龍臥亭事件(上下) 島田荘司 光文社文庫
17日の『八つ墓村』と同じく、昭和13年に実際におきた『津山三十人殺し』をモチーフにした推理小説である。
この島田荘司氏でわたしが読んでいる作品は、巻末の著作目録を見るに『漱石と倫敦ミイラ殺人事件』(1984)だけのようだ。なにぶん高校生だった発行当時に読んだきりなのであまり覚えていないのだが、夏目漱石がロンドンでミイラに関わる殺人事件に巻き込まれるという話だった気がする。(そのまんまの感想だな)
その他には御手洗潔という名探偵を登場させたシリーズ物で有名とのこと。『龍臥亭事件』にはその御手洗は登場せず、そのワトソン役であった(らしい)推理作家石岡を語り手に物語は進む。
横浜は馬車道に住む石岡のもとにある日若い女性が突然に訪れる。ま、人気作家の所に読者が突然押しかけてくるというのは実際によくあるのかもしれない。
その女性は自分が悪い霊に取り付かれていると話し始める。ま、突然人のところに押しかけてくるような困った人だから、自称“霊感”タイプの場合もたまにはあるのかもしれない。
霊を祓うために岡山まで行かなければならないと女性は主張し、知り合いでもなければ岡山に詳しいわけでもない石岡に同行して欲しいと頼み込み、石岡はそれを承諾する。ま、女性の頼みを断るようでは男じゃないと思う江戸っ子もひょっとしたらいるかもしれない。
・・・いや、いないだろ。
わたしが住んでいるのは愛知県だから石岡の住む横浜よりかはずいぶん岡山に近い。単純に距離にして半分ぐらい。それでも京都、大阪を通り過ぎて中国地方まではかなりの道のりだ。ちょいと横町のコンビニに弁当を買いに行くのにつきあうのとはわけが違う。だというのに石岡は、知人の紹介でどうしても断れなかったとか、小説家としての好奇心からネタになるのではと思ったとか、そんな理由は一切ないまま見ず知らずの女性と一路岡山へ赴く。主人公の行動原理が理解できない。冒頭の段階でもはやわたしはこの小説について行くので精一杯。いや、完全に置いていかれている。
いや、これは島田氏の小説がどうこうではなく、わたしと推理小説の相性なのだろう。
中高生の頃は翻訳物中心だったが割と推理小説好きで、早川文庫のアガサ・クリスティの赤い背表紙が本棚にずらっと並んでいたりした。だが、だんだんと推理小説に疑問を覚えるようになる。これは以前にも書いたかもしれないが、「なぜわざわざ苦労して密室にしなきゃいけないんだ。その知恵と労力で事故に見せかけた方がずっといいだろうに。それと探偵または刑事も密室のトリックやらアリバイやらに首をひねっている暇があったら動機を調べろよ動機を。たぶんその方が早いぞ」といったようなことだ。推理小説であるからには“謎”がなければ“謎解き”がなければ、というのが好きではないのだ。
『龍臥亭事件』はそういった意味で実に推理小説であって、犯人がその手段をとる理由は推理小説の謎を成立させるためとしか思えない。なおかつそのトリックはわたしにはどう考えても
失敗する。
犯人・トリックをばらすのはタブーだろうからやらない。
だから、「 」内をマウスで範囲選択はしないように。
「・・・・・・反転するなってば。あーもう知らんよ。文句言わないでよ。鏡で光を反射させてるんじゃないんだから、跳弾でミリ単位精度の射撃が出来るわきゃないだろ。お前はロボコップか。それに、ダムダム弾ってのは標的に当たることで大幅に変形するので余計と跳弾の方向は狂うし、そこでエネルギーが消費されるんで威力はがっくり落ちるんで二重に無理。それと、謎解きのトリック明かしで石岡が平気で猟銃を射つなんてのはあるわけがない。刑事もふむふむなんて納得してないで止めれよ」
途中で、事件のバックボーンとして昭和13年に舞台となった地で起きた三十人殺しについて延々と書かれるが、それが平成7年が舞台の本筋にちゃんと結びついているかというと、かなり首をひねらずにはいられない。正直、ほとんど関係なく別物。推理小説の原稿の間に『津山三十人殺し』のノンフィクションが挟まっていた、といった感じである。
だったらノンフィクションの部分だけ読んだ方が良いというのが個人的感想だ。