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2003年05月 アーカイブ

2003年05月02日

消え去りゆくソフト帽

  というわけで帽子である。
 さすがにシルクハットを常日頃からかぶっていたのは貴族か手品師ぐらいだが、以前は普通のソフト帽などは男性が日常的にかぶっていたようだ。
 例えば007シリーズが良い例だ。ジェームズ・ボンドがぱっと身をひる返して狙撃手を撃ち倒すというお馴染みのオープニングはシリーズ2作目の『ロシアより愛をこめて(1963)』から付くようになった。この時、コネリー・ボンドはスーツにネクタイ、そしてソフト帽という姿だ。最新作『ダイ・アナザー・デイ(2003)』ではピアース・ブロスナンが撃った弾が銃口に飛び込んで来るという『マトリックス』のような演出になっていて笑ってしまったが、この時ブロスナン・ボンドは帽子をかぶっていない。
 ではいつからボンドは帽子をかぶらなくなったのだろうか?調べてみると『ダイヤモンドは永遠に(1971)』のコネリー・ボンドまではかぶっていて、『死ぬのは奴らだ(1973)』年のムーア・ボンドからかぶらなくなっていた。
 ショーン・コネリーからロジャー・ムーアにバトンタッチしたので(正確にはもう一人ジョージ・レイゼンビーがいるが)イメージを変えようというのもあったのだろう。だが、それまでの作品中でもボンドはよく帽子をかぶっていて、マネペニーの秘書室で帽子掛けに帽子を投げるシーンなどもある。
 日本でも昔のサラリーマンはスーツ姿にソフト帽だった。『サザエさん』の波平がまさにそうだ。(もうずいぶんと観ていないのでいまでもかぶっているかは不明だが)しかしマスオさんの帽子姿というのは記憶にないので、年配の人やある程度の地位にある人が好んでいたのかも知れない。
 『秋刀魚の味(1962)』での笠智衆も帽子をかぶっていたシーンがあったはずだが・・・観たのが10年ぐらい前なんで不確かだ。こら松竹、とっとと小津安二郎作品をDVDで出せよ。
 以上の点から、どうもどうやら1970年代前半に帽子が日常的ではなくなってきたようだ。ってめちゃめちゃ少ないデータからの憶測だな。
 でもソフト帽や夏のパナマ帽なんてのはなかなか粋だと思うんだけどね。個人的にも帽子はわりと好きなんだが・・・

2003年05月03日

小学生は黄色い帽子、中学生は学生帽だった

 わたしが子供の頃には小学生は黄色い帽子、中学生は学生帽をかぶっていたものだが、最近はとんと見かけなくなってしまった。
 廃止になったのか、それとも着用が自由化されたのでみんなかぶらなくなっただけなのだろうか。どちらにしろ帽子屋さんは商売あがったりだよなぁ。
 わたしが中学生の時は学校指定の白い布製の肩提げカバンを使っていたが、あれも見なくなった。時代が変われば景色も変わるって事か。
 変わったと言えばこれまた中学時代の話で、その頃は田舎ではまだ男子生徒は頭を丸刈りにすることという前時代的な校則がまかりとおっていた。
「おいおい坊主頭かよ。俺は坊さんか?スキンヘッドのパンクスか?はたまた捕虜収容所の捕虜か?刑務所の囚人か?冗談じゃない。坊主頭を強制させるなんか絶対ヤダかんね。俺は俺の髪型を守るぜ!」ってんで、家が校区の境近くにあったのをいいことに坊主頭にしなくても良い中学校に、「おらおら、俺はこっちに行きてーんだよー」と少しばかり越境して入学した。
 新興住宅地のためまだ校区分けがちょっとごたごたしていたのが幸いだった。
 三歳年下の弟の時はそうはいかず、坊主頭強制の中学校に行かされ、見事なクリリン頭にされたいた。
 多感な少年時代を坊主頭で過ごすとは・・・哀れな奴である。しかし、その当時はそんな哀れな男子中学生が全国にいっぱいいたのだ。
 さすがにその中学校ももう坊主ではなくなっている。坊主の頃は不良も少なくみな真面目だったが、今では頭髪を自由化したので不良でいっぱい!かというとそうでもなさそうなんで、一体あの坊主頭校則はなんのためにあったんだろう?
 ちなみに、わたしが初めて坊主頭にしたのは二十歳を過ぎてから。NHK名古屋でADのバイトをしていた時に『熱きまなざし』という村上弘明主演の高校野球を題材にしたドラマがありまして、「坊主頭のエキストラが足らん。おい東森、お前坊主にせいっ」との一言でクリクリの高校球児頭にされてしまった。
 でも、そのときは特にイヤだとかはなく、学校行ってはみんなに見せびらかしたりしていた。
 今はかなり髪を伸ばしているが、数年前まではまた坊主にしていた。5000円ぐらいで電気バリカンを買ってきて自分で刈っていた。毎月床屋に行くと高いがこれなら初期投資を除けば電気代のみ。洗髪も楽だし乾くのもあっという間。抜け毛も短いから掃除も楽。いやー、坊主は良かった。
 結局、坊主がイヤだったんじゃなくて、学校の規則ということで無理矢理坊主にされるのがイヤだったんだろう。長髪が義務化されている学校ばかりだったら坊主頭OKの学校に行っていたのかも知れない。ひねくれもんだな、まったく。

2003年05月04日

SARSウイルスと小松左京の『復活の日』

 SARSウイルス流行で小松左京の『復活の日』を思い出し、本棚の奥にしまってあったのを探し出して10数年ぶりに少しずつ読んでいたのが読了した。
 1965年作という40年近くも前に書かれた作品にもかかわらず、非常に生々しく迫力のある作品だった。
 もちろん、細菌兵器として開発されたMM-88と、動物から人間に感染したと思われるSARSウイルスを比べるのはある意味ナンセンスなので、それについては触れない。それよりも小松左京という作家のすごさに感心した。
 細菌、ウイルス、地質学、社会学などについての知識。それらを組み合わせて一つの作品にする構成力。そしてストーリー上などに多少の無理が生じても、それをねじ伏せて読者に納得させる筆力。つくづく日本人離れした作家である。さすが力技で日本を沈めてしまっただけのことはある。

 『さよならジュピター』でトホホな感じになってしまった小松左京だが、あれは映画がトホホなんであって、原作はかなり面白い。地球に衝突してくるブラックホールに木星をぶつけて防ぐというこれまた力技。だけど基本的にはちゃんと科学的根拠があって、それをちゃんと構築した上で大嘘をついているのだ。テロで妨害してくるのがどこかの国とかの政治的集団ではなくて、自然保護を訴える新興宗教というところなど、後のオウム真理教によるテロなどを思わせたりする。思想より宗教の方が危険なのだ。
 ま、脚本や総監督として小松左京はクレジットされているので、原作は原作、映画は映画と言い切れない点もあるのだが・・・。でも、実はわたしあの映画って割と好きなんだよね。とかく批判される特撮もあれはあれで一つの味だし。ま、公開時(1984年)に劇場で観たっきりなんで、あんま憶えてないんすけどね。
 ともあれ「君は~とっても大きくて~♪」ですよ。うん。

2003年05月06日

シュワルツェネッガーが百人

 『ターミネーター2』の制作が発表された時に、わたしは「キャメロンが撮ったエイリアン2の原題はエイリアンズで、一作目で一匹だったエイリアンが大群になって襲ってきた。だからターミネーター2は実はターミネーターズでシュワルツェネッガーが百人襲ってくる」と予想した。これまでにないCGをやるというから、きっとCGでシュワルツェネッガーを増やすのだとも言ったのだが笑われただけだった。っつーかギャグで言ったのでそれでOKなのだが。
 ところが『マトリックス:リローデッド』ではあのエージェント・スミスが百人に分身してネオに襲いかかると言うではないか。ウォシャウスキー兄弟め、あの場にいて聞いてたな。くそっパクられたぜ。
 しかし、百人分身の元ネタは日本の忍者マンガあるいはアニメなんだろうか?彼らのオフィスには『SASUKE』というラベルが貼られたビデオテープがあったりしてな。

2003年05月13日

いったいいつになったら第二部が始まるのだろうか 『日本沈没』(原作)

  「復活の日」の勢いに乗り「日本沈没」に取りかかっていたのが読了。こちらも面白かった。映画の方はアレだが。
 ちなみにこの小説、領土を失った日本民族が世界に散り散りになっていくところで「第一部完」となり終わってしまう。発刊から三十年、いったいいつになったら第二部が始まるのだろうか?それとも、この「第一部完」は打ち切られた連載マンガのそれと同じなのだろうか?
 それはそうと、今SF小説というのはどのぐらい人気があるんだろうか。雑誌はSFアドベンチャーも奇想天外もすでになく、残るは老舗のSFマガジンのみ。書籍の方も売り場の片隅に隠れるように置かれているだけだ。ライトノベルズにはSFもどきがうろうろしているようだが・・・。どうでもいいが、『マグマ大使』に出てきた人間モドキってのはまんまなネーミングだな。ほんとどうでもいいな。

2003年05月14日

“疑似ユートピアの形成とその崩壊”

 ダニー・ボイルの『普通じゃない』は、掃除夫ユアン・マクレガーと大会社の社長令嬢キャメロン・ディアスを愛で結びつけるために、天国から男と女の二人の天使がやってきてあれこれどたばたするという映画である。その天国なのだがセットの造り自体はどこぞのオフィスなのだが、天国だけに壁も白、床も白、天井も白、家具も白、机の上の文房具も白なら天使達の服もぜ~んぶ白。とにかく真っ白けのけなのだ。
 パナウェーブの人たちにとってはきっとさぞかし天国に思えるんだろう。いや、もともと天国か。

 『ザ・ビーチ』の大コケいらい音沙汰がないダニー・ボイルだが、元気にしているのだろうか。『ザ・ビーチ』は酷評している人が多かったようだが、第一作の『シャロウ・グレイブ』以来、一貫して“疑似ユートピアの形成とその崩壊”を描いてきたダニー・ボイルにとって(『普通じゃない』は疑似ユートピアの形成までで終わっている。愛で結ばれた二人がその後どうなったか観客はうかがい知ることが出来ない)当然『ザ・ビーチ』はあのようになるべきであって、事実その通りになったのだけのことだ。(脚本はずっと同じジョン・ホッジという人が書いているので、同じような傾向が見られるのかもしれない)
 夢とか愛とか友情などの幻想を基本的に信じていない人なので、ハリウッドの大作には向いていないのかも知れない。日本でもオシャレな人たちを中心にウケた『トレイン・スポッティング』だって、実は人間不信と自己嫌悪の塊だぞありゃ。でも、まぁそれなりにやっていくでしょ。なんってったってイギリス人はしぶといから。

2003年05月17日

どうなる?Xbox

  この間、家庭用ゲーム部門の赤字が前年度比2倍と発表しておきながら、「Xbox(R)キャッシュバックキャンペーン」とやらで6,800円のキャッシュバックをはじめるとは、すでに自棄になってるのかマイクロソフト?
 キャッシュバックで購買意欲を喚起してと、にかく本体を一台でも多く普及させたいのだろう。狙いは分かるのだが、果たして思うようにいくのだろうか?先15日に発売されたPS2-SCPH-50000は単なるマイナーグレードアップに過ぎないのに、売れ行き好調で品不足らしい。そんな現状でゲームマニア以外にあえてXboxを買わせるというのは、いかにも難しそうだ。
 ヴィッツに乗っていた人をマーチに買い換えさせるのとはわけが違う。PS2からXboxに買い換えたら、それまでに買ったソフトは使えなくなってしまう。だからといって、一人で2機種も3機種も買う人となるとやはり限られてくるだろう。これといったキラータイトルがないようだし。
 もっとも、ゲーム業界全体にキラータイトルと呼べるようなヒット作がなくなってきている感じではある。みんなが買ってみんながやっているようなゲームの不在と、音楽業界でここ最近大ヒット曲が出てこないこととは、突き詰めていくと同じ根っこにつながっているような気がする。CDの発売元は「パソコンでコピーされるからいかんのじゃ」とかいってコピーコントロールCDとやらにしているが、ことはそんなわかりやすい理由ではないと思うのだが。

 話によると、『加奈~いもうと~』がXboxに移植されるらしいから、ある人々にとってはキラータイトルだ。確実に『加奈』が出るというのならば、キャッシュバックの期間中にわたしも本体を手に入れておきたいのだが・・・開発中止で結局発売されなかったというのはわりとあるからなぁ・・・あるいは『加奈』が発売されたことには本体価格が下がってるかもしれんし・・・

  ともあれ、家庭用ゲーム部門が多少の赤字を出しても、マイクロソフト本体にはチクリとしたぐらいなんだろうけど。いっそのことOSのオマケにXboxを付けたらどうだろうか。

2003年05月19日

『バトル・ロワイヤル2』が1作目に続いてR-15指定

 『バトル・ロワイヤル2』が1作目に続いてR-15指定になったそうだ。それに対して監督・脚本の深作健太(深作欣二の息子)は「前売り券を手に入れるなどして、なんとか劇場に潜り込んで」と発言したそうだ。なかなかうれしいことを言ってくれるではないか。
 思えば1作目の公開時には上映反対を訴えた高校生がいたが、こんなアホどもよりも劇場に潜り込むガキをわたしは圧倒的に支持する。大人から「これは良い作品だから観なさい。これは悪い影響を与える作品だから観ちゃダメ」と言われてそれに唯々諾々と従っていてどうする。自分が観たい映画ぐらい自分で決めろ。観たければ観ればいい。観たくなければ観なければいい。それは個人の問題で、自分が観たくないからってそれを他人に押しつけるなよ、上映反対の高校生。
 「ショッキングな流血シーンがあるから」と言ったって、それは観る前からわかってるんだからそういうのが嫌いな奴は観に行かないよ。そもそも暴力的な映画を観て実際に暴力に走ってしまうような頭の悪い奴はほんの一握りだろう。そんな奴らのせいでまっとうなガキどもまで規制を受けるなんてナンセンスだ。
 ま、ナンセンスな規則なんて世の中にいっぱいあるのだが。それに飼い慣らされるも人生、歯向かうも人生ってか。

 それにしても原作者の高見広春はこれ一作で見事に消えたな。題材にインパクトはあるわりには内容は青臭いただの青春小説で、お世辞にも力量のある作家とは言えなかったから無理もないか。

2003年05月20日

松屋の牛めし

  以前“餃子の王将”だったところが“松屋”になっていた。ちょうど昼時に前を通りかかったので飯にすることにした。
 愛知県に松屋が進出してきたのはここ最近のことだと思う。10年ほど前に東京にいた頃はたまに食べたことがある。同じ牛丼屋でも吉野屋と違うのは販売機で食券を買うことと、標準でみそ汁がついていることだ。
 当時のわたしには大盛りだとなんだかんだで500円ぐらいになってしまう牛丼屋はちょっと割高な感じだった。もう百円も出せば定食屋でご飯・おかず・みそ汁・漬け物のセットが食える。それに、わたしは学生の下宿時代から自炊派だったで、松屋などで食べるのは映画の最終上映を観たときなどだ。すでに夜も更けているので他に食べるところがないのだ。
 10年ぶりの松屋もやはり食券だったし牛丼、いやここでは正しくは“牛めし”にちゃんとみそ汁がついてきた。このみそ汁が寒い時などはうれしいものだった。ただ、牛めしの味自体は個人的には吉野家の方が美味かったように記憶している。
 では、今日の牛めしはというと、ちょっと脂身が多目の肉、かかっている汁が少なめで丼の底のご飯まで行き渡らない、などでやはりイマイチ感を感じた。つくね定食、豚生姜焼定食、カレーなどメニューは豊富だが、肝心の味の方で今いっそうの努力を期待する。
 ただ、わたしの舌の価値観が昔とは変わっているかもしれないので、同じ市内にある吉野家で近日中に牛丼を食ってこようと思う。
 その際はまたここでレポートするので刮目して待たれよ! ってそんな気張るこっちゃないか。

2003年05月21日

第三銀行と大金庫の中身

 UFJ銀行のUFJも意味わかんないけどりそな銀行の“りそな”はもっとわかんねーよなー。
 それから第三銀行は何で第三なんだろうか。ひょっとして第三帝国と関係があるのだろうか。ナチスの隠し財産が本店の大金庫に入ってたりするんだろうか。日本とドイツは連合を結んでいたのだから、ありえないことではない。って、ありえねーよ。
 本当は入ってるのは徳川の隠し財産。でもって、糸井重里が金庫の中を掘って探してるの。って、探してねーよ。
 本当の本当は聖櫃。インディ・ジョーンズが探しに来るのだが床が蛇だらけで困るの。って、金庫の中で蛇飼うなよ。
 本当の本当の本当は眼鏡。横山やすしが「眼鏡どこや?眼鏡、眼鏡」って探しに来るの。って、額のところに上げてるだけだろ。

 そして大金庫が開かれた時、中に入っていた病気、貧困、憎悪、嫉妬、犯罪といった全ての災いが地上に飛び出していった。しかし、金庫の奥にはただひとつ“希望”が残されていたのであった・・・

 でも、希望も外に出て行かないと世の中に広まらないからダメだと思うんだが。金庫の持ち主が希望独り占め?

2003年05月24日

イーストウッドを知っているか?

 カンヌ映画祭(“かんぬえいがさい”と読むと立派そうだが“かんぬえいがまつり”と読むとまるで東映まんが祭りのようであれだな)に出席中のクリント・イーストウッドが引退をほのめかすような発言をしたそうだ。
 たしかにイーストウッドもすでに74歳。楽隠居をしてもいい年ではある。しかし、理由は年齢ではなかろう。イーストウッドは本来死ぬまで映画人な男だ。
 ただ、ハリウッド映画というカテゴリーと映画作家クリント・イーストウッドとの間に大きな距離が開いている。
 コンペ部門に出品している監督最新作「Mystic River」は、幼児虐待とその後の人生という重いテーマを扱った作品である。制作に当たっては多くの映画会社が企画を断り、イーストウッドに軽めの作品を制作するよう勧めたそうだ。
 だが、監督イーストウッドはハリウッド向きの題材ではないと分かっていながらも「Mystic River」を撮りたかったのだろう。
 ここにわたしが1990年に書いた文章を載せよう。

「イーストウッドを知っているか?」

 私たちは、イーストウッドという男を知っている。彼はガンマンであり、彼は刑事であり、彼は戦闘パイロットであり、彼はストリートファイターであった。
だが、ここでふと思う。私たちは、イーストウッドを知っているのであろうか?

 先日、「ルーキー」を観た。イーストウッドはおなじみの刑事役である。相棒は黒人である。あぶないぞー、と思っていたら、案の定死んでしまった。有色人種たるもの、イーストウッドの相棒だけにはなるものではない。メル・ギブソンの相棒ならば、レギュラーになれるのだが。世の中は、不公平に出来ているのだ。
縛られたままやられちゃうとことか、銀の弾丸とか、異常な面白さが多い。よく考えてみると、出演者全員が異常者だったりする。前半と後半で、変化させて繰り返すとこなど、実にうまい。
 イーストウッド監督作品と言うと、「恐怖のメロディ」を皮切りに、「ガントレット」、「ブロンコビリー」、「ペイルライダー」、「ハートブレイクリッジ」などなど、数多い。そしてその全てが、水準以上の出来を示している。これはすごいことである。
 イーストウッドと言うと、一般的には俳優としてのイメージが強い。しかし、彼の出世作「荒野の用心棒」以降の出演作は30数本あるが、そのうちの半分近くを自分で演出しているわけである。
 こうなってくると、俳優としての彼よりも監督としての彼に興味をもってくる。質も量も、いま現在の一流監督のなかにおいて、決して引けはとらない。
 では、監督イーストウッドとは、どんな男なのか?

「ルーキー」におけるイーストウッドは、3つの姿を持っている。一つは主役の面であり、もう一つはわき役、そして監督である。
 映画の前半においては、中心はイーストウッドに他ならず、チャーリー・シーンはあくまでも準主役である。
 そして後半、イーストウッドが捕らえられてからは、彼にも多くの見せ場はあるが、主役の座はチャーリー・シーンに移る。
 こうして2人の主役がいる物語は成り立ったのだ。2人の主役がいる映画と言えば、イーストウッド関係では「シティヒート」がある。
 イーストウッドとバート・レイノルズの2人を同時に主役にしようとしたために、メロメロになっていた。
 「ルーキー」では、主役を使い分けることによって成り立たせたのだ。だが、イーストウッドとチャーリー・シーンとでは役者としての格が違いすぎる。同列に扱うことは、普通の監督だったら出来ないだろう。で、監督は誰か?イーストウッド本人なのだ。
 前半は主役とはいえ、自分をわき役として使う根性は大した物である。これはやはり、監督としての自分と、役者としての自分とがはっきり別れているからであろう。
 監督もこなす役者などという程度とは、技量が違うのだ。監督イーストウッドは、役者イーストウッドによる先入観を抜き去って、なお偉大な監督なのだ。
 ところが、監督としての彼は、かなり過小評価されている。現在のハリウッドの監督の中で、イーストウッドと張り合える者がどれだけいるというのだろうか?
 いま一度、監督としてのイーストウッドというものを、とらえ直すべきであろう。「恐怖のメロディー」などというおかしな作品でデビューした事から考えても、イーストウッドの才能の深さが分かる。単にアクションの男だろ、なんて考えていてはいけないのだ。

 彼は監督であり、役者であり、政治家であり、男である。

 私たちは、イーストウッドを知っているのだろうか?」


 アメリカにはおおざっぱに言ってハリウッド映画とインディペンデンス映画がある。大資本系映画と独立資本系映画と言っても良い。
 だが、根本的な違いは予算の大小ではない。映画としてのあり方の差なのだ。
 アメリカインディペンデンス映画の父といわれるジョン・カサヴェテスはそもそも俳優であった。その点はイーストウッドと同じだ。
 ただ、カサヴェテスは『特攻大作戦』やこの間WOWOWでやっていた『殺人者たち』などに観られるようにクセの強い脇役俳優なのだ。
 その彼が映画を作るとなったときに資金面で苦労したことは想像に難くないが、題材・演出面での制約は少なかったようだ。
 事実、監督第一作の『アメリカの影』(1960)はシナリオ無しの現場での即興演出というまるでヌーヴェル・バーグを思わせるような作品となっている。

 イーストウッドも第一作の『恐怖のメロディ』制作に関して予算などでかなり苦労したようで実は低予算映画である。・・・ってこれじゃカサヴェテスと同じだな。
 ただ、イーストウッドの場合にはいやがおうにもハリウッド・スターの看板がついて回るのだ。
 しかも、イーストウッドはハリウッドでは芽が出ずテレビの世界に行き、そこからイタリアに渡ってマカロニ・ウエスタンで華開いてから逆輸入の形でハリウッドに戻ってきて西部劇役者として固定されかかる。
 そこでドン・シーゲルと出会いカウボーイが都会にやってくる『マンハッタン無宿』で西部劇と現代劇の橋渡しをして『ダーティーハリー』へとつなぎ本格的にブレイクしたという、かなり紆余曲折したいわば屈折したハリウッド・スターなのである。
 イーストウッドが撮るからにはハリウッド映画になっていなければならないし(ハリウッド映画が映画の規模ではなく映画の構造であるのは前に述べたとおりだが)、イーストウッドは撮るからにはただのハリウッド映画にするつもりはない。
 この両者の向かおうとしている方向の違いが、イーストウッドから引退の二文字を引き出したのだとわたしは推測する。

 ハリウッド映画は世界で最も懐の狭い映画ジャンルなのかも知れない。

2003年05月25日

熱血派社員と現実的な上司との熱き戦い

  そういえば、『ルーキー』も『センチメンタルアドベンチャー』も『シティヒート』もまだDVDになっていないんだよな。
 バート・レイノルズのファンでもあるわたしとしては『シティヒート』は是が非でもDVD化希望なんだが。
 旧作のDVD化というのはいったい誰がどんな根拠で選んでいるのだろうか。権利の金額とか売れ行き見込みとかいろいろファクターがからんできそうだ。
 「映画人としての使命としてこれはなんとしてもDVD化しなければならないっ!」、「しかし、そいつは売れないだろうから利益が出ないだろっ!」という熱血派社員と現実的な上司との熱き戦いが繰り広げられているのだろうか?
 たぶん、いないだろうな。いいから出せよ『センチメンタルアドベンチャー』
 まぁ、イーストウッド作品はソフト化されている方なんだが。

2003年05月26日

アメリカの人種比率

 一昨日の続き。
 ハリウッド映画というのは様々な物を貪欲に取り入れながらも、結局は自分たちの都合のよい形でしか使わない。
 それはアメリカという国であり、白人と言う人種であり、資本主義というイズムであり、保守というスタンスだ。

 1940年代、50年代にハリウッドでは共産主義者を密告・排斥する赤狩り(レッド・パージ)が行われ、優れた才能がありながら映画界を追われた関係者は多い。他の分野でも共産主義者の排斥は行われていたが、映画界が特に目立ったのはハリウッドの保守性ゆえだろう。
 昨年の2002年度アカデミー賞では主演男優賞をデンゼル・ワシントン、主演女優賞をハリー・ベリーと両賞とも黒人俳優が受賞し話題になったが、それ以前に黒人俳優が受賞したのはなんと1963年のシドニー・ポワチエの主演男優賞までさかのぼる。ちなみにこれが初の黒人受賞なのだがそれから実に39年間もたっている。
 しかも、その受賞した黒人俳優は、白人から見た優等生的黒人であることは上記3人の顔ぶれを見れば明らかだ。
 アメリカの人種比率は白人80%、黒人12%、アジア人3%、ネイティブアメリカン1%、その他4%と言われている。しかし映画の舞台として多く登場するロサンゼルス、ニューヨーク、サンフランシスコなどでは白人比率は下がり、黒人などの有色人種の比率が多くなる。それでも、やはり多くのハリウッド映画の主役は白人だ。黒人は『リーサル・ウェポン』、『ダイハード』、『マトリックス』など相棒的役割の場合が多い。
 『ディープ・インパクト』ではモーガン・フリーマンが黒人の大統領を演じたが、実際に黒人が大統領に選ばれるのはいつの日だろうか。人工のほぼ半数を占める女性からの大統領さえまだだというのに。

 結局、ハリウッド映画というのは世界も市場にしつつも、その世界観はキリスト教徒で保守派の白人男性でしかないのだろう。
 地球にはアメリカ以外の国もあるし、キリスト教以外の宗教もあって、有色人種もいて、女性もいるのだが。

 ま、極東の某島国にも日本という国と日本人しかいないと思っている人も多いようですけどね。