『ハチ公物語』(1987) 107分
監督:神山征二郎 製作:奥山和由 プロデューサー:鍋島寿夫/進藤淳一 原作:新藤兼人 脚本:新藤兼人 撮影:姫田真佐久 美術:西岡善信 編集:近藤光雄 音楽:林哲司 助監督:中島俊彦
出演:仲代達矢/八千草薫/田村高廣/長門裕之/石野真子/三木のり平
昨日の『伊勢湾台風物語』から神山征二郎監督作ということで。もちろん映画館では観ていない。そこまで映画野郎として腐ってはいないのだ。
後にテレビで放映されたときに観た。観終わった感想としては「あークソつまらんかった。時間の無駄。プップー」だったのだが、一緒に観ていた女性をふと見ると肩をふるふると震わせている。なっなんと泣いていたのだ。それも涙腺全快のダダ漏れ泣き。
「うわっ、あんたなんでこんな映画で泣いてんだよ」
「えーっ!そっちこそ感動しなかったの?!信じられない、この鬼!人でなし!プラナリア!」
「失礼な事を言うな。プラナリアは身体をぶった斬ったら場合によったら頭がもう一つ生えてくるスゴイ奴だぞ。プラナリアに謝れ」
「じゃあこのカルピオネラ!」
「なんだとー。俺のどこが原生動物だー」
というのでケンカになった。『ハチ公物語』が理由とは映画と同じく実に詰まらないケンカだ。
監督・神山征二郎、脚本・新藤兼人というのはかなりやってはいけない組み合わせだ。クソ映画を作るという意味では単体でも強力なのにパーティーを組まれてはたまったもんじゃない。こうなったら一か八か最強呪文のTILTWAITで対抗だ。
実際、この映画はストーリーは実話をそのまんま。(もっとも、この“実話”自体がどこまで事実なのかは大いに疑問が残るが。主人を一心に待ち続けるというストーリーは、戦争に駆り出された夫や息子を待つ銃後の妻の戦意高揚のため、時のマスコミや政府によって都合良く脚色されたおそれは大いにある、と今勝手に思いついたのだが調べてみるとやはりそういう説もあるようだ。わたしが思いつくような事はすでに誰かが思いついているのか・・・)
演出もなんの工夫もなくストレートと言えば聞こえは良いがただ単調なだけ。そのくせ感動させたいシーンでは無理矢理に演技や音楽を盛り上げるあざとさで、観てるこちらとしては「なにやってんだか」と引いてしまう。いわゆる“凡庸”を絵に描いたような、いやフィルムに焼き付けたような作品。
この映画で泣いたという人は少なからずいるようだが、「じゃあ泣いたから良い映画なの?」とは問いかけてみたい。泣くなんて映画の付随要素に過ぎないと個人的には思うんだけどね。つか、数本でしか泣いた事ないし。
ただ主人の帰りを待っていただけで“忠犬”扱いされ、渋谷駅前に銅像まで作ってもらい待ち合わせ場所として有名になっているハチ公よりも、盲導犬として主人に仕えその主人をかばって交通事故に遭い左前足を失ってしまった“名犬サーブ”の方が10万倍ぐらい立派だ。偉いに順番をつけるなんてアホな行為だとは思うが、国だって功績を挙げた人に「はい、あんたは勲一等。はい、あんたは勲三等。はい、あんたは大したことしてないから銀杯だけね」てなことやってるし。
名古屋駅前の交番横に作られた“名犬サーブ”の銅像なんて、JRセントラルタワーズが建てられたせいで階段の下に追いやられたんだぞ。段ボールハウスな人たちじゃないっつーの。こんな扱いじゃ銅像立てた意味がないだろ。
さすがに可哀想だろうと今では久屋大通公園に移されたそうだが、階段作る時点で何とかしろよ名古屋人。こんなセンスで愛知万博大丈夫か?愛知万博のポスターに「一生一度は万博だ」というコピーのやつがあるが、大阪万博に行った人はもう行かなくても良いって事か?じゃあ、しんのすけの父親は愛知万博に来る必要ないな。埼玉からじゃ遠いしな。
結論としては、1987年にもなってこんな古くさい泣き落としの映画を作ってるんじゃねえっ、これは現代映画じゃなくて近代映画だ。映画としての成り立ちがあまりにズレてる。だから松竹はダメなんだよ、ってこと。