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『ボウリング・フォー・コロンバイン』 潤色を加えず実際のままがドキュメンタリーじゃないのか

『ボウリング・フォー・コロンバイン』(2002) BOWLING FOR COLUMBINE

監督:マイケル・ムーア 製作:チャールズ・ビショップ/ジム・ザーネッキ/マイケル・ドノヴァン/キャスリーン・グリン/マイケル・ムーア 製作総指揮:ウォルフラム・ティッチー 脚本:マイケル・ムーア 撮影:ブライアン・ダニッツ/マイケル・マクドノー 編集:カート・エングフェール 音楽:ジェフ・ギブス
出演:マイケル・ムーア/チャールトン・ヘストン/マリリン・マンソン/マット・ストーン/ジョージ・W・ブッシュ

新聞のコラムじゃないんで、時事ネタとか季節ネタはなるべく扱わないようにしているんだが、この陽気だと一言ぐらいは言いたい。「暑い!」
それでも、割と雨は降っているんでとりあえず水不足の心配はなさそう。ダムの水位情報でも一部を除いて50%は確保している様子。
わたしの住む知多半島は大きな河川が無く木曽川から引かれた愛知用水が頼り。用水が引かれる1961年以前には慢性的に水不足で悩んでおり、農業用のため池がそこら中にあった。現在では埋め立てられてしまった物も多いが、新美南吉の『おじいさんのランプ』に登場する“半田池”などはまだ残っている。山と田んぼの中にある大きなため池で、南吉の生きていた昭和10年ごろにはそれこそ狐も出るような様子で、人目に付かずにランプを割るには良い場所だっただろう。

わたしが小学生の頃、ひどい雨不足があり愛知用水が取水制限になったことがあった。時間断水が行われ、地元の市営プールも休みになってしまった。毎日のように通っていたわたしは、友人を誘って海まで泳ぎに行くことにした。海水浴場のある河和までは名鉄電車を利用するため、水着の入った水泳用バッグを提げるとまずは駅へと向かった。
家から駅までの途中にその市営プールがある。その前を通りかかったところ、他に車のない駐車場に一台だけワゴン車が駐まっていて、なにやら機材を運び出していた。その中の一人が、わたしたちに「プールに泳ぎに来たのか?」と声をかけてきた。いや、確かに当時のわたしは愛くるしい少年だったが、犯罪関係に話は進まないので安心して読み進んで欲しい。
「そうじゃない、海に行くのだ」と答えると、その人はしばし考え「実はテレビのニュースの取材で来た某地元の民間放送なんだが、ちょっと画面に出てもらえないか」と言ってきた。
「おいおい、テレビに出られるよ」と喜びいさんで承諾すると、プールを囲んでいるフェンスのところに連れて行かれた。そこにはすでにテレビカメラなどがセットされており、「じゃあ、そのフェンス越しに中をのぞき込んで」と言われ、その指示に従って10分ほどで撮影は終わった。
最後に「今日の夕方に放送するからね」と教えてもらった。

海でさんざん泳いでから家に帰り、母親に「テレビに写ったよ」と告げ、姉弟たちとテレビの前で放映を待った。
そして夕方の5時、ニュースが始まった。
いくつかのニュースの後で、「雨不足の続く中、知多半島では時間断水が始まり、半田市の市営プールはしばらくの間閉鎖となりました」
そしてわたしたち二人がフェンスにしがみついている様子が移された。
「休みを知らずに泳ぎに来た子供たちは、うらめしげにプールを眺めておりました」
こうしてわたしのテレビ出演は終わったのである。

・・・っていうか、“ヤラセ”って言わないか、これ。
プールが休みなのは知ってたっつーの。これじゃわたしたちが新聞も読まなきゃニュースも見ない、インターネットの情報サイトも見ない(見ようにも当時はまだなかったが)ようなアホみたいじゃないか。
ほいほい誘いに乗ったわたしにも問題があるが、報道の側がそんなんでいいのかね。
そりゃ確かに誰もいないプールよりは、休みで悔しがる子供たちの方が画的にインパクトがあるのは認めるが、それを作っちゃダメだろ。そこんとこどうなんだ、地元の某民間放送!

この件をきっかけに、「テレビのニュースや新聞も案外嘘があるんだ」と思うようになり、もともとどっかがひねくれていたのに拍車がかかって物事を斜めに見る傾向がより強くなる。
ひいては後の“ドキュメンタリーなんて結局製作者の一方的な見方だ”とドキュメンタリー映画嫌いにつながる。
『ボウリング・フォー・コロンバイン』なんていかにもそれがあからさまで、マイケル・ムーアがあらかじめ脚本を書き、それに沿って撮影した素材を編集していっただけ。最初っから答えがあり、都合の良い物だけを残し都合の悪い物は削除していったのだから、予定された結末に行き着くだけのこと。
チャールトン・ヘストンとの問答も、別にヘストンの味方をする気はないが、相手の返答を予測してあらかじめ調べ上げ、いきなり押しかけ行って追求していくのでどうにも始末が悪い。犯人のトリックなどを調べ上げ、すべて分かっているのに知らない振りをしながらじわじわと犯人を追いつめていく『刑事コロンボ』のようで後味が悪い。コロンボってのは映画で観る分にはともかく、実際の知り合いにいたらかなりイヤな人物だろう。
ドキュメンタリーとか言っても、カメラが回されていたら登場人物たちは結局カメラを意識せずにはおられず、本来の自分を隠して演技してしまう。仮に隠し撮りをしたとしても、それを製作者が編集した時点で、一定の視点・考え方に基づいた物にならざるを得ない。観客は意識するしないにかかわらず、その視点を押しつけられてしまうし流れに動かされ用意された結末に誘導されてしまう。これのどこが劇映画と異なるのだろうか。
そもそも個人的にはドキュメンタリーに結論はいらないと思う。最初から結論が用意され、それに向かって制作されるなどもってのほかだ。映像によってあれこれ考えずとも頭の中に入ってきてしまう分だけ、ドキュメンタリー映画は活字のそれよりも危険だ。
マイケル・ムーアもあれこれケチを付けるのも良いが、せめて多少なりとも芸になっていればなというのが正直なところだ。

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