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『おもひでぽろぽろ』

『おもひでぽろぽろ』
(1991)  監督:高畑勲 脚本:高畑勲 声の出演:今井美樹/柳葉敏郎/本名陽子/寺田路恵/伊藤正博/北川智絵/山下容里枝/三野輪有紀/飯塚雅弓/増田裕生

(*以下は公開当時に書いた文章である)
思い出として語られる昭和41年のパートは話としては特に意味はない。ヘタをすれば、ただ懐かしいとしか観客は思わない。 懐かしいは懐かしいと言うだけの事なので、それだけは面白くも何ともない。
だが、昭和57年のタエ子が現在の自分について語り始めるとき、昭和41年は彼女の持つ背景であり、血であり肉であることが分かる。
昭和41年、彼女は肉体的な転換を目前に控えていた少女だった。
そして昭和57年、一人の女性の精神的な転換のお話が始まる。
割と裕福であろう家庭に生まれ育ち、ごく普通のOLになったタエ子という女性がいる。自分という人間はいったいどういう人間なのか、自分は何のために生きているのか?彼女は自分の仕事や自分の将来に、漠然とした疑問を抱えたまま都会で生きている。
その疑問が彼女を農村へと導く。
彼女は紅花を摘む。
そして、農業賛歌、田舎賛歌が始まる。
うーん、田舎はいい。

農業はいい、田舎はいいといっても、それは都会の人間だから言えるのである。実際にそこに暮らしている人間には、苦しいことも悲しいこともあるというのが現実である。
田舎の暮しを楽しんでいた彼女に、突然その現実が突きつけられる。お客として田舎にいるのではなく、そこで暮らす者として田舎にいることもできるという現実だ。
彼女だって農業の苦しさとかつらさは、理屈では分かっている。ただそれは、彼女にとってリアルではなかった。それは、彼女の問題ではなかった。

夢が現実たりうることに直面時に、彼女は今までの自分を責め、恥じるのである。自分の甘さや弱さを、正面から突きつけられたからだ。
これは、彼女だけの物語ではない。
これは昭和が終わり平成になった、という物語でもあるのだ。
そのためにも昭和41年は語られる。
その年に代表される昭和というものが彼女の世界である。
そして彼女は、その世界に疑問を持ち始めた。 昭和というものが積み上げてきた物に、彼女は疑問を持った。
そして昭和は終わった。
平成という時代が始まり、今までの自分ではない自分、別の生き方をしている自分という存在に、彼女は気付いた。
だから彼女は農村へ行く。
戦後の日本が作り出してきた物に対して、「それって、なんかヤダ。」と言うために。
そして平成が始まる。
この映画は、昭和という戦後日本が過ごしてきた時間が終わり、平成という新しい時代になったということを、初めて明確に打ち出した映画である。
とにかく、私はそう思うのである。

この映画では、恋愛も描かれる。
話としては、手を握ることも、「好きだ。」と口に出して言うこともない。
だが、立派に恋や愛を描いている。純愛と言うものを連想する人もあるかもしれない。しかし似て異なるものである。
ここでは、ゲームとしての恋愛や、幻想としての恋愛は描かれない。
一言「好きだ。」と言ってしまえば、そこからの人生が変わってしまうのだ。
それがいいと言っているのではない。
この映画の中で描かれているのは、そういう事だと言っているのだ。
彼は車の中で、彼女の手を握ろうとする。だが握らないのだ。決して”握れない”のではない。”握れない”では、一人よがりの恋愛映画にしかならない。
この映画は、日本について語っている映画でもある。それは何よりも、人々の顔の描き方に現れている。日本人の顔と言うものが描かれているのだ。
「おもひでぽろぽろ」では日本人の顔の優しさに重点を置いている。頬の下の線が印象的だが、これは人々が笑っている時に特に強調される。つまり、微笑みと言うものが描かれているということだ。
実際、登場人物はみんなよく笑う。 笑顔が、一番素敵な表情だ。たぶんそう言っているのだろう。
新しい現実を受け止めたタエ子は、今までの自分に別れを告げ、再び転換の時を迎える。
「さなぎ」は孵り、列車の中に小学5年生のタエ子達が現れる。
こうして、タエ子は農村で暮らすことになった。百姓として大地と共に生きることを選んだのだ。
これからの彼女達の人生には、いろいろと苦しいこともあるだろう、悲しいこともあるだろう。
だけど僕らはくじけない、なんである。
泣くのはいやだ笑っちゃおう、なんである。

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