『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』(1999) THE BLAIR WITCH PROJECT 81分
監督:ダニエル・マイリック/エドゥアルド・サンチェス 製作:グレッグ・ヘイル/ロビン・コウイー 脚本:ダニエル・マイリック/エドゥアルド・サンチェス 撮影:ニール・フレデリックス 音楽:トニー・コーラ
出演:ヘザー・ドナヒュー/マイケル・C・ウィリアムズ/ジョシュア・レナード
映画において本来“血”や“死体”を画面に登場させることはタブーであった。
戦後、徐々に規制は緩和され、『サイコ』(1960)の有名なるシャワー室での殺人ではかつてないほどの血が流れ出る。アルフレッド・ヒッチコックはこの映画をあえてモノクロで撮ったが、これは流血に慣れていない観客に必要以上のショックを与えないためというよりはむしろ血の赤がスクリーンの中で浮いた存在としてリアリティに欠け恐怖の演出においてマイナスになるのを理解していたからだろう。
そしてその1960年代はハーシェル・ゴードン・ルイスが『血の祝祭日』(1963)や『2000人の狂人』(1964)を作り、血がスクリーン狭しとぶちまけられる“スプラッタームービー”が登場した時代でもある。当初、ごく限られたホラー映画ファンにしか受け入れられなかった“スプラッタームービー”だが、しだいに勢力を強めて1980年代には『13日の金曜日』シリーズなどで一般にも広がっていく。
「あの映画ではバケツ10杯分の血糊だったからこっちは20杯分で」「前作では腕がちぎれたから今作では首を切り落とそう」と残虐描写は過激になる一方だった。一種の倍々ゲームにも似たこの方法論は物理的描写に頼っているが故にいつか限界がくる。過激になればなるほど映画からリアリティは失われていき観客も刺激に慣れ恐怖は消え去っていった。
その結果、サム・ライミが『死霊のはらわた2』(1987)で、そしてピーター・ジャクソンが『バッド・テイスト』(1987)で明示したように「スプラッター描写はギャグだ」ということになる。もはや観客は血が流れれば流れるほど大笑いをするのだ。
そこでホラー映画作家たちは考える。
「もはやただ血を流しても観客を怖がらせることは出来ない。ではどうしたらいいのだろうか?」
その答えの一つが「何も描かない」ということだった。
『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』には何も登場しない。
ただ「森の中に何かがいる」という気配だけを材料に、筋らしい筋のないストーリーをドキュメンタリー風のスタイルで、“映画的リアリティ”ではなく知人が撮ったホームビデオのような身近に感じられる“リアリティ”を撮り上げた。そこには流血も殺人鬼も登場しない。観客をドキッとさせる仕掛けもなく、はっきりとした結末や『キャリー』(1976)のようなどんでん返しもない。
ナタで首を切り落とされる男を見てもスプラッターになれてしまった現代の観客は恐怖を覚えない。そこに何も登場しないからこそ観客は恐怖を感じたのだ。
だからといって『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』が面白いかというとそんなことは決してない。はっきりいって駄作・クソ映画ではある。
制作陣が“何も描かないことによる恐怖の演出”を明確に理解して撮ったかには疑問が残る。おそらくは低予算で作るための苦肉のアイディアとして生み出されたのだろう。
だがそれでも『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』がスマッシュヒットをしたということから、観客がスプラッタームービーに飽きて次なる物を探していることが推測できる。
日本映画の『リング』や『呪怨』がハリウッドでリメイクされるのもハリウッドが模索していることの証明だろう。もっともどちらの日本映画も個人的にはクソだと思うのだが。