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2004年09月 アーカイブ

2004年09月06日

『トム・ゴードンに恋した少女』 あるいは“謹呈 訳者”

古本屋でスティーヴン・キングの『トム・ゴードンに恋した少女』を買ってきて読んでいたらページの間からしおりが落ちた。拾ってみるとなにやら文字が書いてある。
“謹呈 訳者”
うむむ、この本は訳者の池田真紀子氏が誰かに贈った物だったのか。
古本と言っても状態は良くせいぜい帯にちょっと切れ目が入っているぐらい。新刊書店に並んでいたっておかしくない美本だ。2002年8月の初版で、そんなに多くの人の手を経てきたとも思えず、ひょっとすると前の持ち主が池田氏と関わりのある人だったのかもしれない。せっかくもらったんだから売るなよ。

『トム・ゴードンに恋した少女』は一般的には長編だが、キング作品としてはむしろ中編にあたるだろう。比較的肩の力を抜いて書かれた印象だ。9歳の少女が自然公園の遊歩道で家族とはぐれてしまい荒野でのサバイバルが描かれる。雨やスズメバチ、空腹などが少女に襲いかかるが、その中に“邪悪な存在”が入っているのが例によってキングである。

2004年09月09日

『さらば愛しき女よ』 ロバート・ミッチャム版マーロウ

『さらば愛しき女よ』(1975) FAREWELL, MY LOVELY

監督:ディック・リチャーズ 製作:ジョージ・パパス/ジェリー・ビック/ジェリー・ブラッカイマー 製作総指揮:エリオット・カストナー 原作:レイモンド・チャンドラー 脚本:デヴィッド・Z・グッドマン 撮影:ジョン・A・アロンゾ 編集:ウォルター・トンプソン 音楽:デヴィッド・シャイア
出演:ロバート・ミッチャム/シャーロット・ランプリング/ジャック・オハローラン/ハリー・ディーン・スタントン/シルヴェスター・スタローン

フィリップ・マーロウといえば『三つ数えろ』のハンフリー・ボガードだと思っていたがこの作品を観て考えを改めた。なんかこうじとじとうじうじしているレイモンド・チャンドラー作品にはロバート・ミッチャムの方が合う。あのブルドック系のちょっと情けなさがにじみ出るような顔やそのくせ妙にでかい体格、そもそっとした口調の独白で「俺ももう年だ。それに探偵業は家出した亭主を捜すような仕事ばかりだ」と愚痴から始まる出だしがもう格好いいのだ。
これ以降、わたしの中ではロバート・ミッチャムがフィリップ・マーロウのイメージになった。小説を読んでもミッチャムの姿が浮かんでくる。
映画自体はマーロウのめそめそした愚痴や甘ったるささえ気にならなければまあそれなり。ハリウッド映画というよりはフランスあたりのヨーロッパ映画の匂いがする作品である。

『フレディvsジェイソン』や『エイリアンvsプレデター』など対決映画が流行りだが、『マーロウvsスペード』というのはどうだろうか。

2004年09月10日

『サイドキックス』 アーロン・ノリスはかなり良い

『サイドキックス』(1992) SIDEKICKS

監督:アーロン・ノリス 製作:ドン・カーモディ 製作総指揮:チャック・ノリス/ジェームズ・マッキングヴェイル/リンダ・マッキングヴェイル  脚本:ルー・イラー/ドナルド・G・トンプソン 撮影:ホアオ・フェルナンデス 音楽:アラン・シルヴェストリ
出演:チャック・ノリス/ジョナサン・ブランディス/ボー・ブリッジス/マコ/ジョー・ピスコポ/ジュリア・ニクソン=ソウル 
最近では主役というより若い者をサポートする指導者的役を演ずることの多いチャック・ノリス。その最初の一本がこの『サイドキックス』だ。
アクションスター“チャック・ノリス”に憧れるひ弱な少年が自らも空手を始める。いじめっ子からのいじめなどに遭いながらも練習を積み、ついに空手大会に出場することになる。だがメンバーが一人足りず、このままでは出場出来ない。困った、さぁどうする?
そんな少年の危機を助けるために駆けつけたのはなんと“チャック・ノリス””本人。いやーもう、このシーンは燃えた燃えた。
『ベスト・キッド』シリーズの亜流ではあるのだが、ミヤギことパット・モリタは実際には強くないのに対し、チャック・ノリスは本当に強く一緒に戦ってくれるのだ。もちろん、『ベスト・キッド』は冴えない日系の老人が実は空手の達人だったというところが面白いんだが。
『サイドキックス』は流血や銃撃戦などを登場させずにチャック・ノリスのアクション映画をいかに成立させたかという点で秀逸である。『地獄のヒーロー』や『野獣捜査線』などチャック・ノリス作品には過激な暴力描写が多々あるが、『サイドキックス』では本人として登場するというアイディアで青春スポーツ映画とチャック・ノリス映画を見事に融合させてしまったのだ。
監督のアーロン・ノリスはチャックの実弟。兄のお抱え監督になっているが、この人はもっと評価されても良いだろう。大作や傑作を作ろうなどという変な意気込みはなく、常に面白く楽しい映画を作ることに精力している。斬新さや切れ味の鋭さには欠けるが、丁寧な演出には好感が持てる。面白い映画を撮るのは一流か三流の監督で、駄目なのは二流の監督。アーロン・ノリスは立派な三流監督だ。
主人公の少年を演じたのはジェイミー・リー・カーティス顔のジョナサン・ブランディス。スティーヴン・キングの『IT』の子供時代編や『ネバーエンディング・ストーリー第2章』などで活躍したが、成長してから俳優としての伸び悩みに陥り、そのためか昨年末に自殺している。

2004年09月11日

『スウィングガールズ』 谷啓が唯一の良心

『スウィングガールズ』(2004)

監督:矢口史靖 製作:亀山千広/島谷能成/森隆一 プロデューサー:関口大輔/堀川慎太郎 エグゼクティブプロデューサー:桝井省志 企画:関一由/藤原正道/千野毅彦 脚本:矢口史靖 脚本協力:矢口純子 撮影:柴主高秀 美術:磯田典宏 編集:宮島竜治 音楽:ミッキー吉野/岸本ひろし 録音:郡弘道 照明:長田達也 助監督:片島章三
出演:上野樹里/貫地谷しほり/本仮屋ユイカ/豊島由佳梨/平岡祐太/あすか/中村知世/根本直枝/竹中直人/白石美帆/谷啓

『ウォーターボーイズ』(2001)はいわば周防正行の『シコふんじゃった。』のコピーである。
『シコふんじゃった。』の学生相撲を男子シンクロナイズドスイミングに置き換え、そこから“隅々にまでちりばめられた豊富なアイディア”と“魅力的な出演者”と“テンポのよいギャグによる笑い”などなどを引いた劣化コピーが『ウォーターボーイズ』の正体に他ならない。
もとより『シコふんじゃった。』が『がんばれベアーズ』をはじめとするハリウッド映画をオリジナルに持つことは百も承知しているが、それを取り込み咀嚼吸収して自らの物としてしまうところが周防正行のすごさである。
だが矢口史靖は新作『スウィングガールズ』(2004)で“男子シンクロナイズドスイミング”を“女子高生によるジャズバンド”に置き換え自らの作品を劣化コピーする。撮れば撮るほど悪くなっていく様は、アナログVHSビデオテープのダビングコピーで画質が加速度的に落ちていくかのようだ。
矢口には「ひょっとしたら傑作を撮ってやろうという野心」を見え見えにして持っている。だが、悲しいかな傑作を撮れるだけの才覚も度量も持ちあわせていない。
そして「娯楽作品として面白い映画・楽しい映画を作るために全力を尽くそう」という良心が徹底して欠けている。
どのみち、日本映画史の残るような作品を撮れる人物ではないのである。せめて矢口が才能のなさを自覚し「自分には傑作を撮ることなと到底かなわないのだ」という挫折感があればまだ映画の撮りようはあるのだが、この御仁は何を勘違いしたのだが自分には才能があると強く思いこんでいるものだから始末が悪い。
“自主映画”という閉鎖的な世界で監督として一度完結してしまい、商業用映画を撮ることになっても精神的にはその居心地の良い場所から出てこようとしないのだ。オリジナルを何一つ生み出すことなく、かといって優れた模倣も出来ず、深い自己満足の中で繰り返すのはただ劣化コピーのみ。

わたしがもっとも嫌悪する二流監督の一人がここにいる。

2004年09月12日

『アメリカン・パロディ・シアター』 無意味に豪華な出演陣

『アメリカン・パロディ・シアター』(1987) AMAZON WOMEN ON THE MOON 85分

監督:ジョン・ランディス/ジョー・ダンテ/カール・ゴットリーブ/ピーター・ホートン/ロバート・K・ワイス 製作:ロバート・K・ワイス 製作総指揮:ジョージ・フォルシー・Jr/ジョン・ランディス 脚本:マイケル・バリー/ジム・マルホランド 撮影:ダニエル・パール
出演:ロザンナ・アークエット/ラルフ・ベラミー/キャリー・フィッシャー/グリフィン・ダン/スティーヴ・グッテンバーグ/ミシェル・ファイファー/B・B・キング/ヘンリー・シルヴァ/ラス・メイヤー

日本未公開でビデオのみが昔発売されたのだが、当時観た感想は「なるほど日本未公開なわけだな」だった。
今回DVDが出たので10数年ぶりに久々に観てみた。やはりもう一つ笑えない。
オープニングの“ある男が家の中で次々とひどい目に遭う”というスケッチからしてギャグは連発されるのだがテンポが悪くどうにも据わりが悪い。このスケッチ担当はジョン・ランディスなのだがどうしたんだジョン。『ケンタッキ・フライド・ムービー』でのバカさはどこへいってしまったんだ。
あるテレビ局で放送中のテレビ番組という基本設定で映画は進む。ドラマや映画評番組、CMなどを題材にパロディが展開されるのだがそのほとんどが中途半端で笑えない。ギャグの量の少なさ、演出のトロさなど観ていてストレスのたまる作品である。
“博物館が閉鎖になるのでゴッホの絵などの収集品を大特価ガレージセールで売っている”というスケッチはそのシチュエーション以外にギャグなし。どこをどう笑えというのだ。
個人的に一番笑ったのが“カントリーソング『黄色いリボン』(映画『幸せの黄色いハンカチ』の元ネタ)を歌う黒人歌手ドン・シモンズや安全性に重きを置いてボルボのステーションワゴンを買う黒人など、ソウルを持たずに生まれた黒人たちの救済を訴えるB・B・キング(本人)”のスケッチだ。ホントに出るなよB・B・キング。これは保守的白人の振るまいをする黒人が笑いどころなので日本人には直感的に理解しにくいギャグだ。うどんが大嫌いで蕎麦を食いジャイアンツを応援する大阪人といったところか。
悪人顔の第一人者ヘンリー・シルヴァがホストを務める「未知なる謎に迫る」というスケッチは良し。切り裂きジャックの謎に番組が迫り新事実が明らかになる。なんと切り裂きジャックの正体はネス湖のネッシーだったのだ。ロンドンの街角に立つ娼婦の後ろに何者かの影が・・・そう紳士然としたスーツを着込んだネッシーなのだ。路地裏に消えていく娼婦とネッシー、そして悲鳴が・・・
序盤でテレビの中に取り込まれてしまった中年男性がなにかというと画面の隅でウロウロしているギャグは良し。
エンディングクレジット後のユニバーサル・スタジオの案内で「Ask for Babs(バブスを尋ねな)」と書かれているギャグは同じジョン・ランディスの『アニマル・ハウス』(1978)を観ている必要あり。新版DVDの『アニマル・ハウス』の映像特典では実際にユニバーサル・スタジオの案内係として働いているバブスの姿が見られるぞ。

2004年09月14日

『浪人街』 1990年版は見ちゃなんねー

『浪人街』(1990) 117分 1990/9/9鑑賞

監督:黒木和雄 総監修:マキノ雅広 製作:鍋島壽夫/足達侃三郎/務台猛雄 プロデューサー:山崎義人/野村芳樹/垂水保貴 企画:鍋島壽夫 原作:山上伊太郎 脚本:笠原和夫 撮影:高岩仁 美術:内藤昭 編集:谷口登司夫 音楽:松村禎三 殺陣:宇仁貫三/山口博義 助監督:月野木隆
出演:原田芳雄/勝新太郎/石橋蓮司/樋口可南子/天本英世/水島道太郎/中尾彬/佐藤慶/長門裕之/田中邦衛

23日にWOWOWで唐沢寿明主演の舞台劇『浪人街』が放映される。
『浪人街』といえばマキノ雅広が1928~29年に三部作として撮り上げたサイレント時代劇で、自らの手で1957年にリメイクもされた作品だ。
ついでのついでのさらにオマケの余禄で述べておくと1990年にも再リメイクされているが、よりによって監督が“黒木和雄”なものだから当然のごとく“クソ映画”に仕上がっている。もはや予定調和といってよいだろう。
出演者の一人である勝新太郎のコカイン騒ぎで公開が延期されたが、いっそのことそのままお蔵入りしておいた方が世のため人のためだったことだろう。勝新太郎以外にも原田芳雄、石橋蓮司など出演者は味があっていいのだが演出がトホホなの限りである。
ラストに大立ち回りがあるのだが、黒木和雄に活劇が撮れるはずもないというの。多少なりとも自分の素質と演出に対する真摯さがあれば立ち回りを映画的に省略して描くなど出来たのだろうが、真っ向から展開される殺陣の退屈さはもはや拷問である。この活劇に対するセンスのなさは『あずみ』と近い物があるのではないだろうか。
マキノ雅広にあやまれ。その父親である『日本映画の父』こと牧野省三にもあやまれ。なにより金を払って観に行ったわたしにもあやまれ。観る前から映画自体には期待しておらず出演者とマキノ雅広だけで観に行ったのは確かだが、14年が過ぎた今でも腹の虫が治まらない。もしも黒木和雄と顔を合わせる機会があったら「金返せ」というつもりである。

2004年09月15日

『ビロウ』 海の底に何かがいる

『ビロウ』(2002) BELOW 105分

監督:デヴィッド・トゥーヒー 製作:スー・ベイドン=パウエル/マイケル・ゾーマス 脚本:ダーレン・アロノフスキー/デヴィッド・トゥーヒー/ルーカス・サスマン 撮影:イアン・ウィルソン 編集:マーティン・ハンター 音楽:グレーム・レヴェル
出演:マシュー・デイヴィス/ブルース・グリーンウッド/オリヴィア・ウィリアムズ/ホルト・マッキャラニー/スコット・フォーリー

第二次大戦中のアメリカ海軍潜水艦が正体不明な何かに襲われる。
というのを聞いて「いかにも駄目そうだ」と敬遠していたのだが、観てみるとこれが意外に拾い物。
潜水艦にどうやら霊的な物が取り付くのだが、その正体が最後まで明確にはされない。乗組員たちは何かがいるという存在は感じるのだがはっきりとした姿が見えるわけではなく“レコードが勝手に鳴り始める”“変な音が艦内に響く”といった気配しかわからない。
“何かの存在”とドイツ軍による激しい攻撃も受けながらも遊軍の港へと向かう極限状態の潜水艦の艦内を緊張感と狂気が浸食していく様が淡々と描かれる。
飛び散る血やちぎれ飛んだ首など直接的な描写を用いることなく、雰囲気のみで恐怖を巧みに構築していく。中でも、ある男が鏡に映った自分の姿が少し遅れて動いているのにふと気づくシーンは秀逸で、しかもその鏡からモンスターが出てくるといったことがなくただ“何かがおかしい”にとどめているのが良い。
潜水艦物としても実は『Uボート』や『U-571』並みに描写がしっかりしている。

2004年09月16日

『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』 何も描かないという方法論

『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』(1999) THE BLAIR WITCH PROJECT 81分

監督:ダニエル・マイリック/エドゥアルド・サンチェス 製作:グレッグ・ヘイル/ロビン・コウイー 脚本:ダニエル・マイリック/エドゥアルド・サンチェス 撮影:ニール・フレデリックス 音楽:トニー・コーラ
出演:ヘザー・ドナヒュー/マイケル・C・ウィリアムズ/ジョシュア・レナード

映画において本来“血”や“死体”を画面に登場させることはタブーであった。
戦後、徐々に規制は緩和され、『サイコ』(1960)の有名なるシャワー室での殺人ではかつてないほどの血が流れ出る。アルフレッド・ヒッチコックはこの映画をあえてモノクロで撮ったが、これは流血に慣れていない観客に必要以上のショックを与えないためというよりはむしろ血の赤がスクリーンの中で浮いた存在としてリアリティに欠け恐怖の演出においてマイナスになるのを理解していたからだろう。
そしてその1960年代はハーシェル・ゴードン・ルイスが『血の祝祭日』(1963)や『2000人の狂人』(1964)を作り、血がスクリーン狭しとぶちまけられる“スプラッタームービー”が登場した時代でもある。当初、ごく限られたホラー映画ファンにしか受け入れられなかった“スプラッタームービー”だが、しだいに勢力を強めて1980年代には『13日の金曜日』シリーズなどで一般にも広がっていく。
「あの映画ではバケツ10杯分の血糊だったからこっちは20杯分で」「前作では腕がちぎれたから今作では首を切り落とそう」と残虐描写は過激になる一方だった。一種の倍々ゲームにも似たこの方法論は物理的描写に頼っているが故にいつか限界がくる。過激になればなるほど映画からリアリティは失われていき観客も刺激に慣れ恐怖は消え去っていった。
その結果、サム・ライミが『死霊のはらわた2』(1987)で、そしてピーター・ジャクソンが『バッド・テイスト』(1987)で明示したように「スプラッター描写はギャグだ」ということになる。もはや観客は血が流れれば流れるほど大笑いをするのだ。

そこでホラー映画作家たちは考える。
「もはやただ血を流しても観客を怖がらせることは出来ない。ではどうしたらいいのだろうか?」
その答えの一つが「何も描かない」ということだった。
『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』には何も登場しない。
ただ「森の中に何かがいる」という気配だけを材料に、筋らしい筋のないストーリーをドキュメンタリー風のスタイルで、“映画的リアリティ”ではなく知人が撮ったホームビデオのような身近に感じられる“リアリティ”を撮り上げた。そこには流血も殺人鬼も登場しない。観客をドキッとさせる仕掛けもなく、はっきりとした結末や『キャリー』(1976)のようなどんでん返しもない。
ナタで首を切り落とされる男を見てもスプラッターになれてしまった現代の観客は恐怖を覚えない。そこに何も登場しないからこそ観客は恐怖を感じたのだ。

だからといって『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』が面白いかというとそんなことは決してない。はっきりいって駄作・クソ映画ではある。
制作陣が“何も描かないことによる恐怖の演出”を明確に理解して撮ったかには疑問が残る。おそらくは低予算で作るための苦肉のアイディアとして生み出されたのだろう。
だがそれでも『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』がスマッシュヒットをしたということから、観客がスプラッタームービーに飽きて次なる物を探していることが推測できる。
日本映画の『リング』や『呪怨』がハリウッドでリメイクされるのもハリウッドが模索していることの証明だろう。もっともどちらの日本映画も個人的にはクソだと思うのだが。

2004年09月17日

『エクソシスト3』 ババァがっ!天井にババァがっ!

『エクソシスト3』(1990) THE EXORCIST III 110分 1990/11/26鑑賞

監督・脚本・製作・原作:ウィリアム・ピーター・ブラッティ 撮影:ジェリー・フィッシャー 音楽:バリー・デ・ヴォーゾン
出演:ジョージ・C・スコット/ブラッド・ドゥーリフ/エド・フランダース/ジェイソン・ミラー/ニコル・ウィリアムソン/スコット・ウィルソン

『エクソシスト』(1973)については特に説明の必要がないだろう。悪魔憑きになってしまった少女とその悪魔を払わんとする神父の物語である。
わたしはこの作品が嫌いで、何故かというと単純につまらないからだ。代わりに『エクソシスト2』の方は結構好きである。
そして『エクソシスト3』は、近代ホラー映画にとって重要な位置を占める傑作だと思う。何故ならば、おそらく「何も描かない事による恐怖の演出」を初めて意図的に行った作品だからだ。
ジョージ・C・スコット演ずる刑事が連続首切り殺人を捜査する。首切り殺人といってもこの作品でははっきりとした死体などは画面に映し出されない。そして事件の線上に1作目で悪魔と戦い命を落としたはずのカラス神父が浮かび上がる。
一作目であったような緑のゲロや回転する首などのショッキングな映像を極力排除したのは、監督・脚本をつとめた原作者のウィリアム・ピーター・ブラッティ。思い切った省略や無駄とも思えるカットがあり一般的な映画の枠に収まっていないが、それを可能にしたのは職業監督ではないという強みもあったろう。

ムスッとした表情のジョージ・C・スコットの、もっとも彼の場合はいつもそんな顔つきなので心の内は分からないが、下からあおって撮ったジョージ・C・スコットの上にある天井には、気味の悪いお婆さんがスパイダーマン状態で張り付いてゴソゴソと這いずり回っている。ではそのお婆さんがジョージ・C・スコットに襲いかかったりするかというとそんなことはなく、場面は変わりその後お婆さんは登場しない。(WOWOWで放映中のアメリカのテレビシリーズ『スティーヴン・キングのキングダム・ホスピタル』で、アル中の発作で担ぎ込まれた患者の幻覚として天井を這いずり回る女性が登場していた。ひょっとしてオマージュか?)
病院の長い廊下のその端にカメラを据え付け、人気のない廊下を画面固定のまま延々と撮る。はっきりとは憶えていないが1分ほど続いたのではなかったか。ようやく看護婦が現れ廊下を横切って姿を消す。その次の瞬間、植木バサミほどもある巨大なハサミ(鎌だったかも)を持った黒衣の人物がその看護婦の後を追って走り過ぎる。ほんの一瞬である。
黒衣の人物に看護婦が襲われたのか。その首を切り落とされたのか。画面には何も映し出されないまま次のシーンになってしまう。
ここには70~80年代にあったような直接的な残虐描写は登場しない。ある意味、何もないのだ。そのことによって恐怖が発生し、何も描かれてないだけに映像に物理的な限界が生じない。

もっとも、1990年当時の観客にはあまり受けが良くなかったように思う。
当時、わたしは大学のシネマ研究会に所属しており、そこでの作品批評会では「つまらない」「何をやりたいのかさっぱり分からない」という意見が多かった。映画にかなり興味があっていろいろな映画を観ているシネマ研究会部員にしてそうだったのだから、一般の人たちからはもっと厳しい意見だったことだろう。
「いや、この何もないところが良いんだ」と力説したのだが、表現力不足で他の部員にはあまり伝わらなかった事を憶えている。

(14年前に一度観たきりなので、ひょっとしたら『エクソシスト3』について間違っているところもあるかもしれないが、その点はご容赦をお願いする)

2004年09月20日

『テルマ&ルイーズ』 ニューシネマの呪縛

『テルマ&ルイーズ』(1991) THELMA & LOUISE 128分 1991/11/9鑑賞

監督:リドリー・スコット 製作:リドリー・スコット/ミミ・ポーク 脚本:カーリー・クーリ 撮影:エイドリアン・ビドル 音楽:ハンス・ジマー
出演:スーザン・サランドン/ジーナ・デイヴィス/マイケル・マドセン/ブラッド・ピット/クリストファー・マクドナルド/ハーヴェイ・カイテル

今回は映画の結末について触れているので、未見の方で「知りたくない」という場合は読まないでください。
「ネタばれは絶対ダメだ」という方もいるが、わたしにとってラストに触れない事には『テルマ&ルイーズ』の一番重要だと思う事について語る事が出来ません。

テルマとルイーズという二人の女性がドライブに出かけ、その途中で犯罪に巻き込まれて護身用に持っていた銃で犯罪者を射殺してしまった事からニコラス・レイの『夜の人々』(1949)やエミリオ・エステヴェスの『ウィズダム』(1987)、そしてオマケで名前を挙げておくと『俺たちに明日はない』(1967)の様な逃避行に走ることになる。
道中、金に困った二人はスーパー強盗を働き、本格的に警察から追われる身になってしまう。
そして、ついに何台ものパトカーに追いつめられた二人は、投降をすすめるスピーカーの声に背を向けて車のアクセルを思いっきり踏み込むと断崖絶壁から飛び出し、遙か下の大地へと落ちていくのであった。

なんだ、せっかく女性を主役に骨太な逃避行物を撮っておきながら、ラストは結局男性的考え方、男性的文法にしてしまったのか。これはいかにももったいなく、納得できない。
公開時のコピーは「男たちよホールド・アップ!すべてが快感。女たちのルネッサンス!」だったそうだが、全然ルネッサンスじゃない。
ラストの二人は格好良かったがそれは男性的格好良さであって、女性映画として作ったのならば安易に死を選択させるのではなく、ケチなプライドやスタイルに縛られることなくしぶとく生き残らせないといけなかったはずだ。それでこそルネッサンスである。
つまるところ『テルマ&ルイーズ』は主役の二人を男にしてもほぼそのまま成立してしまうことと、“アメリカン・ニューシネマ”の呪縛に囚われているところが最大の欠点だ。

2004年09月23日

『HELL ヘル』 希望、それは一匹の蛾

『HELL ヘル』(2003) IN HELL 97分 2004/9/23鑑賞

監督:リンゴ・ラム 製作:ボアズ・デヴィッドソン/ダニー・ラーナー/ジョン・トンプソン 製作総指揮:アヴィ・ラーナー 脚本:エリック・ジェームズ・ヴァーゲッツ 撮影:ジョン・アロンソン 音楽:アレクサンダー・ブーベンハイム

出演:ジャン=クロード・ヴァン・ダム/ローレンス・テイラー/マーニー・アルトン/マイケル・ベイリー・スミス/ビリー・リーク

ジャン=クロード・ヴァン・ダムの刑務所映画というから『ブルージーン・コップ』(1990)のように刑務所の中で戦ってばかりの映画かと思ったら、これが意外に面白かった。
スティーヴン・キングの小説『不眠症』上巻297ページに「テレビの犯罪特集や、ジャン=クロード・ヴァン・ダムが主演する映画と同じぐらい嘘っぽいものだ」と書かれており、『シンデレラ・ボーイ』(1985)の悪役イワンでヴァン・ダムを見て以来のファンであるわたしとしてはせめてもの反論をしたかったところだが、残念ながら「その通りだよなぁ」としかつぶやけなかった。キング原作の映画だってほとんどはあまり評価が高いとも思えないのだが。わたしは好きだけどね。
だからってキングがヴァン・ダムをどう評価しているかはまた別で、実在する商品名などの固有名詞を作中に数多く盛り込む人だから、リアリティに欠けるB級アクション映画的状況というイメージを伝えるためにヴァン・ダムが選ばれたわけで、ある程度メジャーと考えているのは確かだ。
そんな“嘘っぽさ”で満ちあふれているヴァン・ダム作品だが、この『ヘル』は割ときちっと刑務所映画になっている。
ロシアの油田基地で働くアメリカ人エンジニアのヴァン・ダム。その妻が強姦魔に襲われ殺されてしまう。ヴァン・ダムは追跡の末犯人を捕まえるが、その犯人が実力者の息子だったため裁判で無罪の判決が下る。怒ったヴァン・ダムは裁判所内で犯人を射殺。そして今度は自らが殺人犯として裁かれ、ロシア一過酷な刑務所に送られてしまう。
まるで収容所の様な劣悪な刑務所でヴァン・ダムは生き延びことが出来るのだろうか。

監督は『マキシマム・リスク』や『レプリカント』などで何度かヴァン・ダムと組んでいる香港出身のリンゴ・ラム。アクション映画主体の人だが、そういえばチョウ・ユンファ主演の刑務所映画『プリズン・オン・ファイアー』(1987)を撮っている。
刑務所に収容されたヴァン・ダムは観光旅行中に交通事故を起こして逮捕されたアメリカ人青年や、車いすの調達屋(刑務所映画や収容所映画には必ず出てくる役柄。『大脱走』のジェームズ・ガーナーや『ショーシャンクの空に』のモーガン・フリーマンなんかがそうだ)、偏執的キリスト教徒である黒人の大男などと知り合う。
もめ事を起こしたヴァン・ダムが狭苦しい独房に入れられ、絶望してシャツを千切って作ったヒモで首をつろうとして失敗したり、岩で出来た壁に何度も頭を打ち付けて額を割って血を流して倒れる。隣の独房では明らかに精神に異常をきたした男が常に意味のない叫びを上げ続けている。そんな悲惨な状況の中、独房に迷い込んできた一匹の蛾に気づき、その小さな命の存在から希望を見いだしていく様はなかなかに良い。
ひょっとしてこれはスティーヴ・マックィーンの『パピヨン』(1973)ぐらいにはなるか?と期待していたら、刑務所の中庭で看守公認の囚人同士の対決などが始まり、あとは基本的に従来のヴァン・ダム映画の通り。
今作のヴァン・ダムは警官などではなくエンジニアなのでそれほど格闘技が強いわけではなく、一対一ならともかく2、3人がかりで襲われると押し倒されて一方的に袋叩きにされてしまうなど、ヴァン・ダムの「俺が一番だ」的主張が抑えめでそういった点なども悪くなかっただけに残念。

2004年09月24日

『JM』 サイバーパンクのミッシングリンク

『JM』(1995) JOHNNY MNEMONIC 105分

監督:ロバート・ロンゴ 製作:ドン・カーモディ 原作・脚本:ウィリアム・ギブソン 撮影:フランソワ・プロタ デザイン:シド・ミード 音楽:マイケル・ダナ
出演:キアヌ・リーヴス/北野武/ディナ・メイヤー/アイス・T/ドルフ・ラングレン/ヘンリー・ロリンズ/ウド・キア/バルバラ・スコヴァ/シェリー・ミラー

セガール、ヴァン・ダムときたら次はやはりドルフ・ラングレンだろうか。
極真派の黒帯空手家で体格は良く厳ついが格好いい顔立ち、そして実は名門MITに在籍していたこともある(卒業したかは知らない)という理系の知性派。身体、顔、頭と三拍子揃っている。
『ロッキー4』(1985)で敵役のロシア人ボクサーに大抜擢され一気に世界的知名度を得る。そこから揚々とした俳優人生が始まった、のならばいいがどうもぱっとしない映画ばかり出演している。
スゥエーデン出身なので確かに英語に訛りはあるが、アーノルド・シュワルツェネッガーやジャン=クロード・ヴァン・ダムほどは強くなくさほど障害ではないだろう。アクションはこなせるし、もうちょっと作品に恵まれても良いと思うのだが。

『JM』はドルフ・ラングレン主演作ではない。ドルフ・ラングレンが演じるのは殺し屋で、殺し屋といえば聞こえは良いが神がかった上にホームレスめいた服装、おまけにヒゲがモジャモジャで最初はドルフ・ラングレンだと気付かなかった。イエス・キリストのコスプレといえばまあその通りなのだが。
時折画面をウロウロしてはほとんど見せ場もないまま消えていく。そりゃ、いくらなんでもあんまりだろ。
そもそもこの『JM』という映画が原作・脚本にウィリアム・ギブソンとデザインにシド・ミードを持ってきた意味がまったく感じられないようなクソ映画ではある。ギブソンにしろシド・ミードにしろピークは80年代だったので、それを95年になってから看板として引っ張り出してくるところでこの作品の基本的なセンスに疑問が持たれる。
監督のロバート・ロンゴはアート・ビデオを撮っていた人だそうで、なるほどそれっぽい画面を作る事でせいぜいなのも納得だ。優れた映画は優れた芸術でもあるが、芸術として映画を撮ることは間違いだというのが個人的考えだ。
まさしく無駄に豪華なキャストも「何でこんな映画に出ちまったんだろうか」と公開していることだろう。
サイバーパンク映画において『ブレードランナー』から『マトリックス』の間を繋いでいる作品ではあるのだが、いっそのことミッシングリンクになってしまえと思ったりもする。

2004年09月25日

手術しませう 白線ヘルニア

ヘソの左上側になにやら500円玉程度の大きさの膨らみが出来た。端はなだらかな傾斜を描いているが高さもほぼ500円玉の厚みかもう少し厚いぐらい。押すと引っ込むのだが、しばらくするとまた出てくる。
これはひょっとしてヘルニアだろうか、と思いつつ思ってるだけだと進展がないので素直に医者に行った。
「ヘルニアですかね?」
「ヘルニアですね。白線ヘルニアです。投薬などでは直せません。手術しましょう」
「手術というとあれですか先生、お腹を斬るんですか、鋭いメスでお腹を斬るですか、血が出ますかドバッと出ますか」
と慌てふためくわたしに、医師は冷静に白線ヘルニアと手術についての説明を始めた。
「腹膜に裂け目が生じてそこから腸がはみ出しているのです。いわゆる脱腸ですな」
「「訴えてやる~」ってギャグのコメディアンですか」
「それはダチョウ倶楽部です。しょうもない事を言わないでちゃんと聞いてなさい。このまま放っておくと腸閉塞や腸管壊死につながる恐れがあります。そこで治療のためにお腹を斬りましてその穴を塞ぐのです。自前の組織を縫い合わせるのが基本ですが、それで間に合わなかった場合は人工のメッシュ素材を埋め込みます」
「なるほど、メッシュならば風通しが良くて夏場でも涼しい」
「お腹を斬ったままにしてどうしますか。ちゃんと縫い合わせます」
「どうせならメッシュじゃなくて1ドル銀貨になりませんかね。銃で撃たれたけど運良くそこに当たって助かるとかって」
「なりません。それから、部位が上半身側になりますので下半身麻酔ではダメです。そこで全身麻酔になります」
「・・・全身麻酔ですか。あれってたまに事故の話を聞くのでちょっと怖いんですが」
「大丈夫です。当病院には有能な麻酔医がいますから。では、10月6日から入院してください。2日間でCTスキャンなどの検査をし、10月8日に手術です。それから1週間ほどして傷口が塞がったら退院です」
「分かりました」

という具合でトントン拍子で入院手術が決まってしまった。
ヘルニアといえばマンガ『ブラック・ジャック』で知的障害を持ったデベソ(臍ヘルニア)の少年が登場する話があった。勉強は全くダメで薄らバカなのだが、地面を掘ると石器やら化石やらを高確率で見つけ出すという才能の持ち主だった。ブラック・ジャックによってヘルニアは手術で取り去られるのだが、発掘中だった恐竜の化石の現場に嵐が襲ってきて・・・
うむむ、いい話なのだがちょっと縁起が悪い。
だが、他にヘルニアの出てくる作品は思いつかない。椎間板ヘルニアってのはまた全然別の病気だし。

2004年09月26日

『スモール・ソルジャーズ』 隣の家の少女

『スモール・ソルジャーズ』(1998) SMALL SOLDIERS 110分

監督:ジョー・ダンテ 製作:マイケル・フィネル/コリン・ウィルソン 脚本:ギャヴィン・スコット/アダム・リフキン/テッド・エリオット/テリー・ロッシオ 撮影:ジェイミー・アンダーソン SFX:スタン・ウィンストン 音楽:ジェリー・ゴールドスミス
出演:グレゴリー・スミス/キルステン・ダンスト/ジェイ・モーア/フィル・ハートマン/ケヴィン・ダン
声の出演:トミー・リー・ジョーンズ/フランク・ランジェラ/アーネスト・ボーグナイン/ジョージ・ケネディ

一昨日紹介した映画は『JM』。ひっくり返すとMJ。MJといえば『スパイダーマン』シリーズのヒロイン。
というわけでキルステン・ダンスト出演の『スモール・ソルジャーズ』(1998)
軍事機器メーカーが何を考えたのかもう一つ意味不明だが玩具メーカーを買収し新商品を発売した。動いてしゃべるこの兵隊型フィギュアのコマンド・エリートとモンスター型フィギュアのゴーゴナイトには開発者のミスで軍事用チップが積まれていた。ゴーゴナイトを退治するという設定が組まれていたコマンド・エリート、その指令通りに殲滅作戦を開始する。おもちゃ屋の息子で問題児の主人公がゴーゴナイトのリーダー、アーチャーを助けた事から住宅地の一角で“小さな戦争”が始まる。

全長30センチほどのフィギュアが動く様は面白いが、コマンド・エリートが攻撃を始めると笑っているどころではない。工具を改造して作った釘やカッターの歯発射機、プロパンガスを使った火炎放射器で武装し、小さいが鋭いナイフまで持っているのだから恐ろしい。せめて、撃ってはくるが当たらないで欲しいのだが、主人公たちの足などにブスブスと刺さって非常に痛そうだ。
同じジョー・ダンテ監督の『グレムリン』(1984)でもグレムリンたちの悪ふざけがエスカレートして、後半では笑えないほど痛い物になっていたが、今作もそう。子供に観せるにはちょっと刺激が強すぎるんじゃないだろうか。やはり戦ってるのはおもちゃなんで、あまり痛くない笑える攻撃方法にして欲しかったところだ。
主人公をはじめとして父親連や玩具メーカーの開発者など男性陣が情けない中、襲いかかるコマンド・エリート部隊に対して果敢に立ち向かうのは主人公の母親。てきぱきと冷静に指示を出し、敵が撃ってくる燃えさかるテニスボールをラケットで打ち返す大活躍。ずいぶんと格好の良いママだ。
ラスト、騒ぎは集結したが主人公の家は半壊し電柱も吹っ飛ぶなど被害甚大なところに軍事機器メーカーの社長がヘリコプターで降りてくる。思えばすべてこいつが根源。これはちょっと気弱で情けない主人公の父親がこの社長をぶん殴るんだろうな、ハリウッド映画で良くあるパターンだ。と思っていたら、この社長は事件の関係者に高額の小切手を渡し、みんなそれで納得して逆に喜んでる始末。こら、親父の根性なし、一発殴らんかい!どんなハッピーエンドだそれは。
忘れていたが、キルステン・ダンストは隣の家に住む少女で主人公は彼女に内心憧れている。この設定はなんかどこかで観たような聞いたような。そうか、これがMJに起用された理由かっ!この作品ではまだ少女っぽさが残っていて、それほど不細工ではない。ほっぺたのぷっくりがまだ大きくないのだが、そこが違いか。

フィギュアの声でアーネスト・ボーグナインやジョージ・ケネディが出演している。なんでもジョー・ダンテが『特攻大作戦』へのオマージュとしてキャスティングしたそうだ。
ネットワークのパスワードに“ギズモ”を使ったり、おもちゃ屋のゴミ箱の中にゴミに混じってさりげなく(あまりさりげなくないが)グレムリン人形が入ったりしているのは相変わらなジョー・ダンテのオタク体質か。少々うっとおしく感じるのも確かだ。

2004年09月28日

『バイオハザードII アポカリプス』 小さな血の手形

『バイオハザードII アポカリプス』(2004) RESIDENT EVIL: APOCALYPSE 93分 2004/9/26鑑賞

監督:アレクサンダー・ウィット 製作:ポール・W・S・アンダーソン/ジェレミー・ボルト/ドン・カーモディ 製作総指揮:ベルント・アイヒンガー/サミュエル・ハディダ/ヴィクター・ハディダ/ロバート・クルツァー 脚本:ポール・W・S・アンダーソン 撮影:クリスチャン・セバルト/デレク・ロジャース 編集:エディ・ハミルトン 音楽:ジェフ・ダナ
出演:ミラ・ジョヴォヴィッチ/シエンナ・ギロリー/ジャレッド・ハリス/オデッド・フェール/トーマス・クレッチマン/サンドリーヌ・ホルト/ソフィー・ヴァヴァスール

ゲームの方は一作目だけプレイした。ゾンビをガンガン撃ち倒していくアクションゲームかと思ったら、何の事はないアメリカのPCゲーム『アローン・イン・ザ・ダーク』のゲームシステムをそのまんまパクってゾンビで味付けしただけで、わたしにとっては紛れもないクソゲーだった。瑣末な部分のパクりは別にかまわないが、根本的な部分で最初っからオリジナルを放棄しているようじゃな。

『バイオハザード2』は一作目のラストで暗示されていた通りに、Tウイルスがラクーン・シティに漏れ出して街は感染者(ゾンビ)で溢れかえり地獄と化す。ロメロの『リビング・オブ・ザ・デッド』シリーズなどでは人間が建物に立てこもるというパターンが多いが、今作では閉鎖されてしまった街から逃れために、その鍵となる少女を核爆弾爆発のタイムリミットまでに捜し出すのが目的で、なるほどちょっとゲームっぽい。
登場人物の内、ミラ・ジョヴォヴィッチは主役だから大丈夫だろうが、他の者は誰がいつ死ぬか分からない。捨てキャラはどんどんあっけなく死んでいく。でも観客もすれてしまうと「こいつとこいつは死ねぇんだろうなあ」とか考えてしまい、その予想が大体当たっていたする。
それでも、小学生のゾンビ軍団はちょっと怖かった。登場する少し前のカットで、壁に貼られた大きな世界地図(だったかな)の子供がようやく背の届く下の部分だけに小さな血の手形がいくつも付いており、子供のゾンビを予感させるという手法は良かった。突然「わっ!」と来るよりも「さぁ来るぞ来るぞ」と思っているところに「うわっ!」と来た方が怖いのだ。
アクションはガンアクションが主体だが、“ただバリバリ連射している”だけのシーンが多くて面白味に欠ける。巨大モンスターの使う装弾数5000発のミニガンも『プレデター』の二番煎じといった感じだ。記憶に残っているのは、ウイルスによって超人となったミラ・ジョヴォヴィッチが銃を捨てそれが地面に落ちる前に猛スピードで受け止めるシーンぐらいだろうか。
巨大モンスターとの素手による格闘はアクションとしてちゃんと繋がっていない。カット数ばかり多いが、スピード感を生み出しておらずただ見にくいだけ。
個人的に前作よりも楽しめたが、アクション部分とホラー部分が上手く噛み合わさっておらず、結果双方の足を引っ張り合っているのが残念だ。

ラストは「捻ってみて観客を驚かせよう」や「あわよくば作られる三作目に向けての伏線張り」など要素を詰め込みすぎ。もう終わるだろう、もう終わるだろうと思っているが、一向に終わらない。
日本でもアメリカでもヒットしているようなので、三作目も作られるかも知れないが、今度はしゃきしゃきっと終わってくれ。

そうそう、ミラ・ジョヴォヴィッチの脱ぎっぷりは相変わらずで、またもや美しい“肢体”をさらけ出してくれる。まあ作品が作品なんで“死体”もいっぱいでこちらは美しくもなんともない。
もう売れっ子女優なのだからそうそう脱がなくても良さそうなものだが、自分のファンが何を求めているのかを良く分かっているのだろう。それとも脱ぎ好きか?
こういった辺り、ちょっと売れてバラエティ番組などに出たくらいで勘違いして「もう水着は卒業しました」とか言ってる日本のグラビアアイドルは見習って欲しい。歌が上手いわけでも演技が出来るわけでもない、その上水着じゃない○○に何の価値があるというのだ。

2004年09月29日

『伊勢湾台風物語』 台風が来る、ものスゴイ奴

『伊勢湾台風物語』(1989) 88分 1989/11鑑賞

監督:神山征二郎 演出:岩本保雄 製作:瀬戸義昭/山田昭男/伊藤叡 企画:加藤潤一 原作:神山征二郎 脚本:神山征二郎 撮影:藤田正明 美術:門野真理子 編集:尾形治敏 音楽:針生正男 作画監督:北崎正浩
声の出演:小山茉美/戸田恵子/戸谷公次/堀秀行/杉山佳寿子

まーた台風だ。
2004年9月29日20:00現在、愛知県は台風21号が直撃中で猛烈な風雨である。本当に今年は台風のビンテージイヤーだ。こんなビンテージははっきりいっていらない。
台風と映画といえばアニメ『伊勢湾台風物語』(1989)だろうか。
東海地方で風雨と高潮によって5000人を超える死者・行方不明者を出した伊勢湾台風。その伊勢湾台風が襲ってきましたよ大変でしたよ、と要約すればそれだけ。監督だけでなく原作や脚本まで神山征二郎なので、良心的である事は認めるが例によってそれ以上の物はない。
伊勢湾台風の記憶を無くすな、その恐怖を語り継げという意図は分かるが、映画には画がある分だけスペクタクルの傾向が強くなり媒体として向いていないだろう。しかもアニメだ。小説や児童書を使った方が訴える力は強いだろう。
わたしは多くの死者を出した半田市で育っており、海に近い地区では所々に伊勢湾台風での浸水位を示す標識が建っている。大人の身長よりも高かったりするので、子供心に「これは確かにただ事ではなかっただろうな」とその恐ろしさを実感した。そのときの思いの方が『伊勢湾台風物語』を観たそれよりも強かったりもする。もっとも、子供向けに作った映画を二十歳にもなって観てるからかも知れないが。何で観たんだろうな~俺。
小山茉美や戸田恵子など声優が結構豪華だが、実は二人とも伊勢湾台風の被害地である愛知県出身。戸田恵子は名古屋市、ナレーション担当だった小山茉美は確か西尾市。
しかし、この作品は名古屋では確かヘラルド系でやったような気がするが、愛知県以外でも上映されたのだろうか。小学校などの学内上映中心かもしれない。DVDはおろかビデオ化すらされてるか怪しい。

2004年09月30日

『ハチ公物語』 階段下の名犬

『ハチ公物語』(1987) 107分

監督:神山征二郎 製作:奥山和由 プロデューサー:鍋島寿夫/進藤淳一 原作:新藤兼人 脚本:新藤兼人 撮影:姫田真佐久 美術:西岡善信 編集:近藤光雄 音楽:林哲司 助監督:中島俊彦
出演:仲代達矢/八千草薫/田村高廣/長門裕之/石野真子/三木のり平

昨日の『伊勢湾台風物語』から神山征二郎監督作ということで。もちろん映画館では観ていない。そこまで映画野郎として腐ってはいないのだ。
後にテレビで放映されたときに観た。観終わった感想としては「あークソつまらんかった。時間の無駄。プップー」だったのだが、一緒に観ていた女性をふと見ると肩をふるふると震わせている。なっなんと泣いていたのだ。それも涙腺全快のダダ漏れ泣き。
「うわっ、あんたなんでこんな映画で泣いてんだよ」
「えーっ!そっちこそ感動しなかったの?!信じられない、この鬼!人でなし!プラナリア!」
「失礼な事を言うな。プラナリアは身体をぶった斬ったら場合によったら頭がもう一つ生えてくるスゴイ奴だぞ。プラナリアに謝れ」
「じゃあこのカルピオネラ!」
「なんだとー。俺のどこが原生動物だー」
というのでケンカになった。『ハチ公物語』が理由とは映画と同じく実に詰まらないケンカだ。
監督・神山征二郎、脚本・新藤兼人というのはかなりやってはいけない組み合わせだ。クソ映画を作るという意味では単体でも強力なのにパーティーを組まれてはたまったもんじゃない。こうなったら一か八か最強呪文のTILTWAITで対抗だ。
実際、この映画はストーリーは実話をそのまんま。(もっとも、この“実話”自体がどこまで事実なのかは大いに疑問が残るが。主人を一心に待ち続けるというストーリーは、戦争に駆り出された夫や息子を待つ銃後の妻の戦意高揚のため、時のマスコミや政府によって都合良く脚色されたおそれは大いにある、と今勝手に思いついたのだが調べてみるとやはりそういう説もあるようだ。わたしが思いつくような事はすでに誰かが思いついているのか・・・)
演出もなんの工夫もなくストレートと言えば聞こえは良いがただ単調なだけ。そのくせ感動させたいシーンでは無理矢理に演技や音楽を盛り上げるあざとさで、観てるこちらとしては「なにやってんだか」と引いてしまう。いわゆる“凡庸”を絵に描いたような、いやフィルムに焼き付けたような作品。
この映画で泣いたという人は少なからずいるようだが、「じゃあ泣いたから良い映画なの?」とは問いかけてみたい。泣くなんて映画の付随要素に過ぎないと個人的には思うんだけどね。つか、数本でしか泣いた事ないし。

ただ主人の帰りを待っていただけで“忠犬”扱いされ、渋谷駅前に銅像まで作ってもらい待ち合わせ場所として有名になっているハチ公よりも、盲導犬として主人に仕えその主人をかばって交通事故に遭い左前足を失ってしまった“名犬サーブ”の方が10万倍ぐらい立派だ。偉いに順番をつけるなんてアホな行為だとは思うが、国だって功績を挙げた人に「はい、あんたは勲一等。はい、あんたは勲三等。はい、あんたは大したことしてないから銀杯だけね」てなことやってるし。
名古屋駅前の交番横に作られた“名犬サーブ”の銅像なんて、JRセントラルタワーズが建てられたせいで階段の下に追いやられたんだぞ。段ボールハウスな人たちじゃないっつーの。こんな扱いじゃ銅像立てた意味がないだろ。
さすがに可哀想だろうと今では久屋大通公園に移されたそうだが、階段作る時点で何とかしろよ名古屋人。こんなセンスで愛知万博大丈夫か?愛知万博のポスターに「一生一度は万博だ」というコピーのやつがあるが、大阪万博に行った人はもう行かなくても良いって事か?じゃあ、しんのすけの父親は愛知万博に来る必要ないな。埼玉からじゃ遠いしな。

結論としては、1987年にもなってこんな古くさい泣き落としの映画を作ってるんじゃねえっ、これは現代映画じゃなくて近代映画だ。映画としての成り立ちがあまりにズレてる。だから松竹はダメなんだよ、ってこと。