『魔女の宅急便』 それは心理描写の一手段

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『魔女の宅急便』(1989) 監督・脚本:宮崎駿 原作:角野栄子 音楽:久石譲 声の出演:高山みなみ/佐久間レイ/信沢三恵子/戸田恵子/山口勝平/加藤治子

*1989年公開時に執筆したもの

宮崎駿の作品において、重要なのは空を飛ぶことであった。
「風の谷のナウシカ」においてナウシカは風に乗り、「天空の城ラピュタ」においては飛行石で宙に浮かび、「となりのトトロ」においてのネコバスは風そのものであった。 どの作品も、ここぞという時に空を飛ぶことによって困難を乗り切るのである。
ところが「魔女の宅急便」においては、空を飛ぶことは必ずしも重要ではない。それどころか、主人公の新米魔女キキは空を飛ぶことしかできない(!)半人前なのである。
これまでは、空を飛ぶと言うことが「水戸黄門」の印篭的な力を持っていたのに対して、「魔女の宅急便」ではごく身近な才能の一つに過ぎないのだ。

この作品は魔女の物語と言うより、自分の才能一つを頼りに大都会にでてきて一人暮しをする女の子のお話なのである。キキはきれいな服を着た女の子を思わず振り返ってしまい、フライパンを買っては「物入りねぇ」と呟いてしまう普通の女の子なのだ。
その女の子がスランプにおちいる。
それは絵が描けなくなるなどの事とそれほどかけ離れたことではない。だから彼女の前に若い女性の画家が現れる。彼女はキキの何歩か先の未来の姿であり(絵描きとキキが実は同じ声であることからもそれはわかる)、絵が描けないときには、描いて描いて、それでも駄目なら絵を描くのをやめて散歩でもするとキキに伝えるのだ。 彼女の小さな後輩にたいして。
ここのところがこの映画のクライマックスなのであって、そのあとの飛行船のシーンはキキがスランプを抜けだした事を伝える付け足しである。
だが、この場面になってやっと空を飛ぶことに意味がでてくるのである。
ただなんとなく飛ぶのではなく、力いっぱい、誰かのために飛ぼうとするのである。
空を飛ぶのはホウキの力ではなくて、モップでもよかったのである。
そして彼女は空を飛ぶ。
その時彼女はその町に本当の意味で受け入れられたのである。

キキのそばにはジジという名の黒猫がいつも一緒にいる。
小さな頃に頭の中で架空の友達を空想で作り上げその子と遊んだり困ったことを相談したりの会話をしたことはないだろうか。ジジの正体はそれに似たような物で、幼いキキをサポートする彼女自身の自我の一部を投影させるスクリーンなのである。
だからキキとジジが話しているシーンは、本当に両者の間で言葉が交わされているのではなく、キキが頭の中に作り上げたジジという使い魔の人格に話しかけている、一種の独り言なのだ。キキ以外の人間がジジと話すことはないのは当たり前である。自分一人では不安だから、客観的な意見としてジジの意見を求めるがそれは彼女の心の中で起きている自問自答なのである。
ラスト、空を飛べなくなったスランプを抜け出したとき都会にやってきた幼い魔女は自立した魔女に成長を遂げた。そして、そんな彼女にはもはやもう一つの人格ジジは必要なくなっていた。
だから、ジジは人格サポートの役割を終えた。おそらくは他人から見ればジジの姿はちょっと変わった妙な黒猫のままなのだろう。

それにしても、この作品に出てくる人は皆いい人ばかりだ。
絵描き、オソノさん、老婦人は言うに及ばず、「おい」を三度それぞれ口調を変えて言うだけのパン屋の親父。
無愛想ながら、雨の日にキキの帰りが遅いとあらば、心配して店先をうろうろしている心の優しさ。
しかもキキが帰ってくるのが見えた途端奥に引っ込んでしまうあたり実にいい人である。
いつの間にか宅急便の看板をパンで作っていたりと、パン職人としての腕前もなかなかのものだ。
(しかし、グーチョキ・パン店てのは何なんだ。)
空で出会った占いの魔女も、イヤミな奴であるが、最後に「あなたも頑張ってね。」と言ってくれるいい人なのである。
現実の世の中、本当はこんないい人ばかりではない。
しかしこれはお話なのだ。
一人の女の子のお話なのだ。

(2005/9/18追記:ジジはキキの一人格で、彼女が言えないような皮肉や斜に構えた意見を述べてくれる。少女至上主義の宮崎がキキの純真さを損なわせないために、ひねた部分をジジに持たせたんでしょう。
よその街で1年間を魔法を使って生計を立てるというのは、足に縄をくくりつけて高所から飛び降りるどこかの成人式や、ネイティブアメリカンがナイフだけを持って一人っきりで荒野で数日間を生き延びることで大人として認められるといったような、一種の通過儀礼であることは間違いない。
物語の終盤でキキが空を飛ぶ能力を失ったのは思春期の心の揺れ、そしてジジと会話が出来なくなったのはサポート人格なしの真にキキ自身の力でその通過儀礼を乗り切ることが重要だからです。
それとキキが能力を失うのは初潮を迎えたことに関するメタファーではないかと考えています。)

(2005/9/24追記:ジジとの会話はキキの脳内妄想だと言いたかったわけではなく、キキの心理描写として使われているという意味も含めたかったのですが言葉足らずで申し訳ありません。
 登場人物が一人でいるシーンでその人物が何を考えているのか、どう感じているのかという心理を描くという面において映画は不自由さを持っています。小説ならば「○○は××だと思った」と地の文で心理描写ができますが、映画の場合は細かな描写の積み重ねで表現するか、不自然な独り言を言わせるぐらいしか方法がありません。
 映像で描写するのが映画本来の姿だとは思いますが、『魔女の宅急便』の場合メインの観客層は子供たちです。そこで宮崎駿は映画を観る力がまだついていない小さな観客たちにも分かりやすい"独り言"をジジとの会話とすることでより洗練された形として表現したのでしょう。)

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映画公開時に宮崎監督のトークショーが福岡でありました。
私はたまたま参加できたのですが、そこで「なぜ、最後にはジジの言葉がわからなくなるの?友だちがいなくなってキキがかわいそう。」という質問があり、監督の答は「ジジの声はもともとキキ自身の声で、キキが成長したためジジの声が必要なくなった。変わったのはジジではなくキキ。」というものでした。
ずいぶん昔の事なのでうろ覚えですが、東森時音様が感じた事と同じですね。

とおりすがりさん

ジジはキキをサポートするためのもう一人のキキだ
という説は、公開時に映画館で見て以来の感想でした。
しかし、最近よそからリンクされたようで色々な方から意見を頂いたのですが
それらはほぼ全てが否定的な内容で、正直ちょっとへこんでおりました。
「でもわたしはそう思ったんだい」と言っても、「お前は間違っている」という意見が圧倒的に多いとやはりきついですね。
宮崎駿もそのようなことを言っていたとのお話ですがとても嬉しい書き込みです。
6月25日にコメントした内容だと宮崎からそれは違うと言われてもわたしが正しいですが、
それはそれでやはりほっとします。
ありがとうございました。

いやいや、おもしろい解釈ですよね。
作者が意図的に語ってない部分って、こういう風に人それぞれの答えを見つけ出すためのものだと思います。
そういう楽しみ方、みんなはしないのかなぁ。
そんなにヘコまないで(*´∀`)

こういう類の感想を「だ・である」で書いちゃマズいのかな?
少なくとも私は懐かしの"読書感想文"で「私は?だと思いました」なんて文を書いた事は…

ないことはないか…。

それにしても、カミソリだの藁人形だのと、恐ろしい人もいるものです。
あまりに悪質でしたら、フリーメールといえども何か対策をとってもらえるかもしれません。

しずけんさん

 1989年公開時、わたしは名古屋にある大学の3回生でした。サークルはシネマ研究会に所属していて、この文章はサークル内で発行している月刊批評誌『ル・シネマ』用に書いた物です。青臭い青年期の文章なので自分でも生意気な文章で反感を持つ方がいるのも有る意味当然でしょう。
 でもまぁ、二十歳の自分を振り返るとこっ恥ずかしくはありますが、あの時期のあの自分が感じたことや書いたことを否定はできないですし、ついでに反省もしていませんので(しろよ)、変更は加えずにそのまま掲載しています。

 大学サークルの批評誌ということもあって、わたしは「です・ます」調で書いていました。映研学生の多くが経験する道ですが“蓮實重彦”の文章を読み、その影響を受けていたせいもあるでしょう。『おもひでぽろぽろ』についても文章を書いていて、こちらも当時のままで掲載してありますが、こちらは露骨に蓮實色が出ています。
 書式が決まっていたわけではないので「なになにだと思いました」といった文体でも構いませんが、批評誌を基に部員全員で映画評論会が毎月行われておりました。
 自分が書いた文章で話が進行することもあるので、やはり多少堅めな文章になりがちです。もっとも『ゼイリブ』(これも当時執筆のまま)の批評文はかなりおふざけが入っており、書く内容とテーマで使い分けていました。
 批評内容に関する批判ならいいのですが、「お前よぉ、この文章はぁなんだよぉ!だからよぉ、もっとこう知性って物を感じされることがだなぁ」と怒ってくる先輩もいましたので、真面目な文章にしろふざけた文章にしろ、気合いを入れて書いていましたね。(映画バカ黙示録を読んでいる方の中で、このモノマネが通用するのはサークル同期の邪道斎さんだけでしょうなぁ)

 わたし自身は高校に入学する前にほとんどアニメには興味を失っていましたが、ディズニーと宮崎駿作品などは映画館に観に行っていました。
 当時、わたしが所属していたシネマ研究会だけではなく「映画志向の強い他大学の映画研究会(映研にも大学毎に特色があって、特撮やアニメファンの多いサークルもありました)」でもアニメ作品は話題に上ることはあってもきちんと語られることはあまりありませんでした。これらの作品はアニメという色眼鏡に囚われずにちゃんと映画として評価されるべきだという思い入れが空回りはしていますね。でもそれも若さでしょう。

やーおもしろかったすよー
自己対話かーあるあるw
あほーな嫌がらせやろうなんかしんじゃえばいいのにねw
中高生のころは宮崎アニメの美少女マンセっぷりが鼻についてしかたなかったけど
大人になるにしたがって穏やかな気持ちで見れるようになりましたよー
おもすろいすねー宮崎

ななスィンガソングさん

まあジジはキキの一人格で、彼女が言えないような皮肉や斜に構えた意見を述べるってのは今さらですが私の憶測です。ほんと今さらだな。
少女至上主義の宮崎がキキの純真さを損なわせないために、ひねた部分をジジに持たせたんでしょう。
よその街で1年間を魔法を使って生計を立てるというのは、足に縄をくくりつけて高所から飛び降りるどこかの成人式や、ネイティブアメリカンがナイフだけを持って一人っきりで荒野で数日間を生き延びることで大人として認められるといったような、一種の通過儀礼であることは間違いないでしょう。
物語の終盤でキキが空を飛ぶ能力を失ったのは思春期の心の揺れ、そしてジジと会話が出来なくなったのはサポート人格なしの真にキキ自身の力でその通過儀礼を乗り切ることが重要だからだと思います。これは本文に書き忘れていたことですが。

まあ、深読みすればいくらでも深読みが出来るし、深読みなしでそのまま作品を観ても楽しめるってのが宮崎作品の良さでしょう。
ほんと、おもしろいっすよねー。

ご意見、興味深く拝見しました。
批判が多いのは、魔女の宅急便を見て、気に入って愛着を感じている
人たちの中に、自分とキキを重ね合わせて同一視している人が
多いからではないかと思いました。
(そういう人だからこそ、これが「十人十色の感想のうちのひとつだ」
という当たり前の感覚で読めない、つまり、断定口調で書いて
あったら無批判に信じてしまうから、という理由で、否定して
おかなければいけないという、幼稚な理屈に発展してしまうんでしょう)

私はそこまで深読みできないので、ただなんとなく最後のシーン手前にジジを見るキキの顔つきが印象に残ってました。
それが色々な事を受け入れていけるだけの強さがキキに備わったって事の一つかなぁと思ってたり('∇')

ドンタコスさん

自分も観るときは、ぬへらーと深く考えないで観てますよ。観終わった後であれやこれやと考えますが、基本的に直感です。
学生時代にシネマ研究会に所属していて、部員同士であれやこれやと議論したり雑談したので理屈っぽくなっているのでしょう。

ドンタコスさんの言われるとおり、前半とラスト近くではキキの顔つきが少し変わっていますね。私はストーリーに囚われすぎてそういった点を見落としがちで、キキがジジを見る顔つきからキキが強くなったことを感じられるドンタコスさんが正直うらやましいです。
うーん、やっぱ理屈っぽいのかなぁ。

長年の疑問がすっかり晴れました。
ジジの言葉が分からなくなったことはキキの成長を表しているんだろう、とは思っていましたが、こんなに納得のいく解釈は初めてでした。
追記で「ジジ=キキの妄想ではない」と書かれていますが、そこがちょっとややこしくて誤解した方が多かったんでしょうね。通りすがりさんが書かれている監督の言葉で、間違いでないことが証明されましたが。
正解はない、これには同感です。それぞれの解釈でいいと思います。でも作り手は何か意図を持っていて、何かしらの比喩であると思うので、そこが分かるとやっぱり嬉しいですね。
キキと絵描きさんが同じ声だということは気づいていましたが、少し先のキキを表しているということまでは考えが及びませんでした。
私にとってはとても役立つレビューでした。ありがとうございました。

恥ずかしいことですが、昨日の金曜ロードショーでこの作品をはじめて見ました。
例の場面には、やっぱり僕もひっかかって、幾つか説を立てました。もちろん、この説も。ですが、『それはちょっとなぁ・・・虚しいなぁ。』と思い、遠ざけてました。
結局、この説が答えのようですね。
管理人さんの文章を読んで納得しました。
心理描写の一手段なんですね。

イソジンさん
いや、あくまでも劇場公開時に観た私がこう感じて、今でもこう感じているだけのことでしかありません。
宮崎駿が「ジジはキキの人格の一部だ」と言っていたと教えていただいた方もいますが、宮崎が「ジジは特別な魔法の猫です」と発言していたとしても、私の感想は変わらないと思います。
監督がどのような意図で映画を作ったのかを見抜くために観ているわけではありませんから、自分なりの感想や意見を持てればそれでOKだと思います。
けんか腰や皮肉の言い合いにならなければ、それぞれの意見を戦わせるのもまた楽しいなと、大学で映研に所属していて、暇さえあれば映画について議論していた私は思ったりします。
でもね、魔法使いとかじゃなくて、田舎から都会に出てきた普通の女の子が、ジジ相手に心細さやちょっとしたグチをいって、また明日への元気を取り戻すという心理描写だったと思っています。
「ぬいぐるみの身代わり」はどうなるんだと言った声もあるでしょうが、島本和彦氏いわく
「それはそれ。これはこれ」
です。
前半部は徐々に街にとけ込んでいくキキの活躍ぶりを描いているのですから、まぁ細かいことはいいじゃないですか。
監督にしろ、脚本家にしろ、面白い映画を作るのが仕事で、矛盾のないストーリー展開を作ることが仕事じゃないんですから。

制作者の意図云々はあるかも知れませんが、
やはり観る人の数だけ『魔女宅』は存在するのでしょうな。
個人的には、宮崎が少女至上主義じゃなかったら成り立たない映画だと思いました。
キキは芯は強いが揺れやすい思春期、独り立ちの不安を抱えた
気丈な少女の象徴。
孤独出会い別れ成功失敗嫉妬期待友情嫌悪好奇心愛しさ可憐挫折etc...
いやむしろ人間の心の具現化と言えますね。
今作の魅力は多々ありますが、この場には不相応なので控えさせてもらいます(笑)

otokoさん
劇場公開からもうすぐ20年。
未だにテレビ放映の度にこのエントリへのアクセスは大幅に増えるってのはすごいことです。
少女至上主義の宮崎としては、キキは比較的等身大の普通の女の子として描かれていると思います。ただちょっと空が飛べる特技があるだけで。
女神像としてのナウシカや、純真すぎるシータと比べると、より現実に足が付いている気がします。
そんな女の子の精神的成長記が『魔女の宅急便』なのでしょう。あまり『魔女』にこだわりすぎない方が見えてくる部分もあるのかなと思ったりします。

ジジ=もう一人のキキ説、なるほどと思いました。
ただ最後のシーン、キキはジジの声を理解していたのではないかと私は思います。理由は

・ジジはキキ以外の人間が近くにいる時は猫として描かれている(オソノさんからミルクをもらうシーンなど)。
・猫の声を聞き分けるのも魔法の一種であると思われる(ジジの声が聞こえなくなったことで魔法が弱くなったことに気づく)。

宮崎アニメにおいて「魔法・呪い」がその人の精神状態を表すことが多い(千と千尋の両親やハウルのゾフィー)ことを考えれば、分かったも分かってないも同じことですかね。

ハンブルガーさん

本編についての文章は1989年に観た時に大学の映画サークルの機関誌用の文章として書いたもので、そろそろ20年前。
これがウチのブログでNO.1アクセス数をずっと維持しているのは驚きです。みんな『魔女の宅急便』が好きなんですね。私は劇場公開時以来『魔女の宅急便』って観てないんですよね。
とにかく、10人が同じ映画を観れば10人なりの感想があって当たり前。みんな同じ感想だったらそれこそ異常ですよ。
『アイ・アム・レジェンド』では主人公が愛犬に話しかける形で物語を薦めていましたが、同一原作の『地球最後の男』では主人公の心の声、モノローグで映画が構成されていました。不自然さは否めないので、そこをカバーするために愛犬を出したと思うんですが、キキとジジの関係も似たようなものだと個人的には考えています。

>だから彼女の前に若い女性の画家が現れる。彼女はキキの何歩か先の未来の姿であり(絵描きとキキが実は同じ声であることからもそれはわかる)

Wikiを見ていたところ、

キキとウルスラの主役級の二人を当時声優3年目の高山みなみが一人で担当している。高山は、元々はウルスラ役のみ演じる予定だったが、キキ役に適任者がいなかった為、オーディションを受けた上でキキ役に選ばれたが、今度はウルスラ役に適任者がいなくなり、キキとウルスラの一人二役を演じる事になった。

とあるので、声優さんが同じなのは意図的な理由ではないと思われます。

さくさん

なるほどそうだったんですか。
本文は劇場で映画を観てすぐに『シネマ研究会』の会報用に書いた文章で、もう20年近く前の物になりますので、当時はそのような情報はありませんでしたのでご容赦を。
でも、『魔女の宅急便』ぐらいの規模で新しく声優を連れてくるのがそんなに難しかったのでしょうか?
ウルスラを高山みなみを演じたのは偶然でも、そこから意味を見出すのが映画評かなと開き直ってみます。

すみませんね、古いエントリーに。

「魔女の宅急便」のラストシーンで、ジジが言葉をしゃべらなくなることについて、他の人たちが、どう感じているのかを、突然に(何の脈絡もなく)知りたくなり、グーグルに「魔女の宅急便」、「ジジ」、「しゃべらない」と入れてサーチしたところ、3クリック目で、こちらに着地いたしました。

始めまして。

東森さんのメイン・エントリー、つまり、1989年ご執筆の本文と、2005年の追記2件の分析に、賛成いたします。私が、長年抱いてきた感想と同じことを、多くの方々が感じていたこと、そして、それを、この様に、きちっと整理して文章にしてくれる方がいたことを、うれしく思いました。

私なりに要約すれば、この物語は、大人への成長、そして、「才能」とどう向き合うかが、テーマであり、最後のシーンで、キキが、猫のジジと人間の言葉で話せなくなることは、彼女が、成長し、ジジとの会話を必要としなくなったことを、意味するわけですね。

以後は、蛇足です。(蛇足と言うには、長過ぎる・・・。先に、お詫びしておきます。)

まず、第一点は、「ジジは、本当に、しゃべっている」と言いたいぞ!ということです。以下の、長い説明は、東森さんも、御承知のことと、思いますので、飛ばしてください。(なら、書くな!)

さて。キキとジジとの会話は、彼女の自我との自問自答であり、映画(アニメ)の心理描写の一手法として解釈されるべきだというご意見は、妥当であると思います。しかし、もし、東森さんが、だから、ジジは、実際には、しゃべっていないと見るべきなのだとおっしゃるのなら、私には、異論あり、です。あのアニメの世界では、「猫がしゃべる」は、ありなのではないでしょうか。言いかえれば、「ジジの言葉=キキの自我の投影」説と、「猫が本当に、しゃべっている」説は、あのアニメの世界では、両立するのではないでしょうか。

釈迦に説法になると思いますが、上記の両立説の趣旨を、説明します。要は、物語における非現実性と、その演出上の扱い方の問題です。物語には、その形態が、小説であっても、また、舞台、映画、アニメであっても、大なり小なり、非現実的要素が、存在します。少しでも、非現実的だと感じられたら、成り立たないような表現世界もありますが、それにしても、歴史記述や、ノンフィクションでない限り、なにがしかの、「非現実的要素」は、存在します。また、「箒で空を飛ぶ」というようなことが、可能なこととして、平気で語られるお話も存在します。

この様な、千差万別の「非現実性」が、物語をぶち壊さず、かえって、物語の効果的要素として機能してくれるためには、物語の送り手と受け手の双方で、この「非現実性」をどう受け取るかについて、暗黙の了解が、成立していなくてはいけません。この、暗黙の了解を、いかに、さりげなく、確実に確保するかが、演出の重要な課題でです。

ここに、「箒に乗って空を飛ぶ」少女が登場する舞台劇があったとします。舞台で、少女は、箒にまたがり、空を飛びます。または、飛んでいるふりをします。他の登場人物も、少女が空を飛んでいるものとして、振舞います。もし、この舞台作品が、「本当に」空を飛ぶ少女を観衆に示したいのなら、一番、確実な方穂は、宙乗りの装置を使って、役者を、「飛ばす」ことでしょう。観衆は、たとえ、宙乗りのワイヤーが見えたとしても、それは、ないものとして、物語を楽しむでしょう。この鑑賞態度が成立するのは、我々の文化の中で、そのような共通の約束事が、物語の送り手、受け手で、既に、共有されているからです。

また、宙乗りを使わない、もっと、洗練された演出も、ありうるでしょう。役者は、1cmも宙に浮かなくても、他の演出効果や、役者たちの演技により、観衆の想像力は刺激され、あたかも、少女が箒で空を飛んでいるイメージを抱きながら、物語を楽しみます。この鑑賞態度が成立するためには、観衆側のある程度の成熟が必要ですし、演出の手腕も要求されるでしょう。

もし、この舞台作品が、「箒で空を飛ぶと、妄想する」少女を観衆に示したいとしたら、どうなるでしょう。やはり、少女は、舞台で空を飛ぶふりをします。他の役者は、少女の前では、彼女が空を飛んでいるものとして振舞います。しかし、他の場面で、「あの子の、空想癖には、困ったものだ」という発言をすることで、この作品世界での「非現実性」の扱いを、観客に伝えることが必要になります。たとえ、直接的な台詞化がなくとも、何らかの演出上の手段により、物語の送り手側、受け手側で、「空を飛ぶ」という非現実性をどう処理するかについて、了解が成立しなくてはなりません。

やっかいなのは、全員が、「空を飛ぶ妄想」を持っている世界を、観衆に示したい場合です。少女は、箒にまたがり、空を飛びます。他の登場人物は、それを前提にして、振舞います。しかし、これは、全員の、妄想の世界であると受け取ってほしいと、送り手が意図するのであれば、何らかの演出上の方法で、観衆にそれを伝えなくてはならないでしょう。その配慮を欠いては、独りよがりの舞台となり、下手をすると、観衆は、この舞台を、最初に例示した様な、「本当に空を飛ぶ」お話と思ってしまうかもしれません。

もっと微妙な、現実・妄想の混在型の世界もあるでしょう。少女以外の登場人物は、彼女の「空を飛ぶ妄想」を承知していて、それに、合わせて振舞っている内に、その世界に取り込まれ、彼女の登場する場面だけは、「本当に」空を飛ぶことができる世界が展開します。こうなると、いわゆる、「劇中劇」の表現です。この様に、物語の受け手が、物語の中の「非現実性」を、どの様に解釈して、作品世界に入り込むかには、多様な形が存在し、送り手側は、意図する受け取り方をしてもらえるように、演出に、配慮、工夫を凝らすのです。そして、送り手側が配慮することの中には「観衆は、どこまで、表現の約束事を理解しているか。」ということも、含まれます。観る側だって、責任があるわけです。

さて、いままで、例示してきた舞台芸術は、「非現実性」を扱うのが最も不得手なメディアであると言えるのに対して、映画は、その創成期から、ありえないことを描くのを得意分野としてきました。だから、映画の観客は、舞台に比して、はるかに、「非現実性」に寛容であり、すぐに、「そういうことも、あり得る世界」として、映画を見てくれると言えるでしょう。スーパーマンを観た人たちは、すぐに、スーパーマンは空を飛べるものと思ってくれます。マントの衣装に着替えた後は、主人公の空想の世界なのだ、などと論じる人はいません。そして、観客は、空を飛べる人がいる世界を、また、自分が空を飛べたらを、空想して楽しむのです。

しかし、映画の世界でも、「非現実」の世界に入り込むためには、それなりの、手順が必要です。スーパーマンのお話では、「主人公が、地球人ではなく、宇宙からやってきたのだ」という説明部分が、その役目を担います。これがなくては、いくら映画の観客でも、納得はしないでしょう。もし、スーパーマンの映画が、彼が何なのであるかを、一切、説明せず、ただ、普通の人が、突然、マントを着て空を飛び、悪人を退治し、終わってしまったら、観客は、何と思うでしょうか。別に、なぜ、空を飛べるかの、疑似科学的説明が必要なのではないのです。「この映画の中では、空を飛ぶということが、あり得るのだ」ということを、送り手、受け手で共有するための、手続きが必要なのです。

少女が、飼い猫と話をする映画が、あったとします。その映画において、「非現実的」なことは、猫が口をきくこと以外、何もないとしましょう。この映画の「非現実性」の説明方法は、二通りあるでしょう。ひとつは、珍しい「しゃべる猫」の物語として、成立させることです。この場合、猫は少女以外の誰とでも、話すことは可能ですが、注意点が、ひとつ。猫が、口をきくと知った人たちが、それを、何の反応も示さすに、受け止めては、作品は成り立たないということです。その猫に、初めて話しかけられた人は、はじめは、猫がしゃべったとは信じません。わが耳を、疑います。次に、気味悪がります。その内、仲良くなると、「しゃべれると知られると捕まるから、注意しろ」と忠告します。たとえば、このようなことが、映画の中で描かれて、初めて、観客は、この映画の「もし、しゃべる猫がいたら」という「非現実性」の中に、安心して入っていくことができるのです。

もう一つのタイプの、少女と「しゃべる猫」は、東森さんが示唆されているような、猫が少女としか話さないケースです。このケースでも、非現実的なことは、他に、何も起こらない。なぜ、猫が、少女と話をできるのかの、説明もない。この様な映画であれば、東森さんがおっしゃるように、少女と猫との会話は、彼女の自問自答であり、実際に、猫が口をきいているものと解釈はしないのが、常識的な見方でしょう。映画の観客に、この程度のリテラシーは要求されているとも、言えます。たとえ、猫がしゃべる相手が、少女だけであったとしても、上に書いたように、「しゃべる猫」として観客に理解してほしいのなら、何らかの、説明が必要なのです。

さて、ようやく、我らがキキとジジの問題に戻ってまいりました。ジジは、キキとしか話をしません。その意味で、最後に書いた例に近く、東森さんがおっしゃるように、ジジの話すことは、キキの「内面の声」と解釈することは、とても自然ですし、私も、賛成です。しかし、私は、同時に、ジジは「本当にしゃべっている」と解釈するのが、また、自然であると思います。なぜなら、このアニメが、少女が「箒で空を飛ぶ魔法」が存在する世界だからです。なぜ、ジジが言葉をしゃべることができるかの説明は、直接的には、作品中、一切、ありませんが、この「魔法」の存在が、最も有効な説明を果たしています。既に、「空を飛ぶ魔法」を受け入れ、作品世界に入っている観客は、猫のジジがしゃべっても、当然のこととして、受け止めるはずです。だから、最後のジーンで、ジジが猫としてしか振舞わないことに、逆に、驚いて、「なぜ、しゃべらないのだろう」と不思議に思うのです。

東森さんの、この件のエントリーに対し、東森さんが驚くほどの反応があったこと自体、多くの人が、猫のジジが「しゃべらない」ことを、驚きをもって受けとめたことを、証明しているのではないでしょうか。言いかえれば、このアニメが、猫のジジは「しゃべる」のだということを、いかに効果的に、観客に納得させているかを示していると、思う次第です。以上、私の申し上げたいことの、第一点でした。

第二点です。今度は、短いです。

ジジが、しゃべらなかった時、私は、とても、寂しかった。痛かった。それが、あのアニメを観て、これだけ久しい後に、なお、あのシーンを突然思い出し、気にかけ、こんな長文(迷惑だぞ!)のコメントを書いたりしている理由です。多分、多くの人たちが、そうなのでは、ないでしょうか。おっしゃる通り、おれは、通過儀礼の物語です。そして、少女は、大人になった。もしくは、大人への一歩を踏み出した。しかし、大人になることは、同時に、何かを失うことです。言葉をしゃべらないジジに直面して、感じるのは、その、大人になることに伴う、痛切な喪失感なんだと思います。

あのアニメのエンディングは、希望に満ちたものです。ジジがしゃべらなくても、キキは、別段、気にもかけません。彼女の未来は、これから、広がろうとしているのです。そして、同じように、大人になったジジは、窓の外で、いつのまにか(!)見つけていた彼女と仲睦まじく、とっても、幸せそう。みんな、そうやって、大人になっていくんです。(でも、痛いなあ。)

お待ちどう様でした。(待ってないですね。)第三点。そして、最後です。

あの「魔女の宅急便」と言う作品は、私にとって、個人的に、とても重要な意味を持つ作品なのですが、それは、キキのためでも、ジジためでもありません。あの、トンボ眼鏡の少年のためです。(彼に、名前ってありました?)

既に述べたとおり、あの作品の重要テーマは、「才能」です。キキは、自分の「飛ぶ」という才能と向き合い、それを、育てていく決意をします。しかし、「才能」は、その「才能」の持ち主だけの問題では、ありません。東森さんがおっしゃるように、「才能」は誰かのため、と言う面もあります。それに加え、「才能」が花開くには、それを認め、理解し、称賛する存在が必要なのだと言うこと、そして、そのような存在は、価値のあるものなのだということを、私は、あのトンボ眼鏡の少年から、強く、教えられるのです。


空を飛ぶキキに、初めて出会った時、彼は、「君、空を飛べるんだ」と、素直に感心します。そこには、「そんなこと、大したことじゃないぞ」という僻み根性や、「こっちだって、こんなことができる」という対抗心は、微塵もありません。素直な、混じりけなしの、称賛があるのみです。これは、世に得難い態度であると、言えないでしょうか。少なくとも、私の心の中には、見つけにくい。人の見事な業績を知り、なぜか、素直にそれを評価しようとしない自分に気が付くたびに、あの、トンボ眼鏡の少年を、見習わなくてはと、思うのです。トンボ眼鏡君は、私の、人生の目標です。

以上、私の言いたいこと、すべてです。ひょっとしたら、また、お邪魔します。(正直すぎるのも、大概にしろ!)「お気に入り」には、登録させていただきました。長々と、ホントに、失礼いたしました。

PnetQさん

興味深く拝読させていただきました。
キキの心の中の声である部分と実際にジジが喋っているという部分が相反せずに説明されているのに驚きました。

はじめまして。東森さんの仰るジジ説を採用すると、ぬいぐるみ入れ替わりシーンはどういった解釈になるのでしょう?ちょっと気になったもので…。

始めまして私も昨日放送を見てあれはどうなったのか気に成り此方のブログにたどり着きました。なるほどなと思いました。

上記で出てる「ぬいぐるみ入れ替わりシーン」にしたってキキ一人称説で考えれば、魔法で猫を膠着状態にさせていただけだと言う少し寂しい結論に達しますが可能ですね。

確かぬいぐるみの時も、キキがジジを確認して初めてジジは話しす。宮崎駿は意図的にキキが居る状態でしかジジに話をさないようにしてますね。

はじめまして。

なるほどー自分自身に問いかけていたのですね。

空を飛ぶ、魔女である。→魔法を使える
魔法を使える →猫とはべれる
魔法がなくなる →猫としゃべれなくなる。
魔法が復活する →でも猫とはべれない。
えなぜ?驚く・・・。

ゆえにそう考えるのが自然ですね。
さらに魔女である母親ともジジは話してませんでしたしね。

また、この世界では犬がかしこかったりトリなど動物が賢い?のでジジが賢いというのも自然ですね。


すっきりしました。

 

私は、最後のシーンは腑に落ちない というのが感想です。

理由は、なんで必要ないのにエンディングのシーンで、ジジとその息子と飛んでるの??w

魔法があるのに、言葉がわからないわけない。

魔法はあっても、キキ本人が飛ぶわけではなく、ホウキにも魔力を連動させる、つまり、ホウキはホウキの意志でキキに使える立場で、
キキは連動させる役目(魔法)なのではないかと思います。

つまり。
ジジに対しても、ホウキ同様、連動させるキキに使える役目として
魔法があるのではないか
そう思うのは自然であって、あのラストで「ニャー」は、少々憶測が足りないかと思ってしまいます。

しかし、お母さんには 猫がついていなかった。
お母さんはホウキを使って飛べるのか?

最後のデッキブラシが覚醒した形で、ブラシが毛羽立ったのが印象的ですが、エンディングのデッキブラシも毛羽立ったままでしたね。
あれは、おそらく覚醒したホウキは普通のホウキとは違うのでしょうね。

キキに使えるために、連鎖した状態で、魔法がかかったんでしょう。
おそらく、ジジはまた連鎖して魔法がかかったときコトバとして聞こえてくるのでしょう。

でなければ、一緒に紐つけてまで親子で同行しません。
魔法が弱くなったときはついてきませんでしたよね?
魔法がスコシずつ取り戻してきたから ラストシーンはあそこにジジがきたのでしょう。
まだ完全にもどったわけじゃないから「ニャー」なのです!

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このページは、東森時音が2004年6月16日 15:21に書いたブログ記事です。

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