『ロジャー・ラビット』(1988) 監督:ロバート・ゼメキス 主演:ボブ・ホプキンス、ロジャー・ラビット
カトゥーン(アニメ)と実写を合成したファンタジーでしょ。
と単純に思われているが、いやいやどうして、本格的ハードボイルドなわけですよ、これが。
映画とハードボイルドといえば、2大ハードボイルド探偵のサム・スペードとフィリップ・マーローをハンフリー・ボガードが演じたのがそれぞれ『マルタの鷹』(1941)『三つ数えろ』(1946)。
トレンチコートにソフト帽姿でタバコを唇の端にくわえたニヒルな男が、都会の吹きだまりの中に謎を求めてさすらい、ときには殴りときには殴られ拳銃を突きつけられもしながら、ついに見つけ出した答えは苦くもの悲しげな結末。
ところが、そんな探偵はとっくに絶滅してしまった。今、私立探偵がハンフリー・ボガードの真似をして捜査していたら笑いものになるか警察に通報されてしまう。誤解からそのまま逮捕されてしまった探偵は、留置所の鉄格子越しに夜空の月を眺めて「ボギー、ボギー、あんたの時代はよかった」とでも口ずさみ、管理官から「留置所で歌は禁止だ」と怒られるのだろう。
今の時代、真面目にハードボイルドをやるとギャグにしかならない。それはいしかわじゅん氏の傑作小説『南畑剛三』シリーズを読むとよくわかる。北方健三をモデルにしているはずがない南畑剛三は「男を書く」作家。私生活でもニヒルでハードボイルドを貫いている。ただし、その周りにいるのが広域暴力団組長(死去)の娘美樹、世間知らずのお嬢様編集者万里子、「名前は金山寺」「ぎっくう」の東大卒キャリアハチャメチャ刑事金山寺などばかりだから、剛三がどんなにハードボイルド決めてもギャグなのだ。
だが、いしかわじゅんはそこにこそ現代における真のハードボイルドを見いだす。素のままのハードボイルドがギャグになってしまうのならば、最初っからギャグにしてしまえばいい。ギャグというオブラートを使って、現代のハードボイルドを成立させるのだ。
そしてそれは『東京で会おう』『ロンドンで会おう』『瓶詰めの街』と巻を重ねることに形が確かになり、『瓶詰めの街』収録の短編『瓶詰めの街』では発刊の1994年当時ではまだそんなに一般的ではなかったパソコン通信を題材にし(ここの一般は、秋葉原など以外の普通の道を歩いてる人をとりあえず捕まえてみたサンプル度での一般です)、ネット人格(ネカマ)などが大きな鍵を握る連続爆破事件をあれやこれやのギャグを乗り越えてついに南畑剛三が解決する。するのだが、それは苦くもの悲しい結末だった・・・ハードボイルドだ。
ロジャー・ラビットも基本的には同じだ。
昔ながらのハードボイルド映画がやりたかったロバート・ゼメキスですが、そこは賢い人ですのでそのまま40年代の映画を再現するのではなく、まずはカトゥーンと人間が一緒に暮らしている世界を設定し、探偵役にはズングリムックリとまるで格好良くないボブ・ホプキンスを連れてくる。
カトゥーンならではのドタバタが繰り広げられる中で、実はボブ・ホプキンスの弟がカトゥーンに殺されていたという過去と因縁、そしてその事件以来すっかり落ちぶれてしまっていたことなどが明らかになる。
そして事件の中で再び生きる意味を見いだしたボブ・ホプキンスは最後の敵に立ち向かっていく。
ハードボイルドだ~。衣装やセットも40~50年代風でいい。
アニメとの合成の特撮ばかりに目がいっていると、こういった本質的な部分がおろそかになりますので気をつけよう。