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『その男、凶暴につき』

『その男、凶暴につき』(1989) 監督:北野武 製作:奥山和由 製作協力:森昌行 脚本:野沢尚 出演:ビートたけし/白竜/川上麻衣子/佐野史郎/芦川誠/吉澤健/寺島進/石田太郎/岸部一徳

(公開時執筆)
「あっ、ひいちゃう、ひいちゃう!」 そして本当にひいてしまう。
しかも二度もひいてしまう。
部屋に入ってくるなり、岸部一徳を撃ち殺す。突然だ。
何もかもが突発的だ。計算とか思惑とか言った物で構成された映画ではないのだ。
そもそも暴力とか凶暴とか言った物は、血がドバドバ出るとか頭が吹き飛ぶといった即物的なものではなくて、人間の内側にある闇の部分から生み出される物だ。
北野武はそういった人間のダークサイドを淡々とした描写の積み重ねて描き出した。
カメラは事実のみを追いかける。我妻を追いかける。追い続けた先には、結局死しかなかった。

『その男、凶暴につき』だ。
単純なようで、いや単純だからこそ言葉にするのが難しい映画だ。
さきに述べた車のシーンも、トイレでビンタするシーンも映画の中の一つの出来事であって、それが起きたことよりも、それがなぜ起きたのかの方が重要なのだ。
では、なぜ起きたのか、何が根底に流れているのか。
それは「狂気」ではないだろうか。
そう、この映画は「狂気」の映画なのだ。
我妻が麻薬組織を追い続けるのは、刑事としての正義感からでも義務感からでもない。彼の中の狂気がそうさせたのである。
相手はなんであっても構わなかった。たまたま目の前に清弘達がいただけのことだ。

だいたいこの映画の主要登場人物は皆気違いだ。
清弘は当然気違いであるし、灯にいたっては精神病院出の医者の保証付きの気違いだ。
ラスト近くのおっさんのセリフ「こいつらみんな気違いだ」は、そのまま事実なのだ。
まあ、この映画の場合いろいろとブラックユーモアと言われそうなものが出てきたが、どれが一番ブラックかというと、やっぱりこの「こいつらみんな気違いだ」だろう。
TVで放送するときには、「こいつらみんなピーだ」になるんだろうか、やっぱり。

カメラはひたすら我妻の歩く姿を撮り続ける。
我妻は歩いていく。どこに向かって?
破滅に向かってだ。

ラスト、菊池も歩いていく。どこに向かって?
我妻とは違う形だが、彼も破滅に向かって歩き出したのだ。

しかし、たけしもいきなりスゴい映画を撮ったものだ。観る前からある程度スゴいだろうとは思っていたが予想をはるかに上回っていた。
2作目を撮らせてもらえるかは少々疑問だが、ぜひとも撮ってもらいたいものだ。個人的に期待している。

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コメント (2)

ネスカフェ:

私はたけしと唯一比較できる存在はウィリアム
フリードキンだけじゃないかと思っています。
最近は駄作ばかりと叩かれているフリードキン
ですが、その映画的姿勢は最近の作品でも
薄れていませんね。なんというか価値観を逸脱して、すべてを破壊してそこからまた何かを
生み出そうとする部分というのがたけしのやり方とよくにています。

東森時音:

ネスカフェさんへ

『その男、凶暴につき』についての文章は映画公開時に書いたもので、その当時はまさか監督北野武がここまでになるとは思ってませんでした。
最後にも書いてありますが2作目を撮らせてもらえるかも疑問なぐらいでした。

『その男、凶暴につき』ではまだお仕着せの脚本だったりでまだ大人しいですが、『3-4X10月』からは明らかに既存の映画文法の破壊と再構築を意図して行っています。これはヌーベルバーグの特にゴダールと同じ方向性だと思うんですよね。
 だから最初の内はゴダール嫌いの淀川さんは北野武監督作も嫌っていたのでしょう。後に淀川さんは北野作品のファンになっていますが、男性の同性愛的視点が多いのも一因ではないかと邪推しています。

ゴダールは根っからの映画好きで評論家あがりですが、たけしの経歴から考えるとそこまで深く映画を観てきたようではないのですが、だとすると才能なんですかね。それも安易かつつまらない結論ですが。

ウィリアム・フリードキンをそういう視点で捉えたことがありませんでした。
また機会を作って何作か観直してみます。

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