脚本家としてはともかく、『ショーシャンクの空に』『グリーン・マイル』『マジェスティック』など監督としてはまったく買っていないフランク・ダラボンだが、次回作として『華氏451』の映画化を考えているそうだ。
『華氏451』は1966年にフランソワ・トリュフォーがすでに映画にしており、そちらについてダラボンはこう述べている。
「あのバージョンは著しくパッションに欠けるね。原作をなんて情熱的な本だろうと思っている私には、とてもビザールな作品に感じられた。私は今回の作品をリメイクとは考えてはいない。まだ一度も映画化されていない本の映画化と思って取り組んでいるんだ」
やはり、フランク・ダラボンはダメ野郎で間違いないようだ。
そもそも、“情熱に欠けている”と“抑えた演出”の区別すら出来ていない。
本が禁じられ自由な思想も許されない管理社会と、感情を失いただテレビを見るだけの人々を静かな口調で語っているからこそ、ファイヤーマンとして本を焼き払う仕事に就いている主人公が、一冊の本と出会うことで自由と生きる意義に目覚めていく様がひたすらに感動的なのだ。
世の中にはハリウッド映画の文法がだけではない。なんでも大げさにして起伏を強くし派手にすればいいと思うのは勝手だが、それだけでは理解できない映画はいくらでもある。
それに「パッションに欠ける」と言っても、ダラボンとは関わりの深いジョージ・ルーカスが撮った『THX-1138』と比べてみればいい。同じような管理社会を題材にしていても、ただ退屈で凡庸なだけの『THX-1138』に対して、『華氏451』のなんと詩情に溢れドラマチックであることか。
確かに、『華氏451』はフランソワ・トリュフォーのベストな作品ではない。だがいやしくもトリュフォーである。ダラボンごときがまるっきり的外れな批評をして許される物ではない。