が強く、腕っ節まで立つときてる。レオ・ルッソはまさにはまり役で、『リーサル・ウェポン2』で妻の仇を取り心の傷も癒えてきたリッグス(メル・ギブソン)が惚れてしまうのも納得だ。リッグスの傷を手当てをしているうちに、二人とも銃で撃たれたりナイフで刺された傷跡自慢を始めて、そのままお互いへの想いに気づきベッドインしてしまうシーンは笑えるし実に上手いラブシーンへの導入である。『リーサル・ウェポン』シリーズなどのパロディ映画である『ローデッド・ウェポン1』(1993)でエミリオ・エステヴェスとヒロインがこのシーンをパロっているが、こちらは本家と違いトホホな情けない傷ばかり。ちなみに『ローデッド・ウェポン1』とあるものの『2』や『3』はない。
『リーサル・ウェポン1』や『2』にあったヘビーな部分はほとんどなくなっている。その点で評価が分かれるかも知れないが、傷つき孤独な男が友を得、そして恋人を得てついには家族という存在と人生を取り戻す『リーサル・ウェポン・サーガ』において苦しみよりも喜びの方が多くなった重要なターニングポイントである。
実際のビル爆破解体現場を巧みに使った事件爆弾騒ぎから始まるオープニングでどっと沸かされる。主人公が事件爆弾を解除する場合、ほとんどが1秒前や7秒前で止めることが出来るのだが、いきなりその法則をぶち壊わす。しかし、事件爆弾の解除ではなぜ最後に赤と青の2本の電線の内どちらかを切るというシチュエーションになるのだろうか。爆弾魔も2分の1で解除されてしまうようなヤワな仕組みではなく、「白・黒・抹茶・あずき・コーヒー・ゆず・桜の7本の内どれか1本を切ると止まる」にしておけば解除される可能性もぐっと低くなると思うのだが。いっそのこと「100本ぐらい線がある」というのはどうだろうか。
『2』に引き続いてジョー・ペシが笑わせ役で出演しレギュラー陣がすっかり安定してリチャード・ドナー一家と言ったところだ。それに対して悪役側が今一つで、特にボスに迫力がない。建売住宅地を経営しているってのはずいぶん堅実な奴だ。
エンディングクレジット後におまけがあるので見逃さないように。
撮影は後に『スピード』(1994)などを監督するヤン・デ・ボン。『ダイ・ハード』(1988)や『ブラック・レイン』(1989)の撮影も担当しており、監督になるよりもそのまま撮影監督を続けていた方が映画界にとって重要だった気がする。

2005年01月23日

『ショッカー』 電気人間の襲撃

『ショッカー』(1989) SHOCKER アメリカ 110分 1990/11/29鑑賞

監督:ウェス・クレイヴン 製作総指揮:シェップ・ゴードン、ウェス・クレイヴン 脚本:ウェス・クレイヴン 撮影:ジャック・ヘイトキン 音楽:ウィリアム・ゴールドスタイン
出演:マイケル・マーフィ、ミッチ・ピレッジ、ジョン・テッシュ、ヘザー・ランゲンカンプ、ピーター・バーグ

殺人鬼ピンカーが電気椅子にかけられる。しかし強大な電力が流されたその瞬間、奴の肉体と魂は電気信号に変換され電力線を伝わって外へと逃げ出してしまう。そんなことが可能だったのはピンカーの職業がテレビの修理屋で電気には詳しかったから。うむ、論理的・・・か?
電気信号という実体のない殺人鬼の設定は面白い。主にテレビを通じて出現することになるのだが、放送中の番組にピンカーが割り込んで好き勝手に干渉する辺りは『エルム街の悪夢』のフレディを思わせる。それもそのはずで、監督・脚本はどちらも同じウェス・クレイヴンだ。
玄関の鍵や窓を閉め切っていても電気が通っていればコンセントなどから現れるという現代的な怪物で、これがリメイクされたらインターネットを通じて出現するようになるのだろうか。電子メールに添付された謎なファイルを開いたらディスプレイから出没したり、アダルトサイトを閲覧していたらヌードの女性がピンカーに変身するなんてのはどうだろうか。コンピュータウイルスやトロイの木馬が殺人鬼になる。うむ、一応メモしておこう。
ラストのピンカーの退治方法が、なにやらおとぎ話での悪魔のやっつけ方などを思わせる。案外間抜けな奴だ。

2005年01月24日

『パルス・ショック』 最大の敵は家電製品

『パルス・ショック』(1988) PULSE アメリカ 91分 1988/11/22鑑賞

監督:ポール・ゴールディング 製作:パトリシア・スタローン 脚本:ポール・ゴールディング 撮影:ピーター・ライオンズ・コリスター 音楽:ジェイ・ファーガソン
出演:ジョーイ・ローレンス、クリフ・デ・ヤング、ロクサーヌ・ハート、チャールズ・タイナー

ある日突然、電気が人々に牙をむき始める。異変に気付いた人々が家の中に立てこもっても、部屋の中にある電化製品が暴走し襲いかかってくるのだ。
1月23日に紹介した『ショッカー』(1989)と10年以上経つ内にゴチャゴチャになり、頭の中で同じ一本の映画になっていた。電気椅子で死刑になった悪党が何かの拍子で電気信号に変換されてしまい、自分のことを警察に通報した少年に復讐するため様々な電化製品に侵入して操り人を殺害するというストーリーだ。今回、文章を書くために調べて間違いに気付いたが、案外これでちゃんと話としてつながっている気がする。
電気が人を襲う理由は明示されない。賛否分かれるところだろうが、下手に悪徳企業やマッドサイエンティストの発明という理屈が付いてしまったりいかにもな悪魔が登場するよりも、はっきりとしていない分怖いという考え方もある。ただ、この作品はあまり怖くはなかった。主人公達が電気スタンドや冷蔵庫などの家電と格闘する絵面はどちらかというと間抜けだった記憶がある。ちなみに電気だけではなくガスや水道なども襲ってくる。電化製品が動くのは内蔵されたモーターなどでまだ説明が出来そうだが、水道やガスの栓が開くのはどういう仕組みなのか分からない。やはり超自然的力が働いているのだろうか。
現実にこんな事件が起こったら(いや、起こらないが)、電気もガスも手放し都会を捨てて自然の野山に暮らすしかない。さぞかし不便なことだろう。「ロケット、見たかったな」だったっけ?諸星大二郎作『生物都市』ラストのセリフ。ストーリーとしてはほとんど関係ないがなんとなく思い出してしまった。

2005年01月25日

『ダウン』 このエレベーター危険につき階段を使うべし

『ダウン』(2001) DOWN オランダ・アメリカ 111分

監督:ディック・マース 製作:ローレンス・ギールス、ディック・マース 製作総指揮:ウィリアム・S・ギルモア 脚本:ディック・マース 撮影:マーク・フェルペルラン
出演:ジェームズ・マーシャル、ナオミ・ワッツ、エリック・タール、マイケル・アイアンサイド、エドワード・ハーマン

インディペンデンス映画の『悪魔のいけにえ』(1974)が人々に与えたショックの一つは映画において保護されているべき車椅子の身体障害者まで惨殺されてしまうことだった。だが、メジャー系列で製作されている作品はホラー映画であろうと、ある程度の制約は存在する。『13日の金曜日』シリーズのジェイソンには慈悲も情けもないし、ついでに知能もなさそうだがそんな奴でも子供やペットの犬などは殺さない。
この『ダウン』ではそれらのタブーが次から次へと破られる。エンパイヤステートビルディングをモデルにしたとおぼしきマンハッタンの歴史あるビルが舞台となり、そこに設置された高層エレベーターが狂って暴走し次々と人を殺害していく。深いエレベーターシャフトに落ちていったり扉で首を切り落とされる犠牲者の中には、10歳ほどの子供や盲目の障害者、そして実はこれがメジャー系列の映画としては最大のタブーなのかも知れないのだが“盲導犬”まで含まれている。『ダウン』とは比べものにならない程の人数が犠牲になる『アルマゲドン』や『ダンテズ・ピーク』でも犬だけは決して死ぬことがなかったというのに。おそらくアメリカの劇場では悲鳴と非難の声、そしてホラー映画ファンから少しばかりの歓声が上がったことだろう。
これを可能にしたのは製作がオランダとアメリカという純粋なハリウッド映画ではないからだろう。脚本・監督のディック・マースはオランダ出身で、初期の作品『悪魔の密室』(1983)でアヴォリアッツ映画祭でグランプリを受賞した人だそうだ。アヴォリアッツといえSFやホラーなどのファンタスティック映画専門の映画祭で、第一回のグランプリがスティーブン・スピルバーグの『激突!』、そして『ターミネーター』(1984)、『ヒドゥン』(1987)、『ブレインデッド』(1992)などうれしくなる作品に賞をあたえている。
その『悪魔の密室』の規模をより大きくしてリメイクしたのが『ダウン』になる。『悪魔の密室』は観ていないので確かなことは言えないが、タブーとされがちな人物をも惨殺するのは非メジャー・非ハリウッド作品が原点となっているからだろうか。
エレベーターが人を殺す理由が“人が作り出したある物”が原因という合理的説明を付けてしまったところはさてどうだろう。エレベーターがおかしくなった理由にはなるが、それだけではあそこまで様々な手段を繰り出してくる説明にはなっていない。悪意の存在が怨念や悪魔など超自然的な物だった方が個人的には理解しやすい。唐突にかかってくる電話一本で「そうだったの!」と言われてもな。
ちょこちょことギャグが入っていて案外と笑える。エレベーターシャフトに潜り込んだ主人公に伸びてくる“腕”の正体には笑った。閉鎖されたビルには特殊部隊が乗り込みアクション映画の様相を呈しているシーンでなにをやっとるんだ。
『エイリアン4』の軍人役ダン・ヘダヤや同じく『エイリアン4』の馬面な宇宙海賊ロン・パールマン、そしてマイケル・アイアンサイドなど警察側のメンツが濃くてうれしい。ナオミ・ワッツは可愛らしい人で、『マルホランド・ドライブ』(2001)を観れば分かるようにかなりの演技派。『リング』の主役も松嶋菜々子よりナオミ・ワッツの方が良い。まあ映画自体、日本オリジナル版はアメリカリメイク版の方を評価しているしな。というか中田秀夫って駄目すぎ。
ところどころ面白いシーンはあるが、全体を通してみると今一つ退屈だった。エレベーターのシーンとしては『オーメン2』でのそれを超える物がなかったのが残念。あれは登場人物と観客にいったん「ほっ」とさせたところへどっかーんと驚かせる名惨殺シーンだった。

2005年01月26日

『チャイルド・プレイ』 迫り来るチャッキー人形の恐怖

『チャイルド・プレイ』(1988) CHILD'S PLAY アメリカ 88分 1989/05鑑賞

監督:トム・ホランド 製作:デヴィッド・カーシュナー 製作総指揮:バリー・M・オズボーン 原案:ドン・マンシーニ 脚本:ドン・マンシーニ、ジョン・ラフィア、トム・ホランド 撮影:ビル・バトラー 音楽:ジョー・レンゼッティ
出演:キャサリン・ヒックス、クリス・サランドン、アレックス・ヴィンセント、ブラッド・ドゥーリフ、ダイナ・マノフ

物系ホラー映画についてはここ数日語ってきたが、そのラストは殺人人形チャッキーに飾ってもらうことにする。
それにしてもアメリカ映画に登場する人形というのはどうしてどれもこれも可愛くないのだろうか。チャッキーは殺人鬼人形だからワンパクそうというか憎々しげなのは分かるが、1980年代にアメリカで流行したという“キャベツ畑人形”やスティーヴン・キング原作の『トミーノッカーズ』(1993)などに登場するボタンを目の代わりに縫いつけたオーソドックスな赤毛人形、そしてこれは人形というより置物なのかもしれないが庭先に飾ってあるノーム人形などどれもこれも可愛くない。というよりむしろ不気味である。
日本のリカちゃん人形にあたるのがバービー人形なのだろうが、頭が大きく幼児体型なリカちゃんに対してすらっと八頭身ボディなバービーは妙にリアルで、夜になって明かりを消した部屋にあれがずらっと並んでいたらと思うとちょっと怖い。そもそも人形にはどこか恐怖を呼びおこすところがあるが、アメリカの人形はもろにそれを直撃してくれる。『スモール・ソルジャーズ』ではキルステン・ダンストがコレクションしているバービー人形(?)が改造されフランケンシュタインの様相で襲ってくるがあれは怖かった。女の子が遊ぶ人形だというのに日本とアメリカでかなりデザインが違うのは何故だろう。日本の女の子は、リカちゃんに今の自分を投影して自分が様々な服装や職業に変身することを想像し、アメリカの女の子は自分が成長し様々な姿になっている将来の姿を想像しているのではと憶測してみる。もっとも、バービー人形には子供以上に熱心な大人のマニアがコレクションしているとも聞く。

『チャイルド・プレイ』では射殺された殺人鬼の魂がブードゥーの呪いによってグッドガイ人形と呼ばれる3歳児ぐらいの大きさの人形に乗り移ってしまう。見た目は可愛いが中身は邪悪というギャップが肝なのだが、何度も言うがどう見ても可愛くない。部屋に置いてあったら東京マルイの電動ハンドガン『グロック18C』の的にしてフルオート連射を食らわせてやりたいぐらいだ。この銃がまた面白いぐらいによく当たる