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『ジョン・カサベテスのビッグ・トラブル』(1986) BIG TROUBLE 93分 アメリカ  COLUMBIA PICTURES

監督:ジョン・カサヴェテス 製作:ジョン・カサヴェテス、マイケル・ロベル 脚本:ウォーレン・ボーグル 撮影:ビル・バトラー 音楽:ビル・コンティ
出演:ピーター・フォーク、アラン・アーキン、ビヴァリー・ダンジェロ、ヴァレリー・カーティン、トロイ・ドナヒュー、ポール・ドゥーリイ、チャールズ・ダーニング、ロバート・スタック、リチャード・リバティーニ、バーバラ・ターバック

 ジョン・カサヴェテスが手がけた初のコメディ映画。これがかなりコテコテのハリウッドコメディ。何で撮ったんだが疑問でしょうがないんだが、主演が親友のピーター・フォークなので「一緒に楽しもうか」というノリで撮ったんだろうか。製作会社は『グロリア』(1980)と同じコロンビア・ピクチャーズ。現在ではソニー資本だからDVDはソニー・ピクチャーズから発売されていて一時は廉価版にもなっていたが現在は廃盤のようでプレミア価格になっている。
 共演、というか作品的に本当の主役はアラン・アーキン。アラン・アーキンとピーター・フォークのダブル主演は『あきれたあきれた大作戦』(1979)があった。こちらもピーター・フォークが巻き起こすトラブルにアラン・アーキンが巻き込まれるといった内容だった。
 大手保険会社の外交員アラン・アーキンは三つ子の息子がいて、みんな音楽の才能がある。そこで妻がどうしてもエール大学に入れたいと主張する。エール大ならば実力のある人と知り合えるからと言い、その中には小澤征爾の名前が出てきたので驚いた。だが三つ子を4年間大学に通わせると20万ドルはかかる。金策に困り果てたアラン・アーキンはピーター・フォークが企んだ500万ドルの保険金詐欺の片棒を担ぐことになる。
 これまでは悲劇的雰囲気の愛を中心に描いてきたカサヴェテスだが、悲劇はひっくり返せば喜劇にもなる。喜劇はひっくり返せば悲劇に。息子たちのことを考えたばかりにどんどん泥沼にはまっていくアラン・アーキンの姿は悲劇的であるがゆえに笑える。
 カサヴェテスの演出はテンポが良くて、初の他人が書いたシナリオをちゃんと映像化している。スタジオのセット撮影もこの作品が初めてだろう。最初に観た時は心配だったが、笑えるコメディだ。
 だが、カサヴェテスが撮る必然性があるのかは疑問だ。笑えるけど突き抜けているほどではない。泥沼にはまったアラン・アーキンがついに暴走を始めるが、予定調和の範囲内だ。最後はどう決着をつける気かと思ったが、ある連中を出すことで無事に着地。保険金詐欺を疑った調査部長のチャールズ・ダーニングを拉致した時は突っ走るかと思ったが、そこまで出来の良い脚本ではなかった。脚本担当のアンドリュー・バーグマンは『あきれたあきれた大作戦』も手がけているのか。
 楽天的結末を迎えるが、ピーター・フォークは更に何かやる気で、アラン・アーキンに声をかけてくる。ニューヨークに行き、ブロードウェイで芝居をやるんだとか何とか。逮捕もされずに無事に済んだだけでも儲けものなのに懲りない男だ。そしてエンドロールが始まり、ラストに表示されるのは「not the END」。もっとも続編はないけど。
 カサヴェテスがこの作品に満足したかは知らないが、結果としてこれが監督としての遺作になってしまった。
 1989年2月3日にカサヴェテスは59歳の若さで亡くなった。ジーナ・ローランズ主演でもう一本ぐらい撮って欲しかった。
 息子のニック・カサヴェテスも俳優になり、『処刑ライダー』(1986)、『ブラインド・フューリー』(1989)、『デルタフォース3』(1991)などB級映画中心に出演し、俳優としての父は越えられないのかなと思っていたら監督業に進出し偉大な足跡を残した父の後を追う。なかなかの力作を撮っていて、監督としての方が才能があると思う。
 1930年生まれの愛妻ジーナ・ローランズはすっかりお祖母ちゃんになったが、迫力と共にまだ健在である。

『ラヴ・ストリームス』 愛について

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『ラヴ・ストリームス』(1983) LOVE STREAMS 142分 アメリカ CANON FILM

監督:ジョン・カサヴェテス 製作:メナハム・ゴーラン、ヨーラン・グローバス 原作:テッド・アレン 脚本:テッド・アレン、ジョン・カサヴェテス 撮影:アル・ルーバン 音楽:ボー・ハーウッド
出演:ジーナ・ローランズ、ジョン・カサヴェテス、ダイアン・アボット、リサ・マーサ・ブルイット、シーモア・カッセル、マーガレット・アボット、アル・ルーバン、レスリー・ホープ

 なにがスゴいったってあの"キャノン・フィルム"製作だと言う事だ。二昔ほど前のB級アクションファンなら知っているはず。チャック・ノリス映画や晩年のチャールズ・ブロンソン映画といえばキャノン・フィルムのキャノン・フィルム。メナハム・ゴーランとヨーラン・グローバスなのである。ってことはイスラエル資本か。
 キャノン・フィルムはジャン=リュック・ゴダールに『ゴダールのリア王』(1987)を撮らせたりと、ときどきワケの分からん事をする。そして送り出したのが傑作だから驚く。『ゴダールのリア王』も面白い。でもまだDVDになってないのか。どこでもいいからとっとと出せよ。
 今作はテッド・アレンという人による原作の戯曲があったようだ。ジーナ・ローランズとジョン・カサヴェテスの夫婦共演である。
 サラ(ジーナ・ローランズ)は離婚して13歳になる娘の養育権を元夫と協定中。最初はサラと暮らす事になっていたのだが、最後になって元夫(シーモア・カッセル)の所に行くと娘が言い出す。サラは精神科医にかかっていて、その助言でパリに行く。彼女が最初から精神的に問題を抱えていたかは不明。アメリカ人は普通にかかりつけの精神科があったりするからな。だが、パリは性に合わなかったようですぐに引き返してくる。パリの駅でのシーンがあるが、本当ににフランスロケをしたのだろうか。きっとそこら辺の駅の構内で撮ってると思う。
 ロバート(ジョン・カサヴェテス)は作家で離婚した妻との間に息子がいる。元妻が用事があって出かけるから一晩だけ預かって欲しいと息子を置いていく。ロバートの家に何人も若い女性がいたことにショックを受けて息子は飛び出していき、ロバートは車で追いかけ、息子を連れてラスベガスへ行く。
 サラとロバートの物語が平行して描かれるが、二人の関係がなかなか分からない。中盤でようやく二人は顔を合わせる。パリから帰ってきたサラがタクシー2台分の大荷物でロバートの家に転がり込んだのだ。キスとかして仲がいいし元恋人かなと思っていたら、サラが元夫と電話をしているシーンで、親子電話を使って会話を盗み聞きしていたロバートが「姉に向かってそんなことを言うな」と怒鳴りようやく二人が姉弟だと分かる。字幕だとこのシーンにならないと分からないが、英語が分かる人だともっと早く理解しているのかも知れん。
 二人とも離婚経験者というのはいかにもアメリカ的で、どちらも自分の子供と上手く親子関係を築けていない。ロバートの方は息子が赤ん坊の時に離婚してそのまま会わずじまいだったようなのでギグシャクしていて当然だろう。まだ少年の息子に「コーラかビールでも飲むか」と尋ねてビールを飲ましているし。
 サラは結婚から15年。13年間育て上げた娘が思春期で、母親に対して反抗し始めたようだが、引き取った元夫は娘の扱いに困ってサラの所に戻そうとする。そしてサラが見る幻覚は自動車で元夫と娘を轢き殺す夢。
 彼女は他にも、マスタードとケチャップが飛び出したと思わせるジョークグッズなどで元夫と娘を笑わせようとし、最後にはバク転でプールに飛び込む夢や、舞台の上でバレリーナが踊り自分がオペラを歌う夢などを見る。やはり精神的に不安定なのだろうか。カサヴェテスはよくよくジーナ・ローランズに追い込まれた役をやらせるのが好きらしい。
「あなたはなにか小動物と暮らして愛情を持つべきよ」とロバートに言い、アニマル・シェルターに出向いたので小犬でももらってくるのかと思ったら、鶏・アヒル・犬はまだしも山羊にミニチュア・ホースが2頭をタクシーに乗せて帰ってくる。ロバート宅の庭はちょっとした動物園だ。
「こんなことをするのは初めてなんだけど」とボーリング場で若い男をひっかけたり、やることもやはりどこかおかしい。
 そんな姉に振り回されるロバートだが、彼も黒人女性歌手の母親である老婦人と2人でパーティーをやって踊っていたりするので似た者姉弟なのかも知れない。
 2人の共同生活は上手くいくのかと思われたが、そこへ嵐がやって来る。比喩じゃなくて本当の天気の嵐。サラはその前のシーンで倒れてしまい、往診に来た医師から「瞳孔の反応が鈍くて、首がこわばっている」と忠告を受けている。ロバートは1人で馬を家の中に移動させる。
 本質的に人間は孤独だと感じさせる作品で、その孤独の中であがいている姿が時におかしい。サラとロバートが会話しているシーンで意図的にロバートを画面の外に追い出して、時折手が見えるだけというのがある。
 原作が舞台劇なだけあって演劇的なのだろうか、私としてはカサヴェテス作品の中では一番ピンとこない。でもベルリン国際映画祭で金熊賞を取っている。評価は高い作品なのだ。

『グロリア』 レオン? ああ、あの小僧ね

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『グロリア』(1980) GLORIA 121分 アメリカ COLUMBIA PICTURES

監督:ジョン・カサヴェテス 製作:サム・ショウ、スティーヴン・F・ケステン 脚本:ジョン・カサヴェテス 撮影:フレッド・シュラー 音楽:ビル・コンティ
出演:ジーナ・ローランズ、ジョン・アダムス、バック・ヘンリー、ジュリー・カーメン

 製作担当者はジョン・カサヴェテスのインディペンデント映画仲間のサム・ショウだが、冒頭に"コロンビア・ピクチャーズ プレゼント"と出るし、エンドロールの最後にはMPAAのマークも表示されるメジャー資本による作品。カサヴェテスの本質的な良さという点では他の作品になるだろうが、好き嫌いで言えば一番好きな作品。私はどうしたってハリウッドの呪縛から逃れられない。
 水彩画風の絵画にジーナ・ローランズの名前などが書いてあるタイトルからいきなりファーストシーンは夜のニューヨークを空撮で捉える。映し出されるのは自由の女神やヤンキースタジアム。これだけでこれまでの作品と比べると金がかかってるなと感じる。そして同時にハードボイルドさも。夜の空撮から始まる作品と言えばハードボイルドだからな。
 犯罪組織の会計士が帳簿を操作して60万ドルの金をくすねていた上に、FBIに情報を流した。それがバレて自宅に乗り込んできた組織の殺し屋に妻、娘、妻の母と共に見せしめのため殺されてしまう。だが、6歳の息子フィル(ジョン・アダムス)だけは妻の友人グロリア(ジーナ・ローランズ)の部屋に避難していて無事だった。フィルは父が残した帳簿を持っていた。組織に狙われることとなった2人はニューヨークをタクシーやバス、地下鉄などを使って逃げ回ることになる。
 リック・ベッソンの『レオン』(1994)は明らかにこの作品の影響を受けている。というかぶっちゃけパクリだろう。だが、観てみれば分かるが2つの作品は大きく違う。言ってみればカサヴェテスは大人で、リック・ベッソンはガキなのだ。『レオン』を劇場で観たことはベッソンがガキだとは思わなかったが、その後の脚本や製作などを含めて彼が関わった作品を観ると良くも悪くも性根がガキなのが分かる。
 ハードボイルドなフィルム・ノワールという点では『チャイニーズ・ブッキーを殺した男』(1976)の延長線上にある。コロンビアが企画を通した事自体、『チャイニーズ・ブッキー』を評価してのことだろう。そして作り上げられたこの作品はベネチア国際映画祭でグランプリである金獅子賞を取り、ジーナ・ローランズをアカデミー主演女優賞にノミネートさせた。
 1930年生まれのジーナ・ローランズは当時50歳。組織のことを仲間と呼んでいるし、途中で「堅気になるのもいいかもね」と言っているから真っ当に生計を立てている人間ではない。生活に疲れた中年女が組織を敵に回して勝ち目があるのか。
 車で2人に追いついてきた組織の連中に、いきなりリボルバーを発砲するシーンの唐突さで息を飲む。フィルが連れ込まれたアパートに乗り込み、ドアから顔を見せた女性にリボルバーを突き付ける。そして、拳銃を抜いた男を躊躇せずに反射的に撃ち殺す。これらのグロリアが見せる暴力は、誤解を呼ぶおそれがあるが日本で言えば北野武監督作を思い出させる。
 それと同時に、最初は家族の元に帰りたがるフィルに手を焼き、時に突き放したりもしながらも次第に心を許していくグロリアは、最終的にはフィルの家族に、疑似母子関係になる。年の差があるのに男女間の恋愛関係に持ち込んでしまったロリコンのリック・ベッソンとはまずここが違う。
 フィルはヒスパニック系でまだあまり英語が上手くないという設定。演じている子役のジョン・アダムスの下手な英語は地なのか演技なのか。あれが演技だとしたら怖ろしい子役だ。フィルモグラフィーでアメリカのデータベースを当たってみても出演作は『グロリア』だけだから素人の子供をカサヴェテスが上手く使ったのかな。子供らしく思い込んだら頑固な性格で、グロリアがイライラするシーンには感情移入してしまう。しかし、ホテルを出た朝、ケンカ別れをしたグロリアが8時から開店している早起き営業なバーにいる間にフィルがどこかへ行ってしまい、タクシーでブロードウェイを探し回ることになると、気が動転して涙目になりそれを隠すためにサングラスをかけるグロリアにこれまた感情移入。
 タクシーに何台も乗ることになるのだが、その運転手がどれも味がある。いかにもニューヨークを流していそうな運転手なのだが、グロリアの味方をしてくれたり、フィルが「待ってて」というのに置き去りにして行ってしまったりと様々。どれも顔がいい。二枚目と言うんじゃなくて、味のある顔。中島みゆきが歌う、苦労人と見えるタクシードライバーも味のある顔をしているんだろうな。いや、全然関係ないが。
 そして終盤にはフィルに「ピッツバーグで会いましょう」と伝え、グロリアは1人で組織のボス(?)のマンションに乗り込む。武器は帳簿とリボルバーだけ。グロリアはボスの元愛人だったようで、ボスはあまい言葉で言いくるめようとしてくる。そして交渉を終えたグロリアはエレベーターに向かう。その前に立ちはだかった男を、グロリアは今回も唐突に射殺する。ほんとシビれる女だ。
 下降していくエレベーターの天井目がけて組織の男が何発も銃弾を撃ち込む。果たしてグロリアの身は?
 ここから先はラストのネタバレになるので嫌な人は読まない方がいい。




 鉄道に乗ってピッツバーグに着いたフィルは、ある墓地で死んだと思っているグロリアに別れを告げている。
 そこに一台の車がやって来る。後部座席から老婆が降りてくるが、それはグロリアの変装だった。
 グロリアに向かって走り出すフィル。そして二人は抱き合い、エンドロールへ。
『レオン』で殺し屋レオンは最後に死ぬことでマチルダにとって生涯忘れられない男となったが、女であるグロリアはしぶとい。疑似息子であるフィルを残したままそう簡単には死なないのだ。疑似でも母は強し。女を舐めたらいけないのだ。
 ただ、困ったことにフィルがグロリアに向かって走り出すところからスローモーションになってしまう。ジョン・カサヴェテスともあろう男がここぞという所でスローモーションを使うという誘惑に耐えきれなかったのか? 編集段階で意に添わずであって欲しいところだが、カクカクしたニセスローモーションではなくちゃんと高速度撮影しているので撮影段階でスローモーションとして撮っている。コロンビア側が「どうしてもスローにしろ」と言ってきたからしょうがなくだったらいいな。ここぞという感動的な場面でスローモーションを使うのは個人的に頭の悪い演出だと思っている。まさかカサヴェテスがそんなことをするとは思いたくないのだが。本人に聞こうにもとうに亡くなってるしな。
 音楽もビル・コンティという知名度のある人を使っているが、ところどころうるさすぎる。演技や映像は抑えめなので、ビル・コンティもそこらへんは意識して欲しいものだ。
 1999年にシャロン・ストーン主演、シドニー・ルメット監督でリメイクされているが、私としては「無かった事」になっている。かなり嫌いな監督シドニー・ルメットというのもあるが、まだ40歳ぐらいで美人のグロリアなんかグロリアじゃない。人生に疲れ孤独な中年女のグロリアが自分の生きる意義を見出し、タフにクールになっていく。それがグロリアだ。

『オープニング・ナイト』 第一の娘、第二の女

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『オープニング・ナイト』(1978) OPENING NIGHT 144分 アメリカ FACES DISTRIBUTION CORPORATION

監督:ジョン・カサヴェテス 製作:アル・ルーバン 製作総指揮:サム・ショウ 脚本:ジョン・カサヴェテス 撮影:アル・ルーバン 美術:ブライアン・ライマン 編集:トム・コーンウェル 音楽:ボー・ハーウッド
出演:ジーナ・ローランズ、ジョン・カサヴェテス、ベン・ギャザラ、ジョーン・ブロンデル、ゾーラ・ランパート、ポール・スチュワート、シーモア・カッセル、ピーター・フォーク、ピーター・ボグダノビッチ

 舞台演劇『第二の女』の主演女優マートル(ジーナ・ローランズ)は自分が老いつつある事を感じている。そして『第二の女』はまさにその"老い"をテーマにした作品だった。
 ある晩、舞台を終えて裏口から出た彼女に、熱狂的なファンの少女ナンシーが抱きついてきて「アイ・ラブ・ユー」を繰り返す。マートルの乗った車を追って道路に飛び出したナンシーは対向車に轢かれて死んでしまう。彼女はまだ17歳だった。

 舞台演劇というのは個人的にほとんど興味の無い世界だ。淀川さんは「映画を知るためには舞台も歌舞伎も何でも観なさい」と言われていたので反省しなければならないところだが、田舎で育ったので縁が無くてそのまま。
 ナンシーの亡霊に取り憑かれたマートルが少しずつおかしくなっていく。どこかで観たなと思ったが『こわれゆく女』(1974)のジーナ・ローランズの延長線上と考えていいのだろうか。ナンシーの亡霊は実際にマートルの前に現れる。本物の幽霊ではなくて、彼女の悩める頭脳が空想として生み出したのだろう。
 実際に女優として、一人の女性として老いを感じ始めていたであろうジーナ・ローランズを徹底して追いつめ、悩み苦しませる。監督・脚本、そして夫であるジョン・カサヴェテスはなかなかいい性格をしている。夫婦喧嘩にならなかったんだろうか。
『第二の女』の作中ではマートルとモーリス(ジョン・カサヴェテス)は夫婦という設定で、終盤は二人の演技の応酬が観られる。途中で、モーリスの部屋をマートルが尋ねるシーンもあり、夫婦共演だ。
 おかしくなってきたマートルが降霊術師のところに連れて行かれるシーンは笑っていいものなのかどうなのか。皮肉な場面である。結局、マートルはナンシーの亡霊に暴力を振るって殺してしまう。亡霊を殺すという表現はどうかと思うが、とにかく追い払う。
 そして、ニューヨークの初日"オープニング・ナイト"を迎えるのだが、マートルが現れない。すでに観客席は満員で、中にはピーター・フォークもカメオ出演でいる。困り果てて慌てるスタッフたち。製作者は「交通事故にしようか。肺炎にしようか」とマートルが出演しない言い訳を考えている。
 そこへグデングデンに酔っ払って、まともに歩けない状態のマートルがようやくやって来た。
 そして、舞台の幕は上がった。
 とにかくジーナ・ローランズの演技がスゴいと感じた。もっとも、私が演技の善し悪しを本当に分かっているのかは、観ていて疑問が浮かんだが。そしてその演技を引き出したカサヴェテスの演出。それを支える他のキャストたち。それを捉えるカメラ。情感を揺さぶる音楽。映画とは共同作業で生み出される総合芸術だ。
 酔いが醒めないマートルをアドリブでなんとかする出演者たち。作品は喜劇じゃないと思うのだが、そのアドリブをギャグと受け取った観客の笑いは絶えない。途中で、製作者と脚本家は客席を立って外に出てしまう。
 舞台が彼女に活力を与えたのか、マートルは次第にシャンとしてくる。そして、ラストはカサヴェテスとの二人芝居。あれはアドリブ合戦という設定なのだろうか。カサヴェテスは「俺はスーパーマンだ」とか言い出して飛び跳ねている。笑う観客。うーん、やっぱり演劇はよく分からん。
 私も髪をとかしている時に、白髪が混じってきたのを見つけてふと"老い"を感じる事がある。普段は20代の頃とさして変わってはいないつもりなのだが、世間ではもう中年の歳である。誰もが逃れられない"老い"。古代から時の権力者達は不老長寿を求めたりしたが、知られている限りではそれから逃れられた人はいない。闇の世界には『ハイランダー』とか『ドラキュラ』の様な不死の人もいるのかも知れないが。って、ドラキュラな時点ですでに人じゃないな。
 男以上に女性は"老い"を気にするだろう。この季節ともなると日差しが強くて、強固なまでに日焼け対策をしたオバさんを見かける事があるが、あの人も少女の頃は日差しなんか大して気にしなかったんだろう。そして今では化粧品でのお手入れが欠かせなくなり、美肌美容液を使って肌が斑になったりするのか。無常だなぁ。
 自分の中で一番印象が強いカサヴェテスの姿は『特攻大作戦』(1967)の反抗心をむき出しにした囚人兵なのだが、この作品でのカサヴェテスはそれと比べるとオッサンだ。ジーナ・ローランズも『フェイシズ』(1968)の姿と比べるとオバさんになった。二人ともいい年の取り方をしているんだと思う。私も老いていくのはしょうがないのだから、せめていい年の取り方をしたいものだ。
 ピーター・フォークは舞台初日の劇場に登場する。階段で煙草を吸っている姿が10秒ほど映るだけの出演かと思ったら、芝居が終わって歓びムードの舞台裏にも登場した。演劇関係者なのか。ひょっとしたらピーター・フォーク本人役なのかも知れない。そこにはピーター・ボグダノビッチを名乗る人物がマートルに挨拶しているが、映画監督のボグダノビッチ本人だろうか。ボグダノビッチの顔なんか知らんしなぁ。
 キャサリン・カサヴェテス、レディ・ローランズ、デヴィッド・ローランズの親トリオはまたもや出ている。ローランズ夫婦は素人だと思うのだが、キャサリン・カサヴェテスはちゃんと演技が出来ている。やっぱ女優さんなのかな。調べてみたがよく分からん。

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『チャイニーズ・ブッキーを殺した男』(1976) THE KILLING OF A CHINESE BOOKIE 107分・オリジナル版134分 アメリカ FACES DISTRIBUTION CORPORATION

監督:ジョン・カサヴェテス 製作:アル・ルーバン 脚本:ジョン・カサヴェテス 撮影:フレデリック・エルムズ、マイク・フェリス、アル・ルーバン 美術:フェドン・パパマイケル 装置:サム・ショウ 編集:トム・コーンウェル 音楽:ボー・ハーウッド
出演:ベン・ギャザラ、ティモシー・アゴリア・ケリー、ミード・ロバーツ、ロバート・フィリップス、シーモア・カッセル、アジジ・ジョハリ、メーダ・ロバーツ、アリス・フリードランド、アル・ルーバン

 これまで基本的に男女や人間同士の関わり合いを描いてきたジョン・カサヴェテスが手がけたフィルム・ノワール。ハードボイルドである。
 西海岸でストリップ・クラブを経営するコズモは店を手に入れた時の借金を払い終え、名実共にオーナーとなった。単に経営者としてふんぞり返っているだけではなく、ショーの演出や司会も手がける。
 そして気分が軽くなったコズモはダンサーたちを引き連れて賭博場へ行き、ポーカーで大負けして賭博場から2万3000ドルを借りてしまう。踏み倒すつもりだったコズモだがそうは問屋が卸さず、「借金を返せないならば代わりにある中国人を殺してもらおう」と脅され引き受けることになる。
 1993年に日本で公開されたバージョンは107分だったそうだ。現在観ることが出来るDVDやブルーレイは134分のオリジナル版。30分近く時間が違う。どこをカットしたのだろうか。まぁストーリーにはほとんど関わりない意味があってないような会話のシーンが多いから、どこでも切れると言えば切れる。でも、それをやってしまったらカサヴェテス演出の味に影響してくる。カサヴェテス本人はどちらが本人の意図に沿っていたのだろうか。単純に長い方が完全版とは言い切れないこともある。
 コズモが殺人を命じられてビビるかと思ったら案外平気そうな顔で中国人の屋敷に向かう。護衛が何人もいて番犬も3頭いると知っても驚いた顔を見せない。途中で、組織が用意した盗難車がパンクしてしまうので、これ幸いにと逃げ出してしまうかと思ったら、タクシーを呼んで屋敷に行く。もう後には引けないと分かっていたのだろう。
 そして中国人やその護衛などをコルト1911で射殺する。この暗殺シーンはとても淡々としていて、普通のハリウッド映画ならば見せ場にするところを実にあっさりと終わらせる。
 無事に殺しを終え、中国人殺害事件はラジオのニュースでも報じられる。これで借金はチャラになったかと思われたが、組織は口封じのためにコズモに殺し屋を差し向ける。中国人は西海岸の大ボスだったのだ。
 うむ、フィルム・ノワールである。ハードボイルドである。でも観てて面白いのはクラブのショーのシーンだったりする。このショーがやる気があるんだかないんだか分からない個人的には脱力感を感じさせる出来で、あの店に自分がいたとしても他の客と同じように拍手するだろうか。そりゃおっぱいはよかったけど。ストリップといっても見せるのは胸までで、客には普通に女性客もいる。
 ミスター伊達男という芸人がダンサーと共に歌や芸を披露するのだが、これらが微妙。「君にあげられるのはあまい愛ー」とかインクでヒゲを書いた太った男が歌っている。お客は喜んでいるようだが楽しいのかな? ここら辺が一流ではないどこか場末の感じがして、印象に残るしおもしろい。
 このショーにコズモは思い入れがあって、中国人殺害時に護衛の銃撃を脇腹に食らっているのに、司会として舞台に上がる。そして一通りしゃべり、キャストやバーテンなどのスタッフを紹介した後、店の外に出る。ジャケットの背中側には血が流れた後がある。
 コズモがその後どうなったかは分からない。そのまま倒れて息を引き取ったのか。血は流れたが大した怪我ではなくて生き延びたのか。だとしたら組織は彼をどうするのか。そりゃ死んでしまうパターンが一番盛り上がりそうだが、案外しぶとく生き延びそうだ。カサヴェテスがそんな安易な物語にするとは思えない。とはいえ、すべては観客の想像に任されている。
 これまでの作品群からすると異色作なのだが、こちらは同じくハードボイルドな『グロリア』(1980)からカサヴェテス作品を観ているのでむしろ撮って当たり前に感じる。
 中国人暗殺のシーンと比べると、コズモが殺し屋に狙われるシーンはさらに緊張感があって、別段撃ち合いがあるわけではないが息詰まる。同時に殺し屋の独り相撲がおかしい。
 コズモがポーカーで大負けしたのは店が自分の物になって気が大きくなっていたのと勝負に熱くなっていたこと。そしてダンサーを3人連れてきていたので、彼女たちの前で恥はかけないという思いがあったからだろう。ギャンブルは怖いし、時に女も怖い。私はどちらにも縁がないので幸せだ。幸せだったら幸せだ。・・・・・・後者の方とはもうちょっと縁が欲しいけどね。

『こわれゆく女』 白鳥の湖

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『こわれゆく女』(1974) A WOMAN UNDER THE INFLUENCE 145分 アメリカ監督:ジョン・カサヴェテス 製作:サム・ショウ 製作補:ポール・ドネリー 脚本:ジョン・カサヴェテス 撮影:マイケル・フェリス、デヴィッド・ノウェル 編集:トム・コーンウェル 美術:フェイドン・パパマイケル 音楽・音響:ボー・ハーウッド
出演:ジーナ・ローランズ、ピーター・フォーク、マシュー・カッセル、マシュー・ラボートー、クリスティーナ・グリサンティ、キャサリン・カサヴェテス、ニック・カサヴェテス

 今作はカラー映画。『よみがえるブルース』(1962)と『愛の奇跡』(1963)は観たことがないけど、『愛の奇跡』はメジャー資本系の作品だからおそらくカラー。色が付いたしピーター・フォークという良く見知った俳優が主役なのでこれまでとは雰囲気が違う。
 予算もある程度自由になったのかな。『アメリカの影』や『フェイシズ』で素人くさかったカメラが安定した画を捉えている。基本的にはちゃんと三脚にカメラを据えて撮り、必要な所では手持ちカメラにしてあえて不安定な揺れる画を作り出す。
 カット割りも手慣れてきた感じで、パニック状態のジーナ・ローランズの目の前で手を打ち鳴らすピーター・フォークが一瞬アップになるなどこれまでにはなかった映像だ。
 逆にそれが作品に対する観客の安心感が生まれてインパクトは薄れてきた面がある。これまでの作品と比べると"尖って"いない。あくまで『フェイシズ』などと比べるとの話で、一般のハリウッド映画と比べると充分に尖っている。ジョン・カサヴェテスもこれで5作目と言うことで腕前が上達してきた分、闇雲に突っ走っている緊張感が少なくなってきたのだろうか。その辺はある程度バーターなんで、素人故の鋭さというのはあるよな。
 主役というか映画の中心にいるのはピーター・フォークとジーナ・ローランズの夫婦。2人の間には3人の子供、長男・次男・長女がいる。幸せな家庭だったのだが、ジーナ・ローランズが精神病にかかり少しずつこわれていく。
 登場した時点のジーナ・ローランズはちょっとおかしい程度だったのだが、次第に明らかにおかしくなっていく。この微妙な変化を積み重ねていくジーナ・ローランズの演技が見事で、これを観るだけで価値がある。役者は気違いや酔っ払いの役を演技の見せ所だとやりたがるそうだ。その手の演技は「これでもかぁぁ」という薄っぺらな演技の場合が多く、日本映画の場合は特にそうなのだが、ジーナ・ローランズの狂気の演技はそんなのとは違ってすごくデリケートである。個人的には舞台演劇の演技を感じたな。演劇はよく知らんがともかくそう思った。彼女のプロフィールを見てもちゃんと演劇スクールで演技の基礎から学んでいる人なのでこれだけの底力があるのであろう。
 対するピーター・フォークは水道局の現場作業員。徹夜仕事の後、部下を連れて自宅にやって来て食事を振る舞うから中間管理職クラスだろうか。イタリア系らしく家族や仕事仲間を大事にするが、かんしゃく持ちな面もあって、時に自分を抑えきれなくなって怒鳴り散らす。『刑事コロンボ』などで観るピーター・フォークとは違うごく普通の男としての演技を観ることが出来る。
 ジョン・カサヴェテスとピーター・フォークはこの作品以来から関係があり親友同士。主演に自分の妻と親友を使うという身内映画。それどころかカサヴェテスは自分の両親や娘も出演させている。ピーター・フォークの父親アドルフを演じているのはエンドロールによるとN・J・カサヴェテス。ブルーレイパッケージのキャスト欄ではニック・カサヴェテスとなっているのでNはニックのNなのだろう。出演者にニック・カサヴェテスの名前があるが、これは息子の方ではなく父親の様だ。ママという役名で母親のキャサリン・カサヴェテスが出ているが、このママはピーター・フォークのママかジーナ・ローランズのママのどちらか。ピーター・フォークのママは長ゼリフもありちゃんとした演技が出来ているので、ジーナ・ローランズの方かな。詳細は後日。
 途中で妻が病気になってしまった男が3人の子供をジーナ・ローランズに預けに来る。しかし、彼女がどこか異常であることに気付いて子供を連れ帰ってしまうのだが、その中の女の子が娘のアレクサンドラ・カサヴェテス。エンドロールではXAN CASSAVETESとなっている。
 ロン・ハワードのように自分の監督作に父親を出す人もいるが、あそこは芸能一家なので父親もそもそも俳優。カサヴェテスの場合は素人の家族を出しているという自主映画っぽさ。学生の自主映画で大人を登場させようとするとキャストがいなくて困るんだよね。無理矢理親を引っ張り出して上映時に恥ずかしい思いをするという"自主映画あるある"。
『アメリカの影』にもケンカのシーンがあったが、あれは俳優が取っ組み合っているだけ。この作品ではちゃんとスタントマンを使ったアクションシーンがある。といっても、ピーター・フォークの部下が工事現場の斜面を転げ落ちるだけだが。とはいえ現場は長い斜面なので、ちゃんと止まれないとそのまま勢いがついてしまい意外と危険なスタントだ。
 最初にも書いたが、この作品はインディーズ映画、いやインディペンデント映画か、そちらの方面に興味がない人でも観ることが出来ると思う。そういう意味では普遍性が出てきたのかな。代わりに尖っている部分が少し鈍角になっている。
 前にカサヴェテス監督作を観たのはDVDが発売された2002年以来だから10年以上経っているのか。その時の記憶を掘り起こすと、一番印象に残っているのは『フェイシズ』かな。これが一番尖っていた。好き嫌いで言えば『グロリア』(1980)だけどね。なんだかんだでハリウッド映画で育った男だから。
 ジーナ・ローランズの異常さが頂点に達したところでいきなり「6ヶ月後」に時間が飛ぶ。精神病院に入院していた彼女が帰ってくる日だ。まだ不安定さを感じさせる彼女にハラハラしたが、ラストは静かな日常で終わる。

『ミニー&モスコウィッツ』 他人との距離

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『ミニー&モスコウィッツ』(1971) MINNIE AND MOSKOWITZ 120分 アメリカ UNIVERSAL PICTURES

監督:ジョン・カサヴェテス 製作:アル・ルーバン 脚本:ジョン・カサヴェテス 撮影:アルリック・イーデンス、マイケル・マーガリーズ、アーサー・J・オーニッツ
出演:ジーナ・ローランズ、シーモア・カッセル、ジョン・カサヴェテス、ヴァル・アヴェリー、ティモシー・ケリー、キャサリン・カサヴェテス、レディ・ローランズ、デヴィッド・ローランズ

 この作品の前に『ハズバンズ』(1970)という作品がある。残念ながらまだ観たことがない。日本では2000年になって劇場公開されたのみで、ビデオにもDVDにもなっていない。もちろん、ブルーレイも。ピーター・フォークが出ていて、タイトルからして夫を中心にした夫婦たちの物語か。
 オープニングにユニバーサルの地球儀ロゴが出るが、製作に関わっているのか配給のみなのかは不明。製作のアル・ルーバンはカサヴェテスのインディペンデント映画を手がけている人だから配給のみかな? でもオープニングクレジットにこれまで表示されていなかった"MOTION PICTURE ASSOCIATION OF AMERICA"の楕円形マークが登場する。通称"MPAA"アメリカ映画協会だ。通常はエンドロールの一番最後の方に出てきて、「これが出たからもう上映終了だな」と知らせてくれる奴。ということはある程度メジャー系の映画と言うことか。
 主演はカサヴェテスの妻ジーナ・ローランズと『アメリカの影』(1959)からの仲間で『フェイシズ』(1968)ではアカデミー助演男優賞にもノミネートされたシーモア・カッセル。2人が出会い、愛し合い、結婚してそして・・・・・・までを描くMAN MEETS WOMAN物だが、2人が始めて顔を合わせるのは映画が始まってから40分ほど過ぎてから。この時はレストランの駐車係のモスコウィッツ(シーモア・カッセル)と知人の無理矢理な紹介で男性と食事に来たミニー(ジーナ・ローランズ)という形なので本当にただ顔を合わせただけ。本格的に知り合うのは、強引なその男とミニーが言い争いになり、男が暴力に出たのでモスコウィッツが制止に入った50分ほどから。
 それまで何をやっていたかというと、多分ニューヨークで駐車係をやっていたモスコウィッツが夜のダイナーで48歳の労働者に意味不明なことを喋りかけられ、それがきっかけなのかは分からないが母親(カサヴェテスママのキャサリン・カサヴェテス。『こわれゆく女』のピーター・フォークの母親役の人だ)に金を無心してカリフォルニアに移りまた駐車係をやることになる。そしてミニーが職場である美術館の年上の同僚とワインを飲んであれこれおしゃべりして足元がおぼつかない状態でタクシーに乗って自宅に帰ったら妻がいる恋人のジム(ジョン・カサヴェテス)がいて、いきなり頬をはたかれ、ジムは妻に浮気がバレて自殺未遂騒動を起こしてしまい長男を見届け人としてミニーに別れを告げに来たりしている。
 ミニーがジムの頬を叩くシーンもあって、実生活での夫婦だけあってお互いにビンタの勢いが半端じゃない。これがもとで夫婦喧嘩にならなかったか心配だが、信じ合っているから出来たのだろう。
 モスコウィッツはいきなりミニーの自宅を訪ねたりとグイグイ接近していって、それに不安を感じる部分があるミニーは離れたり、時に心を許したりする。2人とも他人との距離の取り方に問題があって、いきなり近づいたり離れたりで知人や家族から微妙な扱い。2人の関係も微妙なところがあったが、互いの欠けている部分を埋め合わせたのか気がつくと愛し合っている。
 しかし、ミニー(ジーナ・ローランズ:1930生まれ)とモスコウィッツ(シーモア・カッセル:1935年生まれ)にはけっこう年の差があるという設定で、ミニーは「あなたから見れば私はオバさんよ」と言ったようなセリフがある。ミニーをディスコに連れて行こうとして嫌がられるシーンなどもある。でもモスコウィッツはジャケット写真を見てもらえば分かる通り皺が目立つ顔立ちだし、口ひげを長く伸ばしているので大差ない年に見えるんだよな。実際5歳差だし。
 モスコウィッツがミニーのことを殴ってしまい、それを悔いてドアに頭を何度もぶつけた挙げ句、その口ひげをハサミで切ってしまう。付けひげじゃないし、かなり長いひげだから一度切ったら撮り直しは難しい一発勝負のシーンだ。こんな時に限ってカメラがトラブルを起こしたりするのは昔流行った"マーフィーの法則"だが、ちゃんと撮れていて見事成功。今作の撮影は『狼よさらば』(1974)などのアーサー・J・オーニッツが加わっているので映像的にも安定している。後の2人はフィルモグラフィーを見るに、この時点では素人のようなものだが。
 とにかく会話のシーンが多くてどのシーンでも誰かしら喋っている。脚本はかなり分厚そう。1カットが長いので役者も大変だろうが、同時にやり甲斐も合ったと思う。脚本はもちろんジョン・カサヴェテス自身による物。
 終盤になって唐突に結婚を決めた2人は、故郷に電話をしてそれぞれ母親を呼び寄せる。父親は結婚式になっても登場しないので死別かな。離婚しただけなら来るよな。そして母親たちから「出会ってどれくらい?」と尋ねられて「4日目」と答える。突然表情が曇る母親たち。特にモスコウィッツの母は「あんたは教養もない駐車係でしょう。生活はどうするの」などと追及が厳しい。ミニーの母(レディ・ローランズ。多分ジーナの実の母)は困り顔。
 だが次のカットでは教会に場面が移り、すでに結婚式のシーン。出席者は両家の母親のみ。緊張した空気の中で式は執り行われるが、神父がミニーの名前を度忘れしてメモを取り出して確認したのでミニーが吹き出してしまう。この神父役がデヴィッド・ローランズという人。名前からしてジーナの父かな。これで多分カサヴェテス父のN・J・カサヴェテスが出ていたら両家勢揃いだ。
 単純労働者のモスコウィッツと美術館で働く学芸員(?)で自宅には蔵書がいっぱいのミニーのかけ離れた2人の結婚生活は上手く行くのだろうかと不安になる。そしてラストシーン。
 初期の尖り具合は鈍くなったがカサヴェテスの演出は際立つ手腕を見せる。インディペンデント映画として作られたとしても、ユニバーサルが絡んでくるのも納得だ。

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『フェイシズ』(1968) FACES 129分 アメリカ

監督:ジョン・カサヴェテス 製作:モーリス・マッケンドリー 脚本:ジョン・カサヴェテス 撮影:アル・ルーバン 美術:フェドン・パパマイケル 音楽:ジャック・アッカーマン
出演:ジョン・マーレイ、ジーナ・ローランズ、リン・カーリン、シーモア・カッセル、ヴァル・エイヴリー、フレッド・ドレイパー

『アメリカの影』(1959)とこの作品の間にジョン・カサヴェテスは『よみがえるブルース』(1962)と『愛の奇跡』(1963)の2作品を撮っている。『よみがえるブルース』は監督・脚本・製作がカサヴェテスのインディペンデント映画だったようだが、『愛の奇跡』は製作がスタンリー・クレイマーのメジャー資本映画のようだ。『愛の奇跡』はスタンリー・クレイマーがあれこれ口出ししてきて、編集権などでも揉めカサヴェテスとしては納得のいかない作品だった。
 そして再びインディペンデント映画に戻ってきて、俳優としての収入や自宅を抵当に入れてかき集めた資本で撮ったのが『フェイシズ』。スタッフには無償で参加したボランティアもいてまるで学生の撮る自主映画のようだ。
 予算やスタッフの技術的に苦しい面もあったのだろうが、その代わりにカサヴェテスは自分のやりたいことを存分にやれた。そして6ヶ月の撮影期間を経て完成されたこの作品は、ハリウッドのメジャー資本ではないのにアカデミー賞の助演男優賞(シーモア・カッセル)、助演女優賞(リン・カーリン)、脚本賞(カサヴェテス)の3部門にノミネートされ見事に評価を得た。
『フェイシズ』というタイトルだけあって人物のアップがかなり多い。って、そのまんまな感想だな。スタジオ撮影の費用なんかはないし、カサヴェテス自身の感性としてもロケが好みだったのだろう。全シーンがロケで撮影されていて、アパートや主人公の家(抵当に入れたカサヴェテス自身の家)で撮られた部分が多く、カメラと被写体の間に距離が取れないのでそもそもカメラが寄り気味。そこへ意図的に顔のアップを多くしているから映像的にはちょっと観にくいと感じる部分があった。インディペンデント映画というとサブカル系の尖った映像を想像するかも知れないが、映像的にはあまり上手いとは思わない。手持ちカメラの揺れによる粒子の粗いモノクロ映像には不安定さがある。もっとも、その不安定さがある中年夫婦の崩壊というストーリーに合っていて、ある意味尖っている。

 会社の社長リチャード(ジョン・マーレイ)が娼婦(カサヴェテスの妻ジーナ・ローランズ)と出会い、その晩家に帰って唐突に妻マリア(リン・カーリン)に離婚すると言い残して娼婦の元へ行ってしまう。
 マリアは女友達と夜の街へ遊びに行き、そこで出会った青年(シーモア・カッセル)とベッドを共にするが、翌朝になって睡眠薬で自殺を図る。青年が必死に介抱しマリアは意識を取り戻す。そして青年はマリアへの愛を気付くがそこへ機嫌が良くなったチャールズが帰ってきて、青年は上半身裸のまま窓から屋根へと走って逃げる。
 そして二人きりになったチャールズとマリアだが、その間にはもう埋めようのない溝が横たわっていた。

『アメリカの影』は即興演出で撮られているが、今回は脚本をちゃんと書いて役者にセリフを覚えさせているとは思う。かなり長ゼリフが多いがあまり意味のあることは喋っていない。既存の映画文法を"あえて"破っているところがあって、それがヌーベルバーグを思わせる理由なのだろう。重要なのは既存の映画文法を知らないのではなくて、熟知している上でそれを破壊していることだ。
 この作品がアカデミー賞の3部門にノミネートされていることに驚く。当時のアメリカ映画界は現在よりも懐が深かったのではないだろうか。
 ジーナ・ローランズは出番は少ないものの、ストーリーの転換地として大きな役割を果たしている。この頃から貫禄があって、スクリーンを圧倒させる大女優の風格である。
 かなり苦労の多い現場だったと思うが、その苦労がカサヴェテスやスタッフ、キャストには楽しく感じられたことだろう。カサヴェテスは観客の反応よりも自分のやりたいことを好き勝手にやっていると思う。
 今回のサブタイトルである「ピーター パイパー ピックトゥ ア ペック オブ ピクルドゥ ペッパー」は作中に何度も登場する英語の早口言葉。原典は『マザーグース』だったかな。日本語字幕ではこれを『生麦、生米、生卵』と訳している。・・・・・・まぁ意味合いとしては分かるけどなんつーかこう、あれだ。びみょーな訳だ。誰だこんな翻訳したのと思ったら字幕担当は戸田奈津子だった。なっちか。あぁなるほどなぁ。
 ちゃんと評価されているので収益もそれなりにはあったのだろう。でないと、カサヴェテス夫婦は家を失ってしまう。その家の階段がラストシーンで、チャールズは二階へ上がり、マリアは一階に降りていく。そして無人になった階段が長目の時間で映し出されてラストカットとなる。主人公夫婦二人の切れてしまった心の絆を象徴させる印象的なカットだ。

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『アメリカの影』(1959) SHADOWS 81分 アメリカ

監督:ジョン・カサヴェテス 製作:モーリス・マッケンドリー、シーモア・カッセル 撮影:エリック・コールマー 編集:モーリス・マッケンドリー 美術:ランディ・ライルズ、ボブ・リー 音楽:チャールズ・ミンガス
出演:レリア・ゴルドーニ、ヒュー・ハード、ベン・カルーザス、アンソニー・レイ、ルパート・クロス、トム・アレン、デニス・サラス、デヴィッド・ポキティロウ

 ジョン・カサヴェテス監督作のほとんどがこの間ブルーレイBOXとして発売されたのだが、この『アメリカの影』に関してはあまりブルーレイ化の意味はなかったかも。フィルムの状態が悪くて画質がかなり悪いんだよね。公園のシーンでは画面左下に糸くずみたいのがあるし。本編が始まる前に英語で説明が出るのだが、「フィルムがメッチャヒドイ(Extreme Poor)状態だったんで、色んなフィルムから状態の良いところを選んできて一生懸命レストアしました」といったようなこと(多分)が書かれている。
 邦題は社会派的なものになっているが、ニューヨークに暮らす黒人系の3兄妹を主軸にこれといった明確なストーリーがあるわけでもない映像が展開される。妹が白人男性と初体験してしまって、その男が兄妹の暮らすアパートを訪ねてきて長男と軽く衝突するところに人種問題があるぐらいだ。
『特攻大作戦』(1967)や『ローズマリーの赤ちゃん』(1968)などの俳優として知られるジョン・カサヴェテスが30歳の若さで撮った初監督作品。ハリウッド資本ではなく、ラジオで呼びかけて資金調達をし、独立系として作り上げた。そのためカサヴェテスは"ニューヨーク・インディペンデント映画の父"と呼ばれる。でも、ブルーレイの裏ジャケットの説明文では"アメリカン・インディペンデント映画の父"と紹介されている。なんかいつのまにか規模がでっかくなってるな。
 長男は歌手だがお色気女性歌手グループの司会などをさせられている。本人が歌うシーンもあるがこれが微妙に下手。相棒のマネージャーが持ってくる仕事は場末のクラブなどばかり。
 次男は女の子に自己紹介する時に「ミュージシャンでトランペットを吹いている」と言っているが、実際に楽器を触っているシーンは無い。白人の友達と三人組で女の子をナンパしたり、意味もなく美術館に行ってグラマラスな女性のブロンス像についてあれこれ言ったり、ケンカして負けたりとその日暮らしをしている様子。長男に金をたかっているシーンがあったし、仕事はしてないんじゃないかな。
 妹はモノクロのせいなのかも知れないが白人に見える。長男は明確に黒人で、次男は一時期のマイケル・ジャクソンのような黒人と白人の中間と言った感じ。父親が違うとかなのかな。小説についての集まりに行って、そこで知り合った白人男性と初体験をするが、だからどうということもなくその男性とそのまま別れる。翌日、白人男性がアパートを訪ねてくるが無視。
 3兄妹(長男・次男・妹の順番なのか、長男・妹・次男の順番なのかは私には不明だった)とその周りの人々のなんということのない日常を即興演出で撮っている。モノクロでざらついた画面や、シーンとシーンの繋ぎに黒いフィルムが挟まっているところがあったりするのはジム・ジャームッシュの『ストレンジャー・ザン・パラダイス』を思い出させる。いや、逆か。『ストレンジャー・ザン・パラダイス』が『アメリカの影』を思わせるだな。ジム・ジャームッシュはニューヨーク・インディペンデント系の人なので、その根っこを辿っていくとジョン・カサヴェテスに行き着くわけだ。
 ときどきピントが合わなくなるのは、役者も自由に演じていて好き勝手に動き回っているのからだそうだ。音楽だけ流れてセリフは一切聞こえてこないシーンがあったりと自由な作りだ。ジャズが演奏されていたりBGMとして流れていて、同じくニューヨークを拠点としていたウディ・アレンと共通点を感じる。ニューヨークにはジャズが似合うのかな。クリント・イーストウッドも大のジャズ好きだが、カサヴェテスとイーストウッドにはどこか同じ匂いを感じる。イーストウッドにイーストウッド一家があるように、カサヴェテスも同じ俳優やスタッフを好んで使いカサヴェテス一家を作り上げていた。イーストウッドの場合は商品としての映画も意識しているが、カサヴェテスにはそれがないのが大きな違い。
 印象としてはフランスのヌーベルバーグを思い浮かべてもらえば良いかも。ヌーベルバーグの看板とも言えるジャン=リュック・ゴダールの『勝手にしやがれ』が作られたのは奇しくも同じ1959年。世界的にそれまでの映画の存在を観直す動きがあったんだろうか。
 映像特典として『カサヴェテスを探して』という30分ちょっとの短編が収録されている。日本の雑誌『Switch』の編集者とカメラマンがカサヴェテスが亡くなった時に特集号としてアメリカの関係者に取材に行った時のビデオテープやスチール写真を元にしたドキュメンタリーだ。もともとが雑誌を作るための素材なせいか、あまり出来は良くない。カサヴェテスの作家性も人間性もほとんど伝わってこない。雑誌の方はどうだったのかな。
 冒頭で、「1989年2月3日にジョン・カサヴェテスは亡くなりました。この頃、日本では彼のことはほとんど知られていませんでした」とかぬかしている。あのね、当時の私は大学の映研部員だったけど、話題になったよ。映画研究会なんかに所属している人間は普通に知っていた。インディペンデント映画の方のほとんどは90年代になるまで日本では公開されなかったけど、ゴールデンタイムの洋画劇場で放映されていた『グロリア』(1980)あったし俳優としても印象的だったから知名度はそれなりにあったはず。自分たちが最初に目をつけましたみたいなことを言うんじゃない。
 作中に映っている日本人女性編集者の服が肩に妙なパッドが入っていたり、長髪のヘンテコパーマだったりするところに時代を感じるな。思えばバブルの頃か。

『彼女は二挺拳銃』 長くて遠い400メートル

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『彼女は二挺拳銃』(1950) A TICKET TO TOMAHAWK 90分 アメリカ 20th CENTURY FOX

監督:リチャード・セイル 製作:ロバート・バスラー 脚本:リチャード・セイル、メアリー・ルース 撮影:ハリー・ジャクソン 音楽:シリル・モックリッジ、ライオネル・ニューマン
出演:アン・バクスター、ダン・デイリー、ウォルター・ブレナン、ロリー・カルホーン、チャールズ・ケンパー、コニー・ギルクリスト、アーサー・ハニカット、モーリス・ヒューゴ、マリリン・モンロー、ジャック・イーラム、チーフ・ヨウラテ

 邦題はちょっと嘘だね。ヒロインのアン・バクスターは男顔負けのガンウーマンで傷ついた祖父から保安官に任命されるが、使う銃は一挺。原題の『A TICKET TO TOMAHAWK』は、鉄道を開通させるためには1976年9月5日正午までにトマホークという町に蒸気機関車が到着せねばならず、さらに正式な乗客を1人以上乗せていなければならないため、メイン州からテキサス州までとアメリカ中を旅している行商人のダン・デイリーがトマホーク行きのチケットを買ったから。
 アメリカ中に鉄道網が敷かれていった時代。それに駅馬車組合の連中が反対し、汽車目がけて岩を落とすなど妨害工作を繰り返していた。
 新しく施設されたコロラド鉄道の一番列車がトマホーク目指して運行中。乗客は行商人のダン・デイリーただ一人。駅馬車組合の妨害があったものの、無事に次の町にたどり着く。後は終点のトマホークまでの100キロが残っているだけで、最高時速56キロの汽車だから2時間で着いてしまうはずだった。
 しかし、レールを乗せた船が沈没してしまい、60キロの区間にはレールが施設されていなかった。そこで汽車を何十頭ものラバで引き、トマホークへと目指すことになる。駅馬車組合の妨害や、途中にインディアンが出現するため誰も乗客になりたがらなかったので、ダン・デイリーが無理矢理乗客にされ、汽車に縛り付けられて出発する。
 中国人の洗濯屋や踊り子の一座の馬車も加わった一行を指揮するのは保安官に任命されたばかりのはねっ返りな西部娘アン・バクスター。実は駅馬車組合の工作員が一行に潜り込んでいたりして、先行きは不安である。
 出演者の中にデビューして間もないマリリン・モンローがいるが、4人いる踊り子の一人でアップもない脇役である。しかし、その4人の中で明らかに一人オーラが違う。この頃からスターの素質を見せていたのだ。
 アン・バクスターは男のように育てられたようで、銃の腕は確かだし馬も見事に乗りこなす。しかし、踊り子の女座長が寝る前のスキンケアをしているのを見て、「それは何をしているの?」など女性としての知識は乏しい。恋をした経験もなさそうだが、最初は殺し屋だと思っていたダン・デイリーと段々親しくなり、渓谷に架けられた橋を偵察に言った時には、彼からバッソ(キスのこと)について教わることになる。最初はイヌイットの鼻同士をこすりつけるバッソ(DVDのパッケージに映っているのがそれ)から。そしてフランス人の女性の手の甲にするバッソ、頬にする母親のバッソ。7年振りに会う叔父からの額にするバッソなどと進んでいく。そしてついに恋人同士のバッソへ・・・・・・となった時にアン・バクスターのお目付役であるインディアンの手斧が飛んでくる。
 このインディアンがなかなか美味しいキャラクターで、頭はモヒカン刈り。見た目は『サイボーグ009』の005であるジェロニモを思い浮かべてもらえばそれに近い。言葉は発せずインディアンの手話で会話をする。だが、ラストシーンで一言だけ喋るのが嬉しい。
 インディアンと言えば道中にはインディアンの部族がいて白人を狙ってくる。汽車と馬車の一行が襲撃されるシーンがあるが、そのインディアンたちは分隊だったのでなんとか追い返す。しかし、次は本隊がやってくるはず。そうしたら数の上で勝ち目はない。そこでダン・デイリーがあるアイディアを出す。白人とインディアンの戦いというのは西部劇で何度も登場したお馴染みのシチュエーションだが、まさかあんな解決方法があるとは思わなかった。
 駅馬車組合の工作員に橋を爆破されてしまい汽車を通すことが出来ない。そこで山越えを思いつくのだが、汽車がそのままでは重くて無理だ。そのため汽車を分解して運ぶことになる。汽車を愛している機関手(ウォルター・ブレナン)の可哀想なこと。汽車に「山を無事に越えたら元に戻してやるからな」と話しかけている。さすがウォルター・ブレナンだけあってちょっと変人ぽいこのキャラクターが生き生きとしている。
 工作員の中には若き日のジャック・イーラム(1920年生まれ)がいる。この頃はまだかなり痩せていて頬がこけている。アップにならなくても妙に目立ち存在感がある。しかし、この人はあのご面相でどうして役者になろうと思ったのだろうか。そのおかげで他の人に置き換えられない強烈なキャラクターとなったわけだが。
 厳しい道中を乗り越え、ようやくトマホークの町が見えてくるがついに汽車が立ち往生してしまう。正午までは残り2分。鉄道として契約を成立させるためには町に到着しなければいけないが、町境までは400メートル。たったの400メートルがとても長い。困り果てた人々の中で、またもやダン・デイリーが名案を思いつく。
 ラストはアン・バクスターとダン・デイリーの別れのシーン。ここでついに恋人同士のバッソをする。そして二人は二度と会うことはなかった、と思ったら・・・・・・
 そして「THE END」の表示が出るのだが、この出し方が実に上手くて工夫されている。
 コメディタッチな作風にしてはちょっと人が死にすぎるかなという気もするが、自分たちの道は自分たちで切り開くというアメリカ魂を見せてくれる西部劇だった。